台風一過の夕暮れ
畳の上で目を覚ました。敷居に黄昏の光が走っている。遠くからヒグラシの鳴く声が聞こえた。窓が開けっぱなしだ。体を起こして外をのぞくと、台風一過の空に金色の歪な雲が散らばっていた。東の空はすでに宇宙の青だ。
ずいぶん長い間、昼寝していたようだ。エアポケットに放り込まれたような浮き上がる感覚があった。自分の体と意識が乖離したような錯覚。長い時間、昼寝した後によくある感覚。眠る前の記憶がひどく曖昧な気がする。
友達との約束を思い出した。そうだ、夏休みの夕方、みんなで集まってかくれんぼする約束だった。場所は町外れにある墓地。肝試しもかねてだったな。
家の門を出ると、台風が残したと思われる瓦礫が道路に落ちていたが、乾ききっていた。坂を下りた踏切の手前で、静子を見つけた。
そうだ。徐々に記憶がよみがえってきた。あの後、僕は意識を失っていたのだ。静子もどうやら無事だったようだ。良かった。
「静子、どこ行くの?」
「散歩しているだけ。」
「じゃあ、みんなでかくれんぼしようよ。場所は近くのお墓。日が暮れる前には帰るからさ。」
彼女は頷いた。待ち合わせの自動販売機まで一緒に歩くと、みんな集まっているのが見えた。僕たちはお墓に向かった。集団から少し離れて歩いた。その間、僕は静子とずっと話していた。彼女は大人しい性格だ。似たような性格の僕とは気が合うのだろう。彼女といるときは、自然体でいられるし、なんでも気兼ねなく話せるような気がする。彼女とこうして話すのもなんだか久しぶりな気がする。
「あの後、大丈夫だった?」
「うん、もう大丈夫。」
「なんで、あんなことしたんだ。」
「ごめん・・・でももう大丈夫だから・・・」
「なら、いいんだ。言いにくいなら言わなくていいんだ。」
「ありがとう。」
僕はあの衝撃的な出来事を思い出していた。
明日から夏休みだというのに、その日は朝から分厚い雲が立ち込めていた。朝のニュースが10年に一度という巨大台風の接近を知らせていた。登校時は静かな曇り空だったが、授業を受けているうちに窓を打つ風の音が次第に大きくなり、正午を回ることには雨が降り出してきた。
「みなさん、台風が近づいています。寄り道しないでまっすぐ家に帰りましょう。」
傘が翻るほどの風が強くなっていた。僕はあらかじめ用意していた合羽を着こんで同級生たちと家路を急いだ。賑わいのある歓楽街もこの日ばかりは人気がなかった。住宅が立ち並ぶ細い通りに入ると、同級生たちと別れて、左手の通路に入った。この先の踏切を渡って坂を上ったところに自宅がある。電車の音が聞こえた。踏切が閉まろうとしている。タイミングが悪い。早く帰りたいのにな。
その時だった。遮断機をくぐって線路に立ち入ろうとする、赤い影が見えた。突風で赤いカッパのフードが外れ、黒髪が舞い上がった。白い顔が一瞬見えた。静子じゃないか。
同じクラスの女の子。近所に住んでいたので低学年の頃はよく遊んでいたが、学年が上がるにつれ、あまり話もしなくなった。次第に男女別々のグループで遊ぶようなったこともあるが、彼女は母を亡くしてから急にふさぎ込むようになった。父が再婚した新しい母とうまくいっていないのかもしれない。彼女はいつも袖の長いシャツを着ていたが、掃除のときにまくり上げた腕に多数のあざを見つけた。どうしたのかと、彼女に聞いても教えてくれなかった。
僕は察した。彼女は今、電車の音のする方向を向いて、線路の真ん中に立っている。
「だめだ!」
僕は夢中だった。遮断機をくぐった。雨の音、風の音、それをかき消すぐらいの電車の轟音が交じり合う。迫りくる巨体のヘッドライトが彼女の顔を白く照らした。彼女を線路の向こう側に突き飛ばし、僕もその勢いで倒れ込んだ。
お墓に着いた。かくれんぼの鬼は翔太のようだ。あついはいつも鬼をやりたがる。僕は静子にルールを教えた。
「鬼が100数える間に隠れる。隠れる場所は墓地の中だけ。俺たちのうち一人でも20分隠れきれれば、僕たちの勝ち。全員見つかったら鬼の勝ち。俺たちが勝ったら、見つからなかったヤツ全員に鬼がジュースをおごる。鬼が勝ったら最初に見つかったヤツが鬼にジュースをおごる。まあ、実際、鬼が勝つことが多いんだけどね。」
静子は動こうとしなかった。
「迷ってるなら、俺と一緒に来いよ。」
僕は静子の手を引いて、水汲み場の裏に隠れた。
「前にもこの墓地でやったんだけど、意外と隠れ場所がないんだよな。墓石の後ろを移動しながら常に鬼の死角に入るってのが常套手段かな。」
僕たちは息を殺した。静子の耳元でささやいた。
「かくれんぼのコツを教えてやるよ。気配を消すことだ。人間ってのは生命活動を営んでいる以上気配がある。吐く息で空気が微妙に変化する。体温だって周りの空気の温度を変える。だから呼吸を最小限にする、そして、なるべく動かないこと。」
事実、僕は隠れるのが得意だった。気配が弱いのだろう。その場にいたこともよく忘れられる。もともと口数が少ないこともあるのか、とにかく目立たないし、見つかりにくいのだ。
静子も細い声でささやく。
「幽霊みたいな感じかな?」
「幽霊って気配ないのか? あ、まずい、鬼が来た。」
鬼の翔太が水汲み場の前に来たようだ。裏に回り込んできた。僕たちは姿勢を低くした。翔太は通り過ぎたようだ。
「危なかったなあ。意外と足元は盲点みたいだ。」
しばらくじっとしていると、翔太の声が聞こえた。
「○○君、見っけた!、これで全員!俺の勝ちだ!」
「これは罠だな。あと残り5分。隠れきったほうがいい。」
制限時間の20分になった。墓地の入り口に行くと、翔太がジュースを飲んで、仲間と話していた。あいつ、俺のこと無視しやがったな。翔太の声が聞こえた。
「さっきさ、あそこの水飲み場の後ろ通った時、寒気がしたんだよ。今まで感じたこともないような変な感覚でさ。」
「気のせいだろう。」
「本当だよ。なんか、気味悪くなってきたな。もうここでやるのやめようぜ。」
「それもそうだな。ろくに隠れる場所もないしね。」
「そろそろ、暗くなってきたし、帰ろうぜ。」
僕は後ろを振り返った。静子は古びた墓石の前に立っている。両側に色とりどりの菊の花が飾られていた。僕は静子に声をかけた。
「お前も帰ろうぜ。」
「私の帰る場所はここだよ。」
「え?」
静子は次第に薄くなった。墓石に溶け込んでいくようだった。僕は近くに行って墓標を見た。これは彼女の戒名だろうか。はやり彼女を救えなかったのだ。
「わたしのためにありがとう。それに、巻き込んでしまって、ごめんなさい。それだけを伝えたかったの。」
彼女の目から大粒の涙があふれ出た。最後に消えゆくときは、優しい笑顔だった。それだけは救いだった。それは逆に悲しみを引き立て、僕の感情を一層刺激した。僕は膝から崩れ落ちて叫びたかったが、仲間の目を気にして何とか踏みとどまった。こんな時でも人目を気にしてしまう人間なのだ。
後ろで翔太の声が聞こえた。こちらに歩いてくる。
「俺思うんだけど、きっと静子が来てたんじゃないかな?」
「そうかもな。せっかくだから手を合わせていこう。」
みんなは静子の墓の前に集まって、手を合わせている。僕も手を合わせた。どうして、僕の前にだけ現れたんだろう。僕にだけ見えたんだろう。きっと、お礼を言いたかったんだね。じゃないと成仏できなかったんだろうな。すぐには切り替えられないけど、彼女の分もしっかり生きなければ。
「あれ、昨日、飾ったはずの花がもう萎れているよ。」
それは、静子がさっき通ったからだろう。
僕はみんなと帰路に着いた。僕は涙にぬれた顔を隠すのに必死で、後ろの少し離れたところを歩いていた。そういえば、今日は彼らと一度も話していないな。でもそれは僕の性格からして、スタンダードだから、不自然なことではないだろう。
「静子はまだいいよ。体が見つかって、こうしてお墓に入れたんだからな。」
「あいつはほんと悲惨だったよな。」
「そうそう、静子は体の原形をとどめていたけど、あいつは粉々。しかも、あの後、大雨で水路の水があふれてで、線路は水浸し。遺体回収どころじゃなかったらしいぞ。」
「バラバラになって、どこに流されたのかもわからない。」
「最後の最後まで見つけにくいヤツだったよな。」