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こうして船で渡った港町で、サーラは数日間、ゆっくりと過ごした。旅の疲れも思っていたより少なく、体調も悪くはない。いつでも出発できる体勢は整っていた。
今のうちに、少しでも遠くに逃げたいという気持ちはある。でも、ルースが探ってきた情報によると、父はまだサーラの行方を掴んでいないようだ。
おそらく孤児院を出たサーラが、盗賊や人身売買などの裏社会に属する者達に襲われたと思っているのだろう。だからまずは、そちらの方面の情報を集めているのかもしれない。
今まで一度も父に逆らったことがなかったサーラが、自分の意志で出奔する可能性など、まったく考えていないに違いない。
まして、裕福な商家の夫婦に扮して船旅をしているなんて思わないだろう。
(うん。それを思えば、まだ大丈夫そうね)
到着したばかりの頃は焦っていたサーラも、近頃はだいぶ落ち着きを取り戻していた。たまには、ルースと一緒に町に出ることもある。町の様子を眺める余裕も出てきたくらいだ。
(ここはもうルメロ王国なのね……)
町に出ると、あらためてここが祖国ではないことを思い出す。
生まれた国を出ることなど一生ないと思っていたのに、こうして男性とふたり旅をしている。
「サーラ」
ふと、背後から呼ぶ声がした。振り返ると、偵察に出ていたルースが戻ってきたようだ。
「おかえりなさい」
そう言って笑顔を向けると、彼も柔らかく微笑んだ。
最初に会ったときとは、比べものにならないくらい穏やかな表情。
夫婦らしく見えるように演技をしているせいか、彼とも次第に打ち解けてきた。男性が怖かったサーラも、ルースにだけは自然に接することができるようになっている。
部屋に入り、外套を脱いだルースはサーラに尋ねた。
「夕食に行こうか。それとも、何か買ってきた方がいいか?」
このルメロ王国に辿り着いてから、ルースはこんなふうにサーラにいろいろなことを聞くようになった。内容は今日のように、夕食は何がいいかとか、外套はどちらがいいかとか、本当に些細なことだ。
最初は戸惑った。
サーラに選択の自由があったことなど一度もなかったので、どうしたらいいのかわからなかったのだ。今まではすべて父と母が決め、自分のドレスさえ選んだことがなかった。
「ええと……」
ルースは、そんなサーラに選択の自由を与えてくれている。
どんなに時間が掛かっても、根気強くサーラが答えを出すまで待ってくれた。
思えば今までの自分は、ただ父に従うだけの人形だったのかもしれない。ルースは、そんなサーラに色々な選択肢を与えてくれる。
自分で考え、ひとりの人間として生きていけるように。
「船が着いたみたいで、町はすごく混み合っていたわ。食べに行くのも買いに行くのも大変そうだから、今日は宿の中にある食堂に行きましょう」
彼が来る前から考えていたことを告げると、ルースは頷いた。
「ああ、そうするか」
外套を脱いでいたので、彼もそう考えていたのだろう。
でもサーラが外に行くことを選んだとしても、ルースはそれを否定しない。すべて、サーラの思い通りにさせてくれる。
父も母も、サーラを愛してくれたことはなかった。だから、一般的な愛がどんなものなのかわからない。そんなサーラでさえ、ルースは自分に甘すぎるのではないかと思ってしまう。
「どうした?」
視線を感じたのか、ルースが振り返った。
穏やかな優しい声に、思わず頬が緩む。
人に優しくされるのは、こんなにも嬉しいことなのだ。
「ううん。早く行きましょう」
でも、わかっている。
サーラは心の中で小さく呟く。
ルースの愛が向けられている先は、亡くなってしまったという、彼の妹だ。自分はその身代わりにすぎない。
「行こうか」
「うん」
落ち込みそうになる気持ちを振り払って、サーラは差し出されたルースの手を握る
たとえ身代わりでも、誰かに愛された記憶は、きっとこれからの人生の希望になってくれるだろう。
高級な宿屋だけあって、食堂も大きく立派なものだ。それでも、今夜はサーラたちと同じように外出を控える人が多かったようで、かなり混み合っていた。しばらく待って、ようやく席に案内してもらう。
「何にする?」
「ええと」
メニューを開いて、真剣に考える。食べたいものを選ぶのは、なかなか難しい。でもルースは、急かす素振りさえ見せずに待ってくれるので、安心して選ぶことができる。
いくら高級な宿でも、貴族の食卓のように何品も出てくることはない。それでも並ぶまで時間が掛かりすぎて冷めてしまった料理よりも、温かいまま気軽に食べられる料理のほうが、ずっとおいしかった。
「このパン、とっても柔らかいわ」
ふんわりとしたパンに感動していると、ルースが何かを思い出したように笑う。
何のことなのか、聞くまでもない。サーラが作った歪なパンを思い出したのだろう。さすがにひどかった自覚があるので、サーラも苦笑するしかない。
「わたしも、もっと上手に焼けるようになりたいわ」
キリネの焼いたパンも、とてもおいしかった。懐かしむように言うと、ルースは静かに頷いた。
「やりたいことが見つかったようで、何よりだ」
「……そんなことでいいの?」
祖国を捨て、育ててくれた恩を返さずに逃げ出した負い目があった。危険を顧みず、無償で逃亡の手助けをしてくれたルースには、絶対に恩を返さなくてはと意気込んでいた。
それなのに彼は、サーラがパンを上手に焼けるようになりたいと言っただけで、それを喜んでくれる。
「もちろんだ。やりたいことが見つからずに苦しむ者もいる。それに、キリネも喜ぶだろう」
拙作「異世界でレシピ本を作ろうと思います!」を書籍化して頂くことになりました!
詳細は後日、活動報告に上げさせて頂きます。




