18
だが予定していた日に、船に乗ることはできなかった。
旅の疲れからか、もしくはようやく父の手から逃れられたという安心感からか。サーラは港町に辿り着いた翌日に、熱を出して寝込んでしまったのだ。
公爵家を追い出されてから、ずっと慣れないことの連続だった。
サーラとしてはそれほどつらい日々ではなかったが、身体は自分が思っていたよりも疲弊していたのかもしれない。
一刻も早くこの国を出でティダ共和国に行きたいのに、自由にならない身体に憤りを感じる。それに、ルースにも迷惑を掛けてしまった。
「ごめんなさい……」
予定が狂ってしまったことを詫びる。
船の手配もしてくれていただろうに、すべてキャンセルしなければならなかった。
だが彼は、一度もサーラを責めなかった。
「謝罪の必要はない。船の手配もすべてお前のためだ。お前が乗れないのなら、意味はないのだから」
そう言って、熱を出したサーラの面倒を見てくれる。
彼には彼の事情があるとわかっている。
ルースは、亡くなってしまったらしい妹と、自分を重ねてみているだけだ。
でも、こんなにサーラのことだけを考えて動いてくれた人は、今までいなかった。
思わず涙が滲みそうになる。
「ここなら人が多いから、しばらくは安全だろう。船旅はそれなりに過酷だ。ここでしっかりと体力を回復させてから進もう」
「……はい」
食欲はあるかと聞かれたが、何も食べられそうにない。申し訳ないと思いながらも首を振ると、ルースは町まで出て、果物や柔らかいパンなどを買ってきてくれた。
「食べられそうなものがあったら、少しでもいいから食べろ。だが、無理はしなくていい」
それからサーラの額にそっと手を当てると、難しい顔でまだ熱いなと呟く。
「もし少しでも何か食べられたから、薬を飲んだほうがいい。解熱効果のある薬がある」
彼の手はとても冷たくて、熱のある身体には心地良かった。
外は寒いのかもしれない。
そんな中、自分のために色々と買ってきてくれたのだからと、サーラは目前に並べられた中から林檎を選ぶ。
「これか?」
こくりと頷くと、ルースは器用にそれを剥いて、食べやすく小さく切ってくれた。その器用さに感心していると、ルースはサーラの視線に気が付いてわずかに笑みを浮かべる。
「俺も孤児院に来た当初は不器用で、何もできなかった」
「え、本当ですか?」
今の彼を見ていると、とてもそうは見えない。思わず聞き返したサーラに、ルースは頷く。
「ああ。ウォルトに色々と教えてもらったよ」
サーラがキリネにたくさんのことを習ったように、彼もまた修道院で雑用をしてくれていたウォルトに学んだようだ。そう思うと何だか親近感が沸いてきて、思わず微笑む。
促されるままに剥いてもらった林檎を食べて、薬を飲む。
「少し休んだほうがいい。きっと薬が効いて、楽になるはずだ」
「ええ。ありがとう……」
布団に潜り込みながら礼を言うと、小さな子どもにするように、頭を撫でられた。両親にだって、こんなふうに触れられたことはない。何だか恥ずかしくなって、慌てて目を閉じる。
そのまま静かに黙っていると、彼は部屋を出ていく。
予算と警備の関係上、部屋は同室だったが、ルースはサーラが休んでいる間はいつも、こうして外に出てしまう。
気遣ってくれているのだろう。
でもサーラは、ルースがきちんと休めるか心配になってしまう。
今度彼が戻ってきたら、自分はかまわないからしっかりと休んでほしいと伝えよう。そう思っているうちに、いつのまにか眠ってしまったようだ。
目が覚めると、周囲は暗闇に満ちていた。すっかり日が暮れてしまっている。
ゆっくりと眠ったからか、身体は随分軽くなっていた。
薬が効いたのかもしれない。
周囲を見渡してみるが、やはりルースの姿はない。代わりにパンと果物がサイドテーブルに並んでいた。
水とお茶も用意してある。
熱が下がったお陰で、食欲も少し戻ったようだ。
パンと果物を少し食べて、水分補給もしっかりとする。食事を終えた頃に、ルースも戻ってきた。
「気分はどうだ?」
「ええ、とてもよくなりました。ありがとうございます」
礼を言うと、彼は何もしていないと言うように首を振る。
「今日はこのまま眠ったほうがいい。俺は出かけてくる。鍵は閉めておくから、心配せずにゆっくりと休め」
「あ、待ってください」
そのまま部屋を出ようとするルースを呼び止めた。
「どうした?」
「わたしは大丈夫です。だから、ルースさんもここで休んでください。わたしのせいで、あなたが体調を崩してしまったら……」
もし彼が、本当に用事があって外出していたのなら、見当違いなことを言ってしまったことになる。
でも、サーラには不思議な確信があった。きっと彼は、自分を気遣って外に出ているのだ。
「俺ならこれくらい何でもない。それに、お前がゆっくり休めないと意味がない」
サーラが確信したように、ルースはそう言って首を振る。
大丈夫だと繰り返し告げ、むしろ心細いから傍にいてほしいと訴えると、ようやくルースは同じ部屋で休むことを承諾してくれた。
だがこれがきっかけで彼の過去に触れてしまうなんて、このときはまったく思わなかった。