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神輿・囚われの迷宮・灰色ストーカー

作者: 鮎川りょう


「神輿」 



 どうしてだろう。ときどき無機質なビルの壁が険しい山肌に見えることがある。それらのビル群に挟まれた道路が川に思えることもある。そんなとき、そこを歩く私は大抵魚で、絶えず巨大魚に怯える臆病な小魚になっている。川端の水草に潜み、他の魚を避けるようにして彷徨っている。人一倍警戒心も強いので、同種の異性とすれ違っても躊躇い、種の保存という本能すら忘れてしまっている。


 それでも二十歳の頃、運よく心を通わせる相手と交際できたが、二年後に、あることがきっかけで結局別れるはめになった。たぶん互いが互いを理解できても、それだけでは彼女に背負わせた疵が癒えなかったのだと思う。私は彼女に、拭っても拭いきれない心の疵を植えつけてしまったのだ。彼女はそんな仕打ちにも、一言、いいの忘れてと告げ、去っていった。


 過ぎたことを今さら考えたところで仕方ないが、暑い夏を迎えるたび、ふっと彼女のことを思い出す。彼女が告げた言葉の裏を考える。あのとき……私は死を覚悟して行動すべだったのではないだろうか。

       

 高い建物がとぎれてきた。それまでビルの陰からじっと様子を窺っていた初夏の日射しが、まともに顔へ降りそそぐ。私は掌を額の前に翳し前方を見すえる。その姿勢を保ち、街路樹の高さと建物の高さがほぼ同じになった所で左へ曲がり、何とか車一台が通り抜けられそうな細い路地へ入った。


 しばらく真っすぐ進むとアスファルトの舗道は玉砂利に変わって、狭まった視界が急に開けてきた。ようやく目的地の参道であり、知人の葬儀が行われる寺に着いたのだ。

 そのだだっ広い玉砂利の参道を隔て、いかにも古めかしい建物が眠るように横たわっていた。樹齢六百年ほどの杉の大木が、やはり築二百年、いや三百年ぐらいありそうな寺の両側に聳え立っていた。中央に石畳が敷かれ、外灯ではなく、緑色に苔むした灯篭が参拝者を案内するかに等間隔に据えられていた。私は導かれるように石畳を踏みしめて歩く。


 だが門へ近づくにつれ、やけに空がどんよりし空気が微妙に変化する。なぜか音や色までもが薄まった気がする。ただ線香の匂いだけは、くらっと眩暈を覚えるほどに強烈さを増していた。

 それが都市特有の退廃感極まりない場所から、一気に厳かな空間へ移動したせいかと思ったが、どうやらそうでもなさそうだった。二つ目の灯篭を越えた瞬間、背筋がぞぞっとし、得体の知れないものが身体の後ろ半分を走り抜けたのだ。


 それまで緑溢れる空間であったのに、越えてからは色も感ぜず、立体感があっても平坦で、何というか、まるでこの世とはまったく別の異世界の入口へ迷い込んでしまったような感覚に陥った。線香に関しても、単にここが死者を弔うお寺だからというだけでなく、ここら一帯にこの世のものとは思えない魑魅魍魎の類が潜んでいて、それを鎮めるために焚かれているとさえ考えてしまう。

 それがどうしてなのか――追求しようとする思考を、私の奥底の感情が拒絶している。むしろ錯覚だ、気のせいだ、と警告している。


 唯一の恋人を失って以来、人づき合いの悪さは変わらないまでも交友関係は多少変化していた。あのとき、いっそ死んでしまおうとも思ったが、元来臆病なためそれすらもできず、結局生きる道を選択した。

 そのとき、生き続ける限り最低限他者との接触は避けられないと学んだのだ。しかし今こうして振り返ると、それは所詮うわべだけの処世術でしかなく、少しも学習していないことに気づいた。現に今、真実を探ろうとしないでまた水草の中へ潜もうとしている。結局私は、あの事件を忘れるために――違う――恋人や、あの少女の呪縛から逃れるため社会との関わりを持ったにすぎなかった。


 そろそろ決着をつける時期に来ているのだろうか。胸ポケットからハンカチを取り出して、首筋に噴き出す冷たい汗を拭った。太陽が雲間に隠れ、空がうす暗くなっていく。

       

 

 門をくぐると正面玄関で、全身白づくめの集団が出棺の準備をしていた。

 はて? 知人の葬儀会場はここのはずだけど、場所を間違えたのか。やはり変だ。私は不安に駆られ、数歩後戻りしてぐるりと建物を見渡した。空気とか雰囲気とかが、昨日行われた通夜と異なって見えるものの、まったく外観は同じだった。なら杞憂か。考えすぎだ。左手のスーツの裾をまくって時間を確認した。針は九時三十分を示していた。知人の出棺は十時三十分だから、まだ一時間ある。出棺が重複することでいよいよ懸念がましたが、このぐらいの些事なら我慢もできる。私は気を取り直して奥へ進んだ。


 二十人ほど並ぶ白い集団の中に、ぽつんぽつんと黒服の参列者がいる。年齢は様々だ。若い女性もいれば、杖を突かなくては立つことすら覚束ないようなお年寄りもいる。だが皆、集団に違和感を与えず無言で立っていた。その横を私は素通りし、待合室へ足を向けた。

 一応玄関ホールの体裁を整えているが、外同様、室内は薄暗い。奥へ行けば行くほど暗さが増し、錯覚でなければ、そこにいるすべての影が蠢く妖に見える。私はそれ以上奥へ進むのを躊躇した。まだ何となくだが、これは些事ではなく、何らかの現象によって異世界の玄関へワープされたと思ったのだ。


「今から出棺の儀を執り行いますので、両側へお並びください」

 帰ろうとした私は、作務衣姿の若い僧侶に引き止められる。連れ戻される格好で白装束の集団の中へ無理やり並ばされた。

 焦った。こういう状況であれば、ほんとうに異世界へ迷い込んだ可能性も否定しきれない。なら彼が、妖か人間かどちら側に属しているのか掴めないうちは深入りしたくない。ともかく今来た道を戻らなければ――その一心で、並ばされてなお抵抗した。けれど若い僧侶は有無を言わせない。すでに奥の間から、棺がストレッチャーに乗せられ運ばれてきている。もう私はあきらめた。覚悟を決めた。たとえ訳のわからない世界であれ、死者を弔うことに不徳はないはずだ。それに闇雲に阻んで、結局出口を捜せず、あの薄気味悪いコールタールのような黒い影と雑談するよりは数倍ましだ。白い集団のほうが遥かに人間っぽい。


 だが集団の中に、棺を納める肝心の霊柩車がどこにも見当たらない。両手を顔の前で合わせ、どうするのかと神妙に見守っていたら、棺は角材が縦横に四本ずつ組まれた神輿の台座のようなものに載せられた。

 若い僧侶と同じ作務衣を着た年配の僧侶たちが、細い麻縄で棺を入念に縛りつけていく。縛り終わると、先ほどの若い僧侶が私を見つけ、意味深に笑み、唐突に担ぎますかと訊いてきた。若いといっても私とほとんど変わらぬ、三十歳前後だろう。だが細い眉に日本人形を思わせるような切れ長の目は、涼しげながら言い知れぬ畏怖感がある。


 普段であれば、たとえどのような相手であってもやんわり断るのだが、なぜか先ほどまでとは違って断らず、自ら進んで、まるでそうすることが至極当然のように角材の横へ歩み寄った。不思議だ。ここへ着いてからというもの、思ってもみないことがまるで決まりごとのように粛々と進んでいく。

 若い僧侶は、不可解な笑みを保ったまま次々と声をかける。断る者はいなかった。気づくと男女問わず十数人もの人が棺の周りに集まっていた。見た目まぎれもなく人間だ。けれどその大半の者が白い服に身を包んでいる。私と一人の女性だけが黒いスーツを着込んでいた。


「上着を脱いでもかまいませんよ」

 心情を先読みしたのか、若い僧侶が言った。彼女と私は顔を見合わせ、申し合わせたように上着を脱いだ。白いワイシャツとブラウス姿になった。そうして脱いだ上着をどうしようかとつまらない逡巡をした。手に持っていては棺を担げないのは確かだったし、かといってこの場に捨ておくのももどかしいと感じたのだ。


「では、受付に預けてきます」

 即断し、彼女の服も持っていこうと手を差し出したとき、窘めるような口調で若い僧侶が言った。

「勘違いしないでください。脱いでもいいと言いましたが、預けろとは言っていませんよ。まして、初めて訪れたのであれば戻ってこれない可能性が高いのです。そもそも本当に彼らに預けたいですか」

 上着を取りに戻ってこれない? それはつまり死に直結する言葉なのか。私はこの集団と、奥にいる影のような連中との違いを認識したが、同時にこの担ぐ行為にも、底の見えない薄気味悪さを感じた。


 人は選択を間違えたとき、いろんな場面を思い起こして、あのときああすればよかった――こうすればよかったと悔やむときもあるが、今の私はまさにそれだった。呼びとめられても素通りすればよかった。担ぎますかと問いかけられたときも断ればよかった。なぜそうせずに素直に従ってしまったのだろう。なぜ参道の敷石を踏んで背中に悪寒が走ったとき戻らなかったのだろう。寒気がとまらない。また一段と空が暗くなった。

       

 

 皆がそれぞれの場所で角材を担ぐと、若い僧侶が無表情に歩き出した。担ぎ手たちも無言で続く。年配の僧侶たちは辺りを睥睨する感じで後ろからついてくる。きっと彼らは脱落した者を見つけ、黄泉の世界へ連れ去ってしまう――いわゆる死神のような存在なのだ。若い僧侶と違って目つきが鋭すぎる。

 曰くの石畳を踏んで参道を抜け、寺と現実世界をつなぐ細い道を通り抜けると――その先に建物はなく、山間の風景が広がっていた。しかも私がときどきビルと見間違う切り立った山々。反対側も同じように険しい山が連なり、道路は川になっていた。

「これは……」語尾のかすれた言葉が口から洩れた。


「驚いているところに悪いが、何が見えたか教えてくれないか」

 不意に声がした。どきっとして振り向いた。吹き出ものだらけの、爬虫類のような顔をした中年男が、角材を右肩に入れたままこちらへ首を伸ばしている。白い服を着ているのでこの行進を何度も経験しているようだが、この人には何も見えないのか。また脱落しなかったのか疑問に思った。それが判明することによって私と同じ世界に暮らす人間か否か識別できる。


「何がって、あなたには何も見えないのですか」

「見えるとも。住み慣れた都会の街並みがさ。向こうから私たちは見えないがね」

 都会の人からは姿が見えない? そうするとこの人は、人間でありながらもう人間ではなくなっている。いやそれは私にも当てはまるのか。

「あなたは人間なのですか」気づくと失礼な言葉が口をついていた。

「もちろん君と同じようにここへ迷い込んでしまったが、れっきとした人間さ。だけど、しばらく家に帰っていないからどうなのかな」


 男が遠い目をした。ただそれが、かつての世界に郷愁を感じているのかは断言できない。私は、私に見えるものだけを伝えた。

「山と川ですよ」

「ほう、川かい。とすると、君の罪は水に関係があるんだな。それにしても泳げない者にとっては辛い試練だ。脱落者はかなり出るだろうな」

 えっ、すぐに言葉を返せなかった。疑問が噴出した。気になることを一つだけ、恐る恐る訊いた。

「脱落すると、死んで、しまうんですか」

「そうとは限らない」男は後ろの僧侶たちへ視線を投げかけた。「彼らが、物の怪から私たちを守ってくれるからさ」


 そこまで話すと、男はまた遠い目をして会話を切った。たぶんもう話しかけてこないだろう。私は年配の僧侶らに抱いていた思い違いを恥じ、軽く会釈した。

 やはり妖がいるのか。それにしても、どうして街の人から私たちの姿が見えないのだろう。もしかしたら現実世界の中を彷徨う霊と一緒で、そこに確実にいるのに気がつかないだけなのか。ということは普段生活している場所とこの世界は微妙に絡み合っていることになる。そしてその絡み合う地点がたまたま参道の敷石だったということだ。


 年配の僧侶の遥か後方に、慣れ親しんだ街並みがぼんやり浮かび上がっている。まぎれもなく私が暮らす世界だ。しかしこの棺と街の間には暗い深海のような闇が横たわっており、きっと無数の、あのコールタールのような存在が後をつけてきているに違いない。闇に薄気味悪い影を溶け込ませながら様子を窺っているはずだ。現実世界にもそういった犯罪者がいないこともないが、ごく少数で、一人の人間が生まれて死ぬまでに遭遇することは稀だ。けれど、ここは違う。それが日常茶飯事になっている。

「後ろを見ずに前を向け!」

 年配の僧侶の声が飛ぶ。はっとして私は前を向く。彼方に川の源であろう池が広がっていた。棺は見えざる意思の赴くまま、黙々とそこを目指して運ばれていく。

       

 

 山が丘になり、丘が坂に変わり、やがて辺りは平坦になった。おそらくオフィス街を越えて住宅街に差しかかったのだろう。ここがどこなのか、何となく直感で重ね合わせることができるようになった。それが正しいかどうか確信持てないが、他の人に見えていないのなら大体の見当はつく。この棺は、私の罪の原点である――あの池に向かっている。

 その理由をつかめずに、先導する若い僧侶を見た。彼は棺にはいっさい目もくれず、前方に集中していた。しかし棺の中には、いったい何が入っているのだろうか。単に遺体とは思えない。妖と人間が同居するこの世界のことをよく知らないが、火葬場などあると思えないし、もし仮に人間の遺体だとしても、これだけの大人数でどこへ運ぼうというのか。


 夜が訪れた。いつのまにか雲も消え、色のすべてが潰えた空に無数の星がきらめきだした。月に似た数倍もあろう巨大な星も出現し、消え入りそうな淡い光を放ちながら私たちを照らしはじめた。ふと若い僧侶が足を止める。緊張した面持ちで周囲に目を配る。察した後ろの僧侶たちも俄かに殺気立つ。

 暗がりの中で何かが動いた。距離を狭め、近づいてくる。その一瞬、臭いがないと思われた世界に、突然魚が腐ったような強烈な異臭が立ち込める。緊張が走る。羊が狼の群れに囲まれたときのような怯えた目をさせて、皆が竦む。そのうち一人の男が堪えきれなくなったのか、我を忘れて逃げ出そうとした。いっせいにその何かが男に襲いかかる。すばやく年配の僧侶が間に入り押し返すと、朗々と響く声で呪文を唱えた。静けさが戻る。


 若い僧侶が強い口調で男を諫めた。

「棺から離れてはいけませんよ! 離れると彼らは襲ってきます」

 寸でのところでその者は思いとどまったが、彼の白い服はぼろぼろに破れ、至る所に黒い染みのような手垢がべっとり付いていた。

 池に到着した。若い僧侶が立ちどまる。「目的地に着きました。ここは安全ですから棺を草の上へ下してください」

 言われるままに静かに下すと、駆けよった年配の僧侶たちが慎重に麻縄をほどいていく。彼らはほどき終えると池に背を向け、また周囲を警戒する。いくら安全地帯といっても囲いがあるわけではない。羊たちの安全を守るためには万全を期す必要があるのだろう。


「暗くて見えづらいですが、この池の中央に草地があります。そしてそこには一本の木が生えています。そこへ、溺れる二人の女性を救って木の実を食べさせてください。その木の実には癒しの効果があるので、女性が蘇生するのみならず、あなたがたの人生が蘇生されます。さ、どうぞ」

 若い僧侶が皆を促すかに言った。爬虫類顔の男が予測した、私の試練だった。池の中に女性の姿が見えなかったが、浸かればきっと姿が見えるのだろう。飛び込んだ者は一直線にそこへ向かっていった。


 私はすぐには入らず、一人ぽつねんと岸辺に座り、仄かな星の光で照らされる池を眺めていた。心境は複雑だ。皆、私の悔いでもあり罪でもある課題に挑んでいるが、いったいそれで何を得られるのだろう。わからなかった。

 両手で何かを抱えるような仕草を見せて泳ぐ者がいる。たぶん彼は、健気に二人の命を救い上げているのだろう。しかし多くの者は、私と同じように心に深い傷を残して脱落した。特に痛々しかったのは、首まで水にどっぷり浸かり、進むことも退くこともできずに迷っている男だった。うっすら爬虫類のような顔が覗けていたので、あのとき私に話しかけてきた中年男に間違いないと思う。水と聞いて、しみじみ辛い試練と嘆いていたが――まさかそれが彼のことを指しているとは思わなかった。唯一会話した人間だっただけに無性に寂しさがこみ上げてくる。

       

 言うに事欠く脱落ゲーム。結局試練に、そのような価値しか感じず悄然としていたら、いつのまにか白いブラウス姿の女性が横にいた。

「あなたの悔いは、やはり水だったのね」

 右手で、私のシャツの裾をまるで十年来の知己のように引っ張っている。五つか六つ年下で、二十歳ぐらい。髪はふんわりとしたセミロングだった。髪の毛の隙間から覗く黒い瞳が、深い湖の水面を連想させる。

「君は飛び込まないの」

 私は、彼女の目を見すえて言った。すると彼女は少し気恥しそうに目を逸らした。

「必要ないわ」


 おかしな女性だと思った。だが、私だって入らずに岸辺で眺めている。人が入ろうが入るまいがとやかく言える立場じゃない。が女性は、目線を戻すと強い口調で言い返してきた。

「お願い。質問に、真剣に答えて。わたしはあなたが、あのことをどう考えているか知りたいの」

 いきなり何だと思った。「あのことって……私の古傷のこと?」

 確かに私は誰にも理解できない罪を隠し持っている。そのせいでかけがえのない恋人を失った。けれど、なぜそれがこの池に関係していると見抜けるのだ。


「君は、私を知ってるの」

「もちろん知ってる。間接的にだけどね」

「間接的? 紛らわしい言い方だ」

「紛らわしく言わないと、あなたが貝になるからよ。そうしたら会話にもならないし、もどかしくなるでしょ」

 もどかしいのは私のほうだ。「もう少し、わかりやすく言ってくれないか」

「言ってもいいけど、水草へ逃げ込まないと約束できる」

「約束するよ」

「じゃ、話す。あなたの恋人が溺れたとき、わたしもあの場にいたの」

 驚きだった。まさにこれ以上ないくらいの驚きだった。あのとき私は、彼女の大好きなソフトクリームを買いに行って事故現場にいなかったが、戻ってきたら彼女は池の中で溺れていた。その横で、見知らぬ少女が懸命に彼女を支えていた。


 もうソフトクリームどころではなかった。すぐに池へ飛び込み、彼女を岸まで引き上げた。そして息をしていない彼女に人工呼吸を施し、蘇生させた。だが彼女を蘇生させることに無我夢中で、助けてくれた少女のことをすっかり忘れていた。

 その存在を思い出したとき、池の中には誰もいなかった。少女の妹であろう女の子が足を水につけ、岸辺で泣いていた。

「わたしと姉は、女性が岸の石に躓いて落ちるのを目撃した」

「なら君は、あの少女の妹だったのか――」

 絶句した後、もう言葉にならなかった。蘇生に夢中で心に余裕がなかったとはいえ、助けてくれた人の存在を忘れるなんて人間じゃない。少女を救い上げてからだって遅くなかったはずだ。そのせいで彼女は壊れ、深い傷を負った。


「でも、あなたの罪はそれほど重くない。恋人も気に病むほどではなかった」

「なぜ、そう言い切れる」

「勘違いしているからよ」

「勘違い?」嘘だと思った。彼女は私を気づかっている。「百歩譲って勘違いだとしても、私が君の姉さんを見すてたのは事実だ。それでも言い切れるかい」

「言い切れるわ。あなたは確実に一人の命を救っている。でも、わたしは泣いていただけ。姉を救おうともしなかった」


 そこまで話すと彼女は、いったん目を逸らし、俯いてからじっと私の目を凝視した。よほど大切なことを言おうとしているのだろう、目を合わせたまま瞬き一つしない。

 やがて目に光るものが溜まると沈黙が破られた。彼女は手の甲でそれを拭い、静かに話し出した。爬虫類顔した男の姿が水面から消えていくのと同時だった。

「姉は死に場所を捜していたの……」

 死に場所? どういう意味だ。私には理解できない回答だった。一つ考えられるとしたら、少女が不治の病を抱えていた可能性もある。


「もしかして、病気だったの」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」彼女は続けた。「姉は白血病だったの。それもかなり進行しているやつ。だから仮に治っても一時的なものとしてとらえ、人生を悲観していた。ずいぶん悩んでいたわ。それで出した結論が、どうせ死ぬなら、人のために死のうだったの」

 池の中に誰もいなくなり、星に照らされた水面が静かに波打っている。私の胸だけが、突然降りだす夏の豪雨のように稲妻を伴い激しく脈打っていた。

        

 

「話が弾んでいるみたいですが、次はあなたたちの番ですよ」

 例の、意味深な笑みを携え若い僧侶がやってきた。

「必要ない。そんなことをしなくても真実を知った。これ以上何を知ればいいというのか」

 私はきっぱり断った。それで脱落の烙印を押されるなら、押せばいい。

「珍しいことを言う人ですね。ま、稀にそんな人がいましたが、得てして口だけで、最後には結局哀願しましたよ」

「哀願などしない。するくらいなら自ら死を選ぶ」


 これまで私は絶えず巨大魚に怯え、死ばかりでなく人の風潮も怖れていた。もう辟易だ。心の奥底に潜む澱を引っ掻き出して、消滅させなくては、いつまでたっても悔いが消えない。

「殊勝な言葉です。感動しましたよ。では感動のついでに、私もほんとうのことを言いましょう。先ほどまで執拗に我々を付狙っていた妖は、じつはこの行進から脱落した人間なのです。それでも脱落したいですか。それと、もうご存知だと思いますがこの世界には死というものは存在しません。つまりあなたは死ねないのです。棺は、この行進によって脱落した人間の魂を納めるために持ってまいりました」


 体のいい詭弁だ。それだと脱落した人間の魂を鎮めるためとしか聞こえない。「集めた魂は、君ら妖の胃袋に収まるんじゃないのか」

「おお、凄い洞察力です。驚きました。そうです。我々こそが真に妖なのです。我々は罪の呵責から人としての尊厳を逸し、心を彷徨わせる人間を察知して、その魂を喰らう種族です。だからといって我々はむやみに人を殺めることはしません。それには確固たる理由があるのです」

「不味いとでも言いたいのか」

「その通りです。殺して奪い取った魂は鮮度が落ちるのです」

「それで、臭い三文芝居を企んだわけだな」

「そこまで推察していたとは、驚きを通り越してもう感嘆の域に達します。是が非でも欲しい極上の魂といえるでしょう。しかしながら人間というのはじつに憐れな生きものですね。脱落して自ら尊厳を放棄したのに、新しい人間が迷い込んでくると魂を取り戻そうと襲いかかってくる。我々には考えられない思考です」

「魂に興味を持たなければ、余計なことを考えなくなる」

「これは手厳しい意見です。素晴らしい。ですが、あなたとは永遠にわかり合えないでしょう。ならもう一人のターゲットに狙いを絞るしかありませんね」

 若い僧侶は私から離れ、隣の女性に向き直った。その瞬間、世界がぐらぐら揺れた。女性と若い僧侶には変わらぬ闇が広がっているが、私の周囲だけに柔らかい光が射した。どうやら私だけが解放されたようだった。

       

 

「これで、あなたに罪がないことが判明したわ。お別れね」

 辺りを見渡し、最後に握手でもしようというのか、彼女が腕を伸ばす。その腕を残して身体は消えた。

「待ってくれ! 君にだって罪はない。姉さんの意思を尊重しただけじゃないか。それに、私以上に苦しんできた」

 私は彼女の腕をつかんだ。だが彼女は必死に放そうとする。「いいの、忘れて」

 その言葉に私の魂が震えた。これではまるっきり、あのときの再現だ。冗談じゃない。

 私は握る手に力を込めた。その手を暗い闇の中から、棒のようなものでばしばし叩かれる。それでも私は離さなかった。


「往生際が悪いですね。引き止めるぐらいなら、あなたも魂を失ったらどうですか」

 若い僧侶の声が聞こえた。

「ふざけるな。お前の好きにさせてたまるか」

 私は短く言葉を返す。そうして渾身の力で彼女の腕を引っ張った。消えたはずの彼女の身体が闇から引きずり出される。

 ほほうという息が漏れ、ま、いいでしょうという言葉が重ねられた。異次元の扉が閉まる。気配がなくなった。立ちつくす彼女の背後の空が、茜色に染まっていた。

 

        了



「囚われの迷宮」

 

 明け方に決まって同じ夢を見る。その夢の中で、私は遥か前方にたたずむ古城へ向かって一直線に車を疾駆させている。霧でかすむ道の両脇には、まだ咲くはずもない黄色い菊が匂い立つかに群生していた。

 でもしばらくすると、古城も菊も小川の手前で突然ゆがみ、ふわふわ空間を漂ったあげく消滅してしまう。行き場を失くした私は、消え去って無と化した残像をいつも悄然と見つめることしかできずにいた。

 夢は毎回そこで終わる。

 どうしてだろう。消え去った古城と菊は私に何の暗示を投げかけているのだろう。

 ひとしきり考えたのち、ふっと夜具を払いのけ、薄暗い部屋の中を歩いて真っすぐ机に向かった。灯りをつけて地図を広げた。一点を凝視し、ここしかないと見当をつけた場所にペン先を当てた。

 そこは有名な温泉地を抜けた海沿いの町。かつて源頼朝が流刑されたという地とも近く、どことなく曰くのありそうな場所だった。

 その古城の場所を曖昧ながら教えてくれたのは、職場の同僚でもあった恋人の理恵だ。なぜ知っていたのか疑問だが、二ヶ月前、居酒屋で夢の話を伝えると理恵は唐突に言った。

「もしかしたら太一、招かれたのかもしれない」

「招かれたって、何に?」

「饗宴に」

 霧にかすむ古城での饗宴、妖しい響きを含む言葉だった。それだけに興奮を掻き立てられた。私はビールジョッキを傾けながら、心を見透かされないようさり気なく訊いた。

「それは単なる夢ではないってことかな。古城は実在してるんだね」

「と思う。都市伝説の一つなのかもしれないけど、古城はホテルよ。それもロックによって傷を癒してくれるホテル。行ってみたいよね。幻想的だもの」

 ロックの名曲をなぞったホテルが、都市伝説になった話なら聞いたことがある。確か曲名はホテル・カルフォルニア。その曲を人気ロックバンドの演奏で聴かせて、恋人たちを幻想世界へトリップさせようとする、テレビのバラエティー番組がはじまりだ。

 だけど視聴者から、実際にそんなホテルがあるという情報が次々に舞い込んできた。それで続編として、出演した芸人カップルが調べることになった。結局探せず、芸人カップルは番組スタッフのつくった落とし穴にトリップするという低俗なオチだった。

 絵空事だ。招かれたという理恵の話を信じようにも説得力がなかった。

「興味を失ったみたいね」

 理恵が顔を覗き込んできた。「信じようと信じまいと自由だけど、あの芸人カップルは破綻していないから探せなかったのよ。だって失恋した人なら、小川を越えて、全員ホテルに辿り着けたって聞いたもの」

「その小川を越えられないんだ。ゆらゆら漂ったあげくホテルは消えてしまう」

「夢だから消えるの。夢は現実と同じようでも根本が違うから」

  

 今振り返ると、居酒屋での理恵の返答に絶妙な企みが渦まいているのを感じる。さもありげのような話しぶりで興味を惹かせたこともそうだが、迷わせ、私の夢を支配しているようにも思えるからだ。

 たぶん酒を飲んだとき、たまに愚痴を聞かされることがあったので、そういった幻想的な世界へ連れて行ってほしかったのかもしれない。

 ただ夢と現実の違いは理解しているつもりだ。仮に夢の中だったら、理恵の愚痴に応じるまでもなく結婚を申し込んでいるだろうし、距離を置いてわざわざ土まみれになる農家の仕事を継ごうとは考えない。市場の従事者として、生産者から集荷された野菜を淡々と消費者に送りとどけている。

 だから辿り着けないホテルは、儘ならない理恵との結婚を指しているのだろう。

 居酒屋での直後に父が床に伏し、いま母から再三再四、農家後継者の要請を受けている。一つには父の看病をしつつ、畑仕事をしなくてはならない母の体力が限界に近いからだ。

 母は再婚だった。七歳になる私を連れて野菜農家へ嫁いだ。父は寡黙で感情をあまり表に出さない性分のせいか、男手がほしくとも、決して農家の仕事を押しつけようとはしなかった。そのぶん母が、つど私に辛辣な言葉を投げかけてきたが、それでも父は何も言わなかった。

 たぶん血のつながらない私に遠慮していたのだと思う。昭和生まれにしては謙虚で、控えめを絵にかいたような人だった。それでも母との間に生まれた待望の子どもが、弟ではなく妹だと知ったとき……さすがに父は落胆した。

 その父が脳梗塞の後遺症で歩行も儘ならない状態に陥っている。

 妹が同居しているとはいえ育ててもらった恩がある。長男として知らんぷりするわけにはいかない。だからといって、いつかはネイリストの店を開きたいという理恵に農業をやらないかとはいえなかった。そのため距離を置くと、生まれるべくして溝が生まれた。夢でも現実でも障害物に阻まれ、望みは儚く消えてしまう。とりわけ現実は痛みを伴うだけに苛酷だ。

   

「お兄ちゃん、近いうちに来れない」

 昼休みに、押し迫った声で妹から電話がかかってきた。

 どうしたと聞くと「お母さん、この頃ふさぎ込んで、突然泣き出すの」

 そう話す妹の声も涙声だった。

 予兆はあった。先週末に実家へ顔を出したとき、大学生の妹が一人で茄子の収穫をし母は家の中にいた。もちろん父の世話をしていたのだろうが、家の中は乱雑きわまりないものだった。台所は洗い物でシンクの底が見えないほど溜まり、洗面所は洗濯機から溢れた汚れものが火山の噴火のようにこぼれ落ちていた。何より欠かさず漬けていた胡瓜の糠漬けが、糠床に一本も入っていないのだった。

 いよいよ精神的にも限界へ達したのかもしれない。次の日に実家へ行き、家業を継ぐことを正式に伝えた。道すがらスマホを取りだし、経緯を理恵にも話そうと思ったが、今さらどう切りだせばいいのかわからなかった。父が床に伏したと連絡があって以来、破局に陥るのが怖くてまる二ヶ月会っていないのだ。電話とメールの着信も、仕事が忙しいからと放置している状態だった。

 結果的に恋人より身内を選んだ。それは別れを選択したのと同じことだ。私はスマホをポケットにしまった。駅構内へ入って電車を待った。

 週末のせいもありホーム上に人はまばら。普段気づかない、反対側の線路沿いに咲く花も自然と目に入り込んでくる。容赦ない夏の暑さにも萎れることなく耐えた、赤と青の色鮮やかなサルビアだ。

 目を周囲に移すと、そのサルビアにも劣らぬ艶やかな金髪の女性と、煌びやかな装身具をつけた紳士が肩を寄せ合い談笑しているのが見えた。女性は白を基調とした華やかな花柄のワンピースに、濃いサングラス。純金のネックレスを首に巻いた男性は、ベージュのサマージャケットにグレイがかったズボンを身につけていた。

 年齢は女性が二十代後半で、男性が四十代前半ぐらいだろう。秘密めいた雰囲気が感じられることから、二人は夫婦ではなく恋人とも思えた。いずれにせよ私の手のとどかない世界で、めくるめく宴を繰り広げる人たちだ。

 そう思いながら眺めていると、不意に女性と目が合った。サングラスを外して私に笑みを投げかけてきた。はっとして凝視すると、手のとどかない世界の住人と思っていた女性は、恋人の理恵だった。

 えっ、……理恵の華麗な変身に気圧され、言葉が出ない。

 で、その男は誰? 別れを決断したはずなのに嫉妬に駆られた。

 そういえば理恵の送られてきた最後のメールに、新たな旅立ちを匂わす文字が綴られていた。

 つまり、そういうことか。

 悩んで悩み抜いたこの二ヶ月の間に、理恵は私を見限り新しいパートナーを見つけた。私は放置したのではなく放置されていたのだ。

 ほどなく、理恵ともども男も私を見つめだした。まともに目を合わせられそうにない。いつかはこうした場面に遭遇すると思っていたはずなのに、哀しいことに、唐突すぎて受けとめる余裕もなかった。

 うつむくとアナウンスが聞こえ、電車が両方向から侵入してくるのが目の端に見えた。私は顔を伏せたまま真っ先に乗り込んだ。走り込むようにして空いている座席に座り、目を閉じた。その閉じた目から、予期せぬ熱いものがとめどなく伝い落ちてくる。

 鬱屈した気分のまま電車を降り、改札を抜けると、ショッピング街のウィンドウに貧相な男の姿が映っていた。一瞬、他人と見間違えたが、それはまぎれもなく私だった。

 理恵のことも先のことも考えず、これまで瞬間瞬間を無為に過ごしてきた男の姿。気がつけば当時の仲間はみな家庭に収まっているというのに、私だけが未だ変わらぬアパートに暮らし、いたずらに年を重ねていた。スリムだった身体もだぶつき、輝きなんてどこを探してもない。享楽にうつつを抜かして、六年という歳月を無駄に失った三十代の憐れな男でしかなかった。

  

 その夜も明け方に夢を見た。いつもと同じ場所で目が覚めたが、なぜかどうしても越えられずにいた小川を越えていた。たぶん曖昧だった恋の行方が、駅のホームの一件で失恋だと知らされたからに違いない。

 私はバルコニーへ出た。明けきらぬ空の下、光の筋となった高速道路を次から次と車が何台も通過していく。こんな時間にどこへ行くのか、また何をしに行くのかなんてどうでもよかった。ただ車に限らず人は、目的があるからこそ進むのであって、目的を実行しようという意識がなければ惰性でその場をくるくる繰り返すことしかできない。私のように。

  

 秋の野菜が出荷された十月初旬、私はささやかな休みをとって車を走らせていた。行先はもちろん温泉地をすぎた海沿いの町。単なる都市伝説で終わってしまうのか、それとも現実と成り得るのか。それはわからない。けれど無駄足になっても検証するだけの価値はあると判断した。

 助手席に理恵がいないことに一抹の寂しさを感じるが、あれから一人で土を耕し一人で種を撒いて、それなりの野菜を育ててきた。そうしたプロセスをあたり前のようにやってきたので、以前とは違い、少しは片肺にも慣れた気がする。

 温泉地をすぎてからも、ひたすら車を疾駆させていると、突然霧が立ち込め夢と同じ景観の小川が滲みながら見えてきた。その先には、やはり霧にかすむホテルが揺れながらたたずんでいた。

 川の手前で車を停めた。ドアを開けて降り、辺りを見まわした。

 小さいだけと思っていた川幅は案外広く深さもありそうだった。試しに細長い枯れ枝を拾って突きさしてみると、すっと入った後、ずぶずぶ背丈ほどの深さまで一気にめり込んでいった。水深は浅くても、軟らかい土が底なし沼のように堆積しているのだ。

 これではいくら勢いをつけて跳躍しても、落ちたら最後、浮かび上がれない。怖くて飛ぶ勇気が湧いてこなかった。

 霧はますます濃くなる。

 思案に暮れていたら、対岸から「横山太一様でしょうか」と、かすれた声がした。

 大きなスリットの入る、黒いラメドレスを着た妖艶な女性だった。ボブカット風のヘアーに顔半分を隠すハーフマスクをつけていた。

「あなたは?」

「ホテリエです。道案内に参りました」

 ならば都市伝説ではなかった。理恵の言う通りホテルは実在していた。私は嬉しくなり案内人だというホテリエを見つめた。

「助かりました。でも、どうして私の名前を……」

「横山様は、当ホテルに招かれた、お客様ですから」

 かすれる声音もそうだが、霧と同じでつかみどころのない、あまりに拍子抜けする返答だった。まるで酒に酔った仙人相手に問答している感じだ。百歩譲って信じたとしても、この川を渡らなければ何もはじまらない。

「二百メートルほど下れば橋があるので、そこを、お渡りください」

 ホテリエは私の懸念を察し、事もなげに不安を取りのぞくと、霧の中に姿を消した。

  

 言われるまま下り橋を渡った。途端、あれほど深かった霧が嘘のように消えていた。

 澄み渡る高い空を背景に、色づきはじめた山々が白い雲によって絶妙なコントラストに導かれている。足元の道の両脇には、菊とばかり思っていたマリーゴールドが敷きつめられ、その沿道の先に中世の古城にも似たホテルが建っていた。色とりどりの蔦で覆われる赤レンガの壁に、緑色の銅屋根。中央に円錐形の高い屋根がちょこんと突きだしており、そこに青銅色の古めかしい鐘楼が吊るされていた。

 目の前に、白日夢と見紛う現実離れのした風景が幻のごとく広がっていたのだ。私は呆然と立ちつくし、もしかしたら、まだ夢を見ているのかもしれないと思った。

 けれど、そんな幻想的な光景もさることながら、エントランスに立つ先ほどのホテリエに私は身を貫かれた。色香の漂う赤い唇、露わになった細い肩、スリットから覗く艶めかしい足、どれもが官能的で私をとらえて離さなかったのだ。

 ただ奇妙なのは、ホテリエを見て、それらのすべてで対極の位置にいる理恵を思い起こしたことだ。

 耳に残るレトロなフォークソングに、別れた恋人と似た女性を街で見かけ、つい振り返ってしまう。そんな切ない曲があった。たぶんそれと同じで、まったく別人のはずなのに同一人物と錯覚した。それほど六年という歳月は、私にとってかけがえのない時間だったのかもしれない。気恥ずかしさから額に浮いた汗を拭った。

 その惑いを知ってか知らずか、ホテリエは黒いラメドレスをそよがせ優雅に出迎える。小川のときよりワンオクターブ低い声で囁いてきた。

「囚われの地へ、ようこそ」

 なぜ、そう呼ぶのだろう。かつて源頼朝が流刑された地が近いからもじっているの。それとも理恵を無視したよう両親も見すて、ここに雲隠れするとでもいいたいのか。

 錯綜する私をよそに、ホテリエは透けるような白い指でキャンドルを前方に掲げた。そして何事もなかったかのように「こちらへ」と促し、振り向きもせずにフロントとは別の仄暗い通路を歩いていく。

 しばらくして客室の前で足をとめ、また意味深な言葉を投げかけてきた。

「当ホテルは、お客様に限り好きなだけ滞在できるようになっています」

 私は長居するつもりもなかったので、決まり悪く人さし指を立てた。

「一泊だけでいいんです」

「それで済むとは思えませんが」

「ここが囚われの地だから?」

「いいえ。囚われるのはお客様で、当地とホテルは囚われておりません」

「どうして私が囚われると……」

 ここへは、決まって見る夢の検証に来た。それ以外の思惑は誰も知らないはずだ。

 私が問い質すかに見つめると、ホテリエは、はにかむような笑みを浮かべた。

「あなたのことを、よく存じ上げているからです」

 嘘だ、と顔を横に振って否定するが、事実、知るはずもない私の名前を小川で呼んでいた。それ以上何も言えなくなった。

「ではディナーは五時に、突き当りのレストランで。日が沈むと同時に目的の饗宴も開催されるので、心ゆくまでお過ごしください」

 ホテリエは私を見つめ、唇を悩ましげにすぼめて炎を吹き消すと、闇に消え入るよう去っていった。

  

 戸惑いつつベッド脇にバッグを置き、靴を履いたまましばらくベッドに寝転んだ。否定しようにも謎だらけで情報を処理しきれない。窓の外の山が、そんな私の心を見下すよう聳え立っていた。

 いずれにしろ、これだけの広さのホテルなら、招かれたという客は私だけではないはずだ。おそらくホテリエが断言した通り、一泊のつもりが何泊にもなった客がほかにもいるに違いない。そうであるなら突きつけられた言葉は事実を物語っている。

 耐えきれずに起き上がると、シャツの袖をまくり時間を確認した。長針が8を指し、短針が5に迫っていた。その場で前ボタンを外してシャツを脱いだ。シャワーを浴びて汗を流し、レストランへ向かった。すると入口に、オペラ座の怪人風のマスクをつける、四十代前半の支配人が立っていた。その横には、あのホテリエの姿も。

 またぞろ謎が立ち塞がる。

 なぜ二人は顔を隠しているのだろう。表情を読みとらせないためなのか、それともこのホテルを幻想的に演出するためなのだろうか。マジシャンに頭の中を掻きまわされたような気がして思考が定まらなかった。

「お待ちしておりました。海を一望できる窓際の席へ、ご案内させていただきます」

 四人がけのテーブルが二十卓ぐらいと、さして広くない店内に客が半分ほど埋まっていた。ほとんどが男性一人客で、数組のカップル姿もあった。支配人はときどき私を振り返り、空いている窓際の席の前で足をとめた。

 奥から四列目の席だった。その奥の壁に、打ちひしがれる青年の横を、白いワンピースを着た金色の髪の女性が去っていく絵画がかけられていた。

 この画風、どこかで見た記憶が……。

「絵が気になりますか。ムンクの『別離』でございます」

「ムンクの?」

 「叫び」なら知っていたが、「別離」は知らなかった。それにしても金色の髪といい、白いワンピースといい、あの駅のホームで見た理恵と何もかもが似ていた。仮にこの女性が理恵であるなら、打ちひしがれる男はきっと私だ。

 悄然と席へ着くのを見て、支配人が囁いてきた。

「コース料理は、いつお持ちしましょうか」

「いつでもいいです。この絵の男みたいになりたくないから」

 私は毅然と言った。すると支配人は「ほう」と小さな声を漏らし、慇懃に続けた。

「お飲み物はいかがされます」

「ウイスキーのダブルをロックで」

「水割りではなく、ロック。それは賢明なご注文です」

 支配人は、仮面越しにしげしげと私の目を覗き立ち去った。

  

 飲み物と料理を運んできたのはホテリエだった。並び終え、足早に戻ろうとするのを見て私は呼びとめた。

「あの……」

「何でしょう」

「君に、似てるんだ。ヘアースタイルも雰囲気も違うけど」

 ホテリエは、一瞬、会話を嫌がる素ぶりを見せたが余所余所しく聞き返した。

「どなたにですか」

 壁にかけられた絵画の女性。と言おうとしたら、口をついて出たのは理恵の名だった。

「三崎理恵、恋人だったんだ」

「過去形ですね。今はお付き合いされていないのでしょうか」

「振られた」

「お気の毒に」

 トレイを持ったまま、ホテリエは表情を変えることなく言った。

「六年付き合って、結婚しようと思っていたのに……彼女は別の男にのりかえた」

「そう言いきれるのですか」

 一転、ホテリエは口調を強めた。「あなたは六年も交際した女性を、つくづく信頼なさらない方なのですね」

「違う、信頼してた。けど私は、彼女が男と肩を寄せ合っているのを目撃した」

「それだけのことで断定してしまうのは、大いに問題ありますよ。彼女が意図的に目を背けたのなら、また別ですが」

 そういえば理恵は目を背けなかった。むしろ愛くるしい笑みを浮かべていた。だとすれば疚しさなどなかったことになる。あの時点で私たちは、まだつながっていたとも言える。

「結局、あなたは彼女をすてたのですね」

「そうじゃない。彼女の夢を気づかったんだ」

「彼女の夢とは?」

「ネイリストとしての成功さ。農家の嫁になったら、ネイリストなんてできなくなる」

「では、ネイリストは農家へ嫁がないと、お考えですか」

「十中八九」

「偏見です。どんな女性であろうと結婚すれば、食器洗いに風呂掃除など水仕事は欠かせないのですよ。それに彼女は、ネイリストよりも野菜づくりのほうが好きだったかもしれませんし」

 ホテリエは有無を言わさぬ口調で言いきると、くるりと背を向けた。私はその後ろ姿が厨房に消えるまで、不思議な感覚に浸りながらいつまでも見つめていた。

  

 日が西へ大きく傾く。グラスの氷がことりと音を立ててくずれていく。琥珀色のウイスキーが水に溶けて薄まっていく。テーブルの上には水滴のついたロックグラスと料理が並べられているだけで、私は一人静けさの中に閉じ込められていた。

 やりきれない気持ちで窓の外を眺めると、青かった空は朱に染まり、ぎらぎら赤みを帯びた波間へ夕日が沈んでいった。上層に薄っすら取り残される青い空。下層はトマトをすり潰したような茜色。そして地上は私の胸と同色の藍色に塗り込まれていた。

 やるせなくグラスを手に取り、すっかり水っぽくなったウイスキーを飲んだ。飲み干すと支配人を呼んで二杯目を頼んだ。

「おかわりは同じ銘柄のロックでよろしいでしょうか。当ホテルは、1969年製のウイスキーをご用意しておりますが」

「それはどういうもの?」

「人によってさまざまですが、失恋にはあきらめきれずにいつまでも浸っていたい想いと、すぐにでも忘れ去りたい想いがあります。それらの事情を考慮し癒すために、浸りながら忘れるウイスキーをストックさせています」

「ウイスキーで失恋を癒す? 紛らわすのではなく」

「ええ、針治療と思ってもらえれば結構です。患部に針を当てることで症状が緩和されるよう、ウイスキーによって傷を癒すことはできないかと試飲を重ね、発見したのが1969年製のウイスキーなのです」

「もしもだけど、それとは別のウイスキーを飲んだらどうなるの」

「1969年夏以降のウイスキーには、魂がないので、おそらく自身のつくった罠の中に囚われ続けるでしょう」

 自身のつくった罠とは、言い換えれば失恋の否定であり継続の願望だ。

「だったら、これまでと同じウイスキーでいいです。彼女と過ごした時間に浸っていたいから」

「囚われたいと」

「そうじゃない。浸り続けていたいだけ」

「絵画の世界に、連れ去られる危険性もありますが」

「そこに連れ去られたら……」

「絵の男性と同じように、心は半永久的に空洞状態になります。ですが、罠をつくったのが本人なら解くのも本人しかいません。それを理解すれば、時間がかかってもいずれ解放されるでしょう。踏まえて速やかに傷を癒すために、ロックのスピリッツが注入された1969年製のウイスキーをお勧めしましたが、残念です」

  

 妙に背後の視線を意識しながら、ホテリエがウイスキーを持ってきた。耳打ちするかに呟いた。

「特製ウイスキーに変えときましたから」

「……どういうこと?」

 私は戸惑う。

「支配人に、また囚われのウイスキーを注文しましたね。特製ウイスキーを勧められたのに拒否するのは、囚われはじめた証明です。それを知りながら実際に持ってこなかったのは、あの人が温和に見えて、じつはサディストだからです。泣き虫に見えて親思いの人もいますし、人とは見かけによらないもの。ともかく、あなたにこれ以上滞在されても困りますので」

「君は……いったい?」

 真意を探ろうとすると、手で制された。

「詮索は無用です。それよりも、まもなく饗宴がはじまりますので、しばしお浸りください」

 その瞬間、それまでホテリエに感じていた思いに微妙な変化が生じたのに気づかされる。私は魔法のウイスキーを飲んだ。

 途端、喉に焼けるような熱い痺れが走った。その痺れは自尊で塗りかためた鎧を剥がし、無防備になった胸を締めつけてくる。甘美な陶酔に囚われながら。

 異様に感情がたかぶる。暮れゆく空をまともに見ていられず顔を背けた。

 通路を隔てた隣席のテーブルに、フルーツの乗ったカクテルが運ばれてきた。恋人同士であろう二人は満面の笑みを浮かべてスマホで撮り、たがいにピースサインをしてフルーツを口に運びだす。

 そういえば理恵とも、食事の際には必ずといっていいほど自撮りしてインスタに載せた。ハロウィンのときも現実さながら美女と野獣の仮装をした。大いに受けた。周囲の人がブログにアップするから写真を撮らせてとせがむので、プロ顔負けのとっておきのダンスも披露した。今思えば至福の瞬間だった。

 けれど現実は残酷だ。その後もコスプレとダンスに現を抜かしていると、一人二人と同世代の仲間が去り、理恵との間にも隙間を感じるようになった。気がつくと、大した預金もない中年男と、醒めた目をする恋人の姿が浮きぼりに。

 私は現実を見つめ直した。すると夢を見はじめた。すべての事柄で試練の兆しが顕れてきた。

  

 真相を明かせば、私はホテリエが誰なのか気づいていた。いくらマスクをつけようと、ヘアーをボブカットに変えようとも、六年も愛した女性を見抜けぬはずがない。支配人も同じだ。一度しか会っていなかったが、ホテリエが理恵であれば自ずと答えは導かれる。

 なぜならここが理恵の来たがっていた都市伝説のホテルで、失恋者の集う迷宮だからだ。

 そして理恵が駅のホームで私に手を振ったのは、まだ二人がつながっていたからじゃない。夢の話を居酒屋で伝えたとき、理恵はこのホテルに私が招かれたと言った。それは、その時点で心が離れていた証だ。つまり破綻していた。

 だから、その後の私の無視を既成事実とし、理恵はここで特製ウイスキーを飲んだ。それによってホームで意図的に目を逸らさず、笑みを浮かべて手を振ることができた。悲壮感もなく、むしろ清々しく。

 くわえて理恵は、ネイルをはじめていたので市場にいた頃から指が汚れるのを極端に嫌っていた。だから野菜づくりが好きだというのも詭弁だ。結局のところ、ホームで再会した時点で、私たちはすでに完全な他人だったのだ。

 惨めさを痛感した私は、自宅のバルコニーから西方向を眺め、過去と決別しようとここへ来た。失恋を肯定し、継続を望まずに。

 でも、知らずに迷宮に連れ去られるウイスキーを飲んでしまった。だが最後の最後に、それを阻止すべく理恵が手を差し伸べてくれた。

 ここへきて正解だ。理恵は首の皮一枚の場所で私を思いやった。それは理恵にとっても私にとっても、共有した六年間が無駄ではなく貴重な財産だったという証だからだ。そのことがわかっただけでも糧になる。たとえこの先、意中の女性に巡り合えなかったとしても、たぶん生きていける。

  

 奥のテーブルで男が目を赤くさせている。その横のテーブルでもロックグラスを片手に男が泣いている。その姿に自らの恋を重ね合わせたのか、それとも失意に共感させられたのか、気づくと私の目にも熱いものが溜まっていた。

 彼らが私と同様、いっときだけ囚われる人たちなのかはわからない。なかには私以上に長い恋を失った人も、深い愛を喪失した人もいるだろう。ただ、これから始まるショーの参加者であり聴衆であることは間違いないはずだ。

 しだいに冴えわたる藍色の空から星が消えていき、あの1969年の夏を思わせる激しい雨が降ってきた。稲妻も発生し、遅れて雷鳴もとどろいた。

 すでに饗宴は始まり、恋人たちがいた隣席にも影が忍び込んでいた。亀裂が生じたのか、もしくはもともと幻影でしかなかったのか、いつのまにか女性の姿は消え、男一人が取り残されている。呆けた表情で飲むカクテルグラスがロックグラスに、中身が私と同じ特製ウイスキーに変わっていた。

 噛みしめる嗚咽がロックのイントロを奏でるかに四方から響き、あの名曲のリズムに合わせて店内をつつみ込む。窓を打ちつける激しい雨はギターに変わり、雷鳴はドラムと化した。

 そう、ここは囚われの地。ウッドストックのように浸りながら三日間滞在できるホテル。そして拒むと、自身のつくった罠に囚われ立ち去ることのできなくなる迷宮。

 

 

                 了




   灰色ストーカー

 

       

 バックミラーに映る月をちらっと見ながら、夕日に向かってひたすら車を疾走させる。すると同じ空に月と太陽がくっきり浮かんでいるせいなのか、ときどき夕日も月も色を失くして見えることがある。そんな夕暮れどきに僕は少しだけ覚醒する。情景に触発されて、気づくと僕はいつも馬になっているのだ。

 横の車も前の車もやはりみんな馬になっていた。それも無彩色の夕日に映える美しい白馬に。でも僕だけはいつだって灰色の馬、白からも黒からも煙たがられる曖昧な灰色だった。

 そればかりか、仲間の白馬たちはすぐに目的の光を見つけて速度を上げていくのに、光の見えない僕はあっという間に取り残されてしまう。いくら全力で走っても追いつけない。そのうち仲間の姿が見えなくなると、行き場を失って走ることも儘ならずに途方に暮れる。

 哀しいけど僕だけ毛並みが違うから、光を探せないのだからと……すぐにあきらめる。それか、もしかして仲間だとばかり思っていた白馬たちが、じつは仲間なんかじゃなくて別の種類の生きものかもしれないって考えたりもする。だって僕は白鳥の雛のように、いつまでたっても白い毛並みになれないのだから。

       

「それ、隣の人にも話したの」

 柳田麻里があきれたように聞いてきた。

「隣の人だけじゃない、全員に話した。だから、たぶん君で最後になるよ」

「ふうん、それでみんな白けていたのね。わかるような気がする、彼女たちがつまらなそうに時計ばかり見ていた理由が。でも最後って、もう一人いるわよ。私なんかよりずっと魅力的で、今夜の婚活の華みたいな女性が、さ」

 麻里が、ちらっと横の女性に視線を流した。僕もつられて女性を見た。

 確かに言われてみると、その女性は同性からも華と称されるぐらいだから、美人。欠点が見当たらないほどの美人だ。けれど僕がもっとも嫌いな世界に住む人種のような気もした。

「いいんだ、彼女にはまったく興味がない。これでも僕は、先天的に人を見る目があるほうなんだ」

「先天的、ね……」

 麻里が、僕に怪訝な目を向けてくる。少しも信じていなさそうな感じだ。

「そうかもしれないわね、たぶん。けどさ、見られる目はぜんぜん持っていないよね。だって私もそうだけど、あなたに興味を持っている人なんていないもの」

 今夜着てきたのは至ってシンプルな通勤スーツ、それでも僕にとって最高の服装だ。けれどその一言で、彼女と、ここに集まった参加者の提唱する価値基準というのが、僕とはまったく噛み合っていないことに気づかされた。でも人の価値は見かけで決まるものではない。

「うわべだけの僕を見て、ほんとうの僕を見てくれていないからさ。世の中、金がすべてじゃないことに誰も気がつかない」

「あのさ、もし真剣に言ってるんだとしたら、ほんとこれ以上ないくらいこの婚活会場にぴったりの言葉よ。おかげで今夜はすごく楽しませてもらった」

  

 もうすぐ五分間トークが終わる。麻里が周囲を見ながら席を立ち、気忙しく隣へ移動する準備をはじめた。

「でも話が弾んだからって、もう二度とストーカー行為をされるは嫌。私、この会場に理想の人がいるの」

「気がついていたとは驚きだったけど、それも、おそらく今夜で終わる。約束するよ、明日の朝には君の前から完全に姿を消すことを」

「そう、事実だったら意外と淡白なのね。もっとしつこくされるかと思っていたから、逆に気抜けしちゃった」

 麻里が肩をすくめる仕草をした。「じゃ、これで最後になるのなら、ほんとうのことを言うね。見かけを抜きにしたら、じつは案外私の好みだったのよ。純粋っていうか、まるっきりチェリーみたいだし」

「チェリーって言葉の意味がよくわからないけど、でも僕に心を許さないと、きっと後悔する」

 真顔で言うと、麻里が半分泣くように笑い、しみじみ言い返してきた。

「よかったわ、心を許す前で……」

       

 隣へ移った麻里は、僕と話をしていたときと違って少し緊張気味になっている。さっき彼女が洩らした言葉と照らし合わせれば、会話をしている男こそが意中の人。本命だからなのだろう。しかし、といって諸手を挙げて賛成するわけにはいかない。

 ストーカーと勘違いされても仕方ないけど、麻里と出会ってここ三週間、ずっと彼女だけを見続けてきた。それを僕は観察と位置づけているのだが、その観察を分析する限り、今も他人に対しての思いやりと快活な受け答えは変わらなさそうに見える。だけど、どこを探しても三週間前に見た純粋さを見つけることができそうになかった。

 毛先だけを滑らかにカールさせた亜麻色の長い髪、でもそれだって以前は無雑作に思えるぐらいナチュラルにしていた。着ている服もシックな黒で統一しているものの、胸の谷間が覗けるほどのオフショルダーだし、スカートも下着が見えそうなぐらい大きなスリットが入っている。これではプロの接客嬢と変わらない。

 いくら五年間交際していた恋人が、彼女を捨てて資産家の令嬢に走ったといってもいきすぎだ。心を見栄で着飾れば嘘ざむい出会いしか訪れない。まして元々の自分を殺してしまっているのだから。

       

  

 僕がそんな麻里と出会ったのは、夕日が、まるで別れを惜しむかに寂しく沈んでいくときだった。例えるなら蝋燭が消えてしまう寸前、とっても力強い炎なんだけど……どうしようもなく切ない揺らぎを映し出しているようなとき。ただ、そういうときに限って必ず互いの世界観を変えるぐらいの大切な人と出会う。とうぜん麻里もそのような女性の一人だった。

 新宿東口から奥へ奥へ進んでいくと、歌舞伎町の外れに小さな公園がある。その日、僕はまだ太陽が高いうちからそこのベンチに腰かけていた。虫の知らせというわけでもないのだけれど、なぜかその場を動くことができなかったのを覚えている。

 年にして数回訪れる不思議な夕暮れ。たぶん今日が、その日になると直感させられたからだろう。言ってみれば一種のテレパシーみたいなもの。正直、出会いたくないというのが嘘偽りのない本音だった。だって出会いのすべてが薔薇色に染まるわけじゃないし、たいがい後味の悪い結果を生み出してしまうことが多いのだから。

 それでも出会いは訪れる。僕はやりきれなくなって、舗道へ向けていた目を逸らして足もとに落とした。すると十数匹の蟻が一匹の蝉に群がっていた。蝉はもう観念しているのか、わずかに翅をばたばたさせてもそれ以上もがくことをしようとしない。

 僕は蝉を逃がそうともせず、じっとその光景を見ていた。残酷だけど自然の摂理。蝉は訪れる死を悟っているみたいだし、蟻たちは迫る冬支度のため食物を貯蔵しようとしているだけなのだ。

 公園を清掃するおじさんたちに見つけられ、生ごみと一緒に袋に入れられて、捨てられるよりは蝉だってずっといいと思うはずだ。自分の死が蟻たちの生きる糧となるのだから、満足して死ねる。

 ただ気がかりなことが一つある。この蟻に引きずられている蝉は、無事恋人と出会って生命を全うしたのだろうか。それとも、必死に鳴いても恋人と出会うこともなく、絶望を感じたまま死を迎えているのではないだろうか、と考えさせられてしまったからだ。

 けどそれは蝉だけじゃなくて人間も同じ。なぜなら人の生きる目的は出会い、伴侶というかけがえのない人との触れ合い。それら原点を忘れ、蔓延する欲の中に自ら埋没してしまい、軽視して、終いには足蹴にしたりされたりする。そうなると朝がきても心は永遠に夜のまま。

 そんなことばかり考える僕でも、今日だけはどうしても舗道へ目を向けたくない思いが強い。せめて初秋の夕暮れぐらいは愁いに沈んでいたいのだ。自惚れるつもりはないけど、これでもけっこうロマンチストだと自負している。

 しかし運命というのは自分の意思に関わりなくやってくる。それを因果と決め付けてしまえば簡単すぎるけど、単なる偶然とは絶対に思えない。なぜってこれは、僕を呼ぶために彼女自身が引き起こしたコントロールドラマでもあったのだから。

       

 夕暮れに浸る僕の心を、強引に抉じ開けたのは軽やかに響くローヒールの靴音だった。絶対に聞くまいと思っていたけれど、耳を塞げば塞ぐほど頭の中に入り込んでくる。その音が僕の胸へ無神経に到達したとき、いきなり身体にスイッチが入った。本能という名のスイッチだと思う。

 僕は無意識に麻里の後をつけていた。

 以前彼女は、汚れた都会の雑踏に似つかわしくない女だった。化粧もごくごくあっさりしていて仰々しい街の景観に不釣り合いだった。腕に回したバッグがエルメスというだけで、清楚というよりどちらかといえば地味な印象が強かったのだ。実際図書館で本を読んでいるほうが、慎ましやかな彼女には似合っていた。ただ腰のくびれが多少とも肉感的で、意識、無意識に関わらず、男なら誰しもが衣服の下に眠る肉体を想像してしまうのは仕方ないだろう。

 そんな麻里の向かう先に一人の男が立っている。彼女は気づいたのか足を速めた。どこか主人を見つけた犬のようでいじらしく見えなくもない。だがこの先の展開が、あからさまに嫌がる男の目を見て推測できたので、僕は憂鬱な気分にさせられた。

  

「あなたに渡し忘れたものがあるの、ここにいてくれてよかった」

 麻里がはにかみながら言った。が男の言葉は、僕の予想通り素っ気ない。

「どうして戻ってきたんだ。大事な用事があるって言ったのに、少しは俺のことも考えてほしいな」

 男は口を尖らせて不満を吐き出した。「せめてメールにしてくれれば、我慢できたのに」

「えっ、どういうこと?」

 男が黙り込むと、やにわに甲高い声がした。

「義樹さん、私に答えさせてくれないかしら」

 二人と一定の距離を保ち、じっと様子を窺っていた女性が中へ割って入った。お世辞にも美人といえない高慢ちきな女性。ネックレスといい指輪といい、装飾品のすべてがゴージャスすぎて欺瞞に満ちている気がする。僕には彼女自体が実体のないブランド品としか思えなかった。

「あなたが麻里さんね」

 その欺瞞が見下すように言った。「義樹さんは有能な人。その有能な人が、素性の卑しい女と付き合うのは見ていられないの。然るべき人間と付き合わないと、人生を無駄に生きることにつながるでしょ。それで、ご理解頂けたかしら。あなたのことは経験として見逃します。今日限り――消えてくださる」

「ひどい……」

 麻里が男の手を掴んだ。「ねえ、嘘だと言って」

 男は刺々しく麻里の手を振りほどいた。

「ほんとうのことを嘘とは言えない。終わりだ、遊びは終わったんだよ。もう二度と顔を見せないでほしい」

 次の日から一週間、麻里は自宅から一歩も外へ出ることはなかった。やっと出てきたとき、純粋な目は憎悪に満ちていた。自身の内へ内へと向かって。

  

       

「私とは、話が合わないようね」

 目の前で冷淡な声がした。

 ふっと我に返ると、あの欺瞞な女に輪をかけた、けばけばしい女性が立っていた。同じように気どって見えても質感が違う。仮に二人を血を吸う生きものと仮定するなら、新宿の女は蚊で、この女性は蛭だ。しかも妖艶な蛭、いや血吸い蝙蝠に例えたほうがより近いかもしれない。

「そうだね、合わないよ。だって君は、僕とは真逆の考え方をしているから」

 彼女を纏う空気の冷たさから、僕は彼女がどういう種類の人間であるか、瞬時に、また敏感に嗅ぎとることができた。「で、誰が……目当てなの」

「それを答えてほしいわけ」

「一応、参考までに」

「別に隠すつもりもないから、言わせてもらうけど――」

 女性がもったいぶって語尾を濁らせた。ということは麻里に関連性があるということだ。

「あなたが追いかけている女性を、眈々と狙っている男」

「それは賢明だね」

 ほっとした。間接的にせよ喜ばしいことだ。「大いにやってくれ、そのぶん苦悩が消える」

「あなたを喜ばせるために、あの男へ標的を定めたわけではないわ」

 女性が白い指で、顔にかかる髪をたくし上げた。ラメのかかった赤い爪がいっそうの妖艶さを醸しだしている。「要は、私は私の、あなたはあなたの目的を達成すればいいこと。邪魔するつもりもないし、残念だけど協力するつもりもないの」

「なるほど、それは残念だ。だけど僕は君の成功を願っている」

 皮肉たっぷりに言った。すると倍返しの皮肉が返ってきた。

「それを、優柔不断の灰色くんに言われるとは光栄ね」

「僕は白か黒か決め付けずに、本人の意思に委ねるのが好きなんだ。そのてん君は一途だから、決めたらいっさい配慮しようとしない」

「何とでも言えばいいわ。その甘さが人をかえって不幸に導くこともあるのよ。麻里さんっていったかしら、少し弾けすぎね。ちらほら業界のブラックリストに名前が見え隠れしているわ。優柔不断くんがまごまごしていたら、私の知り合いの男に、お持ち帰りされる危険性だって大なのよ」

 女性が吐き捨てる。と同時にフリータイムの始まりを知らせるアナウンスが流れた。ここのシステムでは、フリータイムで意気投合したらそのまま消えてもいいことになっている。なら即行動が彼女のモットーだ。有無を言わせず彼を連れ出すのだろう。願ったり叶ったりだけど、まったく危険性がないわけではない。もちろん麻里の行動しだいなのだが、三人で動いたりすればより危険性が増してしまう。

       

 会場内では着飾った男女たちが、目星をつけた異性の元へいっせいに走っていく。もちろん僕の所には誰一人やって来ない。理由は明白だ。通勤スーツを着ているし、年収欄の所に三百万と記入したからだ。こういう場所へやってくる人は人間を見るよりデータを見る。ついで未来も見ないから、後々起こる現実とのギャップも想像できない。

 でもなぜか妖艶女性は動かず、僕のそばから離れようとしない。

「ねえ、教えてあげるわ」

 妖艶女性が話かけてきた。目を覗き込んでくる。僕は相手にするつもりもないので、麻里を見ながらぶっきらぼうに返事をした。

「何を」

「私が、標的にしている男のこと」

「別に聞きたくない」

 僕は妖艶女性の顔を見ずに、麻里へ視線を預けたまま言った。未だ麻里は、数人の女性とともに妖艶女性が標的と定めた男の回りにいる。

  

 それにしても人生とは思い通りにいかないものだ。僕は改めて感じた。この会場に男女それぞれ二十人ずついるのだから、二十組のカップルが誕生すれば何の問題も起こらないはずなのにと。しかし現実は四組の塊しか形成されていない。

「なら勝手に喋らせてもらうわ」

 ふいに妖艶女性が僕の思考を引き戻す。「あの男は医者よ。家柄もよくて、資産も十数億あるの」

「だけど全部抵当に入っている。預金も数千万あるけど、借金がその倍以上あるって言いたいんだろ」

「正解って、褒めてあげたいけど……それじゃ満点とは言えないわ。彼がここへやってきた、ほんとうの理由が明かされていないもの」

「その理由も知っている。だからって僕は何もできない」

「してもらったら困るわ」

 言葉に特別な意味を込める感じで、ぴしゃりと言ってきた。「越権行為になるんじゃないの」

 それを言われたら身も蓋もないけど、もどかしいことには変わりがない。僕は決まり悪い笑みを返すことしかできなかった。

 そんな僕に、妖艶女性は口を右半分だけ歪ませて付け足してきた。

「どうなさるのかしら。ここのシステムは、意気投合したカップルは出て行ってもいいらしいけど、べつに一人で帰ってもいいみたいよ。まるまる見込みのない人がいつまで残っていても――惨めになるって、そう主催者側が判断したようね」

 返す言葉がない。暗に消えろといっているのだが、それだけじゃなかった。彼女の言葉には強い意志も、深い言い分も込められていた。

「あなたとは、もうこれっきりにしたいわね……灰色くん」

 ダメ押しとも捨てゼリフともとれる言葉を最後に、妖艶女性が去っていく。ざくっと肌を露出した白い背中が、なぜか僕には非情で獰猛な狼のように思えた。

       

 一人になった。途端に切ない感情が溢れてくる。馬になって行き場を失ったことが思い出されてやるせなくなった。自分だけが疎外されて、一人、宙を漂っている気がする。

 優柔不断の灰色くん……その言葉が、いっそう胸を締め付けてくる。まるで荒々しい猛獣の爪で胸を抉り取られた気持ちにもなる。なら麻里を略奪して、この会場から二人で去ってしまおうか。しかし、ばかげた考えだ。そんなこと無理に決まっている。即座に否定した。帰ろう……一人で。

 ちらちらと麻里に目線を流しながら、出口へ向かった。八人ぐらいいたはずの女性たちが麻里と妖艶女性の二人だけになっている。きっと妖艶女性の圧力に、ほかの女性たちはすごすごと退散してしまったに違いない。それだけの凄みが彼女にはある。

 でも僕には、もう眺めることも許されない。

 ――えっ、帰ってしまうの……といった感じで、麻里が僕の姿を呆然と見つめ返しているが、終わったのだ。直進、右左折、Uターン、いろいろある選択肢の中で、もう僕があれこれ言えることなんて何もない。金がすべてじゃないと伝えたのだから、後は自分の人生、決断は自己にしか委ねられない。

 それに自分で自分の姿を見ることはできないけれど、心を覗くことはできる。そうすれば、かなり暗い迷路に迷い込んだと気づくはずだ。出口は遠いにしても、入口はそんなに遠くない。長い人生、前へ進むことは大切だけど、たまには後ろに戻る必要もある。

       

「一人でお帰りですか」

 そんな憔悴した気持ちに追い打ちをかけるよう、粘っこい視線が首すじに刺すのを感じた。振り向くと、出口の所で黒服を着た男がほくそ笑んでいた。

 対決といったら大げさだが、やはり以前、女性の取り合いで揉めたことのある相手だった。今夜は麻里を狙っているのかと、首根っこを掴んで問い質したい気持ちが山々だったけど、やめた。

「その言い様だと、僕が一人で帰るのを喜んでいるとしか思えない」

「めっそうもない。例えるなら私は、たかが宮仕えの役人でしかありません。これでもあなたの下した考えを尊重しているつもりです」

「今まで僕は、自分の考えを人に押しつけたことはない。すべて本人に委ねている。それなのに君らは耳もとで甘い言葉を囁き、僕を無視して、いつも女性たちを負の道へ誘引させていく」

「それは私ではないでしょう。彼女と私を混同されても困ります」

 黒服男は、むっとした顔で妖艶女性を指さした。「彼女は堕ちた人間の波長を嗅ぎつけ、負の道へ陶酔させていく輩。いわば汚れた存在の手先でしかありません」

 これまで一片の情けもかけず、確実に女性を連れ出してきたわりには明快な口調だ。表情もどこか人を小ばかにしている感じに見えたけど、妖艶女性とはまた違う印象を受けなくもない。とすれば、彼も彼なりに使命を実践しているにすぎないのだろう、認識を持って。それをとやかくいうことを僕にはできそうもない。

  

 階段に足をかけた。降りようとして一言だけ聞いた。

「君が来たからには、間違いなく連れ出すんだね」

「ええ、もちろんですとも。それが仕事ですから」

「そうか……」

 また一人、女性が生贄にされる。ふっと出かかった反論を喉の奥に呑み込み、僕は階段を降りる足を速めた。

 たえず人の前には道が二つある。あたり前のことだが、どちらを選ぶかは本人だけにしか権限が与えられていない。医者を選ぶのも麻里の自由だし、黒服男に慰められるのも自由。それは麻里に限らず、延々とくり返されてきた人間の性でもあるのだ。僕は、また一つ厳しい現実を目の当たりにした。そう考えれば、それだけのことでしかない。

  

       

 外は空気が冴えていた。なのに人工的な光のせいで星が見えなかった。やるせなく駅の方向に足を向けた。なぜか僕の周りだけ冴えた空気が湿っぽく感じられる。女々しいのかもしれないけど、まだ望みを完全に消していないからだろう。

 体験とトラウマは違う。単に彼女が苦痛を上手く処理できなかった、そう理解してくれると思っている。だって湿りこそ……気づきなのだから。

  

 表通りへ行かず、ガード沿いの細い道を駅に向かって歩いていたら、背後から小刻みにアスファルトを鳴らす靴音が聞こえた。列車の騒音にかき消されながらも迫ってくる。

 まさか?

 違う、そんなことがあるわけがない。いま考えていたのは願望だ。そう打ち消し、一方で期待に胸を膨らませた。そして足をとめた。

 すると靴音も間近でとまった。

「追いかけてきちゃった……」

 振り向くと、そこに鼻をぐすぐすさせる麻里がいた。

「どうして。あれほど固執していたのに、お医者さんはあきらめたの。それに黒服の男もやって来たはずだけど」

 僕は、望みが叶って感動する場面なのに、自分でも訳の分からないことを言って水を差した。

「黒服の人? 運営の人かしら。だったら、お医者さんと話し込んでいた」

 麻里が指で涙を拭った。「それと、そのお医者さん……うんざりしちゃった。だって、お金の話しかしないんですもの」

「君も、そのお金に魅入られたうちの一人だったけど」

「そうね。でもあそこまであからさまだと嫌気がさしてくる。快楽のためにしか使い道を考えていなかったから」

「君は違うの」

「大して変わらない。でも、大きく変わったと思いたい。彼を見ていて気がついたの。私がほんとうに欲しいのは、そんなものじゃないって」

「何だったの、君の欲しいものは」

「お金で買えないもの」

 麻里は少しはにかむように言う。

「そうか、学んだんだね」

「かもしれない。だから外へ出たとたん、懐かしい空気を感じたの。湿った空気……温もりを」

 麻里の瞳に、初めて見たときの純真さが生々しく戻っていた。「今まで気がつかなかったけど、恋人に捨てられてから、ずっとそれに包まれていたような気がするの。だからあなたはストーカーなんかじゃない。私を見守っていてくれていたんだわ。そう感じたら、あなたを傷つけていたことに気づいたの」

「大丈夫、慣れている。だいいち、そんなことぐらいでもう傷つかない。傷つくのは、見守っていた人が黒服男に連れ去られるときだけ」

「運営の人に? どこへ、あなたは誰なの?」

「名前なんてないよ。だって僕は、運ぶだけが仕事なんだから」

「運ぶって、何を運んでいるの」

「そうだね、強いていうなら……命かな」

 ついに僕は言った。タブーというわけではないのだが、ここ最近、自分の素性を明かすまでに至らなかったから、仄めかしたかったのかもしれない。

  

「ドライブをしないか」

 こうなれば現実を見せるしかない。

「車を持ってないでしょ」

「あるよ、僕が車なんだ」

「最初の話かな、馬になるっていう」

 麻里は苦笑気味に頷いた。「いいけど、行き先が分からないんじゃなかった。途方に暮れてしまうんでしょ」

「彼らと一緒にいたからね。僕は彼らと違うんだって理解した」

「彼ら?」

「黒服を着た僕の好敵手、白馬さ。死神とも言うけど」

 僕は麻里に背を向けて屈んだ。「じゃ、背中に乗って。出口まで一直線に飛ばすよ」

「迷路から、元の場所へ運んでくれるのね」

 ぼくは麻里を乗せて、入りくねった迷路を全力で疾走する。前方に見える光に向かって。

 

 

            了


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[一言] 鮎川りょう様 こちらのコメント欄にはお久しぶりです。やっとこさ遊びに来れた(笑) 相変わらずりょうさんの書くお話は深い、と思いました。一回読んだだけでは読み込めないのですが、つたないなが…
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