狂人哄笑
詳しく話しても自己紹介おっすおっすにしかならない話だが、この世界にまともな人間は余程いない。自分の意思で生きていこうと思えば、いつかは狂うしかないのだ。狂わないためには、見ず聞かず考えず物事に流されているしかない。
だが、狂っていないからといって狂った行いをしないわけではない。狂っていないからといってまともとは言い切れない。民衆が常に正気などと、信じる者はおるまい。常に狂っているということはなくとも、民衆は簡単に熱狂する。熱狂しているものに冷静な、正常な判断は望めない。結局誰もかれも、狂ったようなことをしない保証はないのだ。
私は狂っている。それはどうしようもない事だ。私は気が付いてしまった。気が付かざるをえなかった。だから狂うしかなかったのだ。とはいえ、早くに狂った分、狂ったなりの世との折り合いの付け方はわかっているつもりだ。わかっていないかもしれないが。
その人が狂うかどうかはその人の資質によるものだ。経験の問題ではない。同じ経験をしても同じように感じて同じように変化するわけではないのだから当然だろう。
同じもので不定の狂気に陥っても恐怖症とフェティッシュを引くのでは逆の結果になるだろう。そういう話だ。
例えばいじめにあったとして、それで他者を虐げることをしないでいようと思う人間と、次は己が力を持って優位に立たなければと思う人間がいる。そういう話だ。
同じ光景を見ても美しいと思う人間と醜悪だと思う人間がいる。そういう話だ。
それらの全ては、本質的にはどれが正しいわけでも、間違っているわけでもない。その人間にとってはそう思うのが自然だったというだけだ。そして、それが社会的に見て正しかったり間違っていたり害があったりなかったりするだけだ。大多数と同じであれば良いわけではない。世に知られている大多数が、本当に真実大多数である保証などないのだから。
大多数の信仰を得ているからといって、それが己に害なく利ある思想とは限らない。一部の利のために広められた思想かもしれないし、己は搾取される対象かもしれない。思考停止の先にあるのは搾取される羊の立場だろう。
しかし、己で考えようと思えば、全てに対して己で考えていれば、狂わざるを得ない。己が正しいと盲信するのは、狂気だ。視野狭窄は狂気の種だ。世界には色々な意見がある。その気になれば己の意見を肯定する意見だけ集めることだって不可能ではない。諺だって正反対の意見が澄ました顔して並んでいる。都合のいい言葉を都合のいい時に引用する事は悪い事じゃない。
現実は、現実になってしまえば0か1か、あるかないかだが、そうなるまでは幾らでも好き勝手言えるものだ。正しかろうが誤っていようが、それはそれ、という奴なのだ。真実は矛盾するが現実は矛盾しない。事実は意味を内包しない。あるかないか、それだけだ。それに意味を付加しようとするから矛盾や狂気が生じるのだ。
獣は狂わない。己の持つ理に従い、そこに意味を見出さないものに狂気は生じようがない。常に理に対して正しいのだから狂いようがない。理が狂えば傍から見れば狂ったように見えるだろうが。
人はダメだ。理に情を絡めるから狂気を孕む。
狂った理を選ぶ人間は狂人だ。それが悪いとは言わない。社会的に見て害があれば悪として扱われるだろうが、悪だから悪いわけではない。己で選択したことであるならば、相応の評価を与えるべきだ。そして、己で選択した事には相応の責任を取るべきだ。その責任を放棄するわけでなければ、選択したことそのものは良しとするべきだろう。覚悟を背負ってのことならばその覚悟そのものは是とするべきだ。但し、覚悟をせずに選んだのであればそれは愚か極まりないという事になる。
それがどんな選択でも、選択しないということでも、選択を誰かに委ねるということでも、それが己で選んだことであるのならば文句を言うのは無責任なことだ。他者に決定を委ねておいて文句を言うのは卑怯な事だ。けれど、世の人の何割かはそんな事は欠片も思わないらしい。当然、そんな人間は"正しく"などないのだ。