その8 オリジナリティについて ③
『ストーリー』においての『オリジナリティ』はどうだろう。
例えば同じ異世界召喚でも、ファンタジー世界のお姫様に召喚されるのではなくて、UFOに乗った火星人に召喚(というかワープ?)されるのであれば、それはそれで『オリジナリティ』がありそうなものである。
だがこんな、今私が数秒頭を捻っただけで出てくる時点で『オリジナリティ』ある作品ではあるまい。他の作家さんも、『発想』としてはこれくらいすぐに思いつくということだ。
『オリジナリティ』ある作品の評価として『発想の転換』が挙げられる。
特に童話や絵本の世界は『発想の転換』の宝庫だ。
例えば、“鏡の国のアリス”。
「鏡に映った光景はもうひとつの世界」というちょっとした『発想の転換』が、あの人気童話を生み出したわけだ。
今まで作者自身が実際に見たり聞いたりしてきたもの。
その中で、「もし○○が××だったら、どんなことが起きるんだろう?」といった思惟が、新しい物語を生み出す第一歩となったわけだ。
決まった型にはまらないこと、他の人とは異なる着眼点を持つことが重要なのだろう。
……言ってできれば誰も苦労しないが。
ほとんど閃きの領域だと思われる『発想の転換』はひとまず置いておいて、『ストーリー』の構成というものを、改めて考え直してみよう。
「人の数だけ物語がある」という格言もあるが、「同じような世界」で「同じようなキャラ」が「同じような道を進む」ようでは、そこに個性など求めるべくもない。
ストーリーにおいて手っ取り早く『オリジナリティ』を出したい場合、注目したいのは『スタート』と『ゴール』、そして『世界観』だ。
「召喚されました」→「魔王を倒しました」というように、『スタート』と『ゴール』が最初から明確に提示されていると、その道中がどんな展開であれ物語の筋が決まってしまっているので、あまり応用を入れることができない。
これは「誰が」「何を」「どのようにして」「どうすれば」物事を解決できるのか。『スタート』と
『ゴール』を固定化したことにより、これらもほぼ固定されてしまっているからだ。ここでは「主人公が」「魔王を」「強くなって」「力で倒す(殺す)」となる。
仮に途中で、“鏡の国のアリス”のように鏡の向こう側に迷い込むような事態になったとて、最終的には「魔王討伐というゴールへの寄り道」として処理されることになってしまう。例えキャラや能力が独創的であろうとも、やることが一緒では『二番煎じ』の謗りを避けることは難しいわけだ。
ここで『スタート』と『ゴール』のどちらか片方を変更してみよう。
A.「召喚されませんでした」→「魔王を倒してください」
B.「召喚されました」→「病気になった魔王を助けてください」
まずAのストーリー。
この場合、異世界の魔王を倒すようお願いされたはいいが、そもそも「どうやって異世界に行くか」からスタートすることになる。
現代地球のどこかに異世界行きの道があるのか、地球上の誰かの助けを借りて異世界に送ってもらうのか、など――最終的に異世界に行って魔王を倒すと言う展開は変わらないかもしれないが、そこに行き着くまでの過程が予測できない流れとなる。
Bの場合、魔王を「倒す」のではなく「助ける」という、戦いで解決できるとは限らない展開となるため、そもそもの主人公の動きが大幅に変更される。
病気を治すために薬草を探せばいいのか、現代日本の医学を引っ張り込んでくればいいのか、まず魔王を診断しないことには分からない、とこれまた過程が読めない流れにできる。
2つの例の共通点として、先ほどの「どのようにして」という部分を不確かなものにできるという点がある。
「どのようにして」とは、即ち『手段』。
目的を達成するためにはどのような『行動』をすればいいのか、という問いであり、その2で挙げたように、ストーリーとは主人公の『行動』によって構築されていく。
つまり、『スタート』と『ゴール』、このいずれか(または両方)を少しいじるだけで、先が読めない物語を割と簡単に作り出すことができるわけだ。
それが物語として面白くなるかどうかはまた別の問題となるが――手っ取り早くストーリーラインに変化を付けたい場合には有効だろう。
『世界観』とは、そのままズバリ「どのような世界なのか」だ。
『異世界転移』の代名詞たる「剣と魔法の西洋ファンタジー」。舞台となる世界そのものが手垢が付くほどに使い回されているので、この時点で『オリジナリティ』を出すのは困難となる。
実のところ、この『世界観』を煮詰めるだけで『テンプレ』と呼べる要素はほぼすべてふっ飛ばせる。
これこそ最近のテレビゲームを参考にすべきだろう。
ご長寿RPGである『○ァイナルファンタジー』とて、数を重ねるに応じて中世ファンタジーから近未来的な要素(機械や科学技術など)を柔軟に取り入れてきた。『7』あたりからの世界観の変遷は凄まじい。
倒すべき敵も作品ごとにまったく異なり、少なくとも『魔王』のような「分かりやすい悪役」など、最近ではめっきり見かけなくなってきたくらいだ。
また、『なろう』作品ではないヒット小説は、そのほとんどが『テンプレ』とはかけ離れた「独自の世界」を構築している。
これは実際に書店に足を運んでもらった方が早かろう。長く人気のある作品の中で「剣と魔法の西洋ファンタジー」を舞台とした作品は結構少ないのだ。
そもそも、一昔前のRPGみたいな「剣と魔法の西洋ファンタジー」が好まれている理由として、「主人公が善」で「敵が悪」という至極単純なルールを適用させやすいという点がある。
これは、我々が暮らす現代日本を例にして考えてもらうといい。
やれ不況だのやれ国交の悪化など、悪いことはいくらでも起きているわけだが、それに対する「解決方法が明確ではない」。
魔王みたいに、こいつを倒せば万事解決といった「悪の象徴」が存在しないため、主人公の行動に正当性を――つまり『正義』を証明することがこの上なく難しいのだ。
主人公の行動が間違っている、この指摘をされることを極端に嫌う傾向が「剣と魔法の西洋ファンタジー=テンプレ」の枠組みを作り出したように見えてならない。
更に言うと、最近のRPGは「正義と悪の戦い」よりも「互いの正義のぶつけ合い」であることが多い。
王道の例としては、「全を取るか、個を取るか」。
ヒロインの命を犠牲にしないと世界が崩壊する、なんて展開はまさにこの典型で、ラスボスは世界を救うためにヒロインを殺そうとするが、主人公はヒロインを助けたいからラスボスを止めようとする。
さあ、果たしてどちらが真に「正しい」のだろうか?
絶対的に正しい答えなど無いのだから、人はそれぞれが信じた『正義』を押し通し、他人の『正義』を否定することで戦いに繋がるという、これはこれで『王道』の流れだ。
広い意味で捉えれば、ありとあらゆる戦いはそういうものである。
「私は悪いことやってます」と認めながら襲い掛かってくる人間などまずいないわけで、明らかな悪役であろうとも、その人なりの曲げられない理由があって敵対してくるのが当然だ。
山賊や盗賊が、何の理由もなしに商人を襲うわけではないのと同じだ。
もちろん「自分が生きるため」が第一目的だろうし、「仲間や家族を養うため」なんて理由を掲げられて、それでも問答無用で山賊の首をはね飛ばした主人公が「俺が正義だ」と言い切れるのか?
よって、当然ながら人間関係は複雑になるわけだし、主人公だって自分の行動が本当に正しいのかどうか、大いに悩むべきだろう。
物語を読み切りものやコメディとして通すのなら別にいいのだ。
最初から最後まで気軽に笑いながら読んでもらうことを想定しているのであれば、『テンプレ』異世界はむしろ正解だろう。
あるいは人間どうしの交流が無い物語(主人公が魔物だったり、無人島で孤独生活だったり)の場合でも問題はない。生存本能が優先される環境下で、善悪を問うても仕方がないからだ。
だが、人間の動きや世界の有り方に現実味を求めるつもりで書く小説において、この「善悪の判断に悩む必要がない世界」はあまりに致命的と言ってもいい。
――そんな世界は、あり得ないのだから。
このような『世界観』の変遷が『テンプレ』から避けられるもうひとつの理由として、好き勝手に主人公を動かすことができない点が挙げられる。
その4で挙げたような、簡単に竜殺しができて気ままに世界を巡っている旅の剣士など、世界がその存在を許さないのだ。
このキャラを現代日本に放り込むイメージをしてもらえばいいだろう。
法治国家日本を舐めてはいけない。税金払え、希少動物を殺すな、銃刀法違反、とあっという間に英雄を犯罪者にできてしまうわけだ。
……これはこれで面白そうだが。
なお、この考察を発展させると「町から町へと旅をして、ギルドの依頼で魔物を狩って生計を立てる」という凄腕の剣士が、世界観を変えると「住所不定無職のフリーターが、日雇いのバイトでその日暮らし」と化したりするから面白い。
この現象を逆に利用した、勇者や魔王を現代日本に転移させた物語を描く“はたらく魔王さま!(著 和ヶ原聡司)”という名作も存在するくらいだ。
これもまた、“鏡の国のアリス”のように、「もし勇者や魔王が現代日本に転移させられたらどうなるだろう?」という『発想の転換』からできた作品となる。
余談だが、「世界征服」の第一歩を、現代日本において「アルバイトから正社員になること」に転換する主人公の考え方には脱帽した。存外、理に適った考え方だったので、気になる方は一読してみることをオススメする。
と、このように『世界観』をいじろうとすると、主人公の正当性は否定されるわ、おちおち気ままな旅もできないわと、『テンプレ』小説で嫌われている『ヘイト』が盛りだくさんになるわけだ。
だから『テンプレ』における『世界観』は、ほとんどが「剣と魔法の西洋ファンタジー」の一点張りとなってしまう。
そして、主人公の行動を一言で言い表すなら「力こそ正義」。直接言葉にしていなかろうが、この真理が物語全体に適用されてしまっている。
行動目的も世界観も変わらないと言うのに、ここから『オリジナリティ』を見出すなどなかなかできたものではない。
「剣と魔法の西洋ファンタジー」を放棄しない限り『オリジナリティ』はないと言うわけではなく、『痛み』を感じない世界観から『オリジナリティ』など生まれない、という方が正しいだろうか。
始まりと終わりが常に一定で、かつ道理も理念もなく主人公の『正義』が証明されているような世界から、新しいものが生まれるとは思えないのだ。
と、3回に分けて『オリジナリティ』について長ったらしく考察してきたわけだが、総括として、ここで身も蓋もない発言をしてみよう。
――そもそも、『オリジナリティ』は必要なのか?
……割と根本から否定してしまったが、ブラウザバックはもう少し待ってほしい。この意見を出すためには、まず『オリジナリティ』の意義について考える必要があったのだ。
『オリジナリティ』の対極とは、つまりすべての要素で既存のものを流用するということで、言葉通りの『テンプレ(型が決まったもの)』である。
まぁ要するに、『オリジナリティ』を排除することによって生まれた『テンプレ』に『オリジナリティ』を求めること自体がおかしいんじゃないの? ともとれてしまうのだ。
なお、『テンプレ』の対極はすべての要素に『オリジナリティ』を100%注入したものとなるわけだが、その結果できあがるのは名作…………ではなく、『理解不能』である。
『オリジナリティ』とは未知の概念だ。
何から何まで未知のもので埋め尽くされた世界は、「私の心の中を表現してみた」と言いながら滅茶苦茶に書きなぐった絵画を見せられるようなものだ。
何も感じられないし、何を読み取ることもできない。それでは創作としては満場一致で『失敗作』と断じられることだろう。
『テンプレ』とは、「小説の読みやすさ」を追求した結果と言える。
お手本通り、教科書通り、先生が先に書いた内容をそのままなぞるからこその『テンプレ』だ。
逆に、『オリジナリティ』とは小説の読みづらさ――言い換えれば「読みごたえ」を追求した結果と言える。
小説を読む時の読者の心理というのは極めて奥深いもので、読みづらいもの――少し見るだけではすぐに理解できない、よくよく考えないと正解に辿り着けない、つまり読者に『考える』という頭への負担を与える行為が満足感に繋がる場合があるのだそうだ。
それは、「知らないものを知る」という満足感――つまり『知的好奇心』を満たす行為に相当する。
これこそが、人が「本を読みたい」という気持ちの根っこにあるものだとは思わないだろうか。
これがきっと、『オリジナリティ』の到達点。「知らないものを知る」という読みごたえの中に、「読む面白さ」というものを見出すことだ。
だが、考える負担ばかりが大きくては、読もうとする力が足りなくなってページをめくれなくなってしまう。
だからと言って考える負担を少なくしようとすると、「知らないものを知る」面白さがなくなってしまい、ありきたりとなってしまう。
この『テンプレ』と『オリジナリティ』のバランスこそが作品の面白さを左右するものであり、人それぞれの「好きな小説」に直結するのではないかと、私は考える。
本考察とは関係ありませんが、昨日(12/11)に、日本テレビ系列の『another sky』で大手出版社、幻冬舎の代表である見城徹氏が取り上げられていました。
氏の言葉で最も印象深かったのが、
「それを書かなければ一歩も進めない、というのが『書く』という行為だ」
感じ方は人それぞれでしょうが、物を書くという姿勢について、今一度考えさせられる言葉でした。




