その4 主人公のヒーロー像について
短編から読んでくださっていた方はここからどうぞ。
『昼行灯』という言葉をご存知だろうか?
明るい昼間に灯っている外灯のように、まったく役に立たない、ぼんやりしている人のことを指す慣用句だ。
ただし、「普段は怠け者で役に立たないけど、本気を出すとものすごく強い」という、その人物の二面性を表現する言葉でもある。
『忠臣蔵』の大石内蔵助が、この昼行灯の代表格と言えるだろう。時代劇では割と定番の手法である。
時代劇ではない気もするが、『○ろうに剣心』だって立派な昼行灯である。
この手法は、これまでのライトノベル界でも数多く使われてきた。
普段は周りの女の子に頭が上がらない少年が、いざ戦いとなると無類の強さで大立ち回り――そんなギャップを持ったヒーロー像が多く受け入れられてきたのだ。
だが、意外なことに『なろう』小説では、こういった主人公を見ることはほとんどない。
というより。この昼行灯、『チート』とは非常に相性が悪いのだ。
そもそも、主人公が昼行灯を演じるには、それ相応の理由が存在する。
「限定的な時間しか力を発揮できない」「みだりに力を振るうことを良しとしない」「自分の力を隠さなければならない理由がある」などなど。
昼行灯を演じる条件として、力を使うことに対し「マイナスイメージを持っている」「力を使うことに何かしらのリスクが存在する」といった縛りを持っているからだ。
それにより、基本的に主人公は経験豊富な強者であり、かつ精神的に成熟している必要がある。そうでないと「力を隠す」という判断にまで至れないからだ。
昨今の『チート』には、ほとんどリスクが存在しない。
『テンプレ』小説の主人公には、そもそも力を隠す理由を見出すことができない。『チート』をもらっておいて「使いたくない」と思わせるに足る動機付けが不可能に近いのだ。
例外として、異世界転移して『魔王』の称号が付いていて、バレるとまずいといった事情の作品もあるが……力を隠す理由が状況による受け身の判断のため、昼行灯には程遠い。
「使いたくない」と「使えない」はまったくの別物なのだ。
さて、ここからが本題だ。
現在の『なろう』小説で描かれているヒーロー像というのは、往々にして『絶対強者』が多い。
敗北を知らず、挫折を知らず、困難を跳ね除け、ただ己自身のために邁進する――こうやって書くとちょっとカッコいい生き様かもしれない。
だが言い方を変えると、何の障害もないぬるま湯みたいな世界で好き勝手やりたい放題やってるだけ、ともとれる。
この『絶対強者』のヒーロー像が、どうしてこうも両極端な評価に分かれてしまうのか。今回は『テンプレ』小説におけるヒーローの有り方を考えてみよう。
一言で結論を述べよう。
ヒーローをヒーローたらしめるのに必要不可欠なもの――それは、『苦難』である。
『テンプレ』小説において、「これぞヒーロー!」といった主人公がなかなか現れない理由がこれ、『苦難』がないという点に尽きる。
ヒーロー……要するに『英雄』のことだが、そもそも、古来よりの英雄が『英雄』と呼ばれるに至る軌跡がどういうものなのか、ご存知だろうか。
辞書で引いてみたが、ざっくり言うと「知恵や武勇に優れ、常人にはできないこと(偉業)を成し遂げた人」なのだそうだ。
そして、そんな英雄が偉業を成し遂げるまでの道のりを描いたものが、『英雄譚』と呼ばれ、ひとつの物語として後世に伝わってきたわけだ。
……あれ? じゃあ『テンプレ』もののチート持ち主人公ってだいたいが『ヒーロー』で、その物語は『英雄譚』と呼んでいいものなんじゃないか?
チートによって知恵も力も付いているわけだし、大半のテンプレ主人公は善人だ。魔物に襲われている人がいれば助けるだろうし、誰も敵わない化け物を倒して栄光を手にする展開だって多々あるだろう。
でも、実際に『テンプレ』もので主人公が英雄として読者から評価を受けている作品は、おそらくほんのわずかしか存在していない。
理由はとんでもなく簡単。
そこに『苦難』がないからだ。
『苦難』を与えるべき『強敵』がいないからだ。
現在、『ヘイト』などと呼ばれて『なろう』小説からは疎まれている、苦難、敗北、絶望、喪失といったマイナス要素だが、そもそも、この『苦難』なくして英雄なんぞ絶対に生まれない。
これは推測などではなく、断言してもいい。
ここで、一例。
英雄と言えばコレ、『竜殺し』を題材にお話を考えてみよう。ドイツの英雄ジークフリートも辿った、由緒正しき英雄譚だ。
1. とある国で、いきなり邪悪な竜が現れて人々を襲い始めました。
2. 街は焼かれ、人は無残に食い殺され、誰もが竜に怯えて暮らす日々でした。
3. そんな中、ふらりとその国にやってきた旅の剣士が竜退治に名乗りをあげました。
4. 竜が住むという高い山に、仲間と一緒に乗り込んだ剣士。だが、その道中は険しいものでした。
5. 仲間をひとり、またひとりと失いながら、ようやく竜が待つ山頂へと辿り着き、ついに死闘が始まりました。
6. 鎧を砕かれ、手足をへし折られ、死の寸前になっても、剣士は諦めませんでした。散っていった仲間達のためにも、負けるわけにはいきませんでした。
7. 最後の力を振り絞り、剣士は竜の弱点めがけて剣を突き刺し、辛くも勝利を収めました。
8. 国に凱旋し、王からたくさんの財宝を差し出されましたが、剣士はそのすべてを受け取らず、再び旅に出るのでした。
実在する伝説やライトノベルがごちゃ混ぜになっているが、一応『英雄譚』として形になっているのではなかろうか。仲間を失った剣士の悲哀などを深く差し込めば、もっとらしい内容になったかもしれない。
さて、これを『テンプレ』風に直してみると、こうなる。
1~3は同じ。
4. 竜が住むという高い山に乗り込んだ剣士一行。特に危なげなく山を登っていく。
5. そしてついに竜と対面。だが、今の剣士達の敵ではありませんでした。
6. 戦闘終了。
7. 国に凱旋した剣士達は、王から財宝をたんまりと貰い、次の旅に出るのでした。
さて、結果だけ見れば剣士は竜を倒し、国中から英雄として称えられることになることに変わりはないだろう。
だが、作中の登場人物からは英雄として称えられようとも、読者からは英雄として見られることはない、という決定的な差異があるのだ。
この2つのストーリーの明らかな違いは、「竜を倒すまでにどれほどの困難があったのか」だ。
人は、「竜を倒した」という結果そのものに対して評価を下しているわけではない。
竜を倒すという「普通ならできるはずがないことをやり遂げた」という行動に対して評価を下しているのだ。
だったら、別に『テンプレ』のストーリーでも問題ないように見える。ワンパンで倒していようが、「普通ならできるはずがないことをやり遂げた」ことに変わりはないのだから。
だが、もう一度言うが、真にそれを判断するのは読者なのだ。
主人公が最強のチート持ちで、竜なんざ無傷で倒せて「当たり前」という事実を知ってしまっているのであれば、その時点で「普通ならできるはずがないことをやり遂げた」という事実は消えてなくなってしまう。主人公なら倒せて当たり前、できて当たり前のことをやっただけなのだから。
その偏ったパワーバランスを知る由もない国の人々が「主人公はただの人間」だと思い込んでいるからこそ、ワンパンで竜を倒そうが主人公を英雄として称賛するのである。
要するに、真に英雄と呼ばれる主人公を作りたいのなら、まず読者に「こいつ頑張ったな、感動した」「辛いことを乗り越えてよく戦い抜いた」と言われるような展開にしないといけないわけだ。
あるいは、「強すぎる英雄」という違った方向性のヒーローも存在する。
特に○パイダーマンのような、古き良きヒーローはこの方向性が強い。
こういったタイプのヒーローはとにかく負けない。
並みいる敵を薙ぎ倒し、あらゆる策謀を蹴散らし、確固たる正義を胸に進んでいる。
だが、こういったヒーローには、往々にしてままならない「心の葛藤」というものが存在する。
正義のために戦い続け、敵から狙われ続ける毎日。家族や恋人を巻き込むわけにはいかないから、あえて距離をとって孤独に生きなければならない。
一歩間違えると暴走してしまうような危険な力のため、人里離れた場所で静かに暮らすか、または堅牢な牢屋の中で生活しないと、罪もない人々を手にかけてしまうかもしれない。
この辺はもう映画の『○ベンジャーズ』でも見てもらった方が早かろうと思う。アメコミはヒーローの宝庫だ。
いくら最強であろうと、その代償というものは確かに存在する。悩み、苦しむ要素がゼロになることはないのだ。
冒頭で述べた『昼行灯』のキャラも、結構こういった設定になっていることが多い。
どんなに辛く悲しいことがあろうとも、正義のため、平和のため、人々のために戦うという宿命に生き続けるヒーローの姿は、世代を越えて広く愛されている。
さて、「強すぎる英雄」と書くと、『テンプレ』ものの主人公だって該当しそうなものである。でも、何だか違うような気がするのはなぜだろうか。
これは決して、主人公が悪いとは限らない。
いやむしろ、周りの環境が悪いのではないだろうか。
『チート』を貰った主人公、特に力を使うことを自重しないタイプのキャラの場合。
竜をワンパンで倒せるほどの異常な力を持ち、しかも誰に従うこともせず自分勝手に世界中を渡り歩いている。
……はっきり言おう。それはもう「歩く災害」だ。
主人公が実際に誰かに危害を加えるつもりがあろうがなかろうが、そんな奴は世界中の人々が満場一致で「危険人物」と認定することだろう。
例えば異世界召喚した『チート』持ちの勇者に対し、王様の指示で、逆らったら死ぬ呪いの腕輪を付けたりして自分達の制御下に置こうとするシーンがある。「勝手に召喚しておいてあんまりだろう」とか「王様身勝手すぎ、滅びればいいのに」という感想が出そうな展開だ。
だが善悪を抜きにすれば、私は王様の判断に大いに納得するし、極めて理に適った行動だと考える。
勇者召喚するということは、自分達よりも強い(または強くなる)存在を呼び込むということ。悪魔を召喚するのと大して変わらないのだ。
そんな危険な存在を、首輪も付けずに野放しにする方がどうかしている。
要するに「強い」という事実そのものが、ひとつの枷になっているのだ。
怖れられ、遠ざけられ、時には利用され、恨みを買う。
これは、常人とは隔絶されるほどの強者が必ず通る運命だと言ってもいい。
さて、ここまで来ればどうして『テンプレ』主人公がヒーローになれないか、もうお分かりだろう。
主人公に負の感情を向けてくる人間がいないのだ。
誰も彼もが精神操作されてるんじゃないのかと疑ってしまうくらいに。
主人公の立ち回りが上手いのか、会う人みんなが疑うことを知らない善人ばかりなのかは知らないが、とかく主人公は感謝され、尊敬され、敬愛される。
未知の存在、理不尽な力を持った主人公に対して恐怖や不安を抱かず、どんどんお近づきになろうと思える異世界人の懐の深さにはビックリである。
では、結局ヒーローの条件とは何なのだろうか?
ありふれた言葉で表現するのであれば……
『正義』、『勇気』、『希望』、『信念』、『覚悟』、『使命』、『決意』。
心の中に、こういった曲げることのできない強い芯を持っている人物のことではないだろうか。
ファンタジーもの、戦いを盛り込んでいる作品で、これらの言葉が使われていない作品など、おそらくはない。
だが、こういった感情は、必ず苦難の中から生まれるものなのだ。
悪の存在なくして『正義』は成り立たず。
困難が続く道を進む時にしか『勇気』は必要とされない。
絶望なくして『希望』の素晴らしさを知ることはできず。
進むべき道を否定されないことには、『信念』を貫く意思の強さは表現できない。
何かを失う危機的状況でない限り、『覚悟』を決めることなどありえず。
辛く苦しい道の先に得られるものが尊いからこそ、『使命』というものが輝きを見せる。
誰にでもできないことだからこそ、その『決意』は称賛されるのだ。
最後にひとつ、比較をしてみよう。
1. 神に等しい力を持った男が、世界を苦しめる魔王を倒して世界を救った。
2. 臆病で弱虫な村の子供が、家族や友人を護るために勇気を出して魔物に立ち向かった。
あなたはどちらを『ヒーロー』と呼ぶだろうか。
その行いだけを見れば、世界を救った1番の方が間違いなく英雄として世界から認められることだろう。
だが、弱くて頼りない少年が、なけなしの勇気を振り絞って身近な人のために戦う姿は、世界中の誰にも知られることのないちっぽけな行いだったとしても、読者は見ていてくれる。
そして何より、主人公自身がその行いを覚えている。
ヒーローの条件は、たったそれだけで充分すぎるのだ。