番外編5 悪について
『王道』があれば『邪道』もある。
主人公だって、誰もが人格者で正しい行いをする者ばかりとは限るまい。
性根まで腐りきったような『悪者』が主人公の『テンプレ』だってもちろんあるわけだ。
それはそれで悪者小説という一大ジャンルを築いているわけで、決して無視できるものではないだろう。
というわけで、今回は『悪』を主軸にしたキャラクターの有り方について。
では、今回もちょっとしたテストをやってみよう。
心理や設定テストよりも簡単な、選択問題を作ってみた。
5つの問題を出すので、それに対して主人公が『善』か『悪』、あるいは『どちらでもない』のかを答えてみて欲しい。
1. 勇者召喚されたチート主人公。魔王から王国を守ってと頼まれるが、戦争に巻き込まれたくなかったので逃げ出した。
2. 王国のために魔王を倒したものの、その影響で世界中にいる魔物が統制を失って暴走。結果、世界の国々は壊滅的な被害を受けた。
3. 街を襲うドラゴンをやっつけた。だがそのドラゴンには子供がいて、親を失った子供は人知れず死んでしまった。
4. 魔力が無くても誰でも魔法が使える画期的なアイテムを発明した。これにより生活はとても便利になったが、誰でも使える強力な力のせいで犯罪が激増した。
5. 原作では1年後にヒロインに殺されてしまう悪役令嬢。その未来を知っていた彼女は、先回りして何も知らないヒロインを殺した。
自分で作っておいて何だが……めっちゃくちゃ難しいと思う。
明確な正解など存在しないので、思ったとおり素直に答えてもらえれば幸いだ。
なお、私の場合は1から順に『どちらでもない』『善』『善』『悪』『悪』だ。
1番は王国と魔族の戦いを無視する行いをとったので、善悪がどうというよりは『無責任』という判断を下したからだ。
2番に関しては、魔物の暴走は主人公の責任とは言い切れないから。王国からの頼みを果たしてこうなったのなら、むしろ責任は王国にあると思われるので主人公は『善』と考えた。
3番は、街を襲うドラゴンが街の人々にとって明確な『悪』だったため、それに応じた主人公の行いは基本的に『善』と判断した。子供が死んだのは不可抗力であり、主人公を糾弾する理由はない。
4番は発明だけで終わるならまだしも、その発明が普及することによってどのような影響(良い点も悪い点も)が出るかまでを考えていなかった主人公の視野狭窄を『悪』と判断した。現実でも似たような話があったような気もするが……
5番は、まだ何もやっていないヒロインを殺したので『悪』。ヒロインがこちらを殺しに来るのを迎撃した結果ならともかく、これでは正当防衛とも言えないだろう。
この回答は私個人の考えに過ぎないので、肯定否定どちらをとってもらっても構わない。それに考察上、私ひとりの意見などあまり参考にはならない。
おそらく、皆さまそれぞれ違う判断基準によって違う回答を出されるかと思う。
ここで考えてみて欲しいのは「見る人によって善悪の判断は異なる」ということだ。
今回もざっくり意味を調べてみたが、『悪』とは人道的、道理的に外れた行動や思想のこと。『善』は人道や道理に則った公正な行動・思想といったところか。
人を殺すのはいけないことです。
人の物を盗んではいけません。
約束は守るもの。
誰かが困っていたら助けてあげる。
これらは法や規則で定まっていようとそうでなかろうと、我々は当たり前に正しいこととして認識している。
こういった概念が人道的・道理的な考え方と言えるわけで、これらに則ることが『善』であると言える。
社会的集団の過半数が「そうあるべきだ」と認めるもの――言うなれば『世論』だろうか。
だが、それは必ずしも世の中の人全員がそう考えるわけではない。
事情があれば人を殺すのもやむなし。
自分が困っていれば盗みをはたらいてもいい。
場合によっては約束を破る必要だってある。
困っていても助けるばかりが正解ではない。
過半数の意見には含まれない、世の中における少数派の意見。
このような『世論』に反発する考え方というのが、世間一般における『悪』の定義だ。
よって、いかに主人公とて『世論』に抗う行いをするならば『悪』となるし、魔王と名乗ろうが悪党と名乗ろうが、『世論』に従う行いをしていれば『善』となり得る。
世界征服なんて、つまるところが現在の『世論』に真っ向からケンカを売っているわけだから、そりゃあ『悪』と認識されるに決まっている。
本能のまま生きる野性の世界に善悪の概念がないのもこれが理由だ。
おとぎ話の世界のように、動物や虫に人間と同じレベルの知性があって社会が形作られているなら別だが、本来自然界に『世論』なんてあるわけがないのだから。
では、ただ作品内の世界における『世論』に従って、当たり障りのない生き方をしていれば『善』であり、たとえ少数派で大勢に認められることがないとしても、自分が判断した基準を貫き通す生き方は『悪』となってしまうのか?
その通り――と書こうと思ったのだが、少し引っ掛かりを感じた。
だったら、アメコミで出てくるヒーロー達のような存在はどうなんだろうか?
世間から、やれ化け物だ、やれ悪魔だと怖れられながらも、彼らは自分が信じる正義のために戦い続ける……こういうお話だって多いわけで。
誰にも認められなかったとしても、世のため人のために身体を張る戦士たちを、『世論』に反しているから『悪』ですよと一蹴するのはあんまりな気がしてきた。
そもそも、『世論』とはひとつではない。
シンプルな例を出すと、人間の王国を守るために魔王を倒した勇者は、確かに人々の『世論』に応えた『善』なのだろうが、倒された魔王の国に住む魔族の『世論』からすれば、王を殺した『悪』なわけだ。
そういう意味では、世界中が揃って認める絶対的な『善』や『悪』は存在しないのではないか? と言える。
極論だが、1人の少女を救うために世界を破滅させようとする男であれば、世界中からは『悪』と呼ばれるが、その少女だけからは『善』という評価を受けるわけだ。
それだけ善悪の基準とは不確かで、見る者によって大きくひっくり返ることだってある概念なのだ。
だったら、作者はどのようにして『善』や『悪』を主軸としたキャラクターを作ればいいのだろうか。
『善』はともかくとして、『悪』に染まりきったキャラを書くのは結構簡単だ。
『テンプレ』ファンタジーお約束の悪いキャラと言えば……盗賊だろうか。
社会の中で働いて生活することもなく、街や村を襲って金品を強奪し、ためらいなく何の罪もない人々を手にかける。
そうしなければならない理由があるわけではない。
ただ己の欲望を満たすためだけに周りの人間を害するだけの存在。
主人公や読者目線で言えば「救いようのない人間のクズであり、殺したところで何の罪悪感も覚えない」キャラであり、おそらくほぼ100%の人間が満場一致で『悪』認定をすることだろう。
冒頭の問題とは比較にならないほど、誰もが悩むことなくあっさりと『悪』のレッテルを貼ることができたはずだ。
では考えてみよう――どうしてあなたは、この盗賊を迷いなく『悪』と判断することができたのか?
ふたを開ければ割と単純な事実なのだが……理由としては、盗賊というキャラを構成する『悪』以外の部分が明らかにされていないからだ。
『テンプレ』のみならずファンタジー小説ならばほとんどそうだと思うが、わざわざ物語の序盤で出会った盗賊に対して、1話丸々使って「このキャラが盗賊になった理由」だとか「人を殺してでも成し遂げたいことがある」とか、キャラの掘り下げなどそうやりはしないだろう。
というわけで、やられキャラの筆頭格である盗賊の掘り下げを実際に行ってみた。
これを見ても同じ考えが持てるだろうか?
~とある盗賊Aの生涯~
彼は孤児として生まれ、すぐに奴隷として捕まり、言葉にできないほどの苦しい生活を何十年も送ってきた。
一緒に捕まっていた奴隷仲間とともになんとか脱走するも、まともに生活する術など知らない彼らは、近くにあった村から金品を巻き上げることでしか生きることができなかった。
それでも、決して人殺しはしない。悪逆非道の盗賊たちだったが、そのルールだけは決して曲げることはしなかった。
そんな中、盗賊Aはこんなことを考えていた。
「こんなクズみたいな俺でも、何か生きた証を残したい。この世界に俺がいた爪痕を残したい」
彼は得意だった剣の腕を磨き、王都で開催される闘技大会で優勝することを目指した。
そうして大金を手に入れたら……そうだ、まずは金品を奪ってしまった近くの村人に会いに行こう。
そして、
「あなたのおかげで、俺は闘技大会に優勝できた。今さら謝っても許されるとは思っていない。だがせめて、償いとしてこのお金を受け取ってほしい」
盗んだ時よりも何倍も多いお金を返して、ちゃんと謝りに行こう。
仲間たちからは下らないと馬鹿にされたが、盗賊Aが頑張る原動力としては充分だった。
大会に優勝したら盗賊から足を洗って、村に迷惑をかけた分しっかり働いて罪滅ぼしをして――そんな未来を思い描いていたある日。
「お。いかにも悪そうな盗賊発見! 新魔法の試し打ちしちゃえ!!」
「ギャーッ!?」
通りすがりのよく分からない男にあっさり殺されました。
~The End~
では改めて聞こう。この盗賊は『悪』ですか?
いやまぁ、金品強奪してるんだから悪いことに変わりはないんだろうけども……それでもさっきのように「救いようのない人間のクズ」と、即答で『悪』と断じるのは難しくなったかと思う。
深読みすれば、孤児や奴隷ばかりが溢れてしまう国の運営が悪いんじゃないのとか、『悪』の責任を盗賊以外に持っていくことだってできるのだ。
と、このようにそのキャラに対する様々な情報が提示されているほどに、善悪の判断というのは複雑化してくる。
そこで、主人公が後腐れなく殺せるように、『悪』を構成する情報のみを抽出して作り出されたのがテンプレートな『悪』のキャラというわけだ。
別段、こういったキャラが悪いとは思わない。
主人公最強で気ままに暴れ回る、いかにもスカッとするようなストーリーにおいて、わざわざ出会う盗賊や悪徳貴族などの生涯を振り返って読者に感情移入させるようでは、倒したところでスッキリできはしないだろう。
言い方はなんだが、読者を楽しませるために作られた噛ませ犬――つまりは『やられ役』という立ち位置を成立させているキャラに対して、下手に善悪の判断を鈍らせる要素を入れたところでどうなのよ、という話だ。
だからといって、悪者として設定したすべてのキャラが単なる『やられ役』でも問題だ。
『善』と『悪』は紙一重であり、また表裏一体でもある。
光が強くなるほどに、闇もまた深くなる――なんて言いたいわけではないが、主人公を正義の味方として強烈な『善』の評価を与えたいのであれば、対峙する敵の方にもそれ相応の強い『悪』の評価を与えなければならないのだ。
主人公が出会う敵はすべて『やられ役』ばかりで、片っ端から皆殺しにしても何の罪悪感を覚えることはない。そしてそんな『悪』を倒した主人公は至高の『善』である――とは言えないはずだ。
『テンプレ』でよく感想として挙がりがちな「弱い者いじめ」という評価のもと、むしろ主人公こそが『悪』のレッテルを貼られかねない。
解決手段はただひとつ――魅力ある『悪』のキャラを作り出すこと。
前置きが長くなったが、考察の本番はここからだ。
皆さま、これまで色んな作品を見てみた中で好きな悪者のひとりやふたりはいるかと思う。
魅力ある『悪』を考えるには、そのままあなたが好きな悪者キャラを参考にすればいいわけだ。
私個人としては“ジョジョの奇妙な冒険”に登場したディオ様が一番だが(カーズ様とすごく迷った)、そんな彼の行動に対して、取り巻きの少年が放った一言が『悪』の魅力のすべてを物語っていた。
「おれたちにできない事を平然とやってのける、そこにシビれる! あこがれるゥ!!」
これぞまさに『個人特性』。
普通の人では思いもよらない行動をやってのけることが『個人特性』という魅力なのはご承知の通りだが、『悪』の場合はここにもうひとつ大事な要素が必要となる。
それは――周りからの評価を気にしないことだ。
より厳密に述べるのならば、誰よりも自分の考えを優先する意識が必要だ。
自分の欲求にのみ忠実で、そのためなら周りからどう思われようと、周りがどうなろうと知ったことではない。
そんな徹底した『悪』であれば、人間たちを皆殺しにして、世界中から憎しみを向けられることになろうとも「はっ! それがどうしたぁ! この世界は俺様のもの、ならば俺様がこの世界でなにをしようと何の問題もないのだー!!」くらいの暴言など気前よくポンポンと出てくるぞ。
ここで面白いのが、たとえ周りからの評価を考慮しない行動だったとしても、そのキャラに付いてくる人間は大勢いるということ。
ディオ様にもたくさんの手下がいたし、冷血な魔王にも配下はいる。
恐怖による支配もあるだろうが……中にはディオ様にシビれた取り巻きの少年のように、彼の『個人特性』の魅力に惹かれて付いてきた人だっているのだ。
今時の言葉で表現するなら『カリスマ』である。
ところで皆さま。こういった『悪』に限りなく近いキャラを、日常的に『なろう』内で見かけたことがあるはずだ。
それは、チートの力で欲望のまま異世界を満喫する『テンプレ』主人公。
よく考えたら、『悪』としての適正あるんじゃないだろうか?
圧倒的パワーで邪魔する敵はすべて薙ぎ払い、金も女もすべて手中におさめ、ただ自分の欲望を満たすためだけに旅を続ける――おお、なかなかの『悪』っぷりではないか!!
……でも、『悪』としての魅力はあんまり感じられないような?
原因はいくつかあるが、最たる理由はご都合主義のせいだろう。
出会う敵はチート持ちの主人公からすれば全員ザコ、出会うヒロインは100%惚れるチョロイン、敵を倒すだけで勇者だ英雄だと称賛してくれる環境。
あまりにイージーモード過ぎる世界観で、「俺こそが最強、俺こそがこの世界の覇者だ!!」と高らかに叫んだところで……ちっちゃいのだ。
井の中の蛙だとか、お山の大将とか、そういった評価が先に立ちそうなものである。
『悪』の魅力を提示するにおいて、同じ状況になったら俺でもできると読者に思われてしまうようでは力不足ということだ。
この話、その4の『ヒーロー』の考察内容に極めて近いものとなっている。
苦難無くしてヒーローにはなれないと述べたわけだが、それは『悪』においても同じことが言えるのだろう。
そして、『なろう』における『悪』として無視できないのが『悪役令嬢』の存在だ。
こちらに関しては、今までに述べた『悪』とはまったく別ベクトルの『悪』なのである。
考察するには、まず『悪役』=『悪』ではないことを認識してもらわなければならない。
『悪役』とはつまり、『悪』を演じる役者のことだ。
舞台劇における悪者であったり、プロレスラーにも『悪役』は存在する。
彼らが『悪』を演じているのは、つまるところが引き立て役だ。
舞台上の『悪役令嬢』は、主人公の女性の感動する恋の行方を盛り上げるための障害となっているわけだし、悪役レスラーは正義のレスラーの見せ場を作るためにリング上で暴れ回る。
舞台上における縁の下の力持ちと言ってもいいだろう。
舞台だけでなく、現実にもいないわけではない。偽善の反対である、偽悪的な人物のことだ。
不治の病でもうすぐ死んでしまう主人公が、自分の死で恋人を悲しませないようにするために、わざと悪い行動や態度をして意図的に破局まで持っていく、だとか。
そういう意味では『悪役』とは、誰よりも『善』を知り、『善』を尊ぶ人物と言えるのかもしれない。
しかしてこれは『悪役』の心理ではなく、『悪』を演じている役者の心理だ。
まさか実際の『悪役令嬢』が「私はいわば噛ませ犬! 主人公の恋を輝かせるために華麗に散ってみせますわよオーホッホッホ!」なんて意識で主人公に突っかかっているわけではないだろう。
『悪役』という評価は、物語上の登場人物から出ることはまずなく、必ず物語の外から彼女の様子を見ている人物――つまりは読者からの評価でしか成立し得ない。
つまり本人の自覚はどうあれ、読者目線でそのキャラが上記のような引き立て役としての行動を伴っていれば、「このキャラは物語上における『悪役』だな」という評価になるわけだ。
……しかし、だ。
『なろう』における『悪役令嬢』とは、『悪役令嬢』であって『悪役令嬢』ではない。見ていて頭がこんがらがりそうな文字列になってしまったが、もう少しお付き合いいただきたい。
ここで考察すべきなのは、『なろう』における「『悪役令嬢』に転生した主人公」のことだ。
これ、実は論理的な考察がとんでもなく難しいのだ。
なにせ前提が「作り物だと思っていた話が実は現実で」「『悪役』という役割を演じている人間に」「意識だけ置き換わった」という、異世界召喚の比ではないデタラメシチュエーションだからだ。
通常の異世界転生と根本的に異なるのは、主人公は異世界を『ゲームの世界』だと100%認識してしまっていること。これはその5でも挙げた通り、主人公には『原作』という知識が存在するわけだから、どうあがこうと逃れ得ない事実だ。
それでもって「原作通りの展開を回避するには~」という、転生した世界をゲームと同一であると認識せざるを得ない思考パターンに入ってしまっているわけだから、「これはゲームじゃない、現実なんだ」という意識を持たせる難度がおそろしく高いのだ(記憶喪失にでもなれば話は別だが、それではもう転生する意味がない)。
こういった主人公は果たして『悪』と言えるのか?
これが結構難しい問いなのだが、ではそもそも本来の『悪役令嬢』とは本当に『悪』だったのだろうか。
主人公をいじめて、王子様との恋を阻むお邪魔虫――なるほど、主人公目線では間違いなく『悪』であろう。
だが、『世論』としてはどうなのだ?
その5の冒頭で挙げていた悪役転生もののストーリーラインを一度見返してほしいのだが……これに則ると、真に『世論』の敵と言えるのは、その辺の村娘をいきなり妃にしようとした考えなしの王子様であり、それを目標としたゲームの主人公の方なのではないのか?
よくよく分析してみると、悪役転生ものはこれまでの『テンプレ』の一歩先を行っている作風なのだ。
貧しい村娘が王子様などのイケメンに見初められ、いつの間にか逆ハーレムで男たちをより取り見取り――これがいわゆる『原作』の設定としてはポピュラーかと思う。
では、この物語の男女構成を逆転させてみよう。
異世界転移・転生という前提さえ省いてしまえば、『テンプレ』と何の違いもありゃしない。社会的弱者の成功を描いた、ご都合主義による整合性無視のシンデレラストーリーだ。
で、『悪役令嬢』に転生した主人公はそれをぶち壊しにするために行動する。
「いやアンタ国を預かる王子のクセに何考えなしにその辺の村娘捕まえてんだ立場分かってんのか、ああん!?」と、お前達が悪なのだと叫びながら、主人公と王子様に正論という『善』で戦いを挑むのが悪役転生ものである。
『テンプレ』主人公を最大の『悪』として捉え、『やられ役』である『悪役令嬢』を『善』の象徴として行動させた、二重の意味での逆転劇ということだ。
どれほどそのキャラを『悪』として昇華させるかは、いかにリスクを恐れず、いかに他人に真似できない大胆な行動をできるかだ。
街中で暴れて道行く人を片っ端から殺していくような狂人であれば、「誰が来ようと構わねぇ、すべて返り討ちだ!」とか「死ぬのなんて怖くねぇ、さぁ俺を止めたければ全力で殺しに来いよ!」といった、『悪』の行動に対するリスクをすべて無視、あるいは承認できるだけの心理があれば『悪』としての純度が高まる。
逆に「うわ、殺しちまった……復讐されたらどうしよう」という風に、リスクを承認しきれない、無視できずに不安になる心理があれば『悪』としては不完全な小悪党といったところで止まってしまう。
100%の善人や100%の悪人などそうはいない。
キャラの役割に応じて、善悪のパーセンテージを上手く調整してやるのもいいかもしれない。
『悪』とは恐れられ、嫌われ、憎まれてなんぼのものだ。
外道、人でなし、死ねばいいのに、お前の血は何色だ、といった発言をすべて褒め言葉と思えるくらいにならなければ成立しない。
作品内に登場するすべてのキャラから嫌われ、憎まれ、蔑まれ――それでも自分の道を貫き通す――そうすることで、その『悪』は作中のキャラではなく読者から称賛される。
つまり、ヒロインから慕われて世界中から称賛されたい主人公が軽々しく踏み入れていい領域ではないのだ。
もしも、『悪』でありながら周りからチヤホヤされるような環境作りをしたいのであれば……それ相応の『カリスマ』を、周りのキャラと読者に見せつけなければならない。