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その18 倫理観について

 今回のテーマは『倫理観(りんりかん)』。

 最初に断っておくが、今回は笑える要素は完全にゼロだ(今まで笑える部分があったかどうか不明だが)。

 道徳の授業みたいな展開にもなるすさまじく重い話なので、抵抗のある方は読み飛ばしてほしい。特にコメディ重視の作品を書いている方にとっては、逆に足枷(あしかせ)にもなりかねない考察となる。

 それでも大丈夫という方は、半分哲学みたいな話に片足を突っこむこととなるが、ぜひついて来ていただきたい。





 『テンプレ』作品において、とにかくこの『倫理観(りんりかん)』が問われることになる場面がある。『テンプレ』に限らず異世界ファンタジーを執筆されている方なら心当たりがあるはずだ。

 それは、「初めて人を殺した時」。

 現代日本から異世界転移・転生し、ある程度バトル要素を入れるのであれば避けては通れない運命だ。

 魔物ではなく、人。

 その手に持った剣で人(9割方は盗賊のような気がするが)の命を奪った際、主人公の心境はどのようなものであるか。

 罪悪感や嫌悪感に苛まれ、その場で嘔吐(おうと)してしばらく立ち直れないくらいの心の傷を残すくらいが、戦争を知らない現代日本人の感性としては適当かと思う。

 人を殺しても何も感じないというなら、主人公の精神面に何かしらの異常性(あるいは徹底的なまでの論理思考か)を表現することになるだろうし、「やったー」と言いながら大はしゃぎするなら、それはそれで精神の壊れっぷりがよく見える。

 そのため、単純に「そんな気持ちになるのはおかしいだろ!」と反論するのは早計だ。

 私の拙作でも1人、この問題に直面しているキャラがいるが(この考察で常連になりつつある鈴風(すずか)さんである)、彼女は「殺したという意識すらなかった」→「それを他人に指摘されて、自分の精神の異常さに気付く」というかなり変則的な心理描写をしているので、おそらく参考にもなるまい。

 

 命を奪うという行為は、割とその人自身の『生き死に』に対する考え方に強烈に作用する。

 これが『倫理観(りんりかん)』。モラルと言い換えれば分かりやすいだろうか。

 物語が進むにおいて心境の変化だってもちろんあるだろうが、「初めて人を殺した時」の心境というのは、その人物の考え方の根っこにあたる(、、、、、、、)のだということを、ちょっとだけ意識してみてほしい。





 以下の記述は、戦争に参加していた私の曽祖父から聞いた話を元にしている。

 議題が議題なので、ここから先、共感いただく必要はまったくない。批判も自由だ。


 こと戦争において、人の命とはとにかく軽かった。

 殺さなければ殺される、という状況下で変に仏心を出したところで、自分や仲間を窮地に追いやるだけなのだから、とにかくがむしゃらに戦って殺すしかない。

 仕方がない、と言って納得できるほど簡単な話でもないが、人はあまりの危機的状況下においては、命を奪うことに対する罪悪感や忌避感(きひかん)を一時的に封印しないと生き残れなかったのだ。

 あるいは、「敵を倒し、生き残る」ための明確な動機があれば話も違うだろう。

 国のため、護りたい人のため、自分はどうなってもいいからという一種の自己犠牲の精神――ファンタジーものにおける『騎士道』の精神が最も近いだろうか?

 あるいは任務だから、必要なことだからという強力な「割り切り」を己に課して、冷静に命を奪っていく職業軍人としての意識もあるのかもしれない。

 要するに、人が躊躇(ためら)いなく他人の命を奪うには、これくらいの精神武装をしていないとまともに戦えなかったわけだ。


 ――以上、若干私個人の意見も混ぜているが、それだけ人の命を奪うという行為は、精神面にとんでもない負荷を与えるものだったらしい。


 で、こんな重たい考察をしようとした理由として、『テンプレ』主人公の精神面に『ゲーム脳』という意識がある可能性を示唆したかったからだ。

 その14において、ステータスやレベルといった概念がある『ゲームのような世界』に対する順応性の高さについて記述したが、『ゲーム脳』とはまさしくこれのこと。

 それが『倫理観(りんりかん)』と何の関係があるかと言うと……命に対する捉え方がまるで普通の人と異なってくるからだ。





 ひとつ、シチュエーションを用意しよう。

 あなたは『チート』で絶対無敵の主人公。やられる心配はまずない。

 異世界召喚された国と敵国との戦争に駆り出され、正面から無双の力で敵兵を薙ぎ払っていくのがあなたの役目だ。

 なお、敵兵を100人殺すとレベルアップ、1000人殺すと王様から褒美がもらえるらしい。

 さあ、これから戦争に赴くあなたは今、どんな気持ちだろうか。


 恐ろしいことに(、、、、、、、)、『ゲーム脳』の感覚で考えると、敵兵の命は完全に経験値かスコアポイントにしか見えなくなるのだ。

 劇中ではきっと、「よっしゃ100体倒したレベルアップ!」「990体! よーしあと10体だー頑張るぞー!!」という主人公の嬉々とした歓声が戦場に木霊(こだま)していることだろう。

 一応言っておくが、別にこういう主人公や展開が悪いと言いたいわけではない。

 若者らしい思考と言えばそこまでだし、ゲームのように考えでもしないと罪悪感に押し潰される、といった描写があれば、それはそれで納得できる考え方だと思う。

 戦国時代であれば、立身出世のためにとにかく武功を立てようという考え方だってあっただろうから、この『ゲーム脳』に近い意識を持っていた武将だっていたのかもしれない。

 大軍を動かす軍師であれば、情に流され策が壊れてしまわぬよう、兵を(こま)のような感覚で考える人だっていたことだろう。

 少なくとも、そういった命の重さからあえて目を背ける(、、、、、、、、)行為であれば、それは人間心理として間違ってはいない。


 だが、なまじ『チート』で自分が死ぬ心配などないものだから、一方的に敵を倒せる保証がある環境はまさしくゲームそのものだ。

 最初から最後まで「俺は人を殺してしまった」という意識をまったくしない(できない(、、、、)、と言うべきか)人間の為すことが正しいと、素晴らしいことだと認められる世の中ってどうなんだろう、とも思うわけだ。





 『ご都合主義』の軽いタッチで『テンプレ』を描きたい人にとって、死という概念は鬼門となる。

 悪党だからとポンポンと敵を殺しまくる作品も少なくないが、現代日本人の感性としては間違いなく異常だ。

 それこそ拙作の中でも同じような話をしているが、


 悪いやつがいました。

 じゃあ殺そう。


 こんな思考回路をしている人間はどう考えても危険人物だ。

 『倫理観(りんりかん)』を甘く見てかかると、コメディタッチの『テンプレ』ファンタジーが、あっという間に人格破綻者の主人公による大量虐殺というホラーへと変貌する。

 更にそれを周りの人物が「よくやった」だの「あなたは英雄です」だのと賛辞しようものなら、キャラクターどころか作者の人格が疑われかねない。三人称描写でしっかり「これはおかしいことだ」といった描写を入れるならまだ問題はないが、どの道コメディには戻れまい。

 余談だが、『なろう』発の書籍化作品において、作者は無意識だろうがこういった環境になっているものは結構あるのだ。

 いかに創作とはいえ、今の読者人気の傾向というものが少々恐ろしくもある。





 現代日本とは、世界有数の安全な(、、、)国とされている。

 街中で拳銃が売られているわけでもなく、身近なところで銃撃戦が行われて夜も安心して眠れない、なんてこともない。

 犯罪が無くなることは未だないが、街中でいきなり完全武装の兵士やナイフを持った男に襲われる心配をする人などそうはいないだろう。

 治安の良さに関しては世界一と呼ばれるほど法整備が進んでおり、そういった国で暮らす我々も、しっかりとした『倫理観(りんりかん)』のもと教育を受けてきた。

 人の死というものに縁遠く、それゆえに人の死に対する抵抗力が低い。

 それが普通の日本人(、、、、、、)の感性ということになる。


 怒りや憎しみという激情が『倫理観(りんりかん)』を凌駕(りょうが)することだってあると思う。

 今まで虫も殺さなかった女性が「家族の仇、殺してやる!」と叫びながら復讐相手に斬りかかるなんて場面だってあるわけだ。その行為の善悪を問うつもりはないが、少なくとも心理上は極めて自然な流れである。

 が、『テンプレ』において悪徳貴族や盗賊を斬り殺す主人公が、こういった感情の爆発を見せていることは極めて少ない。基本的には、上記のような家族を殺された女性の声を聞いて、復讐を代行するような展開の方が多いだろうか。

 よって、主人公の精神面はある程度冷静さを維持したまま、実にあっさりと殺人をこなせている、と。

 時代劇における“必殺仕事人”のような展開なわけだが、仕事人である彼らは、当然人を殺すことは何度もやってきたわけで、言い方は悪いが「慣れている」わけだ。先の例における職業軍人――文字通り、仕事だからという強烈な割り切りをしているから成立している。

 だが、仕事人である彼らと異世界転移した主人公はそもそもの前提が違う。

 学生でもニートでも何でもいいが、人の死に対し極めて縁遠い我々現代の日本人が「異世界なんだからこの世界のルールに従わないとな」と言いながら、討伐と称して悪党や盗賊をざくざく皆殺しにできる感性を身に付けるものなのだろうか。




 

 実際のゲームの中で、この『倫理観』に対し特に細やかな配慮がされている作品がある。

 名作中の名作RPG“ドラゴンクエスト”だ。

 お気付きの方も多いかと思うが、作品内では敵を倒した時に「殺した」ではなく「やっつけた」と表記しているのだ。

 敵が倒れて死んでいる画面を出さずにすぅっと消えていくように表現しているのも、死んだのではなく逃げた(または改心した)という解釈をしているからとされている(この点だけうろ覚えだ。違っていたら申し訳ない)。

 しかし、5作目においては主人公の父親は魔物にはっきりと殺されている。

 受け取り方は人それぞれだろうが、ドラクエは単に死というショッキングな物事を回避したいのではなく、一種の道徳じみた――それこそ命の尊さであったり――概念をプレイヤーに示していた、とも解釈できる。

 なまじ小さな子供が遊ぶものだし、こういったゲームから色々なことを学んできた人だって少なくないはずだ。そういった点を見越して(あるいはそれが当たり前のことのように)作られた製作者の心配りが、今日における国民的RPGとしての地位を確立させているのかもしれない。




 我々と同じ「普通の現代日本人」を主人公に挿げる以上、その感性や考え方についてはある程度現実味(、、、)が求められる。読者からの感情移入、共感を求めるのであればなおさらだ。

 最悪、転移した人間ではなく異世界の現地人(こうなると「異」世界とは呼べなくなるが)を主人公として挿げるなら、それこそ『倫理観』は我々とは異なるだろうからある程度言い分は立つ。

 だが、あらすじや作品の冒頭で、主人公を「ありふれた」とか「どこにでもいる」と呼称する場合、問われるのは間違いなく作者の倫理観(、、、、、、)だ。

 「悪党なんだから殺しても心は痛まないし」という感性が作者にとっての『普通』なのであれば、もう何も言うつもりはない。正しいとも言わないし、間違っているとも言わない。

 だが……恐ろしい(、、、、)とは思う。

 小説に限らず、創作とは作者の「心の中にあるもの」を形にした結果だ。


 今回は、あえて何かしらの答えや結論を出さないことにする(というか出せない)。

 ご感想はもちろんお待ちしているが、何かのご質問に対し、感想返しで「それは~~ですよ」と明確な回答をするつもりもない。

 こればっかりは、人に言われて表面だけ変えるものではないのだ。

 人間の考えの根幹にあたるものである以上、すべては作者自身の力で考えなければならない。


 それでは最後にこんな言葉を。

 私が最も好きな作家さんの1人である、東出祐一郎(ひがしでゆういちろう)氏の作品内で出てきた文章の一部を引用させていただく。


 ――剣術は人を殺す術を与えてくれても、人を殺す許可までは与えてくれない。


 まったくだ。

 本当に。


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