刻を奪われた男
1話完結の初短編です。
私の憶えている限り、少なくともそれに”前触れ”と呼べる決定的瞬間など、何ひとつとしてなかったと思う。
気付いた頃にはどうしようもなく、何もかも遅かった。
それはまるで帰宅を急ぐ際、ふと見上げた昏い空に冬の訪れを感じるように。
いつの間にかにじり寄ってきたそれに、些細な疑問さえ抱かず。
身に馴染んでいく異変に対し、私はあまりにも無自覚で、かつ無防備であった。
今にして思えば――……きっとあれが最初の兆候だったのだろう。
いつもと何ら変わらぬ平日の朝。
私はその日、目覚ましが鳴り響く20分ほど前に起きた。
かと言って、悪夢を見て跳ね起きた、だとかじゃあない。
ただ、なんとなく目が覚めた。
5分おきのスヌーズ機能に頼り切りで、”ショートスリーパー”などという単語とは無縁の私にしては大層珍しいことだ。
(まあ……こんなこともあるか)
その時の私はそんなようなことを思った……記憶がある。
だが、どうにも曖昧だ。むしろ、曖昧で然るべきなはずだ。
たったそれだけを『異常』などと言って憚る非常識人ではないのだから。
生きていれば誰だって、そのくらいの経験はあるだろう。
そう証明するかのように、その日、私の人生における大事件も起きなければ、世にも珍しい奇々怪々な体験もしなかった。
平々凡々な1日。
そうやって仕事や日々の雑事に忙殺され、幾度となく繰り返される退屈で変哲もない朝のことなど、記憶の片隅に追いやっていた。
しかし……その翌日もまた、同じくらいの時間に起床した。
だから何だ? と、問われれば黙りこくるより他ないが、相当に珍しいことである。
しかし、その前日に較べれば多少印象に残ったものの、やはり私は何を考えることもなくスマートフォンのアラームを解除した。
その日は朝からどこか苛々していた気がする。
あまり独り言を口にせぬ私にしては珍しく、
「チッ……早く曲がれよ、ダラダラしやがって。どこに目をつけてる。平日の朝だぞ」
と、出社時刻まで相応なゆとりもあったというのに、いつまでも左折しきれないでいる前方車へ口汚く悪態をついていた。
結局――その翌日も、そのまた翌日も似たような時間に目を覚ました。
だが、やはり疑問を覚えなかった。
なぜならその朝。
がちゃり……と、マンションの隣室の玄関扉が開く音を耳にしたからだ。
(ははぁ、なるほど)
すとん、と腑に落ちた。
此処はそう薄くもない鉄筋コンクリートの単身者用マンションだが、お世辞にも無音とは言えない。
生活音くらいしても不思議はなく、また、通りの喧騒だってある。
つまり、真の静寂とは無縁なのだ。
それに、私はそんな喧騒が嫌いではない。
(今週はきっと、少しばかり隣が騒がしかったんだろう)
そんな具合に納得した。至極真っ当な論理的帰結だ。
私は冴えを見せた自身を自画自賛し、週末を前に枕を高くして眠ったように思う。
ところが、その翌週。
私はまたもやアラームが鳴り出す前に起きてしまった。
それも、今度は50分ほど前に。
この時点で違和感に気付いていれば良かった、と今は後悔している。
なまじ休日だけはアラームを掛けないこともあり、また、疲労感もなかったせいで、
「あれ、今週も? 珍しいこともあるもんだなぁ」
と、大きな異変を見逃してしまった。
気付くべきだったのだ。
だって、そうだろう?
出社を控えているとはいえ――いや、これからの勤務を控えているからこそ、
「うわ、まだ五〇分もあるよ。損した、寝直そう」
と、なる人間の方が圧倒的に多いに決まっている。
特に、私はスヌーズ機能に頼って普段から寝起きしている人間だ。
遅刻ギリギリになるような時刻にアラームをセットしたりしない。
自分を罠に嵌めるつもりで2重、3重と仕掛け、1番初めに鳴り出すアラームは起きなければいけない時刻の20分前に設定している。
その50分前に目を覚まし、あまつさえ『二度寝する』という発想すら毛ほども湧かなかったのだ。
今なら理解できる。これが正しく兆候であったのだ、と。
しかしながら、その時の私はむしろスッキリとした意識、朝からよく回る脳に満足感さえ覚えていた。
結局、その週。私は連日、朝から目が冴えっぱなしで――
(うちのエレベーター、なんでこんなに遅いんだよ。乗ってるやつも馬鹿なのか? 閉じ出すまでちゃんと『閉』押しとけよ。気の利かない)
それまでであれば何とも思わなかった待ち時間にも、活発化した脳がそんな独白を紡ぎ出し、
「……信号遅いな」
「どこ見てんだ、横断歩道『赤』だろ! とっとと曲がれ!」
「モタモタしやがって!」
通勤中の車内では独り言が一気に増した。
覚醒し切った意識に、周囲の鈍臭さが苛立たしくて堪らなかった。
しかし、やはり私の意識に『異常』の単語が浮かび上がることはなかった。
この時点で『異変』を察知するには、私はあまりに常識的過ぎたのだ。
今更ながらに体内時計というやつが出来上がったのだろうか? 程度にしか考えていなかった。
その翌週。
私はとうとうアラームが鳴り出す1時間半ほど前に起床していた。
ぐっすりと眠った感覚もあって、身体もしゃっきりしていれば、思考力もその冴えを些かも減じていない。
むしろ今まで見えていなかったにものまで、意識や注意が向くようになっていた。
「グズグズしやがって、この野郎!」
「モタモタすんな、早く踏め!」
「タクシー、邪魔だ! いつまで道塞いでやがる!」
「どこ見てやがる、このノロマが!」
だが、そうやって冴えていけばいくほど、独り言は日に日に増していき、週末を控えた前日に至ってはそれまでに吐いた悪態全てを吐き直した、という自覚すらある。
何と言っても人間は慣れる生き物だ。
悪態を吐くたびに、その行為に慣れ、何とも思わなくなる。
気付けば家でも独り言を吐くようになっていた。
そうして更に翌週。
私の目が覚めたのはアラームの鳴り出す2時間半も前だった。
しかし、それでも私は私の身に起きた『異変』に気付いていなかった。
なぜなら……それなりに大きな理由があったからだ。
それは、何もかもが好調に転じていたから。
起床と出勤の間に3時間近く横たわっているとなれば、時間も余る。シャワーを浴びても尚、有り余る。
ならば、とそれまでの習慣を崩して朝食を摂るようになった。
食後にゆったりとコーヒーを嗜み、煙草を吸う。
気が向けば、目についた部屋の四隅を掃除なんかまでやって、出勤するのだ。
当然のことながら、血行が良くなる。食後にたっぷりと時間を置いているので眠気もなく、手足を動かしているので頭も余計に冴える。
「最近、調子良さそうですねぇ。もしかして好い人でもできました?」
「ははは、まさか。少し早起きする習慣がついて、朝を食べてくるようになっただけです」
「『早起きは三文の徳』ってやつですか?」
「うーん……『三文くらいしか得しない』の方が正しい気がしますよ。実際、食費が上がりまして」
「たはは! なぁに、健康な証拠ですよ」
と、同僚なんかと健康談義に花を咲かせ、
「いやぁ、堀くん。最近生き生きしてるねぇ」
「は、そうですか?」
「うんうん。よく気も回るし、いよいよ脂が乗ってきたというやつだ」
ぱしっと、上司にあたたかく肩を叩かれる。
ひとりで悪態を洩らす頻度と裏腹に、社内や友人からの評価はウナギ登りであった。
だからこそ、気付きもしなかったのだ。
己を呑み込んだ何かに。
俄に身についた習慣を、良いものなのだと信じ切っていた。
愚かな話だろう。
「ふぅー……ようやくひと息つける」
「えっ、もう終わったんですか?」
「もう……って、結構掛かった印象だったけど、ってあれ? まだ一時間半しか経ってない……?」
「凄い集中してましたよ、堀さん」
「そう、なんですかね?」
「そう見えましたけど、どうしたんです? 狐につままれたような顔しちゃって」
「あ、いやぁ。はは、なんだか化かされた気分です」
この会話をしたのは、更にその翌週。
とうとうアラームが鳴る4時間近く前に起きるようになってからだった。
体感で3時間ほど掛かった作業が半分の所要時間で済んでしまった、という事実にも着目すべきだった。
初めてやった仕事でも、就職したばかりの新入社員でもないのだ。
己の目算と違和感を覚えなかった作業量に対し、実時間が噛み合っていない。
中堅社員がそれだけの誤認を起こしている、という事実を私はもっと客観的に捉えるべきだった。
そして……ひと月後のことだ。
とうとう私は『異変』を認識するに至った。
既にその時点で、アラームの鳴り出す5時間以上前、空が真っ暗な頃から起き出すようになっていた。
その日は会議を控えており、私はいつものように上司と軽く内容を詰めるべくやり取りをしていたのだが――
「ちょ、ちょっと堀くん。待ってくれ」
「はい?」
「そんなに早口じゃあ、さすがに把握し切れんよ」
そう言われた時の私は、果たしてどんな顔をしていたのだろうか。
少なくとも、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたはずだ。
何せその上司とは長い付き合いで、会議だって目新しいトピックなどなかったし、私は早口で話している感覚など皆無だったのだから。
「すいません」
「いや、構わんよ。もう少し落ち着いていこう」
「はい」
と、その場は困惑しながら平謝りした記憶がある。
しかし、内心では大いに首を傾げていた。
会議とて、初めてではない。
上がり性でもなければ、緊張していたわけでもない。
(何かが……おかしい)
その疑念を覚えた翌日のことだった。
「ああ、堀さ――」
少し下の同僚に呼び留められ、振り返った瞬間。
「ん゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ァ゛ァ゛ア゛あ゛あ、えェ゛ェ゛ェ゛」
低い唸り声が響き渡った。
およそ人語と思えぬ、ヒビ割れた異音。
発したのは無論、私の目前に居る同僚――彼が喉から絞り出している声だった。
まるで、名も知らぬB級映画に出てくるゾンビのようだ。
私はあまりの事態にぎょっとした。
仕事中にこんなおふざけをする彼ではない。実際、表情は真面目なそれだった。
余計に私は混乱して、彼を10数秒凝視していたと思う。
だが、この場には上司も居るし、昼休みもまだ先だ。
思わず咎めようとして、
(どうした――……えっ!?)
声が出ないことに気付いた。それどころか首筋ひとつ、指1本動かせなかった。
(何が起こった!?)
その時の私は、困惑の極地に至っていた。
体感でたっぷりと1分はあったろう。
私は唖然とし、次いでまたしても驚愕した。
(誰も……動いて、ない!?)
誰も彼の発したゾンビのような声に反応を示していない。
あれだけの大声だ。
今だってヒビ割れた異様な声を発しているのに。
誰ひとり、ちらりと見ようともしない。
正確に言うと、僅かに――目を凝らせばようやく分かるほど微細に動いてはいる。
PCのキーボードを打鍵しているはずの指を見て、ようやくそれに気付いた。
見慣れているからこそ、異質な光景。
まるで世界がそっくり別物と入れ変わってしまったような、得体の知れないおぞましさを感じた。
「掘さん? どうかしましたか?」
と、その時、同僚がまともな声で呼び掛けてきた。
違う。何もかもが正常に戻ったのだ。
「う、ぁ……!?」
「えーと、堀さん? 顔色、悪いですよ」
私はきっと汗びっしょりで真っ青になり、唇はわなわな震えていただろう。
「だ、大丈夫。大丈夫……あ、いや、少しばかり気分が悪くて」
カラカラの口を動かしてそんなことを口走った……ような気がして早退けさせてもらった。
しかしながら、その家に辿り着くまでが難儀だった。
1度そうなったら最後、同じ現象が頻発したのだ。
突発的に身動きが取れなくなり、世界が止まる。数秒が数分に化ける。
私はそれを見ていることしか出来ない。
そのうえ、引き伸ばされる時間がどんどんと伸びていく。
数分が10分を超え、20分を超え――
「な、何がどうなってしまったんだ……!?」
帰宅した頃にはすっかり憔悴し、這々の体で座り込んでしまった。
ようやくこれは『異常だ』と、認識した。
病院で診てもらおうかと思ったが、出し抜けにあの現象が起こる。
気の遠くなりそうな時間、金縛りにあっているようなものだ。
いつ動き出すとも知れぬ時間を、ひたすらに待っているしかない。
これが神経をごりごりと削っていく。
あの現象から僅か数時間。
ほんの数時間が何日にも感じられた私は、外に出るのが堪らなく恐ろしくなってしまった。
どうすれば良いのか分からず、震える手でこの現象をネット検索してみたものの、該当するものがない。
優れたスポーツ選手などが入るという『ゾーン』とも違う。
私には、これを止める術がないのだ。私の意思ではどうにもならないのだ。
そうこうする内、眠気に負け、逃げるように寝入ってしまった。
「今は……何時だ?」
目が覚めた時、窓から夜空が見えた。
それ自体に何ら不思議はない。昏くて当たり前だ。
しかし、時計を見た私は愕然としてしまった。
あれだけ疲れていたにも関わらず、2時間と経っていなかった。
何より、疲れが抜け切ってしまっていたのが余計に恐ろしかった。
私はどうしてしまったのだろうか?
そうこうする内に、また「あれ」が始まった。
『スイッチ』が入ってしまった。
スマートフォンに映る時計の秒針が、凄まじく遅い。秒針だぞ!
横になったまま動けず、目が乾いた気がして瞬きをしようとした。
(――!?)
果てしなく体が鈍い。瞼が下り始めるのに体感で1分以上も掛かった。
まるで自分の体と思えない。人型の置物でもなってしまったような気分だ。
結局、睫毛の1本1本が、泥濘の如き空気を切り裂いていく感触を、私は数時間掛けて味わう羽目になった。
しかし、ああ、それでも「しかし」なのだ。まだ視界は半分も塞がっていない。
気が狂いそうだ!
待て……おかしい。音が……聴こえない。夜中でも薄っすらとあった喧騒が――人の気配がない!
……違う。聴こえないのではない。遅過ぎるのだ。
鼓膜を震わせる空気の波が、私の加速した意識に置いていかれている。
有り得ない!
私は肉体を押し包む恐怖から逃れようと、ひたすら耳を澄ましてみた。そうして気付いた。
(……あ!)
ズズ、ズ……と、不快な重低音――いや、微振動が体を揺らしている。
それが音の成れの果てだと気付くまでに、体感で数時間もの刻を費やしていた。
それにしても長い。『スイッチ』が切れない。
ダメだ、耐えられない! 助けてくれ! 誰か私を戻してくれ!
狂ったように意識が悲鳴を上げているのに、くぐもった声すら――喉の筋肉は未だに震え始めてもいない。
その時だった。
(う、眩しい!?)
半分だけ閉じた瞼の隙間から、絶望的な光が差し込み、私の目を灼き貫いていた。
それは、スマートフォンの画面だ。
時計が映っていたホーム画面が凄まじい速度で明滅していた。
普段は一定の光に見えていたバックライト――1秒間に何度も繰り返す点滅が、暴力的な光の剣山となって私を拷問していた。
痛い。目を、閉じたい。それなのに、私の瞼は数ミリだって動いてくれない。
痛い! ふざけるな! 私が何をした!?
(あ……)
その時、私は気付いてしまった。
私の部屋に、物理的な時計はない。
私は加速した己の意識が、一体どれほどの尺度で加速しているのか、測る術を失ってしまったのだ。
しかし、悲しいかな。私が青褪めるまでにきっと数時間も掛かるだろう。
その頃には私はまた別のことを考えているに違いない。
『スイッチ』が切れない。
その時、重低音が私の体の内側から響いた。
これは――……鼓動だ。
つまり、生きているということだ。ああ……なんてことだろう。
気付かぬ内に息絶えていたらどんなに良かったことか!
それは紛れもなく絶望の音だった。
体が動かない。どんどん鈍くなっていく。
それは私の意識が更に加速している証拠に他ならない。
普通であれば思考を差し挟む余地さえない刹那に、私は一体、何万の考え事をすれば良いのだろう?
このまま腐っていく意識の中で、私の精神はどうなってしまうのだろう?
刻の牢獄、という言葉が私の意識を掠める。
しかし、おそらく違うのだと思う。
私は囚われてしまったわけではない。
人が脳で物を認識するまでに要する時間と、実際の物理世界との間には僅かな誤差があると言われている。
スケールアップして言えば、地球に届く太陽光が実はリアルタイムのものではない、というようなものだ。
それが身を以て、理解できた。
私はひとつの真理に到達していた。
物理世界と認識世界を密接に繋いでいるものが『時間』だったのだ。
私の意識はきっと、知らず知らずの内にその境界を飛び超えてしまった。
繋いでいる『時間』を軽視した末に、限りなく物理世界に近い世界を知覚できるようになった、ということなのだろう。
その代償に、大多数の人々と同じ時間を生きられなくなった。
孤独と無音の世界で、誰にも認識されぬまま。
部屋の隅に溜まる僅かな埃が些細な空気に乗って、舞っていた。
それが落ちることもなく、静止して見える。
まるで散りばめられたクリスタルだ。
果てしない時の中で私の思考は加速していく。
あの時に気付いていれば。
数時間に1度、そんな思考が浮かぶ。
だが、実際にはきっと1秒も経っちゃいない。
もう、スマートフォンの光も明滅を止め、時折穏やかに光を灯すようになっている。
私は、遡れる限りの古い思い出を引っ張り出すことにした。
このお話は2日前、連載中の拙作「日輪の半龍人」のプロットを練っている最中の僕に割り込んできた、「ノイズの濁流」を書き起こしたものとなります。
1話完結ですので、できたら感想等送って頂けたら嬉しいです。




