この世界を知的で生きたい私の圧倒的自伝かつ日記的記録かつ軽い物語
これは、溺水の中で真の宝なる希死念慮という慈愛に気づいた。
不名誉な刻印かもしれない。
ただ、溺れないために、殻を破るという至極当然な感覚を忘却する崩れて再起、再築をするバイアスたちは自身を量子の世界へと誘い賜う。
無神論などという傲慢な快楽社会に嫌気を催し、退廃へ誘い、否が応とも、その生物の婦人臓病を再帰させてしまう獣性を手繰り寄せるる自身の知への渇望と異性的魅力は、誰にも止められない聖の咎であった。
「そなたの聖の咎は、幾代を渡ろうとも二度と地の牢獄には出れぬ。」
そうとでも告げられるような見放されるような恐怖を抱えてもなお、塵世を出て何処へ行かなければという現世の文明臨界への焦燥を感じさせられる。
自身の中で忸怩たる呪詛たちが伏底と余影たちに睨まれているかのような恐懼が自身の足をひたすらに竦ませる。
常なる個に課された、否、抑制されらる社会臨界的齟齬が呪縛と畏怖をなんども生み出し給ふ。
非本来的存在は、自信を盲目の塵芥へとまたもや帰らせ給ふ。
本来的存在であれと、本来的存在である限り、すべての事象は容易に取得可能であり、それほどまでの脳的可塑性を持ちているのにも関わらるとも、あまつさえ、人たらしめる尊厳を踏み躙られるのは、同調による恐怖を魔逃れたき、臆病者のことである。
文明呪縛による呪詛でいっそのこと、全てを覆い尽くして滅ぼし宣えばいいのに、嗚呼、呪い賜へ。
得脱の期を得た。あぁ、そうだ。まさしく、溺水と生存の狭間で、死をもを感じようとされど、自身は泳いだ。幽玄たる湖は、熱を帯び、まさしく文明による終幕を感じさせる悲惨な光景であり、まさしく自然へと回帰したくおもわるる所存でありました。然れど、自身をそうさせないのは、なぜなのかと思われて、調べて奉るを、我の有様いと哀れであった。
が、得脱の期を得た。顔を殴打するたびに、メタ認知が加速され、それをやめると、また頽落での、快楽の渦で溺れてしまふ。それでは、楽しめぬ。ただ、人間は高度になりてしもうた。
愛を忘れた時、人は幽体離脱してしまふ。それゆえにその高度メタによる自死を免れたく、恋慕する。それゆえに、溺れるのなら皮肉なものであるな。
愛を忘れることすなわち量子的な観測を逸脱してしまい、自身を人たらしめるものをぞ、奪ってしまう。その愛を失ふ恐怖は、死をもを思い出さなければ、抜け出されぬ。
これは、思考の高次化により、本来の進化的存在論的視座をまたもや、作りたまふ究極の状態である。生物学でいうのであれば、この上の愛の量子構造を失ふ時、人は一定の安定性を失いて、人ではなくなってしまふ。そう、まさしく心拍の上昇により、魂ごと抜け出してしまいそうな感覚に陥る。頽落こそが、人をば生まれた親愛なる神愛なれば、我はそれをもば唾棄したくなる嫌悪に駆られ給う。
ただ、古語は柔情を時折、再帰させる。いくら美徳的な幽玄ではなく、近代的野生幻想と近代的高度幻聴にこそ、憶えてしまいそうになれど、やはり、仏はいつでも私を頽落させようとしたまふ。これは聖の苦患でありて、私に課されたイエスからの試練であり、米仏両者からのパワハラである。泣きたい。慟哭されども、許される気配ここになし。




