真っ暗な空を君と
静かだった。いや、静かすぎるくらいだった。
助手席の彼女は、ずっと窓の外を見ていた。
東京を出て、東名を西へ。もう、どこを走っているのかもよくわからなかった。標識を見ても頭に入ってこない。走ることに意味はなかった。ただ、なんとなくこの夜を終わらせたくなかった。
「……眠くない?」
気づいたら口にしていた。
彼女はゆっくりこちらを見て、首を横に振った。
「ううん、大丈夫。そっちは?」
「まあ、まだいける。コーヒーあるし」
それ以上、言葉はなかった。
窓の外には、オレンジ色のライトが流れていく。
ラジオも音楽もつけなかったのは、沈黙が嫌じゃなかったからかもしれないし、もう気を遣う余裕がなかっただけかもしれない。
このところ、彼女の様子が変わっていた。
でも、具体的に何が、とは言えない。
笑うし、普通に喋る。でも、空気の奥が違っていた。
深く息を吸っても、どこか薄い。そんな感じ。
それでも、言葉にすることはなかった。
きっと口に出したら、終わる気がして。
「さっき、あのSA寄ってもよかったね」
助手席からの声にハッとする。
彼女が話しかけてくれると、まだ救われる気がした。
「なんで?」
「ポテト、食べたかったなって。夜中のポテトって、なんかさ、特別だったじゃん」
「ああ……たしかに。やってたね、そういうの」
「そう。で、絶対胃もたれして、ぐちぐち言ってた」
思い出して、少し笑った。
でも同時に、その“思い出し方”に自分で気づく。
いつの間にか、“あのころ”と呼べる距離ができていたんだな、と思った。
「またやろっか、どっかのSAで」
彼女がそう言った。
でもその声は、少しだけ弱かった。
“提案”というより、“確認”みたいだった。
「うん……そのうち、また」
そう答えた自分の声もまた、どこか頼りなかった。
たぶん、どちらも気づいている。
もうあのころには戻れないことを。
それでも、はっきりとは言わずにいる。
「ねえ、朝になったらさ、どこ行く?」
突然の問いに、ハンドルを持つ手が一瞬止まりそうになる。
彼女の声は静かで、どこか遠かった。
「どこ行きたい?」
「どこでもいいよ。海でも、山でも、知らない町でも。……誰もいないとこでもいい」
“誰もいないところ”
その言葉が、やけに響いた。
彼女の中で、もう“ふたり”という単語が遠のいているのかもしれないと思った。
でも、それを問いただす勇気もなかった。
「……そうだね」
それだけを言って、サービスエリアの案内板が見えてきた。
少し迷って、ウィンカーを出す。
だけど、次の瞬間、やっぱり引っ込めた。
寄っても、たぶん、ポテトは買わないだろうと思ったから。
立ち寄ってしまったら、話すべき何かが口をついて出てしまう気がした。
今のまま、走っているだけのほうが、まだましだった。
何も言わずに、何も決めずに、このまま遠くへ。
彼女は何も言わなかった。
それが、逆にこたえた。
さっきまでとなりにあったはずの距離が、今は手の届かない場所にある気がした。
だけど、それでも。
まだ彼女は隣にいた。
夜の高速を走る車のなかで、となりの席に、ちゃんといる。
それだけで、今は十分だった。
いや、十分だと思い込みたかった。
どこまででも続きそうな夜の道を、僕たちは無言で走っていた。
目的地のないまま、言葉にならないまま。
でも、ハンドルはまっすぐ前を向いていた。
いつかこの夜が終わってしまうのだとしても。
それでも、今だけは──まだ隣に、君がいた。
ほんの少しの記憶の違い、言葉の解釈の違い、それがいつの間にか大きなズレになっているのかもしれませんね。