夜の出口
助手席の窓に映る街の灯が、流れるように遠ざかっていく。
車の中は、静かだった。
ラジオも音楽もかけていない。エアコンの送風音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、淡々と続いている。
夜中の2時。
東京を出て、首都高を抜けて、東名に乗った。今はもう、静岡のあたりだったと思う。道路標識が一瞬だけヘッドライトに照らされて、すぐに後ろへ消える。
私は、窓の外を見ていた。
さっきまで話していたことは思い出せない。くだらないテレビの話とか、コンビニの肉まんがいつから売られてるかとか、そんな内容だった気がする。
「……眠くない?」
彼が言った。ハンドルを軽く持ちながら、視線は前を向いたまま。
私は首を横に振った。
「ううん、大丈夫。そっちは?」
「うん。まだいける。コーヒーあるし」
「無理しないでね」
「わかってる」
そのあと、また沈黙が落ちた。
深夜の高速道路って、どこまでも続いている気がする。
だけど、同時にどこにもたどり着かない気もする。
このドライブもそうだ。
「ちょっと走る?」って彼が言って、なんとなくうなずいて、そのまま夜の街を出た。目的地は決めなかった。ただ、走っていたい夜だった。
本当は、なんとなくわかっていた。
何かが、終わりに近づいていること。
彼の横顔を見た。少し痩せた気がする。
目の下にうっすら影があって、それでもハンドルを握る手は穏やかで、どこか遠くを見ているような目だった。
「……最近、仕事忙しいんだっけ」
思わず、そう口にしていた。
「まあね。バタバタしてる。先輩が辞めちゃって、その分カバーしてる」
「そっか」
「けどまあ、なんとか。慣れてきたよ」
「……疲れてない?」
彼はすこし笑って、片手でペットボトルのコーヒーを持ち上げた。
ラベルが逆さまになったまま飲んで、また片手で置いた。
「疲れてるよ、そりゃ。でもまあ、みんなそんなもんでしょ」
私はそれ以上、何も言わなかった。
きっと、私の中で鳴っているアラームは、彼には聞こえていない。
彼の中にも、もしかしたら別のアラームが鳴っていて、それは私には聞こえてない。
「さっき、あのSA寄ってもよかったかもね」
「ん? なんで?」
「眠気覚ましにさ、ポテトとか買って、食べながら走るの好きだったじゃん」
彼はちょっとだけ眉を上げて、思い出すように笑った。
「ああ、あったね。よくやってた」
「夜中にポテト食べて、胃もたれして、後悔して、また次の週もやってた」
「うん、バカだよね。あのころ」
あのころ、っていう言い方が引っかかった。
でも、指摘しなかった。
「またやる?」と、私は言った。
「次、どこかのSAで、買って食べようよ」
彼は少し黙って、それから答えた。
「……そうだね。どっかで休憩しようか」
そう言ったけれど、その言葉には、もう熱がなかった。
私はわかっていた。
このドライブは、たぶん“最後の”何かだということを。
口には出していない。出したくない。けれど、心の中にはずっとそれがあった。
彼がブレーキを少し踏んで、車線を変える。
前方に小さく、サービスエリアの案内板が見えた。
次の出口まで、あと12km。
なんとなく、ポケットに入れていたリップクリームを指で回した。
何か言いたかった。何か、ちゃんとした言葉を。
でも、喉の奥で全部がまとまらなくて、何も出てこなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「このまま、朝になったらさ、どこ行く?」
唐突に、そう訊いた。
彼は少しだけ驚いたように首をかしげた。
「どこ行きたい?」
「どこでもいい。海でも、山でも。……誰もいない場所でもいい」
彼は少しだけ笑って、まっすぐ前を見た。
答えは返ってこなかった。
サービスエリアの入り口が近づいてきた。ウィンカーが一度、点いた。
でも、彼はそのまま直進した。
何も言わずに、ランプを消して、またアクセルを踏んだ。
窓の外、オレンジ色の照明がひとつずつ流れていく。
私は、少しだけ目を閉じた。
そして、たぶんこのまま、何も言わずに朝が来るんだろうなと思った。
きっと、もう終わる。でも、いま終わらせたくはない。
そんな風に思っていた。
別れ話なんて、しない。
ただ、このまま、走り続けるだけ。
タイヤの音だけが、夜の奥へ奥へと消えていった。
どこかに出口があるのか、ないのかもわからないまま。