樹と〇〇
怪訝な眼差しを向ける夏穂に、樹は何も言わなかった。レジで会計をする千秋を遠目に見ながら、彼は目を細めて笑う。苦しみも悲しみも、彼は決して表に出さない。それは強がりなどではなかった。
「……大丈夫?」
陽葵が彼の手を握って、上目遣いで心配そうに問いかける。彼が表情に出さなくとも、彼女だけはいつも、彼の本心を察して寄り添ってくれる。そしてそれが、彼が自分の気持ちを隠すようになった理由だ。
「……うん」
樹の目には、彼女しか映っていない。他の誰に理解されずとも、彼女が分かってくれるなら、彼にとってはそれで良かった。
(英雄、なんて。そんなの嘘だ。僕は自分のためにしか生きていない)
かつての仲間ですら、樹の本質を理解してはいない、そこに踏み込んだのは、昔も今も1人だけ。
「おい、何をしている。行くぞ」
玲央が声をかけてくる。樹の全てを知った上で、敵として相対した男。彼も樹にとっては、唯一無二の相手だった。
「……そうだね」
殺すことは、惜しかった。彼が樹を気に入っているのと同じように、樹も彼のことを評価している。殺し殺される関係ではなく、もっと違う場所で会えたらと。そう思ったこともあった。
「制限時間もなくなったことだし、改めて決着をつけようか」
今の世界で出会ったことで、望みは半分叶っている。玲央が陽葵を傷つけないことが確定して、そういう意味では安心もしている。そして、その上で。樹は宣戦布告した。玲央はそれを受けて、楽しそうに笑む。
「……まさか、お前から提案してくるとはな。いいだろう。俺もちょうど、不完全燃焼だったところだ」
その言葉に、樹は柔らかな笑顔を浮かべて答える。競い合うのも、彼にとっては楽しいことだ。陽葵たちが呆れたような顔をして2人を見る。けれど誰も止めようとせず、彼らは揃ってゲームセンターに戻っていった。そんな6人を、後ろから追いかける小さな影。
「……樹様、楽しそう……」
壁の裏に隠れた影……姫依はポツリと呟いた。毎日毎晩、彼を探して、いつ会ってもいいように万全の状態を整えていたのに。
「やっぱり、あの子といる方がいいのね。……分かっていたけど」
ピンク色のマニキュアを塗って、白いラインストーンを花柄に並べた爪を見つめながら。彼女は憂い顔で呟いた。どんなに綺麗に飾り立てても、愛しい人が見てくれることはない。
「殺すのもダメ、奪うのもムリ……いいえ、すぐに諦めるのは良くないわ。せっかく同じ世界に生まれ変わることができたのだもの。まずは少しずつ近づいて、あの子に警戒されないようにしましょう」
壁に背をつけて、手を翳しながら。彼女は自分に気合を入れ直す。そして再び、愛しい人の跡をつけた。




