玲央の家での勉強会(後編)
玲央は倒れたまま、姉を見上げた。樹にも、同じことを言われた覚えがある。
(……俺は)
本当は自分でも気づいていた。それでも目を逸らそうとしていたのは、それが不要なものとして切り捨てたはずの感情だったから。ただの人間、誰よりも弱く儚い生き物に、そんな気持ちを向ける自分が許せなかった。
(……陽葵、俺はお前のことを……)
それでも誤魔化しきれなくて、心が痛む。まるで人間になったようだと、そう思いかけて彼は唐突に気づいた。
(……そうか。俺はもう、魔王ではないのか)
この世界に魔法はなく、この世界に魔族はいない。かつての部下にも、自分のことを覚えていない者がいる。頭では分かっていた事実を、彼はようやく飲み込めた。
(それなら、良いか)
魔王として振る舞うことを、苦痛に感じたことはない。その上で。疑問も抱かず歩んできた道から離れて、彼は自分の気持ちに正直になることを選んだ。
「…………俺は、陽葵のことが好きです。愛しています。この世界の誰よりも……あいつ、よりも。彼女を幸せにする自信があります」
冷めた瞳で見下ろしてくる姉を真っ向から見返して、彼は掠れた声で言った。そんな弟の姿に、千秋は呆れたような顔をする。
「気づくのがおせーんだよ、バカ弟」
救急箱を抱えた渚が、庭木の陰から2人を覗き見ている。千秋は彼女の方に視線を向けて、ため息をついた。
「悪いな渚。こんなヤツに付き合わせちまって」
「……ううん、大丈夫。それに少し懐かしかったよ」
渚が柔らかく微笑む。彼女は座り込んだ玲央に近づいて、その横に箱を置いた。
「君は本当に、ちーちゃんとそっくりね。ほら、動かないで。絆創膏を貼ってあげるから」
ニコニコと笑いながら、渚は玲央の傷を消毒して、その上にガーゼを当てて固定していく。その表情が陽葵と重なって、玲央はされるがままになっていた。その様子を、千秋が複雑そうな顔で見ている。
「別に、アタシはやられっぱなしじゃ無かったし」
「それって誇るようなことじゃないでしょ。……ほらできた。姉弟ゲンカもいいけど、あんまり無茶はしないでね」
渚が手当を終わらせて笑みを深める。千秋は不貞腐れたような表情でそっぽを向いた。玲央はゆっくりと立ち上がって、渚に向かって頭を下げる。
「……ありがとうございます。色々と、迷惑をかけてしまって……」
「気にしないで。私がしたくてしてることだから」
渚が消毒液やガーゼを片付けて、箱の蓋を閉める。その手元を見つめながら、玲央は淡白な声音で続けた。
「いえ、今のこともそうですが……姉がお世話になったようなので」
その言葉に、千秋が目を細めて拳を握る。彼女は迷わず、弟の頭に向かってその手を振り下ろした。玲央は振り返らず、手を伸ばしてその拳を受け止める。その一連の攻防に、渚は苦笑いを浮かべていた。




