逃亡(前編)
「……さて、それはどうかな?」
長い静寂の後。最初に口を開いたのは玲央だった。彼はゆっくりと、陽葵に向かって歩み寄る。
「佐藤陽葵。お前は常に、我の想像を超えていく。……見ているだけで飽きぬ女だ」
彼が陽葵の背後に立つ。樹は険しい表情になって、陽葵を自分の腕の中に抱え込んだ。玲央がそれを見て笑みを深める。
「御門樹。我が永遠の宿敵よ。その女は、まだ貴様の物ではないだろう? 手を離せ」
「それは聞けない」
樹が低い声を出す。
「君に陽葵を渡すわけにはいかない。絶対に」
少女を挟んで、2人の少年が睨み合う。少女は戸惑い顔で、されるがままになっていた。
(……どうして?)
訳が分からない。何故こんな事になっているのか。これからどうしたらいいのか。疑問で埋め尽くされた頭で、唯一考えられたのは、側にいる親友のことだけだった。助けてほしいと視線で訴えると、彼女は頭を抱えて深いため息をつく。
「……ああもう、アンタは……!」
夏穂は少し後退し、そこから全力で走ってきて樹にぶつかる。予想外の方向から攻撃された彼は、その瞬間だけ、陽葵を抱く腕の力を緩めた。陽葵はその隙に逃げて、友人に向かって手を伸ばす。
「走るよ、陽葵!」
手を繋いで、彼女が叫ぶ。陽葵は頷いて、必死で足を動かした。後ろにいる少年たちは、まだ追ってきていない。とはいえ、それは一時的なものでしかなかった。
「……どうしよう、夏穂」
「どうしようったって、こうなったらもう行くところなんて1つでしょ」
息を上げながら、彼女たちは階段を駆け下りて職員室に飛び込む。次の授業の準備をしていた化学の先生が、突然入ってきた2人を見て目を白黒させた。
「あれぇ? 佐藤さんと東雲さん? ど、どうしたんですかぁ、急に……。今って5時間目の最中ですよね?」
「すいません先生、訳は後で話すので! とりあえず匿ってください!」
夏穂が教師に向かって叫ぶ。教師は不思議そうな顔で、職員室の隅に移動する少女たちを見ていた。そして、彼女が首を傾げながら扉を閉めようとした時に、上から生徒が下りてくる。
「……すいません、先生。今、友人を探しているんですが……こちらに来ていませんか?」
柔らかい笑みを浮かべた彼は、教師の間でも評判の優等生だった。化学教師は彼を見て、少し黙った後に返す。
「……いいえ? 私はずっとここに居ましたけど、誰も来ていませんよぉ。それより樹くん、次は私の授業でしょう? 前の授業もそろそろ終わりますし、せっかくですから先生と一緒に行きましょう。君の後ろにいる困ったちゃんも、そろそろ出席していただかないと単位が足りませんし」
教師は笑顔でそう言って、樹の後から下りてきた玲央に視線を向けた。玲央がしまったという顔をして踵を返す。教師はそんな彼を見て、目を光らせた。
「あ。樹くん、その子捕まえておいてくださいね〜」
穏やかな声音で釘を差されて、樹が苦笑を浮かべる。彼はすかさず玲央の腕を掴んで、そのまま教師と共に移動していった。




