春奈が語る、彼の話(後編)
「昔は、樹に面と向かって詰め寄ったこともある。陽葵に迷惑がられるだろうと。だが奴はそんな時、いつも寂しそうに笑うだけだった。……しばらくして、俺は奴がそこまで拘る意味を知った。あの男は陽葵と別れた時のことを、毎晩夢に見ていたんだ」
その言葉に、夏穂が苦い顔をする。春奈は真顔で続けた。
「とはいえ、それも既に終わったことだ。奴がどう思っていようと、そんなことは関係がない。……陽葵。嫌になったら、遠慮なく言え。お前に本気で嫌われたら、樹も諦めがつくだろう」
声をかけられた陽葵は、何度か瞬きをした。そして彼女は、遠慮がちに口を開く。
「……えっと、あの……別に嫌だとは思わないけど……?」
何が問題なのかも分かっていない顔で、少女は首を傾げている。その両肩を、渚が掴んだ。
「陽葵。それはちょっと、どうかと思うわ。樹くんが暴走したらどうする気?」
「樹が……? 大丈夫よ、お姉ちゃん。そんなこと、あり得ないから」
陽葵は真顔で言い切った。それを見て、渚が深いため息をつく。
「……全くもう。まだ、彼とは会ったばかりでしょ、あなた。どうしてそんなに、樹くんのことを信じてるの」
「……まあ、その。ずっと見てきたから、かな?」
陽葵が苦笑を浮かべている。その横をすり抜けて、千秋は体を洗いに行きながら口を挟んだ。
「もういいだろ、渚。心配なのは分かるけど、ここまで来たらどうしようもねえし。今から山を降りるってのも、現実的じゃねえ。今日はアタシたちがいるんだから、できるだけ2人きりにしないように気をつけてれば、大したことにはならねえよ」
親友の言葉に、渚はもう1度ため息をついて、妹の体から手を離す。そして彼女は、陽葵の手を引きながら言った。
「……それもそうね。陽葵。あなたには、これからちゃんと教えるから」
その言葉を聞きながら、少女は姉に連れられていく。そして入口の近くには、夏穂と春奈だけが残された。
「……なんつーか、馬鹿だとは思うけどさあ」
姉の話を、笑顔で聞いている陽葵。それを遠目に見ながら、夏穂は小声で呟いた。
「少なくとも今は、アイツの望みが叶ってんだな。それはまあ、オレも良かったとは思う」
彼女の言葉に、春奈は目を細めて頷く。そして2人は、無言で陽葵たちの隣に移動した。姉の小言に飽きていた陽葵が、近づいてきた親友に向かって声をかける。
「あっ、夏穂! 何してたの、早く体を洗って、一緒にお風呂に入ろうよ」
「……いいけど。アタシも正直、渚さんと同意見だからね。アンタはもう少し、危機感を持ちなさい」
夏穂は呆れ顔で返して、友人を見返す。少女は相変わらず、よく分かっていないような顔をしていた。