第33話 勃発
それは良く晴れた朝だった。
かなり寒くなりつつあったが庸介は喚起のために自室の窓を開けて、テーブルで本を読んでいた。図書館の本はあらかた読みつくしてしまったので、最近は桃華が持っている本を借りて読むことも多い。この本も、そのうちの一冊だった。西欧の文化について書いてあるのが面白い。
そのとき、窓の方からカタンと音が聞こえた。顔を上げると、窓枠にキョンが留まっている。
「キョン、おはよう。おいで」
右手を差し出すと、キョンはすいっと飛んで庸介の腕に留まる。よく見るとキョンの脚には小さな布が括りつけられていた。香蓮からの文だ。
香蓮とは朱雀宮を訪れて以来、何度もキョンを通して文のやり取りをしていた。
キョンを使って運べるのは小さい紙切れや布だけなのであまり量は書けないのだが、女官を通さず直接やりとりするにはこれしか手段がない。
キョンをテーブルの上に降ろすと、脚に結ばれている布を外してやる。
くるくると丸められて紐のようになっていた布を開けば、香蓮の丸っこい字が現れた。
そこに書きつけられた内容を見た瞬間、庸介は思わず立ち上がった。
(ついに、はじまるのか)
今日の巳正一刻に、後宮の北門を開けるよう父親から指示があったというのだ。
巳正一刻というと、朝の十時を指す。ちなみにこの時代、時計は冷蔵庫くらいの大きさの水時計が主流らしく、個人所有するようなものではない。この後宮にも月光苑の端の時計小屋に、専属の宦官が管理している水時計があるだけだ。
(いま何時だ? だいたい朝食がいつも六時くらいだから、それから二時間経ったところか。となるとあと残り二時間あるかどうかか?)
時間がない。庸介はそばに控えていた杏梨へ手短に告げる。
「杏梨、今すぐ白虎宮の女官たちを全員この部屋に集めて」
杏梨は、「は、はいっ」と緊張した面持ちで応えると、すぐさま廊下へと駆けて行った。
その間に、庸介は机から硯箱とキョンの脚につけるために用意してあった細布を取り出した。その細布に香蓮への返事をしたためる。この日のための打ち合わせは、キョンを通して何度もやりとりしてきた。上手くいくかはわからない。でも、やるしかない。
書き終わると布を細く丸めてキョンの脚につける。
「香蓮のところに、頼むね」
窓からキョンを放すと、パタパタと一直線に冬の空へ飛んでいく。すぐにキョンの姿は庭の木々に隠れて見えなくなった。
その頃には、白虎宮の女官たちが玉琳の部屋に続々とあつまってきていた。
みな、緊張に顔をこわばらせている。彼女たちには事前に軍部の謀反の可能性については知らせてあった。だから何が起ころうとしているのか察しているのだろう。
庸介は机の引き出しから二通の手紙を取り出すと、集まってくれた女官たちに向き直った。
「集まってくれてありがとう。今日という日がこなければよかったんだけど、さっき香蓮様から連絡があったの。今日の巳正一刻に劉将軍がついに行動を開始する」
女官たちが、息をのむのが分かった。場の空気が張りつめる。
庸介は彼女たちの緊張を少しでも和らげようと、微笑を浮かべて話しかけた。
「私はこれから、単独で行動するから。ごめんね、今日だけは白虎宮にいないことを許して。それと、あなたたちにはそれぞれ持ち場とやってほしいことを伝えてあったけど、それは強制じゃない。できる限りでいいから。できないと思えば白虎宮の扉を閉め切って閉じこもってもいい。だから、どうか今日を生き延びることを第一に考えてほしい」
彼女たちに手伝ってほしいけれど、無理強いはできない。彼女たちは兵士ではないのだ。みな、良家の出の娘たちなのだから、無茶な負担をかけるわけにはいかない。庸介はそう思っていた。
しかし、
「玉琳様」
女官たちの先頭にいた霜月が進み出る。
「どうしたの?」
霜月はまっすぐに庸介を見ると、自らの胸に右手をあてて、いつになく強い声で伝えてくる。
「私たちはみな高原の民です。故郷を離れても、騎馬民族としての誇りを忘れたことなどありません。玉琳様を置いて私たちだけ助かるようなことができますでしょうか。みな自分の役割を命を懸けて果たす所存です」
霜月はそう言うと、床に膝をつき頭を垂れた。すると、他の女官たちも次々と同様に膝を点いて頭を垂れていく。いつもは臆病な杏梨までも。誰一人欠けることなく、庸介の指示に従うとの意思表示だった。
庸介は目が潤みそうになりながら、
「みんな……、ありがとう。でも、絶対に命だけは最優先に大事にしてね。それだけは約束して」
そう伝えるのが精いっぱいだった。
もっと伝えたいことは沢山あったのだけど、ここで時間を使うわけにはいかない。
庸介は二通の手紙を桃華と玲蘭にそれぞれ届けるよう女官に頼むと、霜月たちとともに武器庫になっていた蔵を開けた。女官たちはそこから手に手に武器を持ち出していく。
庸介も自分用に確保してあった剣を腰に下げると、
「じゃあ、ちょっと行ってくるね!」
女官たちに声をかけ、白虎宮から走り去った。
早朝から朱雀宮の中はいつにない緊張と高揚感に包まれていた。
女官たちはみな帯剣し、巳正一刻が来るのをいまかいまかと待ちわびている。
朱雀宮の女官たちは全員が軍部での従軍経験がある。
軍部の兵士に女性はほとんどいないのだが、彼女たちは香蓮に女官として使えるために特別に養成された者たちだった。
一方、香蓮はというと、不安に押しつぶされそうになりながら自室にある窓際の机につっぷしていた。
これから起こることを考えると、心が重くなる。心臓が痛いほどに早くなっているのを感じる。いますぐ逃げ出したくてたまらない。
(怖い……。怖いよ……。お母さま……助けて)
そんな香蓮の耳元に、傍付の女官が顔を近づけて心に擦り込もうとするかのように言い含めてきた。
「香蓮様。あと少ししたら、北門に向かいますよ。あなたが北門を管理する宦官たちに門を開けるよう命令するのです。宦官たちも劉将軍の娘であるあなたの言葉を拒否することなどできませんから」
「……はい」
香蓮は小さな声でささやくように返すのが精いっぱいだった。
北門は城壁にあり、城の外と後宮とを繋ぐ門だ。香蓮が北門を開け、そこから父である劉将軍の息がかかった軍部の兵士たちが後宮に侵入し、後宮内を通過して最速で鳳凰殿に向かう手はずになっていた。
いま、鳳凰殿では外国使節の朝貢式が行われている。皇帝陛下や龍明皇太子は鳳凰殿にいるはずだ。父は、そこで彼らの息の根を止めたいと考えているようだった。
その計画の詳細を父から手紙で知らされたとき、香蓮はとても驚いた。
事前に聞いていた玉琳の予想と驚くほど一致していたからだ。
玉琳は他の姫とは違う雰囲気をもっている人だと香蓮は思う。朱雀宮の女官たちにも勇ましい女性たちは沢山いるが、玉琳は彼女たちとも違うように感じるのだ。
どんな相手をもとりこぼさず全力で助けようとする、そんな強さを感じていた。
彼女の毒殺を手引きした香蓮のことですら、信頼してくれている。どんな道を選ぶのかと、未来を示して尋ねてくれた。その答えを香蓮は出さなければならない。
そのとき、つっぷしていた香蓮の頭の上にポスっと一羽の鳥が舞い降りた。
顔をあげると、黒い鳥が机の上にトンと降りたつ。開けてあった窓から入ったのだろう、脚に文をつけたキョンだった。
先程、玉琳に出した文の返事が返ってきたのだ。急いでキョンの脚から手紙を外して、目を通す。
「香蓮様。それは、なんですか? 見せなさい」
文に気づいた女官が、香蓮から取り上げようと手をのばす。しかし、香蓮は文をとられまいと、ぎゅっと拳の中に握りこんだ。
香蓮は女官の手を振り払うと、立ち上がって椅子から机へと飛びうつる。そして、そのまま勢いに任せて開いていた窓から外へと跳び下りた。キョンも一緒について来る。
「香蓮様!? だれか、香蓮様を止めて!!」
背後から女官が騒ぎ立てる声が聞こえてくる。けれど、香蓮は止まらない。文を握ったまま庭を駆けだした。
文には、迎えに行くから門の外まで出てきて、と書いてあったのだ。
後ろから女官たちが追いかけてくる足音が聞こえる。出口の朱雀門の方からも立哨の女官たちが異変に気づいてこちらに駆け寄ってきていた。
このままでは挟み撃ちになってしまう。
香蓮は大きく息を吸い込むと、叫ぶように命じた。
「みんな、私を助けて!!」
この朱雀宮に香蓮の味方なんて一人もいない。誰も助けてくれるはずなどなかった。しかしそれは人間に限った話。
香蓮の声に呼応するように、木々に留まっていた鳥たちが一斉に鳴き始めた。まるで庭の木々が怒り狂っているかのような騒がしい鳴き声に、女官たちは怖気図いて一瞬足をとめる。そこに、
「香蓮様を捕まえなさい!」
白髪の女官長の声が飛んでくる。その声で我に返り、女官たちは再び香蓮を捕まえようとした。しかし、鳥たちは次々に飛び立つと女官たちに襲い掛かったのだ。爪でひっかき、嘴でついばみ、羽根で視界を遮った。
「きゃーっ」
「この、鳥たちめっ」
抜刀して斬りかかる女官もいたが、鳥たちは素早く飛んで華麗に刃を避けていく。
その騒ぎの中、香蓮は鳥に襲われる女官たちの間を縫うようにして、朱雀門へとたどり着く。あと一歩で門の外にでられるというところで、
「逃がすものかっ」
鳥に攻撃されながらも必死に追ってきた女官の一人が香蓮の髪を掴んだ。痛さとともに引き戻されそうになった香蓮だったが、
「香蓮様、しゃがんで!」
前から声が聞こえた。香蓮は反射的にしゃがみ込む。そこに、ぶんと風が吹いた。
「ぐえっ」
香蓮の髪を掴んでいた女官が、うめき声とともに後ろに倒れた。その拍子に掴まれていた手も離れる。
座り込んでいた香蓮は腕をグイっと引かれて立ち上がる。そこには、角材を担いでニッと笑う玉琳の姿があった。
「玉琳様っ!」
「香蓮様、お疲れ! ちょっと手伝って」
ほかの女官たちが追ってきているのが視界に映る。その前に二人で観音開きの門を閉じると、取っ手の部分に玉琳が持っていた角材を差し込んだ。それが閂となって、扉は開かない。女官たちは扉を開けようと体当たりしているようで、そのたびに扉が大きく揺れた。角材一本だけだといつか折れてしまいそうだが、
「へへ、ほかにも資材はいっぱい確保しておいたからね。これを、こうやって持ってて」
玉琳は角材の他にも木板を数枚と、釘とトンカチも持ってきていた。
玉琳にいわれて木板を扉に張り付けるようにして持っていると、玉琳が手際よく釘で板を扉に打ち付けていく。三枚も打ち付ければ、扉はがっちり固定されて簡単には開かなくなっていた。
朱雀宮の中ではいまも、たくさんの鳥たちの鳴き声と、女官たちの悲鳴が聞こていた。
「やったね」
玉琳は、香蓮に右手の親指を立てて笑う。
「これは……?」
「よくやった、って印。さあ、行こう。香蓮様」
「はいっ」
香蓮も笑って応える。指笛を作ってビューと鳴らすと、朱雀宮の方から一羽の鳥が飛んできた。香蓮が飼っている鳥の中で、一番大きな鳥の鷲だ。そしてこの鷲は、父からもらった鳥でもある。
玉琳のもとにもキョンが舞い降りる。二人は二羽の鳥を連れて、朱雀宮をあとにした。




