第18話 大切な人
目の前が真っ暗だった。
(なんだか、前にもこんなことあったな)
既視感を覚えて、それがいつだったのか思い出そうとするのに、頭の中に靄がかかったようでなにも思い出せない。
(なにか……あった気がするのに。大切な何か……)
自分の両手を見る。暗闇の中なのに自分の身体だけははっきり見えた。節ばった男の手だった。
(なんで、俺……)
いや、男なのだから男の手をしているのは当たり前じゃないかと思い直す。それなのに、なぜか拭えない小さな違和感が心の中にくすぶっていた。
その小さな違和感がとても大切なことだったように思うのに、何も思い出せない。
(ここ、どこなんだ。なんでこんなとこにいるんだろう)
顔をあげると、遠くに小さな光が見えた。
(そっか。あそこに行けばいいのか)
それが自然なことのように思えて、一歩踏み出したときだった。
左腕をぐいっと誰かに引かれた。
(え?)
いつの間に、そこにいたのだろうか。ずっと闇しかないと思っていたのに、すぐ隣に白い人影が見えた。ひらひらとした服を着た、小さく華奢な身体だ。鼻から上は闇に隠れて見えない。でも、その姿をとても懐かしく感じた。
ずっと会いたかった。そんな気がした。
彼女の桜貝のような唇が言う。
――とうとう行ってしまわれるのですか?
(行く? どこへ?)
彼女が哀しそうに俯く。同時に、雫が彼女の頬から落ちた。
――ごめんなさい。私があなたを引き留め続けたから、こんなことになってしまって。
(なんで謝るんだ? 俺はどこかに行きたかったわけじゃない。あいつが……!)
そう言葉にした途端、急に頭の中が鮮明になる。
気がつくと、彼女の肩を右手で掴んでいた。彼女が弾かれたようにハッと顔をあげる。
庸介は笑うと彼女に言った。
「俺、まだやり残したことがあった。まだいけない。玉琳」
「おい! 大丈夫かっ!! しっかりしろ! 目を覚ましてくれっ!! 頼む! 私を置いていくな!」
耳元で男の声が聞こえた。悲痛で、まるで泣いているような声だった。
ゆっくりと目を開けると、胸元に誰かの頭が見える。
大きな腕で抱き締められていた。
「りゅう、めい?」
名を呼べば、男は弾かれたように顔を上げた。
ぐしゃぐしゃに涙に濡れた男の顔が、信じられないものを見たかのような驚きに変わる。
口がわなわなと震え、ようやく一言絞り出す。
「生きて……」
「わりぃ、心配かけ」
言葉を言い終わる前に再び、かばっと抱き締められた。庸介の肩に顔を押し付けた龍明から、くぐもった声が聞こえてくる。
「心配させるな、頼む」
相当心配かけてしまったようだ。ようやく庸介も周りの状況がみえてきた。
(そっか。俺、毒で……。危うく龍明に愛する人の死を二回も経験させるとこだったんだな)
申し訳なさでいっぱいになってくる。
(あれ? そういや、いまはそれほど息苦しくない。それに痺れもピークをすぎたみたいだ)
どうやら毒の影響は一過性だったようだ。だからこそ、もう少し接種していれば呼吸困難で窒息死していてもおかしくはなかった。
死線をさまよいながらもなんとか意識が戻れたのは、玉琳の体力がぎりぎり保ってくれたからだ。
もし、粥しか食べずに寝たきりみたいな生活をしていた昔の玉琳のままだったら、間違いなく死んでいただろう。
庸介は、まだ痺れの残る右手で、ぽんぽんと龍明の背中を撫でる。
「絶対、お前が泣いてる気がしたから。戻らないわけにはいかないと思ったんだ」
そう口にしてから、あれ?いつそんなことを思ったんだっけ?と考え直す。昼食を口に含んだ瞬間違和感を感じて、吐き出して以降のことは、記憶があいまいだ。
そういえば、意識を失う直前、とにかく犯人を逃がしちゃいけないという一心で咄嗟に白虎宮の閉鎖を命じていたことを思い出す。
「白虎宮からは誰一人ださないでいてくれたか?」
龍明に尋ねると、彼は顔を上げて怒ったような表情で庸介を見つめ、そのまま庸介の身体を抱き上げた。
「まずは自分の身体を心配しろ!」
そのままお姫様抱っこで運ばれ、寝台に寝かされた。すぐに、医官に脈を取られたりと診察を受けさせられる。
そのときになって、部屋に龍明と医官だけでなく、女官たちが集まっていることに気がついた。
杏梨は目を潤ませて泣きそうになるのを必死にこらえているようだったし、いつもはクールな霜月までいまは憂いを帯びた顔をしている。
龍明にいたっては、普段は綺麗に後ろでまとめている髪が乱れ、顔は涙で濡れてせっかくのイケメンが台無しだ。
(ずいぶん、みんなに心配かけちゃったな……)
医官の診察を受けながら、そんなことを思う。
白虎宮のみんなが玉琳のことを心配し、意識が戻ったことに安堵しているように見えた。
しかし、この白虎宮の中には毒を盛った犯人がいるかもしれない。
一通り診察を受けた結果、医官の見立ては既に命にかかわるような危機は脱しており、あとは安静にして過ごすのがいいだろうということだった。血の巡りをよくする漢方を医局からもってきてくれるそうだ。
「そうか。よかった……」
心底疲れ切った様子で、龍明は寝台脇の椅子にどっしりと腰を下ろした。
庸介は寝台に横になったまま、まだ不安そうにしている女官たちに声をかける。
「ごめんなさい。みなさんには心配をかけましたね。でももう大丈夫。あとはゆっくり休んだら、すぐに元通りよくなるから。いまは龍明様と二人きりにしてもらってもいいかしら」
極力微笑んで女官たちに伝えると、女官はほっとした表情を浮かべ、深く頭を下げてすぐに部屋から去って行く。医官と、龍明が連れてきた宦官の近衛兵たちも部屋を出て、ようやく二人きりになった。
「あー、うっかりマジで死ぬとこだった。食事には気を付けてたつもりだったけど、まさか本当に自分ちで毒盛られるとは思わなかったよ」
寝台に仰向けになったままやれやれと呟く庸介を眺めて、龍明は額を押さえ深く長いため息をついた。
「お前が倒れた、毒を盛られたかもしれないと聞いたときは、本当に私の心臓まで止まりそうだったんだからな。身体はどうだ? おかしなところとかはないか?」
庸介は右手と左手を交互にグーパーしてみる。腕に痺れと強張る感じはあるが、倒れたときには足まで達していた痺れが、いまはかなり引いている。
呼吸もほとんど正常に戻っているし、口や顔にまだ麻痺が少し残っているが、話せないほどではない。ときどき、うっかり舌を噛みそうになるくらいだ。
「まだ痺れは残ってるけど、それほどじゃない。医官が言ってたみたいに、しばらく安静にしてたらよくなるんじゃないかな」
「そうか。……よかった。いま、お前の指示通り、白虎宮の女官たちはこの屋敷の中に全員とどめおいている。私の近衛兵たちが、屋敷の周りを誰一人出られないよう見張ってもいるからな。なにがあったのか、詳しく話してもらえるか?」
庸介は小さく頷くと、毒を盛られたときの状況を詳しく話して聞かせた。
「すぐに気を失っちまったから、それ以上のことはわからない。とにかく白虎宮の全員から詳しく話を聞いてみたいとこだな。ここの女官はほとんどが、玉琳の故郷から連れてきたやつらだろ? 一番若い杏梨ですら、もう一年以上ここに務めてる。住み込みで働いてるから、ほとんど大きな家族みたいなもんだ。それだけ見知った奴らの中に、外部から人間が混じれば絶対わかるはずなんだ」
「そうだな」
腕組みをして庸介の話を聞いていた龍明は大きく頷くものの、のっそりと起き上ろうとする庸介を慌てて押しとどめた。
「ちょっと待て! お前、自分が全員から聞き取りをするつもりか? その身体で?」
無理やり寝台に押し付けられた庸介は、不服そうに顔をむくれさせた。
「そのつもりだけど。せっかく現場を保全してもらったんだ。証拠を隠されたりする前に、とっととやっちまったほうがいいだろ?」
「いや、そうだが! いま、医官から大人しく寝ておけといわれたばかりだろ! ……なんだその不服そうな目は。……ああ、もう、わかった。わかったよ! そのかわり私も付き添わせてもらうからな。それで、少しでもいまより体調が悪そうに見えたら強制的に聞き取りは終わらせる。いいな?」
じろりと龍明に睨まれる。庸介は苦笑を返した。
「わかった。わかったから。泣いたり怒ったり、感情の忙しいやつだな」
「全部お前のせいだ!!」
そういうわけで、急遽、女官たちを一人ずつ玉琳の部屋に呼んで聞き取りを行うことになった。
聞き取った内容は、龍明が自ら紙に書きとるという。
そんなこと他の奴にやらせればいいのにと庸介は思ったが、まだ女官たちは容疑が晴れていないし、外部に極力漏らさないためには龍明の近衛兵などにやらせるわけにもいかない。結局、龍明しか任せられる者がいかった。