第10話 龍明の忠告
玉琳は高貴な生まれで、幼い時から上流階級の礼儀作法というものを教え込まれてきた。そのため、家柄・教養・美貌を兼ね備えた選りすぐりの淑女が全国から集められるこの後宮にあっても、優美で上品、可憐で教養豊かと評判が高かったそうだ。
……が、あいにく玉琳の身体に入っているだけの庸介にそんな知識も教養もあるはずがない。
脳内のどこかに記憶として残っていないかなと期待してみたこともあったが、どれだけ想い出そうとしても思い浮かぶのは庸介本人としての記憶ばかりだ。
というわけで、お茶会に出ようにも、それにふさわしい立ち居振る舞いなんて身に着けているはずもなかった。
(上流階級淑女のお茶会作法……なんていう動画があったら楽なのになぁ)
なんて思うモノの、動画なんてものがこの世界にあるはずもなく、仕方なく頼りになるのは本だけだった。
幸い、後宮には図書館があり、そこの本は自由に借りることができる。後宮にあるだけあって、礼儀作法についての本は充実していた。その中から使えそうなものを何冊か借りてきて読んでみることにした。
(上手くできる自信なんて、ないけどなぁ)
白虎宮の屋敷は三階建てだ。その二階にあるベランダのようなところに赤と金で彩られた陶器製のテーブルと、同じ陶器製の丸椅子が四つ置かれている。
そこに腰かけて本を読むのが最近のお気に入りだった。この世界にも四季はあって、いまは春らしいのだが、空気はからっとしておりかなり暖かく感じる。
晴れた日は、あまり風通しがいいとはいえない室内よりも外にいる方が気分がいい。
貴族の若い女性向けに書かれたとおぼしき礼儀作法の本を読みふけっていたら、「こんなところにいたのか」と声をかけられた。
低い男性の声だ。
この後宮でそんな低い声をしているのは、ただ一人しかいない。
後宮にも男性官吏はいるが、みな若いときに大事なあそこを取られた宦官ばかり。そのため、声も高めのものが多いのだ。
本から顔をあげると、予想通り、そこには龍明の姿があった。眉間に皺を寄せて腕を組んでいる。彼がこういう顔をしているときは、だいたい庸介が困ったことをしでかしたときだ。
「なんか文句ありそうだな?」
口を開くなり、庸介はそう声をかけた。龍明が人払いしたのか、先ほどまでそばに控えていた霜月の姿がない。龍明と二人だけならば、玉琳の口調を真似しなくて済むからずいぶん楽だ。
「文句とういうわけじゃないが、いま何をしているのだ?」
「何って、本を読んでるんだけど」
「いや、それじゃない。右手で何をしているのかと聞いているんだ」
庸介は指摘された右手を龍明に突き出す。その手にはこぶし大の石を握っていた。庭で拾った丸い白石だ。
「なにって、筋トレだけど」
先程から、本を読みながら右手でこの石を握って肘から下を上げ下げしていた。アームカールというやつだ。
「きんと? なんだそれは」
「体力づくりってことだよ」
栄養ある食事と散歩のおかげで、少しずつ体力もついてきた。そこでもう少し身体に負荷をかけて鍛えるために、最近は筋トレも付け加えることにしたのだ。
とはいえ、玉琳の身体は虚弱なので少しずつ慎重に負荷を増やして無理もしない程度にだが。
もう少し体力がついたら、池の周りをジョギングとかしたいところだ。
「体力……そ、そうか。お前、軍人だったな。まぁ、いい。くれぐれも無理をして玉琳の身体を壊すんじゃないぞ」
「俺だってまた寝たきりになるのは、まっぴらだ」
龍明は深く嘆息すると、向かいの椅子に腰かけた。眉間の皺がさらに深くなっているようにも見える。
「ところで、お前、今度、玄武宮で開かれるお茶会に出るそうだな」
玄武宮は玲蘭が住む屋敷の名だ。
「そうだけど?」
話が長くなりそうだったので、筋トレの石をテーブルの上に置いた。このあと、ベランダの欄干をつかって斜め腕立て伏せもしようと思っていたのに、龍明が傍にいる限り無理そうだ。
「四姫全員がそろうらしいじゃないか。そんなのに出て大丈夫なのか?」
ボロは出ないのか?とそれを心配しているらしい。一応、努力はしていることを見せるために、本を掲げてみせる。その題名を見て龍明は顎に手を当てた。
「付け焼刃で、なんとかなればいいけどな」
「もともと玉琳は動作がゆっくりしてるだろう? ほかの姫たちの真似をすればなんとかなるんじゃないかなと。そもそも、玉琳って身体が弱くてそういうお茶会とか公式行事にはほとんど顔を出さなかったって聞いたけど?」
だから、オリジナルの玉林の動きやしゃべりを知っている人間は白虎宮の外にはほとんどいない。元の玉琳と庸介を比べて違和感を持つ者は少ないだろう。
「まぁ、それもそうだが……それでもまったく出ていなかったわけじゃない。後宮に来たばかりの香蓮姫は別として、玉琳と同時期にここにきた玲蘭姫と桃華姫は玉琳の事を覚えているだろうからな。くれぐれもしくじるなよ」
「わかってるよ」
お茶会は三日後。いざとなれば体調が悪くなったふりをして退席すればいい、なんて考えていたら、龍明の視線が天井付近に向けられた。
「ところでさっきから気になっていたんだが、それはなんだ?」
天井からは鎖が垂れて、その先に鳥かごがぶら下げられている。鳥かごの中では、包帯を巻いた黒い小ぶりの鳥がちょこんとお座りし、くるりとした円らな瞳でこちらを見ていた。
「ああ、そいつはこの前、白虎宮の近くで大きな鳥に襲われてたのを拾ったんだ。背中を怪我してたが、薬を塗って、餌をやってたら元気になった。暗くなったら保温のために室内に入れるけど、最近は温かい日中はこうして外に出すようにしてるんだ」
黒い鳥は、キョンと一声鳴いた。
龍明は、鳥を見てふむと唸る。
「黒丸烏だな。城の外でもよく群れているな」
「あ、これ烏なんだ?」
ハシブトガラスなどと比べるとかなり小型で、鳴き声も可愛らしいので烏だとは思わなかった。
「小柄だが、烏の一種にはちがいない。とても頭の良い鳥だ。街で大道芸人が芸をさせていたのを見かけたことがある」
「へぇ……、お前、そんな頭のいい鳥だったんだな」
手を伸ばして鳥かごに指を入れると、黒丸烏は指に身体を擦りつけてくる。世話をしているうちにすっかり懐かれてしまっていた。
「そうだ。キョンって鳴くから、キョンって名前にしよう」
ふと思い立って口にすると、
「安直だな」
そんな反応が返ってきたので、思わずむすっと返す。
「うるせぇ」
すると、龍明はフフと口元に笑みを浮かべて立ち上がった。
「玉琳はそんな顔することなどなかったから、新鮮だな。やはりお前は別人なのだと思い知らされる」
「……お前の前でも、もっと玉琳っぽくしてろってか?」
龍明はじっと庸介を見下ろす。その視線は思いのほかあたたかい。
「いや、いい。むしろ玉琳のフリをするのは気が抜けず疲れるだろう。私といるときくらい素で過ごすといい。そのために人払いもさせたのだ。もう少し時間を作ってここにくることにしよう」
龍明は手を伸ばし、玉琳の頭に手を置いて優しく撫でると去って行った。
「……あいつ、いちいち頭撫でていくよな」
男に撫でられて嬉しいはずがないのに、なぜか龍明にそうされるのは嫌だとも思わなくなっていることを庸介は不思議に感じていた。