二章 バスは止まらない
「このバスの乗客は皆、ずっと見ているとどこか不可思議。見て、一番前の厚化粧マダム、私が知る限りではもう一時間近く化粧をしているのよ」
バスの一番前、左側の席には、横幅のあるマダムが座っていた。
足元には有名な洋服店の紙袋が大量に置かれ、マダム自身も大粒のパールネックレスを基本に、大きな宝石をあしらった指輪やゴールドのブレスレットで着飾っていた。メアリーの言うとおり、先程から手元がせわしなく動き、化粧に余念が無い。
「次は二列目、長いシルクハットの彼。さっきから汗ばかり拭っているし、きょろきょろしてばかり。それに、あのシルクハットはいくらなんでも長すぎよね」
二列目の右側の席には、黒いシルクハットをかぶった男が座っていたが、そのシルクハットは男の頭の大きさの割には大きい気がした。なにより、通常のシルクハットより大分高さがある。
そして、先程からずっとあたりを気にしているようで、時折滲んだ汗をハンカチで拭っていた。
「あとは私達の座席の前の列の東洋人の彼。さっきからずっと眠ったままよ」
リトル達が座っているのは一番後ろの座席で、その前列の右席には、赤いパーカーを着た男らしき人物がいる。
黒いキャップを深く被って俯いているが、肩が規則正しく上下に揺れている事から、彼が眠っているという推測は容易についた。バスの揺れによって時折ちらりと見える肌と髪の色のからしても、東洋人の若者であることが分かった。
「東洋人の前の席に座っている男を忘れていないかい、レディー」
リトルは悪戯っぽく笑った。
赤パーカーの東洋人の前の座席には、口ひげを生やした気品のある男性が座っていた。年齢は四十代前半といったところか。
一際目を惹くのは、彼が先程から片時も離さずに抱えている、巨大なトランクだった。大きさとしては十分バスの貨物入れに置いていてもおかしくないものだったが、彼は大事そうにトランクを抱えたままで、俯いた顔は神妙な面持ちだった。
メアリーは咳払いを一つすると、気を取り直したように話を再開した。
「まあ、怪しいのはこの四人ね」
「いや、五人だな」
「あら、私も数にいれるの? 別に構わないけど、私はリトルを疑ってなんかいないから安心して頂戴ね」
軽くウインクすると、彼女特有の好奇心溢れる瞳をリトルに向けた。
「リトル、あなたはどう思う?」
「そうだな……それより、メアリーの推理に興味があるな」
「あら、私の?」
「君には良い観察眼があるし、なにより、発想が柔軟で興味深そうだ」
メアリーは優秀なマジックでも見たかのように感激した。
「それはあなたの推理で見抜いたの?」
「どうかな、推理なんてものとはいえないさ。さあ、君の考えを聞かせて、メアリー」
リトルがメアリーの耳元に囁くと、メアリーは少し頬を赤らめたが、それはすぐに自分の考えを聞かせることができる興奮へと変わった。
「例えば、厚化粧マダムの場合……」
マダムといえば、バスに乗ってからずっと化粧をし続けているのがすごく気になるわ。
ほら、まだ化粧の手を止めない。あんなに厚く塗って、自分の素顔を隠そうとしているのかしら? なら、マダムが犯人っていうこともあり得なくは無いわね。
だって、女性って厚化粧を落としたら面白いくらいに別人になるでしょ?
そうね、あと、足元の大量のブランド店の紙袋。こんなバスにあんなに高価なものを無防備においているなんて、女性がすることじゃないわ。
よっぽど盗られない自信があるのか……もしかしたら、マダムは銀行で盗んだお金をさっさと物に変えて国境を越えようとしているのかもしれないわね。
だって、いくらお金持ちそうでも札束を持ち歩いていたら不自然でしょ?
でも、ジュエリーや高価なバッグなんかに変えられていたら、ごく自然に見えるわ。
「リトル・ウィット、何か分かった?」
メアリーは顔を高潮させつつ話を切った。今まで息継ぎもろくにせずに話し続けたのだ。
「分かったよ。君の想像や観察力はじつに愉快だということがね」
「まあ、いやだ。私は犯人を推理して欲しいのに」
メアリーは膨れつつも得意げな表情ではあった。
「では、シルクハットの彼のことはどう思う?」
リトル・ウィットがそう聞くと、メアリーは少し考え込むような動作をして、それから一層声を小さくして続けた。
「実のところ、彼が一番怪しいと思うわ。だって、さっきからきょろきょろしてばかり。あ、ほら、また汗を拭った」
長いシルクハットの彼……年齢は二十代後半かしら。でもそれよりもっと歳をとって見えるわね。それは彼がおどおどして、何かにおびえている風だからだわ。
さっきからちらちら後ろを向いたり、横を向いたり。
でも気になるのはあの長い長いシルクハット。あんなのかぶっていたら悪目立ちするわ。
それに、車内でも帽子を取らないのは変よね。
あぁ、もしかしたら盗んだお金をあのシルクハットの中に隠しているのかもしれないわ! だって、いくら何でも大きすぎるもの。もし手荷物を調べられても、帽子の中に入れてたらごまかせそうでしょ?
あと、咳払いだって多いわ。
彼が咳払いをするたびに、厚化粧マダムは不機嫌そうに顔をゆがめて彼を見るの。彼はただすまなそうに見返すだけだけど……ああ、そう思うと彼が犯人って線は薄いのかしら、だってそんなビクビクしてちゃ、強盗なんてことできなさそうだもの。
「困ったわ、一番怪しい人物が犯人とは限らないのね」
メアリーはむうっと手を口元にあてて考え込む。
リトルはその様子に小さく笑った。
「失礼しちゃう。私は真剣に考えてるのに」
メアリーは顔を赤くして、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
バスは速度を落とすことなく進んでいく。
特に悪い道というわけでもないのに、バスはよく揺れた。
とうに街は抜けていて、今は荒野を走っていた。タイヤから巻き上がる砂埃が窓を覆い、外の景色は黄色い靄がかかったかのようだった。
ごほん、ごほん。
わざとらしい咳払いが聴こえたかと思えば、シルクハットの男が何度も咳き込んでいた。
車内に男の咳払いだけが何度も響く。
その姿を一番前の席のマダムが恐ろしい形相で睨んでいる。大きなトランクの男も、眉根を寄せた。赤いパーカーの男は相変わらずピクリとも動かなかった。
突然、マダムが睨んだまま手を動かしたので、メアリーは身を乗り出してマダムの行動に注目した。しかし、マダムは上等な布を使ったティッシュ入れを取り出し、ティッシュで鼻をかんだだけだった。
「はぁ……つまんない。ここで拳銃でも取り出したらマダムが犯人決定なのに」
メアリーは力を抜いてバスの座席に背を預けた。金色のツインテールがぴょこんと揺れる。
「それは困るな、こんな狭い車内で銃なんて使われたら危ないじゃないか」
リトルは笑みを浮かべたままメアリーの顔を覗き込んだ。
「あなた、ちっとも困らなさそうな顔をしてるわよ」
「キミだってそうじゃないかい?」
リトルに聞かれ、メアリーは口ごもったが、「イジワルね」とだけ言って頬をふくらませた。
「さあ、推理の続きをしようじゃないか」
「あら、乗り気ね、リトル」
「キミの観察眼は実に面白い。知的好奇心を掻き立てられる」
リトルの賛辞に気を良くしたメアリーはリトルのほうに再び近づいた。
「そうね、次は東洋人の彼よ」
彼は……そうね、十代くらい? それとも二十代のはじめくらいかしら? とにかく若く見えるわ。
でも、彼のことは良くわからないわ。だって、ずっと眠ったままなんですもの。
でも変よね。こんなに揺れるバスの中で、平然と寝ているんですもの。
もうっ、また揺れた!
街の中を走っている時だって、カーブをぎりぎりで曲がっていたし、ガードレールに擦っていることもあった……なんて雑な運転かしら。信じられない!
……あぁ、もう、東洋人の彼の話だったのよね。
そうね、彼は帽子で隠れているから顔は見えないけれど、平凡そうで、銀行強盗には見えないわ。
でも、推理小説では一番犯人ではなさそうな人が犯人であることが多いのよ、だから、彼が犯人って線も捨てきれないわね。
例えば、彼は留学生で、こっちの学校に通っていた。でも、貧乏な苦学生だから生活していくお金が無くて銀行からお金を奪った。あとはこのバスで国境を越えて、適当な空港から東の故郷まで帰ってしまえば、警察はそうそう追えないでしょうね。
うーん、でも、帽子を深く被っているから学生っていう確証はないわね。実はかなりの年齢だったりして。
ああ、でも時折見える白い肌は艶やかで、肌理細やかそう。彼は絶対若いわ!
赤いパーカーはちょっと派手だけど、あれは東洋のセンスなのかしら?
でも、男が赤なんて、浮わついててだめ。男はね、黒やグレーのスーツをびしっと着こなすくらいの紳士にならなきゃダメよ。
いい? リトル・ウィットもそういう男性にならなきゃダメよ。
あなたは顔立ちはとても整っているから、将来は絶対いい男になるわ。でも、顔がいいからってそれだけで女の子にちやほやされてちゃダメよ。ほんとうにいい男っていうのは、一人の女性を生涯愛し続け、時には厳しく、時には穏やかに周りに接するような人よ。
メアリーは力説した。途中から論点がずれていたのだが、彼女は実に満足そうだ。
「わかった? リトル」
自分の意見に同意を求めて、メアリーは真剣にリトルを見つめる。
「よく、分かったよ」
リトルは柔らかい微笑を浮かべて返事をした。
メアリーはそれを見て顔を赤らめ、視線を泳がせた。
「わ、分かればいいのよ」
赤くなった自分の頬を両手で包み込んで、リトルに背中を向ける。小さな背中がさらに小さくなっていた。
じきにメアリーは気を取り直すようにリトルのほうに勢いよく向き直った。
「さあっ、つぎよ! 次にいきましょう! 次は……」
メアリーは語尾を弱めた。
急に落ち込んだように俯き、ツインテールの先っぽを小さな指でいじりだした。
「次は……そうね、あの大きなトランクの紳士よ」
「それについては僕の意見をキミに聞かせよう」
リトルの申し出に、メアリーの表情がぱあっと明るくなる。
「あなたの推理を聞かせてくれるのね?」
「いや、あくまでもキミが今まで言ったような考察に過ぎないよ。キミの観察眼には負けるかもしれないけどね」
大きなトランクを抱えた紳士……そうだな、彼は口髭を生やしていて、顔も疲れきっているように見えるところから、かなり歳をとって見えるな。
しかし、顔つきはしっかりしていて精悍だ。こげ茶のスーツを着こなし、頬はこけているが目尻は優しげで、口元は固く閉ざされている。
まさに、メアリー、キミの言っていた『理想の男性』を絵に描いたような紳士だ。
しかし、気になるのはあの大きすぎるトランク。あれは仕事用のスーツケースというより、旅行用のトランクだ。大きな荷物は皆、バスの下の貨物入れに入れているのに、なぜ彼はそのまま座席に持ってきたのだろうか。
座席はそんなに広くはないから、実に窮屈そうだ。しかも、彼はそのトランクを、宝物でも抱えるかのように大事に両手で抱いている。
彼の表情も不可解だ。このバスの乗客の中で一番沈んだ表情をしている。生真面目そうな男に見えるのに、スーツもしわがついてよれているし、身だしなみに気を使っているようには見えない。
「彼は一体なぜこのバスに乗っているのか……そしてあの大きなトランクの中身は何なのか……」
リトルは自分の考察を話終えると、メアリーのほうに首を傾けた。
メアリーはリトルに向かってニッコリ微笑んだ。
「これで乗客全員の観察は終わりね。といっても、今日の乗客はずいぶんと少ないけど」
「しかし、人数が少ないからこそ、それぞれの行動の奇妙さが際立って見える」
リトルは傍らに置いていた分厚い本を手に取り、それを読むわけでもなく、開いたり閉じたりして弄んだ。
「全員怪しくて、全員怪しくなくも見えるわ……はぁ、頭がパンクしちゃいそう。人を観察してあれこれ想像するのは好きだけど、人を疑うのって、いい気分じゃないわ」
メアリーは靴を脱いで、自分の足を座席の上で抱えた。右足、左足、右足と、交互につま先をぱたぱた動かす。
やがてメアリーは足の動きを止め、驚いたかのように肩を跳ね上がらせた。
「たいへん!」
その声は今まで小声で話していた分、かなり大きく聴こえたが、乗客は誰一人として振り向かなかった。
かわりにシルクハットの男がまた咳払いをし、マダムはくしゃみを二度してから鼻をかみ、化粧を直した。