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Episode.7 ちーちゃんと共同生活の始まり

 ピピピピ……


 いつもと変わらない電子音で目が覚める。

 一番に目に入るのは、無機質な天井。これもいつも通り。

 微睡ながら寝返りを打つ。ベッドを囲む薄いカーテンに映る、人影。再び落ちそうになった瞼をカッと開いて、千雪は飛び起きた。

 状況を理解するのに、数秒かかった。テープを巻き戻すように昨日のことを思い返して、ようやく樹の存在を認識し、一気に脱力した。

 昨日、この部屋にルームメイトが誕生したのだった。


「はあ……」


 起き抜けにいきなり動いたせいか、既に疲れた。千雪は布団にくるまって、二度寝しようと目を閉じる。樹は既に起床したらしく、物音が断続的に響いている。なるべく聞こえないフリをしようと思えば思うほど、その些細な音に耳を澄ませてしまい、目が冴えた。

 衣擦れの音がしなくなりホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、カーテンの綴じ目が勢いよく開いた。


「おはよう、ちーちゃん」


 千雪は咄嗟に頭から布団を被る。蓑虫のように布団に巻かれる千雪の上に、呆れたような樹の声が降って来た。


「……何やってんの?」


「…………」


「起きないと遅刻するよ? ほら――」


 布団を引き剥がそうとする樹に、千雪は力の限り抵抗した。


「分かってる! 今起きるから! 触んないで! あっち行って!」


 簀巻き状態から目だけ出して、樹を睨むように見上げる。樹は昨日と変わらず完璧な美人転入生に変装済みだ。偽のロングヘアも違和感なく装着されている。唯一昨日と違うのは、樹の頬に不格好に貼られた絆創膏だった。


「えー、すっげえ拒否するじゃん。傷つくなあ」


 樹は小さく溜息を吐くと「先に食堂行ってるから」と言い残して部屋を出て行った。

 玄関のドアが閉まる音がしてから、千雪は周囲を窺って慎重に起き上がる。


「……ったく、デリカシーのない男」


 もぞもぞと布団から抜け出して、千雪は大欠伸をする。

 寝起きの姿を他人に見られるなんてたまったもんじゃない。

 ましてや、同居人は男――そう、樹は男なのだ。

 その事実が、重くのしかかってくる。

 女学園に入ったはずなのに、何がどうしたらルームメイトが男という事態になるのだろう。


「……とんでもないことになった」


 千雪は溜息を吐きながら、壁にかけてある制服に手を伸ばした。


 突如現れた、千雪の過去を知る人物、樹。

 彼は千雪を探してこの学園に潜入してきたという。

 樹曰く、千雪は五歳の頃、彼と一緒に暮らしていた。そしてクリスマスの夜、千雪は樹の両親とともに樹の前から姿を消したらしい。

 だが残念ながら、千雪にその記憶はない。樹と暮らしていたことも、彼の両親のことも、何一つ思い出せない。

 髪を梳かしていた手がいつの間にか止まっていた。

 一晩経って冷静に考えると、樹の話は出来すぎのような気もしてくる。何せ、樹自身も当時の記憶に欠けている部分があるのだ。例え本人に偽っている自覚が無くとも、記憶は捏造できてしまう。事実と異なることを証言していてもおかしくはない。


「――――」


 心の中の天秤が、数分おきに揺れ動く。

 とにかく今は、樹の動向を観察しながら今後の出方を考えよう。

 そうとだけ決めて、千雪は部屋をあとにした。




◇  ◇




「――で、どうよ? 転入生との同居生活は。うまくやれそう?」


 昼休み、食堂で日替わり定食をつつきながら、陽子が待ってましたとばかりに訊いてきた。

 陽子の向かいの席で、千雪は目の前に鎮座するオムライスに視線と肩を落とす。


「何よ、随分とくたびれているじゃない。もしかして彼女、意外と面倒なタイプだったとか?」


「面倒というか……」


「えー、じゃあ何よ。極度の潔癖症?」


「そうじゃないんだけど……」


「鼾が五月蠅くて眠れなかった?」


「いたって静かでした……じゃなくて!」


「じゃないなら、何なの? さっさと言いなさいよ」


 陽子はそう言って、日替わり定食の生姜焼きを口に放り込んだ。千雪は葛藤しながら、もごもごと口の中で言葉ともつかない呻きを漏らす。

 美人転入生だと思っていたルームメイトの正体は、千雪に会うために女装して学園に潜入してきた男でした――そう告白できたら何て楽だろう。

 だが、流石に唯一の友人とはいえ、陽子に全てを話すことは憚られた。

 そもそも千雪は、陽子に自分の記憶の欠陥について何も知らせてはいない。樹の正体を話そうと思ったら、まず千雪自身の説明から始めなければならなくなる。とてもじゃないが、昼休み中に終わる話ではなくなるだろう。

 とにかくこの件は、他言無用――そう心に決めて、千雪は曖昧に言葉を濁した。


「ええと……いや、何もなかったわよ? 特別なことは」


「嘘」


「本当よ。林さん、とても良い人だったわ。ずっとひとりだった私に気を遣ってくれたりして。陽子が言うように、何か裏があるようにはとても見えなかったわ」


 陽子はトレーに箸を置くと、難しそうな顔をして腕を組んだ。


「アタシね、アンタのことが心配であれからちょっと林さんの周辺を探ってみたのよ」


「え……?」


 まさか、もう正体がバレた――?


「だけどね、何も出て来なかったの。転入前の学校も、家族構成も、何も分からない。アタシの情報網を持ってしても、彼女の個人情報が何も掴めなかったってわけ」


「そ、そう……」


 内心安堵しながら、相槌を打つ。だが陽子は不満そうに口を尖らせた。


「まるで故意に情報が隠されてるみたいじゃない? 怪しさ倍増よ。彼女が何者で、何のためにここに来たのか、それを隠そうとする動きがあるってことでしょ?」


「陽子も疑り深いわねえ……そんなに彼女のことが気になる? 話してみたけど、本当に普通だったわよ? 何も特別な感じはない、普通のお――女の子だったもの」


 危ない。うっかり口にするところだった。


「やだわ、千雪もすっかり彼女の虜? 悔しい。アタシの可愛い千雪を手籠めにするなんて」


「手籠めって、いつの時代よ……」


 ハンカチを噛む仕草をしてみせる陽子に呆れる千雪を見て、陽子はようやく柔和な笑みを浮かべた。


「ま、お互いうまくやってるならいいわ」


 何だかんだ言いながらも、陽子は千雪のことを本気で心配してくれる。千雪はそのことを素直に有難いと感じた。


「うん、ありがとね。気に掛けてくれて」


 やはり、近いうちに陽子にはちゃんと話をしよう。自分の過去も含めて全部。

 そう心に決めてスプーンを手に取った千雪に、新たな話題が降って来た。


「――それはそうと、ちゆきち、アンタ中間試験の結果はどうだったのよ?」


「うっ……」


 ようやく口に運ぼうとした冷めたオムライスが、手元のスプーンからポロリと落ちる。

 目の前の陽子がニヤついた顔をしている。


「あらあ、その顔ってことは、赤点ギリギリってとこかしら?」


「……全教科じゃないわよ? それに、ギリギリ補習は免れたもの」


「言い訳しないの! うちは一応進学校なんだから、試験は大事よ。直接内申に響くんだし。アンタが留年して一緒に卒業できないなんて、アタシ嫌だからね?」


「分かってるわよ」


 この学園が意外と偏差値が高いということを、去年一年で千雪は嫌と言うほど思い知らされた。これまでは試験期間は部屋に籠って勉強というのが定石だったが、今回は転入生の登場で浮足立った周囲の雰囲気に完全に吞まれ、勉強に身が入らなかったというのが事実だ。


「そうだ。せっかく同室なんだから、林さんに勉強見て貰ったら? 彼女、全科目で成績上位だったんだしさ。授業の後に分からなかったところ尋ねている子も割といるじゃない? 彼女、教え方も上手みたいだし。ここは同室の特権ってことで」


「うーん……」


 斜め前の席に座る樹は、相変わらず大勢の取り巻きに囲まれている。見覚えのある顔もちらほらあるが、ほとんどが他のクラスか他学年からの見物客だろう。昼休みの食堂は、教室の外に出た樹を拝む絶好のチャンスだ。


「でもそれって、他の子たちに恨まれそう……」


 女の嫉妬ほど怖いものはない。しかも教祖の愛人という噂の流布により、いまだに千雪に対して良い印象を持っていない生徒も多いはずだ。そんな中、人気者の樹と一つ屋根の下で暮らし、勉強まで教えて貰っていると広まればどうなるか、想像に難くない。

 陽子は樹を囲む集団を横目見てから、憐れむような目線を千雪に送って来た。


「アンタ、無駄に恨まれやすい体質だものね……」


「それって体質の問題?」


「じゃあ、呪われてる?」


「呪っ……ええ?」


「アタシが熱心な信者じゃなくて良かったわね。もしそうだったら、不幸が降りかかるのは信仰心が足りないからだって、アンタに延々とお説教してから修行に駆り出すわ」


「お、恐ろしい……」


 陽子の言うことが簡単に想像できてしまい、千雪は身震いした。

 信仰心というのはグラデーションのようになっていて、同じ信者と一口に言っても程度は様々だ。財産をほとんど喜捨するような家庭の子は時間外にも熱心に活動をしているし、それほどではない生徒は教義関連の時間も学校行事と割り切っている。

 陽子は信者の親戚に勧められてここに入ったのだと、出会った頃に教えて貰った。決め手は制服が可愛かったから、らしい。

 既に食事が済んだ陽子は、テーブルに肘を付きながら千雪がオムライスを頬ばるのを眺めた。


「……転入生のことも気がかりだけど、案外取り巻きの方が厄介かもしれないわね。どうせ彼女の部屋移動の件は数日で皆の耳に入るだろうし、そうなったら何か嫌がらせしてくる子が出てくるかもしれない。アンタ、暫くは身の回りに気を付けなさいね」


 千雪は崩れたオムライスの端をつつきながら、腹の底から溜息を吐いた。



「私の平穏な生活はどこにいったのかしら……」





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