Episode.10 ちーちゃんと過去の欠片
仙崎千雪が慌てた様子で人気のない道に入って行くのを見た。
どうやら誰かを追い駆けているようだった。
協力者の口から出た言葉に、嫌な考えが頭を過る。
千雪が追い駆けた相手――それはもしかして、あの手紙の差出人なのではないか。
だとしたら、千雪が危ない。あんな誹謗中傷の言葉を簡単に人に投げつけられる相手だ。追い詰めたらどんな行動をするか分からない。それに樹が目にしたのは嫌がらせの一部で、本当はもっと酷い仕打ちを受けていた可能性だってある。
「……っ、どうして何も言ってくれないんだよ!」
あの手紙の量からして、ここ一、二日のことではないはずだ。
少なくとも一週間程度、千雪は嫌がらせを受けていながら、樹に対して何事も無い態度を貫いていたのだ。
女学園に女装して潜入してきたというだけで、樹が怪しさ満点なのは仕方がない。だが、それを差し引いたとしても、改めて自分がまったく信用されていないことに、樹は愕然とした。
「……いや、そんなことは後だ」
まずは、千雪を見つけなければ。
雑念を振り払い、樹は千雪が目撃された通りに出る。千雪は三叉路の一番右側の道を歩いていったという。
樹は編入前に叩き込んだ園内のマップを、頭の中に広げた。千雪が入って行った道は、体育館の裏手に続いている。その先にはプールと用具倉庫があるのみだ。
気持ばかりが急く。半ば駆けながら道を辿ると、古びた倉庫が姿を現した。それ自体は何の変哲もない小さな倉庫だが、異常が起きていることは明らかだった。
扉の隙間から、白煙が漏れ出ていた。
樹は咄嗟に扉に飛びつき、思いっきり叩いた。
「くそっ……!」
だが、扉は開かない。南京錠が掛かっているのだ。
樹は一度扉から離れると、助走をつけて扉に体当たりした。古びた扉が、ミシッと音を立てて僅かに開く。その隙間から煙が一気に排出され、樹は思わずそれを吸い込んでしまった。
「うっ、けほ、っ……」
思いっきり噎せる。
火事の時のあの煤けた煙とは違う、妙に甘ったるいような、薬っぽいような奇妙な匂いがした。猛烈に不愉快なのに、どこか懐かしさを感じる匂いだ。
扉の隙間からは次から次へと煙が溢れ出て、中の様子が視認できない。樹は何度も扉に身体を叩きつけた。
耳障りな音がして、錆びた南京錠が落ちた。
雪崩れ込んだ倉庫の中はかなり薄暗かった。建物自体に窓がないせいか、逃げ場のない煙が充満している。外に向かっていく煙を掻きわけ、口と鼻を腕で覆いながら、樹は慎重に足を踏み入れた。
小ぢんまりとした空間に、機材や用具が雑多に詰め込まれている。これだけ煙が充満しているのに、火の手があがっている様子はない。
カラーコーン、長縄、バスケットボール、バレー用のネット。
ようやく物の判別がつくようになると、床に敷かれたマットの上に何かのシルエットが見えた。
「――――」
それは、人だった。
この学園の制服を着た女子生徒が、マットの上に倒れている。
乱れた髪が顔を覆っているが、樹にはすぐに分かった。
――千雪だ。
「ち――ちゃん……ちーちゃん! 千雪! おい、しっかりしろ!」
樹は自分が煙を吸うのも構わず、千雪の元に駆け寄った。肩を揺すってみても、反応はない。
「千雪! 千雪! 目え覚ませ!」
千雪はぐったりと目を閉じたまま動かない。小さな身体を抱き起すと、それまで千雪が倒れていたマットの上に点々とついた赤色が現われ、一瞬、息が止まった。
腕の中に抱えた千雪のこめかみから、一筋の血が流れる。
「ち、ゆき――」
樹は祈る思いで、千雪の口元に耳を寄せた。暗闇に紛れて、微かに呼吸の音がした。
「生きてる……っ!」
安堵した途端、樹は眩暈に襲われてきつく目を閉じた。
この煙はどうにも嫌な感じがした。千雪がここに閉じ込められてからそう時間は経っていないはずだが、それでも大量に煙を吸っている可能性は十分にある。早くここから出なければ。
「……千雪。俺が絶対に助けるからな」
樹は眩暈を振り払い、千雪を背負った。扉を開けるのに酷使した右肩が痛んだが、歯を食いしばって立ち上がる。
千雪は平均身長よりさらに小柄な体格だが、それでも意識のない人間は重い。千雪を落さないようにしっかりと抱えて、樹は用具倉庫を出た。
◇ ◇
ゆらゆらと一定のリズムを刻む心地良い振動に、フッと意識が浮上した。
――ここは、どこだろう。
何だか地に足着かない、ふわふわとしたところにいるみたいだ。
千雪は振動に身を任せながら、ぼんやりと考える。
私、どうしたんだろう。今まで何をしていたんだろう……
うまく瞼が持ち上がらなくて、周りがよく見えない。漠然とした暗闇だけが広がっている。だけど不思議と怖くはなかった。すぐ近くに誰かがいる気配がしたのだ。
誰かは分からない。
けれど、とても懐かしい匂いと、温かい体温に、心が安らいだ。
ゆらゆらと揺れる感覚が、次第に何かを思い出させた。
あれは、幼い日の夏のこと。
恐らく――四歳か、五歳ぐらいだ。
その年の夏の始め、私は知らない家に引き取られて、知らない人たちと家族のようなものになった。
私を引き取った家の人たちは、ごく普通の人たちだった。
父親と母親と子どもがいて、田舎のさほど大きくもない一軒家に住む、ごく普通の家族。
両親は共働きだった。だから、朝から晩まで子どもだけで留守番していることが多かった。
住宅街の片隅に建つその家の目の前には、小さな公園があった。
私たちは毎日その公園で遊んだ。
砂遊び、縄跳び、鬼ごっこ――だるまさんが転んだも好きだった。
その夏の終わりのことだった。
日が暮れかけた公園で、私は漕いでいたブランコから落ちた。
怪我は大したことなかったのに、擦りむいた膝の痛みと地面に激突した驚きで、腰が抜けたまま泣きじゃくった。
座り込んで動かない私を見かねて、一緒に遊んでいたその家の子が私を負ぶってくれた。
大人ならいざ知らず、まだ五歳の子どもにとっては、道路一本渡るだけでも遠い道のりだったはずだ。
それでも懸命に、泣き止まない私を背負って、歩いた。
――だいじょうぶだから。
その子は――そう、男の子だった――絶え絶えになった息のもと、何度もそう励ましてくれた。
――ぜったいに、ちーちゃんをたすけるから。
その言葉が、背中が、温かくて、くすぐったくて、酷く安心したのを覚えている。
焦げ茶色の目がとても印象的な男の子――
ああそうだ。
あれは樹だ。
十年前、たった半年だったけど一緒に暮らしていた男の子。
結婚しよう。そうプロポーズしてくれた男の子。
あれは、樹だ。間違いない。
思い出した。
何で今になって思い出せたのか、分からないけれど。
でも。
もう一つ、大事なことを思い出した。
あの時。
樹に背負われた私の背中を――もうひとり、別の誰かが撫でてくれていた。
それは、あの家にいたもうひとりの子ども。
樹と対照的な、黒い瞳のその子。
引っ込み思案で、いつも樹の背中を追っていたその子は。
その子は、そうだ――樹の双子の弟だ。
Chapter.1完




