Episode.1 ちーちゃんと開かれたパンドラの箱
――……ちゃん。
――ちーちゃん。
誰かが私を呼んでいる――そう認識するや否や、ぼんやりとしていた視界が急速に晴れていく。
はっきりとした輪郭を結び、目の前に現れたのは、幼い男の子。
記憶を探るようにその子を見る。
五、六歳ぐらいだろうか。人形みたいに綺麗な子だ。
薄茶色のサラサラの髪の毛に、ぱっちりとした大きな目。着ている服に戦隊ものの絵がプリントされていなければ、多分、女の子だと思っただろう。
その子はふっくらとした頬を上気させ、再び私の名前を呼んだ。
――ねえ、ちーちゃん。
純粋で真っ直ぐな声が、私の記憶の扉を叩く。
嗚呼、私はこの子を知っている――
そう思い出した途端、記憶を再現するように周囲の景色が鮮明になった。
そこは、家の中だった。清潔で、温もりが感じられる家。
窓の外にはしんしんと雪が降り積もっている。窓辺には、子どもの背丈より大きなもみの木。その下に積まれた、幾つものプレゼントの包み。
部屋の中央には大きなテーブルがあり、食事の用意が整っている。席は五人分だ。大人が二人、子どもが三人――子ども用には可愛らしい木製のカトラリーが準備されている。
ありふれた、しかしあまりにも出来すぎているクリスマスの光景。あとはテーブルの席が埋まれば完璧だ。そうすればこの絵画のような光景が、一片の欠けもなく完成される。
だが、ここには私とこの子以外、誰もいない。誰かが現れる気配もない。
テーブルの上、豪華な料理から立ち上る湯気が虚しさを誘う。
あの席は、私と、この子と、あと誰のための席なのだろう。
――ちーちゃんってば。きいてよ。ぼくをみて。
テーブルの方にばかり気を取られている私に、男の子は頬を膨らませた。
今から大事なことを言うからちゃんと聞いていて、絶対だよ。そう前置きをすると、その子は咳払いの真似をした後、大きな声ではっきりと言った。
――ちーちゃん。いっしょうのおねがい。ぼくとけっこんしてください!
その子はギュッと目を瞑ると、右手を差し出し勢いよく頭を下げた。
私は驚かなかった。何故なら、そう言われることを予期していたのだ。
私はその子のつむじと真っ赤になった耳を、冷静に見下ろした。重力に耐えているのか、返事を待つ緊張か、差し出された右手の指先は震えている。
その子の背後に見える大きなテーブルには、やはり誰もいない。さっきからそのことばかりが気になった。
――ねえ。
返事は決まっていた。けれど、その前に訊かなければならないことがある。
――なあに? ちーちゃん。
――君は、誰?
尋ねると、その子は顔を上げて小首を傾げた。
――ちーちゃん、ぼくのこと、わすれちゃったの?
悲しいというより、不思議そうな顔をした。
――そう。だから、教えて。君の名前は?
――ぼくはね、
言いかけたその子の声に重なるように、規則的な電子音が響いた。
口の動きだけがスローモーションのように目に焼き付いて、肝心の内容が聞き取れない。もう一度、と思った視界がぐにゃりと曲がる。
その子の姿が遠のいていく。
待って、行かないで。
私を独りにしないで。
必死で手を伸ばした私に、どこからともなくその子の声だけが届いた。
――だいじょうぶだよ、ちーちゃん。ぼくたち、きっともうすぐあえるから。
伸ばした指先は、何も掴めなかった。
◇ ◇
ピピピピ……
目を開けると、いつもと変わりない無機質な天井が現れる。
けたたましい目覚まし時計の音が、女子寮三階の一室を満たした。
「……うるさ……」
三〇一号室の住人――仙崎千雪は、悪態を吐きながら手探りで目覚まし時計を叩いた。無音になった部屋の中、しばらくしてからのっそりと上半身を起こす。
「……はあ」
両手で顔を覆うと、つい今しがた見ていた夢の内容が押し寄せる。
雪の降るクリスマスの夜。
ツリーの下のプレゼント。
温かい料理、埋まらない席。
そしてあの、見覚えのある男の子。
――ちーちゃん。いっしょうのおねがい。ぼくとけっこんしてください!
どうしてこんな夢を見てしまったのだろう。
これが無意識に作り出された願望だとしたら、年甲斐もなく恥ずかしすぎる。
だけどもし、これが昔本当にあった出来事だったとしたら――
――だいじょうぶだよ、ちーちゃん。ぼくたち、きっともうすぐあえるから。
妙に確信めいた言葉に、今度は胸騒ぎがした。
予知夢だろうか。そんなもの、これまで一度も見たことなかったのに。
「……でも」
もしあの子が本当に過去の幻影だったとしたら。この一年間、千雪が見て見ぬふりをしてきた事実に、そろそろ向き合えという己からのメッセージかもしれない。
千雪は寝ぐせがついたままの頭を搔きまわした。
「ああ、もう、面倒臭い……」
最近ようやく平穏な日常に馴れて来たのだ。この生活を乱すようなことはしたくない。
例え紛い物だとしても、自分の居場所はこの学園以外にはないのだから。
「――っと、まずい」
時計を見ると、目覚ましを止めてからかなりの時間が経過していた。ぼんやりしすぎた。あと数分後には部屋を出ないと遅刻する。残念ながら朝食抜き確定だ。
千雪は反動をつけてベッドから降りた。素足から染み込む床の冷たさが、強制的に目を覚まさせる。夢のことなど、既に頭の中にはなかった。
◇ ◇
仙崎千雪、十五歳。
今年の春、高校二年生になったばかりの花の女子高生だ。
千雪が通うのは、青蓮高等女学園という全寮制の学校である。去年、千雪はこの学園の高等部に入った。その前はというと――
そう。それこそが、千雪が目を背け、他者にもひた隠しにしている秘密。
千雪には、ここ一年より前の記憶がない。
自分が何故この学園で生活を始めたのか、それ以前は何をしていたのか何も覚えていない。気付いた時には、この三〇一号室が暮らしの拠点となっていた。
誰が入学手続きをして、学費を賄っているのか、それすらも知らない。今となっては、知らない方が身のためだと思っている。
もし事実を知ってしまったとして、その後、今と同じ生活が続けられる保証はないのだ。
この学園以外、千雪に行く宛てなどない。
千雪の過去は、言うなれば開けてはならないパンドラの箱である。
だが、千雪のあずかり知らぬところで、その箱が少しずつ抉じ開けられようとしていた。
――だいじょうぶだよ、ちーちゃん。ぼくたち、きっともうすぐあえるから。
動き出した歯車は、もう誰にも止められない。