前編
赤く色づいた葉も落ち、風に冬の便りが乗り始める。
領民たちが冬支度を始め、邸では寒さに弱い病弱な私のために、一日中暖炉が灯るようになる。
あなたが亡くなったのは、そんな季節の事だった。
見送りに出る私の肩に、仏頂面をしてストールをかけるあなたの頬にキスをした。少し迷惑そうにしているけど、それが本心でないことが分かっている私は、微笑んで身を擦り寄せた。
甘えてくれない。キスなんてしてくれない。笑ってくれることもなかなかない。そんなあなたが私をきつく抱きしめた時、ほんの少しの違和感が胸にこびり付いた。品のいいコロンの香りが離れて行き、あなたが私の名前を呼んだ。胸にじんと響く低さで、暖かさに溢れたその声が大好きだった。
あなたに呼んでもらえるのは、それが最後だっただなんて、思いもしなかった。
「行って来る」
そう言い残して私の頭を撫でたあなたを、引き止めていれば。もう私の元へ帰ってきてはくれないのだと分かっていたら、何をしてでも止めたのに。
家族に冷遇され友人もおらず、売り飛ばされるようにして嫁いできた、四十と一つ違う私のことを大切にしてくれたあなたは、私の人生でかけがえのない人だった。
代わりなんて居ない、人生で最も愛した人だった。
温もりと共に送り出したあなたは、その一ヶ月後、遺灰になって帰ってきた。触れても冬の寒さを溜め込んだ、容器の冷たさしか感じられない。遺体のままお運びすることは出来なかった、恐らく到着するまでに腐ってしまっていた。あなたに着いて行った我が家の騎士がそう言った。皆、満身創痍だった。誰からも慕われたあなたの死に、騎士たちも悲嘆を隠すことが出来ずに、酷い顔をしていた。それでも、残された私を気遣って、涙は見せなかった。
私を抱きしめる太い腕や、ベッドの上でもたれかかっていた厚い胸板や、何度も無理やりにキスをした頬も、私を見て優しく細まる目も、何もかも消えてなくなった。小さな小さな壺状の容器の中に、大きなあなたは収まっていた。
時を戻すことが出来るなら、どんなに良かっただろう。
あなたを死という運命から逃れさせてあげられずとも、私はまだあなたに何も返せていないというのに。もっと共に生きたかった。親子のようなキスではなくて、夫婦のキスがしたいと、言いたかった。陽だまりのように暖かいあなたを、心から愛していると、伝えたかった。
私は、生きる意味を失った。彼は私がこうなることも分かっていたのだろうか。出立の日のあの抱擁には、何か意味があったのだろうか。
彼は私に、二つ遺していった。
一つは、白い陶器に入った、ひとすくい分しかない遺灰。
二つ目は_。
「奥さん、風邪引きますよ」
気の抜けるような顔で私のことを奥さんと呼び、あなたと同じように私にストールをかける、新しい夫だった。
◇◇
「ベルディアナ侯爵家は後継者がいたのか」
人々は口々にそう言った。先代侯爵とその妻は三十以上歳が離れていて、子は成せなかった。これは社交界で周知の事実であったためだ。ベルディアナ侯爵は辺境に近い領地を持ち、権力に固執せず、社交界にもあまり顔を出さない堅物として有名であった。そこに祖父と孫のような年の差の妻が出来れば、自然と噂になる。
「なら何故爵位が返上されない」
と、これもまた自然の疑問であった。
子はいない。侯爵が傍系に爵位を譲る気は無いと表明していたことも知れている。とはいえ妻はまだ十八で、侯爵として采配を振るえるはずもない。しかし、いつまで経ってもベルディアナ侯爵位返上が知らされることはなかった。
先代侯爵の死から数ヶ月後、社交界は驚愕に揺れることになる。その死を看取った一介の騎士が、先代侯爵より次期侯爵に任命されたとして爵位を継いだ。
同時に、先代侯爵夫人を妻として迎えた、と。
「奥さん、一緒にお茶でも?」
「…結構ですわ」
「そう言わずに。君の好きなラズベリーティーを用意してもらったから」
立ち去ろうとした私の手を、彼はさも自然のことかのように握った。振り払わなかった。振り払っても良かったけど、そうするほどの関心さえも、私にはなかった。
「……」
「庭に行かないか?綺麗な花が咲いている」
もちろん君の方が綺麗だけど、と、男は美しいほほ笑みを浮かべた。私と同様、まだ旦那様の死を悼む使用人たちは、そんな男を異様なものを見るような目で睨みつけていた。私は、そんな目をすることも出来ずに、ただ俯いていた。
旦那様が亡くなった冬が明け、花々が咲き始める春になり、夏を越え初秋となった。旦那様から新しい侯爵として任命されたと名乗り出てきた男の名は、ルディウスと言った。元は近衛騎士団に所属していた、地方領主の一人息子らしい。旦那様の遺灰が届いた何日か後に突然私を訪ねてきた彼は、その手に旦那様がいつも身につけていたペンダントを手に持っていた。そしてこう言った。
死の間際、ノクター・フォン・ベルディアナから次期侯爵として指名された。
これはその証拠だ。遺言に従い、これよりベルディアナ侯爵を名乗らせてもらう。と。
ペンダントを持っているにしても、それが本物である証拠も、旦那様が本当にその遺言を残したのかどうかも分からない。判断は私に委ねられた。統率者を失ったベルディアナ侯爵家は、どうしようもなく活力を失っていたため、自由に決めてくれと、そう言われた。元々、彼が亡くなったら爵位は返上すると話が着いていたことを知る使用人は、もちろんこの男を侯爵として向かい入れることに反対した。
旦那様は私との間に子を設けるつもりはなかった。継母に虐げられた過去を持つ私が自分の死後、同じ目に合う可能性を嫌い、傍系に爵位を譲ることも生前に拒んでいる。そのため、私と使用人たちに十分な財産を与えた後、残りと爵位は皇室へと、これは私たちが聞いていた遺言であった。
そんな中、突然遺言を受けたと名乗り出てくる彼を信じる気は、私にも到底なかった。当然追い返すつもりだった。財産目当ての男にベルディアナ侯爵の名を汚されるくらいなら、ペンダントもくれてやると。けど、私は知っていた。男の持つペンダントが、旦那様にとってどれだけ大切な物だったかを。私がそれについて訪ねた時、誰かに奪われかけた時は飲み込んででも守り抜くと言っていた旦那様を、私は忘れられなかった。階段で転びかけた私を庇って下さった時、片腕で私を抱き込みながら、もう片方の手でそのペンダントを守っていたことを。
痛めつけられてきた私が嫁いだのは十四の時。なかなか心を開くことが出来なかった私が、旦那様の誕生日にそのペンダントを贈った時、初めて見た彼の笑顔を、私はどうしても忘れられなかったのだ。私が承諾すると、男は驚いたような顔をした。同時に、痛みをこらえるような顔も。男はペンダントを首にかけた。私に返すつもりはないようだった。その次に、男はこう言った。
二つ目に、先代侯爵夫人を私が娶るようにと言われている。と。
私は旦那様に、この男の妻として指名されていた。
「奥さん?考え事かな」
「……」
カップをソーサに戻す。深い赤紫色が太陽の光を反射した。男は美しい容姿をしていた。騎士であった頃にも、多数求婚を受けていたことだろう。眩いブロンドの髪に、エメラルドのような瞳。恐ろしい程整った顔立ちに、甘い声。その全てを使って私を堕としにかかっていることはすぐに分かった。
「私の奥さんはどうしてこんなに美しいのかな」
男の手が髪にのび、一筋救いとったかと思うと、形のいい唇が落ちる。身動きすらしない私を見ても、男はただ微笑んでいるだけだ。
「この後予定がなければ街へ降りないか?良かったら街を案内して欲しいな」
「仕事がありますので」
再びカップを傾ける。懐かしい香りが鼻をついた。ラズベリーティーが好きだったのは私ではなく、旦那様だ。今日のように天気がいい日は、二人でこうしてこのお茶を飲んでいた。
旦那様は無口な人だった。初めはそれが怖くて萎縮していたけど、すぐに黙り込んでいる時の穏やかな表情に気がついた。風が葉を揺らす音、魚が水面を跳ねる音、小鳥がさえずる音。旦那様は自然の音を、静かに聞くことが好きだった。
そして私は、そんな旦那様を見ているのが好きだった。私と旦那様の間に会話はあまり無くて、世界で一番時の流れが遅かったように思う。けれど、時々私が口を開くと、旦那様は相槌も何も無いまま私の話を聞いていた。話し終えても何も言わない。けれど、優しい目をしていることは知っていた。
「少しさぼってもいいんだよ。私が後でやっておくから」
「そういう訳には参りません。旦那様の負担を減らすことが私の役目ですから」
何かの嫌味なのか、お茶も、お菓子も、飾られている花も、この男が指定するものは全て、旦那様が好んだ物だった。私の反応を試そうとでもいうのか。ストールから始まり、寝る前に必ず暖かいミルクを飲ませ、夜中に度々起きては私に毛布をかけ直し、声が低くなれば風邪を引いているから医者を呼ぶ。旦那様が私のためにしてくれていたことを、全く同じようにやってみせた。
こんな様子を見ていれば、旦那様から遺言を受け取ったと信じざるを得ず、男は段々と使用人たちの心を奪っていった。旦那様を忘れた訳では無い。男は底抜けに明るく、人が良かった。ただそれだけだ。大切な人を亡くし、途方に暮れていた時に新しい太陽が現れたのだ。いつものらりくらりと、楽観的でいるようで誰よりも深く物事を考え、私たちのために力を尽くしていた。男がいなければ、ベルディアナ侯爵家はとうに傾いていただろう。
彼は社交界にも顔を出し、不自然な代替わりに悪意を持ち、近づく者たちを陥れ、侯爵家は旦那様がいた頃よりも、さらに影響力を持つようになった。それを、わずか一年足らずでやってのけたのだ。そんな男を信頼せずにはいられない使用人たちは、彼になら自分たちの奥様を任せられると判断したようだ。もちろん私の意思を尊重すると言っているが、前までのように男をあからさまに敵視することは無くなった。
「旦那様…か」
「…なにか」
「……いや」
男がふっと笑った。悲しげな笑みだった。私はそれをぼんやりと見ながらカップから手を離した。男はたまにこういう目をした。決まって私に向けられるが、すぐにけろりと元に戻る。何故そんな目をするのかは分からない。だが知りたいとは思わなかった。どうでもよかった。
「君の旦那様は、私でいいのかな」
「……」
それは彼がこの家に来てから初めて吐いた弱音だった。いつもは目を逸らすその顔を、今日はふと見てみようと思い顔を上げる。その時、するりと男の胸元から何かが零れ落ちた。身を乗り出している男の腕に当たったそれは、旦那様のペンダントだった。中に写真が入れられるようになっているが、旦那様がなんの写真を入れていたのかは知らない。好きな物を入れてくれと言って渡したが、中身を聞くことは無かった。
ほんのり首をもたげた男への興味が急速に冷えきっていくのが分かる。
「あなた以外に、私の旦那様はおりません」
「…そう」
体を戻した男がペンダントをしまい直す。その時、冷たい風が頬を撫でた。春とはいえ時折こんな風が吹く。旦那様は、決まってこんな時_。
"中へ入ろう"
「中へ入ろうか」
"風邪を引いたらいけない"
「風邪を引いたらいけないからね」
「……」
手を握りしめた。そうすると、薬指にはまる指輪に圧迫感を感じる。ペンダントは男の手に渡ったが、指輪はそうではないようだった。遺品として返ってくる訳でもなく、行方知らずのまま、男も持っていなかった。
事故だったと聞いている。領地の端で異民族の暴動が起きたと知らせが入り、その現場からの帰り、雪崩れに巻き込まれたと。雪の多い場所だった。騎士達も含め隊員は散り散りとなり、旦那様とこの男だけ最後まで合流が遅れた。侯爵家の騎士が二人を発見した時には、旦那様は既に息を引き取っていたそうだ。その胸には、雪崩れの衝撃で折れた車輪の木片が突き刺さっており、どうしようもなかったと。
これは事故なのだと、納得しようとした。それでも疑うことをやめられるわけがなかった。あの旦那様が、歳をとっても衰えを知らない剣の腕を持つ旦那様が、そんな風に死んでしまうわけが無いと、どこかで信じている自分がいた。そうすれば自然と、疑いは男に向いた。恨んではいけない。男は侯爵家を救った。使用人たちを救った。私にとって旦那様は代えられない存在だったとしても、侯爵家にとっては無くてはならない存在になっている。そう分かっていても、旦那様の死に理由をつけたがる自分を殺せない。
「さぁ奥さん、お手をどうぞ」
「……」
男が手を差し伸べてくる。旦那様よりも細く、しなやかな指だ。皺もない。手のひらの中央に傷もない。
この手は旦那様では無い。
「…奥さん」
私はこの男の妻では無い。私の夫は旦那様ただ一人だ。
「中へ入ったら、いつものミルクに蜂蜜を入れて一緒に飲もう」
「……っ」
旦那様が男に重なる。恨みたいはずの男が、愛しいあの人を乗っ取ろうとしている。この手をとってはいけない。これ以上甘さに浸ってはいけない。私の心は、旦那様のものでなくてはならない。ただ一時の心の癒しにすがりつくようなみっともない真似は、旦那様の妻として許される行為ではない。
_今日は、旦那様が亡くなってちょうど一年だった。
まだ、一年。
もう十年は過ぎたのではないかと思うほど、時間の流れが遅い。
昨日の夢に旦那様が出てきた。旦那様は相変わらず無口で、何も言わないまま、私を見つめていた。一面真っ白な世界で、一人座り込んでただ泣いている私を、遠くからじっと。
"…寂しいわ、ノクター"
"……"
"どうして…そばに居てくれないの"
私はあなたがいなくてはだめなのに。寒いこの地に一人残されたら、どう生きていけばいいのか分からないのに。新しい夫なんていらないから、帰ってきてくれればよかったのに。ただ、あなたがいてくれるならそれだけで_。
「……ノク、ター…」
「……!」
気づけば、頬に涙が伝っていた。膝の上で固く握っていた拳に涙の粒が落ちたことで、ようやくそのことに気がついた私は、男から顔を背ける。
「…奥さ」
「申し訳ありません」
立ち上がって、背を向ける。いつも遠くから眺めているメイドたちが私の異変に気がついたようで、慌ただしく駆け寄ってくるのが見えた。
「…先に戻ります」
「まっ」
男の静止に聞こえないふりをして早足でその場を去る。途中駆け寄ってきたメイド達が声をかけてきたが、答えることも出来ずに邸宅へ入った。そこでも何人か使用人が青ざめた顔で近づいてきたが、顔も見ずに階段を駆け上がった。前も見ていない。どこへ逃げるかも決めていない。傷ついて、どうしようもなく寂しくて、温もりが欲しい。そんな時私の足が向かう先は、ここへ嫁いで来た時から変わっていない。
「……っ」
気がつけば、旦那様の部屋の前にいた。旦那様は執務室や、そこに繋がる繋がる主寝室よりも、少し離れた本棚のある小さな部屋を好んで使っていた。多くの時間をそこで過ごし、私が一緒にいたいと駄々を捏ねた結果、私の体に負担がないようにとわざわざベッドまで運んだ。
就寝は主寝室だったが、そこは男が既に使ってしまっていた。執務室も、書庫も、全て男のものとなった今、旦那様の痕跡がはっきりと残るのは、この場所だけになってしまった。ここだけは残すようにと、きつく言いつけたのだ。掃除も、整頓も、全て私がやる。だから、誰一人としてここへ入ることは許さない、と。
メッキの剥がれた取っ手に手をかけ、扉を開ける。中の匂いを外へ逃がしてしまわないように、すぐに中へ入って鍵をかけた。
小さな部屋の左側面は全て本棚に。中央にソファとテーブル。そして、その右横に天蓋のあるベッド。ソファの上には読みかけの本。ベッドの上には、見慣れた衣類が散らばっており、その中に埋もれるように、旦那様が座って本を読んでいた。
「……っふ、……う」
「リディア?」
旦那様が本から顔を上げる。眼鏡を外して、立ち尽くしたまま泣く私を見つめた。
「どうした」
「だ、旦那、様」
「こっちへ来なさい」
穏やかな声が私を招く。この部屋に入ったのだから、旦那様がいるのだからもう何も怖くはない。ここに私を傷つけるものは何も無い。旦那様が、私が悲しむものを全て消してくれる。
「うっ…、ひっ」
ベッドに上がり手を伸ばすと、抱き寄せてくれる。旦那様から抱きしめてくれるのは、こうして私が泣いている時だけだった。とんとんと、子供をあやすように背中を叩かれる。片手でそうしながら、旦那様はまた本を読み始める。頁をめくる音だけが部屋に響き、それが妙に安心した。
他の誰かの声もしない。時を刻む音もしない。時間も何もかもが止まって、世界に私と旦那様しかいないような感覚になるこの瞬間が、何よりも大切だった。
「……旦那様」
目を開けるとベッドの上は無人で、旦那様が遺灰になって帰ってきた日に私がかき集めた旦那様の衣服が、無惨に散らばっていた。旦那様が同じ場所にばかり座るから、その部分だけほんの少しへこんでいる。そこに手を伸ばしても、温もりは感じられなかった。
旦那様の姿はそこには無い。
もう、いない_。
「嫌…旦那様……」
ベッドの前で崩れ落ち、旦那様のローブを握りしめながら泣きじゃくった。私が咳を一つでもしようものなら、邸のどこにいても飛んできたあなたは、もうどこにもいない。こんなにも私が泣いているのに、背中を撫でてくれない。あなたを何度も呼んでいるのに、二度と答えてはくれない。寂しいとどれだけ訴えても、あなたが戻ってきてくれることはない。私の名前を呼んでくれる人も、もう、いなくなってしまった。
「旦那様……旦那様っ……!」
一人残されるくらいなら、共に死にたかった。
他の人の妻になるくらいなら、自死を選びたかった。
けれど、あなたがこうしたのには何か訳があると思うから、そこにあなたの最後の思いが隠されているのだと思うと、それを知りたいと思わずにはいられない。最後まで何も教えてくれなかった旦那様のことを、知ることが出来るかもしれないと。あなたを失ってからしか気づくことを許されないことが、あるのかもしれないと。
それでも、この地獄は私には、耐えるには辛すぎる。
◇◇
「夫人は?」
「……」
昼間、"一人遺された大切な私たちの奥様"を泣かせたせいか、ルディウスに対する使用人の反応は来たばかりの頃に戻っていた。貫くような視線で睨み、肌がぴりつくような険悪な空気が邸中に漂う。ルディウスは、リディアが夕食の時間になっても戻ってこなかったため、こうして探しに来たわけであるが、あいにく居場所を聞き出せそうにはなかった。
ただ、使用人たちが教えずとも、こうしてリディアが姿を消す時どこにいるかは分かっている。誰もその場所のことは口に出さない。皆が口をつぐみ、一見普段通り仕事をしているようで、そこを守るように立っている。そこは、ルディウスが足を踏み入れることを許されなかった唯一の場所であった。
後継を名乗り出たあと、あまりにも簡単に全てを任され、ベルディアナ侯爵家の全てがルディウスの物となった。邸、庭、使用人、財産。侯爵夫人であるリディアでさえ、ルディウスが手に入れた。ただ、一部屋を除いて。
「お前たち、まだ懲りずにそのような態度を」
「よせエリアス」
ルディウスの問に顔を背けた使用人に、怒りを抑えた声を向けたこのエリアスという男は、ルディウスと共に侯爵家に入り、補佐官の座に就いている。この侯爵家において唯一のルディウスの味方とも呼べる人物であり、ルディウスに絶対の忠誠を違うが、元騎士らしく血の気が多い。不遜な態度を取る使用人に食ってかかってしまう所が短所であるが、没落した元子爵家出身ということもあり仕事は出来る。
「いい、彼らの怒りも当然のことだ。今回のことは私が悪かった」
「旦那様」
「私も彼女を傷つけたくはなかった。同じ思いで彼女を守ってくれる彼らを叱る理由などない」
使用人の表情が変わる。白髪混じりの短髪にしわのある目元、胸元についたバッジ。歳の程は四十といったところか。先代侯爵が最盛の頃から仕えていたのだろう、これまでも一際ルディウスを邪険に扱った。しかし、ルディウスがリディアを前の主と同じくらい大切にしていることを知った日から、随分と柔らかくなった。
それは彼だけでは無い。この邸の全員がそうであった。
彼らは主の死を悼み、新たな侯爵を受け入れられなかった。
主の椅子も、彼が大切にしていた妻までも奪ったルディウスを受け入れられるはずがなかった。
だが、彼らはその思いを封じ込められるほど、主が愛した女性を愛していた。自分たちがこの男を受け入れられずとも、奥様が幸せになれるのなら。大切にしてもらえるのなら。彼女がまた笑ってくれるのなら、それがどんなに残酷なことであろうと構わない。ルディウスはそうして侯爵家に受け入れられた。いや、正確には許されただけなのだ。
ルディウスがどれだけ尽くそうとも、その絆の間に踏み入ることは出来ない。彼らが何よりも大切にする奥様は、先立った夫を愛し続ける。ルディウスはただ彼女を初めとした侯爵家の人々のために働く。言うなれば奴隷のように尽くし続けるだけの、名ばかりの侯爵。エリアスが憤る理由はここにある。
だが、当のルディウスは承知の上でこの場にいる。自分のいる場所は永遠に先代侯爵のものであることを納得した上で、尽くし続けるのだ。全ては、ルディウスの願いのために。
「…お通しすることは出来ません」
「ああ、分かっているよ」
そう言って階段を上るルディウスを止めようとしないということは、案内することは出来ないが、その先は任せるということだ。ルディウスは途中でエリアスに着いてくるなと命じた。リディアにとってその場所が、彼女に残された、先代侯爵の生きた証だということをよくよく理解していたからだ。
「…奥さん、夕食の時間はとっくに過ぎているよ」
ルディウスが部屋の前で声をかける。返事はない。金箔が剥がれた取っ手を掴むが、鍵がかかっていることは知っていた。この部屋の鍵が開かれた所を、ルディウスは見たことがない。ルディウスは黙ったまま背中を背後の壁に預けた。両手をポケットに入れ、胸につかえる重たい物を吐き出すかのように息をついた後、扉を見つめる。そのまま微動だにせず、隙間から漏れ出てくる泣き声を聞いていた。
時折、泣き出しそうな顔をしながら。
夜が更け、泣き声が止み、か細い寝息に変わっても、ルディウスはそこに立ち続けていた。
◇◇
ベッドが軋む。あなたが目を覚まして、まだ眠っている私の頭を撫でる。私はその感触で起きて、おはようございますとベッドをおりる背中に声をかける。おはよう、と低い声で返事が返して、毎朝用意されている白湯を私に飲ませる。その間あなたはずっと不機嫌そうな顔をしている。朝に弱いことを知っている私は、彼よりも早起きして起こしてあげたいのに、いつも決まってあなたの方が早く起きる。それは、朝の冷え込む時間に起きて私に毛布をかけ直していて、そこから上手く寝付くことが出来ないから。
「…おはようございます」
しんと静まり返る部屋。虚しさでぽっかり穴の空いた胸がきりきりと痛む。泣きながら寝たので、目尻がヒリヒリしている。きっと酷く腫れていることだろう。体も何となくだるく、昨日残してしまった仕事を思うと気が滅入った。
ベッドに手をついて立ち上がると、足が痺れて倒れ込んだ。上半身だけ預ける形で眠っていたため、下半身が可哀想なことになっていた。これはメイドに怒られそうだ、と思いながら最高潮に浮腫んだ足を軽く揉む。気が済んだところで顔を上げると、昨夜の何ら変わらないベッドがある。少しへこんだそこを見つめていると、またぽろりと涙が零れた。疲労が溜まり、声を上げて泣く体力すらない私は、仕事をせねばという気力だけでその涙を抑え込んだ。
「おはようございます」
何度言っても返事はない。分かっていても、記憶の中の旦那様に声をかけることはやめられなかった。昨夜は毛布をかけ直してくれる人もいなかった。体が冷えて、何となく熱っぽいような気もする。こんな時旦那様なら、一目で私が風邪をひいたことに気がついて、無理やり寝かせてくるのだ。どんなに仕事があるからと言い張っても、起き上がることは許されない。怖いくらいの顔をして、往生際悪くベッドで書類を漁る私を睨むのだ。
そんなあなたは、もう_。
「……おはよう、ございます……旦那様」
最後に呟いて、どうしようもなく虚しくなり部屋を出ようとした、その時だった。
「おはよう奥さん。体は大丈夫?」
「……」
取っ手に伸びていた手を止める。声は扉の向こう側からだった。私は信じられない思いで立ちすくんだ。ちょうどここへ来たというのだろうか。それにしては足音がしなかった。昨日の夜の内に彼が部屋の前に来て声をかけたのは分かっていた。いつの間にかその声も無くなったから、すぐに帰ったのだと思い込んでいたが。
「…旦那様?」
「うん、朝食は食べられそうかな?夜から何も食べていないだろう。……奥さん?」
返事は返ってこない。痛いほどよく分かっていた。
旦那様の遺灰を一番に確認したのは私だった。侯爵家騎士団長が旦那様の遺体を焼いたと言った。それなら間違いがあるはずがないと理解していた。遺灰を見るのが辛くて、執事に渡した。暖かい場所へ、でも私が見えない所に保管してくれと頼んだ。
あなたは今、どこにいるのだろう。
私のことを、見守っているのだろうか。
「……旦那様」
「ん?」
優しい返事が返ってくる。旦那様、と呼びかけると、返事がある。
「……っ」
扉に手をついて座り込んだ。私を心配する声が向こう側から響く。旦那様と同じペンダントを首にかける、旦那様と同じくらいの背の、同じくらい低い声の、同じくらい私を大切にする男。
なぜか涙が溢れた。
返事が返るのは久しぶりだったからなのか、一晩中そばに居た男の優しさが冷えきった心には染みたのか。自分でも理由はよく分からないけれど、泣きたくてたまらなかったのだ。
「…奥さん」
男が扉ごしに座り込んだのが分かった。衣擦れの音で、すぐ向こう側にいるのが分かる。
「少し、話をしようか。本当は最後まで言うなと言われているけど、これではあまりにあなたが可哀想だ」
「…っ夫に、他の男に譲り渡された私はそう見えるに決まって」
「違う」
やけに強くその言葉が響いた。初めて見せる感情の揺らぎ。いつも何を考えているのか分からない笑顔を貼り付けて、まるでご機嫌取りのように私に構っていた男ではなくなっていた。深呼吸でもしているのか、震えた息遣いが扉越しでも聞こえてきた。そして、一際大きく息を吸って、言った。
「…事故ではないんだ」
一瞬何を言われたのか分からず、呆然と目を見開く。その後に背筋が粟立ち反射的に扉に爪を立てる。今まで何度も脳裏をよぎった最悪の予想がはっきりと輪郭を持ち始める。
耳にした言葉が信じられないまま、叫びかけた私を遮るように男は言い重ねた。口に出すのがつらくとても耐えられないといったような、苦しげな声で、絞り出すようなか細い声で。
「…自殺だったんだよ」
「…………」
男に対する怒りで激情に狂っていた脳みそが静まり返る。頭の先からつま先まで、すーっと冷えていく感覚を味わっていた。じさつ。自殺とは何だっただろうか。と混乱で何も言えなくなり、その言葉を吐いた男から遠ざかるように扉から手を離した。恐ろしい事を口にする男から離れなくてはと。旦那様が自殺しただなんておかしなことを言うこの人の言葉を、これ以上聞いてはいけないと。
「助けようとしたが無理だった。自分の急所を的確に木柵で貫いていた。臓器が傷ついていて、血を止められたとしても長くは持たなかっただろう」
「…なん、で」
「…病気だったそうだ。奥さんが嫁いできた頃から余命を宣告されていて、もう死期を悟っていたと」
「そんなこと一言も…!弱ってなんかなかった、いつも元気で、何も…何も……!」
「……だから、その姿のまま死にたかった」
自分の息が変な音を鳴らしていた。吸い方を忘れたように大きく胸を上下させていないと呼吸が出来ない。目眩を起こして額を右手で押え、ぼやける視界の中旦那様を思い出していた。
病気の兆候なんてものは見たことがない。それどころかまったくの健康体で、定期的に健康診断に来るだけのお医者様も、ここまで強靭な肉体も珍しいと笑いながら言っていたのだ。それよりも私の体の方が深刻だから、旦那様の寿命よりも早く逝かないように気をつけないとと、冗談まで言っていた。
本当に私は何も知らなかったのだと思い知らされる。私の見ていないところで血を吐いていたのだろうか。私といる時ずっと苦痛を堪えていたのだろうか。いつもの不機嫌そうな顔は、体を蝕むその病のせいだったのだろうか。そうとも知らない私は旦那様に負担をかけ続けて、この四年間を、苦痛の日々に変えてしまったのだろうか。
「あ…あぁ……」
絶望に陥りそうになった時、扉にごんと硬い何かが当たる音がした。
「違うよ奥さん」
穏やかな声だった。とても真相を語る者の声とは思えない。諭すような、あやすような声がほんの少し笑みを含んだように響く。
「…侯爵は、幸せだった」
「……っ」
「一人寒いこの地で、余命も僅かで、生きている意味を失っていた侯爵にあなたという存在はあまりにも眩しかった。今まで寂しい思いをしてきたこの子を守ってやらなければと、その思いが生きる糧になった。…自分の弱る姿を見ればきっと深く傷つくと病を隠し、余生をあなたと生きることだけに捧げたんだ。そして、あなたの知らないところで命を終わらせた」
頬に熱い涙が伝った。最後の日の抱擁の感触が蘇る。「行って来る」と、低い声も。
「…あなたを深く愛していたよ、侯爵は。なにせ、ペンダントはやるが指輪だけは渡さないと睨まれたくらいだ。お前はあの子の未来を手に入れるのだからそれでいいだろうと。夫婦の証である指輪だけは、永遠に私のものだと」
堪えきれない大粒の涙が絨毯に染みを作る。泣きじゃくりながら、左手の薬指にあるその指輪を握りしめた。旦那様が私との一年目の結婚記念日に贈ってくれた物だ。それまでは年の差でどうしても夫婦の実感が湧かず、はっきりとそれを示す物はなかった。
遠慮しているのか、それともほんの少し後ろめたいのか、何かを言い淀む旦那様を前に私がきょとんとしていると、執事がほら早くというように催促をした。それでようやく旦那様が私に差し出したのはリングケースで、戸惑った私の前で開けられたその中には、控えめな装飾に小さなダイヤがはめ込まれた指輪が入っていた。
ペアになっていたのだろう、並ぶように穴が二つ。けれど片方は空になっていた。見ると、ケースに添えられた旦那様の太い指に似合わない、華奢な指輪がはまっていた。笑いながら指輪を受け取ると、一度取り返され旦那様が直接指に通してくれた。使用人たちが微笑ましい顔で私を見つめていて、その時は珍しく、旦那様も僅かに微笑んでいた。
あの指輪はまだ旦那様と共にあり、私と彼を繋いでいるのだと理解する。旦那様は私を愛していないから男に譲り渡したわけではなかった。むしろ、死の間際を見せないようにするまでに、私を愛してくれていた。それだけで言い表し難い感情に襲われるというのに、男はさらに打ち明けるのだ。
「私は次にあなたを守る騎士に抜擢されたに過ぎない。…就寝前と起床後には必ず温かい飲み物飲ませること。雪が降ると外へ行きたがるから、必ず同伴して転ばせないようにすること。何を言っても表情が変わらない時は寂しがっているから、構ってやること。……自分の代わりになることと引き換えに私の全てをやると言われた。あの子が自分を失った世界でも生きていけるようにと」
あぁ、と唐突に理解した。
旦那様は自分に似ている男を、最後に私に贈ったのだ。一人遺される私が自分の後を追わないように。旦那様も若い頃、光り輝く金髪だったと聞いている。目の色や性格こそ違くとも、旦那様もこの男にかつての自分を重ねていたのだろうか。
旦那様は全て分かっていたのだ。私が後を追うことを真っ先に考えること。自分という存在でしか私を救えないこと。自分との記憶だけが私を生に結び付けられることを。そして私がこの真相を知ることなく天寿をまっとう出来るように、男に口封じをした。
手を伸ばして扉の鍵を開けた。今まで壁を作り続けてきたこの男を、なぜかこの部屋に入れてやりたくなった。この男は、旦那様に成り代わるためだけにこの屋敷へ来たのだから。
「…大丈夫か?」
中へ入ってきた男は真っ先に私にそう声をかけて肩を抱いた。やはり徹夜だったのだろう、美しい顔に隈ができていた。嗚咽に喘ぐ私の背中を摩り、呼吸しやすいように誘導する。その手の温かさに目を瞑ると、ずたずたに引き裂かれていた心まで甘やかされているように感じ心地よかった。
人の温もりを感じたのはあの日以来だった。あなたが私の元から去っていった、あの秋の日。血の色に染まったような色をした葉が空を舞ったあの日。もう二度と戻れない、最後の日。
「…て」
「え?」
顔を上げてその瞳を覗き込む。私の知らない、あの人の最後を看取った目だ。そして、旦那様が最後に見た目。
「教えてください。…旦那様の、最後を」
男は少し黙ったあと、震える私の体を抱きしめ体を揺らす。全てが旦那様に似ていた。男がこうするように教えこまれたことは紛れもない事実だった。
「…私に全てを語ったあと、悔やんでいるようだった。こんな選択しか出来ない自分を。もっと妻と共に生きたかったと、叶うならば孤独なあなたよりも長く生きてやりたかったと。言葉にはしなかったが、空を見上げる虚ろな目がそう語っていたよ」
くぐもった声が耳元で響いた。話す男の声が震えていて、男も旦那様の部下であったことを思い出す。近衛騎士団から何かの理由で追い出されるように我が家の騎士団に入ったと聞いている。皇都から遠いこの北の地へやってきて、旦那様という主人を持って、どんな気分だったのだろう。
旦那様を慕っていたのは男も同じだ。その死を目の当たりにした、しかも止められなかった自分をどれだけ悔いたことだろう。私を救うためにその全てを隠してきた今までの彼を思い出し、胸が痛くなる。
私はそっと目を閉じて、男の温もりに旦那様を重ねた。
「会いたいな」
男が顔を上げてそう言った。旦那様の物で溢れた部屋を見渡して、そこに旦那様の姿を探すようにして、その後ベッドの上にある旦那様の上着を握りしめている。顔を上げると、男の目にも涙が滲んでいた。
「…私も会いたい」
「………」
ただ、もう一度だけ、もう一度だけ会いたい。言葉を交わせなくてもいい。私たちがいつもそうだったように、静かなまま、目を合わせて、あなたの姿を目に焼きつけさせてほしい。どうしようもなくあなたの所へ行きたくなった時も、頑張れるから。
まだ伝えられていないから。私にとって、かけがえのない存在で、無くせば生きていけない存在だったことを。あなたに嫁いだあの日、私は確かに初恋をして、親子のような関係では足りないと、そのじれったい思いを込めて抱きついていたことを。
心から愛していた。燃え盛る紅葉の向こう側に消えていったあなたを。
思いの形は違くとも、男の旦那様への思いは私と同じだった。その名残を屋敷中に探し求めて、記憶に縋りついて、過去の自分に後悔を重ねる。その胸に頭を寄せると、強く抱き締められた。お互いの傷を癒し合うかのように、私たちはしばらくの間そうしていた。
◇◇
「……ん」
「おはよう奥さん」
「……ルディウス」
目を覚ますと、心臓に悪い美貌が間近にあった。ふわりと微笑んで、私の髪を撫でている。その温かさに再び眠気に襲われるのを何とか堪えて身を起こす。頭痛のする額を押さえると、すぐさまルディウスが白湯を注いで渡してきた。
「ありがとうございます」
「いいえ。昨夜は随分と大胆な寝相だったね」
「…忘れてくださいませ」
「なぜ?私たちは夫婦なのだから、恥じることはないんだよ」
照れ隠しで思わず伸ばされた手を叩き落としてしまう。私の寝相はすこぶる悪い。あれから同じベッドで眠るようになった彼には数日でばれた。昨夜の寝相はというと、寝ている彼の胴体に足を巻き付け、あろうことか頬と頬を擦り寄せていた。さすがに私も違和感に気が付き目を覚ました時、寝ぼけながらも軽口を叩く彼の顔が一寸先にあり、深夜に飛び起きたものだ。
「体調はどうかな?」
「大丈夫です。長く面倒をかけて申し訳ありませんでした」
あの日泣きすぎたせいなのか、二週間近く寝込んだ私を、ルディウスは付きっきりで看病をしてくれた。仕事はどうしたのかと聞くと、エリアスが片付けていると答えた。彼にも後で褒美を差し上げないと嫌われそうな気がする。
ベッドから足を下ろした私の肩に彼がすかさずストールをかける。旦那様に部屋の中でまでこうされた記憶はないので、苦笑している間にルディウスは私を座らせて、顔を洗う水と朝食を持ってくるようにメイドに言いつけている。さすがにここまでくれば旦那様を超えた過保護というもの。
ルディウス、と声をかけるとぱっと振り向いた彼が微笑みながら歩み寄ってくる。旦那様と呼ぶのはやめてくれと言われたので、私たちは名前で呼び合うようになった。聞けば、彼がずっと私を奥さんと呼んでいたのは、敬愛する旦那様の妻であった私を自分の妻として呼ぶことなど出来なかったらしい。けれどずっとそのままでいることはできないのでこの機に統一したのだった。
「リディア、どうかしたか?」
「ここまでしてもらわなくても大丈夫ですわ。旦那様もさすがに朝食を持ってこさせるようなことはしませんでしたよ」
真似が行き過ぎていますよ、と言うと私の笑顔が嬉しいというような顔をしたあと、けろりとして言った。
「もう似せていないからね」
「え?」
「というか、割と初めの頃から成り代わるのはやめにしていたよ」
旦那様との約束は?と困惑する私にぐいと顔を近づけてくる。何をするのかと身構えた瞬間、ちゅっと音を立ててルディウスの唇が頬に触れた。唖然としてそこを押えている私の驚きように満足したのか、小さく笑い膝を着いて私の手を握った。
「私が爵位や財産を得るためだけに侯爵との取引に応じたと?」
「…だ、だって、今まで本当に…旦那様のように…」
「そうだね、あなたが快適に暮らせるようにある程度参考にはしていたけど、短時間で全てを覚え切れるわけが無いだろう?」
なら、多くは彼が自らやっていたことなのかと目を剥く。それにしてはあまりにも的確で、旦那様と酷似していた。その混乱を読み取るようにルディウスが頷く。
「もし似ていたというなら、それは私と侯爵のあなたへの思いが同じだったということなのだろうね」
「おも、い…」
思い当たる節はあるけれど、にわかには信じ難くその先を言葉に出来ない。けれど理解はしてしまっていて。みるみるうちに頬を染めていっているであろう私の視界に、彼の首にかかるペンダントが映った。時間と経過とともにネジが緩んでいたのか、蓋が開いている。旦那様が見せて下さらなかったその中を見て、私は確信してしまう。
「もちろん初めは彼に言われた通りに動いていた。それでリディアが侯爵に抱いた思いと同じものを、私に向けてくれるようになるならそれでもいいと思っていたからね。でもそれだけでは満足出来ないと思うようになった」
私の視線で彼もペンダントの中身が顕になっていることに気がつき、それを手に取った。ぱちんという音と共に閉められた蓋は、何度も開かれて眺められたことを暗に示すように、メッキが剥がれていた。
「そもそも侯爵が私に声をかけたのは、自分の妻に懸想していたからというのが理由だよ。めぼしい騎士を何人か見繕っていたようだけど、最終的にはあなたを心から愛せるかどうかが判断基準だったようだ。……リディア、初めから私の願いはただ一つ、君が幸せに笑っていられる世界を守ることだったんだ」
紛れもない愛の告白に、私は狼狽えて視線を宙に泳がせる。心臓が早鐘を打ち、握られた手がこそばゆくて仕方がない。ルディウスが私を愛していただなんて思いも寄らなかったし、そんな素振りも無かった…ような。いや、私が気が付かなかっただけだと、自分の鈍感さに呆れてしまう。思えば使用人たちが心を開くのが早かったのも、これが原因なのだろう。
ただ恥ずかしくて縮こまる私を見たルディウスは、困ったように笑ったあと手を離した。温もりが去り、私が顔を上げるともう背を向けたルディウスが立ち上がっていた。
「さて、一緒に朝食を食べようか。もちろんミルクは蜂蜜い」
声が途絶える。ルディウスが酷く驚いた顔で自分の手を掴む私を見下ろしていた。羞恥心で今すぐにでも逃げ出したくなってしまうけれど、それを押しこらえて握り込むと、ルディウスの指がびくりと揺れた。
「…リディア?」
「…あなたに、とても、感謝しています…ルディウス」
そう言った私を見て、ルディウスは少し悲しそうに微笑んだ後、息を着いて私の頭を撫でた。いいんだよという風に頷いて私の名前を呼ぶ。彼が何を言おうとしているのかは分かる。私自身、彼に今すぐに恋できるかと問われたなら答えられない。
けれど、少しでも大切に思う気持ちがあるのなら、今すぐにでも伝えるべきだと思った。もう伝えられないままに失う痛みは十分味わった。同じ後悔は繰り返したくない。
「な、なので」
思い切って立ち上がり頬にキスを返すと、いかにも女慣れしていそうな雰囲気の割には耳を赤くしている。そんな彼の金髪に触れる。今はまだ旦那様を重ねてしまうけれど、いつかルディウスだけを見つめる日が来るのだろうか。
「私の、生きる意味になってくださいますか…?」
初めはただ驚いた顔をして硬直していた彼も、直ぐに意識を取り戻し笑って私の腰を抱く。もちろん、と笑う彼の肩越しに、窓の向こうではらりと舞い落ちる一枚の紅葉を見た。秋風に弄ばれるようにしばらく空中を踊っていたその葉は、光の中へ消えていく。
まだ冷たい風は吹いているけれど、ぽっかり浮かんだ太陽が私を温めてくれる、清々しい秋晴れの日だった。
ここまで読んでくださりありがとうございました!受験勉強の合間の手慰みなので、完成までに11ヶ月…。拙い部分もあったかと思いますが、ここまで読破してくださった皆様に感謝です!
本文には書きませんでしたが、使用人たちは侯爵の余命を知らされていました。だからこそ、惜しみない愛情表現をするリディアを、余命を待たずに命を捨てようとする主を引き止めてくれたリディアを、心から愛していたのです。
自殺して新しい夫を遺すことは知らなかったので、初めは酷く驚き、ルディウスを警戒していました。ですが、中にはルディウスが前からリディアに思いを寄せていたことを知る者もいたので早めに心を開いています。
ルディウス視点の後編も出す予定です!よろしければどうぞ。