婚約者の死の悼(いた)み方を、彼女は知らない。
水の都、カルアドネは陸路よりも水路が発達した土地だ。
従って住民の足代わりになるのも、馬車より舟、ボートだった。
水の精霊に加護を受けた者たちが操るそれは、騎士が馬を駆るように軽やかに水上を駆け巡る。
マーシャはそんなカルアドネに店を開く商人の娘として、また水の精霊に加護を受けた船漕ぎの一人として、店の舟を操舵し、忙しく荷物を運ぶ日々を送っている。
婚約者のケインは逞しく、カルアドネでも有数の水魔法使いとして知られていた。
水の上で働く他の船乗りと同じように日に焼けた彼は、いつも優しく、笑顔の絶えない人だった。
二人きりでいる時、マーシャがつまらない素振りを見せたら、いつも冗談めかして自分の仕事でやらかした失敗談を面白おかしく聞かせてくれる、ユーモアの持ち主でもあった。
彼はいつもマーシャだけを見ていて、彼女のためだけに懸命に尽くしてくれている。
そう、周囲も思っていたし、そんな生き方をしてくれる彼にマーシャもまた、感謝を捧げていた。
こんな幸せそうな二人に、あんな未来が待ち受けているなんて――そう。誰も思わなかったに違いないのだ。
誰も……。
☆
カルアドネは水車に喩えらえることも多い都市で、中心地に行政区があり、そこから放射状に水路が伸びている。
その左上側に、市場は存在した。
とはいっても地上にあるわけではない。
カルアドネは元々、湿地帯でそこに無数の杭を打ち込み、人が移り住むようになった土地だ。
人数がある程度増えたところで、海からの水を引き込んで今のような街を形成した。
そのあと、水の精霊王と契約をかわして土地を借り受けた人々が住んでいる、仮住まいの土地だった。
夏の盛りも過ぎた、八月の終わり。
まだ、月が西の空に隠れたかどうか、というころ。
マーシャ・ヒンギスは自前のボートを市場に向かい、走らせていた。
父親の経営する店は、ボートの機関部分に使う魔導具や、燃料となる魔石を扱っていて、不意の来客の注文に応えるためにマーシャは市場に向かっているのだった。
つい先ほど、父親のレンダーと交わした会話が耳の奥に残っている。
「朝一番で、教会が部品を欲しいそうだ。どうする、お前」
「どうするって……。在庫が無いなら仕入れにいくしかないでしょう」
「いや、そりゃそうなんだが」
問題の発端は、深夜を過ぎ、朝の四時だというころに、一人の人物が商会の戸を叩いたからだった。
朝早くから日が暮れるまで顧客に向けて開かれているその扉も、さすがにこんな夜と朝の境目の時間には空いていない。
夜の香りに夢の世界を楽しみつつぐっすりと眠っていた親子は、いきなりの来客に叩き起こされた。
「聖女様が使われる船の部品を、ここならば扱っていると。部品を探して市内を回っている時に、とある店で聞きまして!」
その人物は、水の精霊王を奉る神殿の使いだった。
翌朝、というかもうすぐしたら迎える今日。
神殿に、王都から聖女様がお越しになるのだと言う。
その予定はいきなり決まり、教会が所有している、聖人を送迎するためのボートが、故障していることが分かった。
一部の部品を交換すればどうにか使えるようになると技術者は言うのだ、と使者は語る。
現在進行形で技術者はエンジンを直していて、その修理用の部品の備品がない。
仕方なく、こんな夜更けに部品を扱っている商会の門を叩いて回ったが、どこも相手にしないか、部品は品切れかのどちらかだった。
考えてもみれば当たり前のことで、年に一度か二度の訪問をする人物のためだけに使われる船の修理用部品なんて、どこにも扱いがあるわけがないのだ。
その理由は簡単で、あまりにも高価だから。
そして運悪く、そんな高価な船に使うような部品の在庫を、ヒンギス商会でも切らしていた。
「いつもならちゃんと揃えてるんだけどなー」
父親はぼやくようにそう言った。
それは知っている。
仕入れは父親がしているが在庫の管理はマーシャが行っているからだ。
在庫が切れていることは先月から承知していた。
「そんなこと言ったってお父さん。あんな高価な部品、仕入れても売れなきゃ意味がないじゃない」
「まあそれはそうなんだが」
部品の商品番号を聞いた時、レンダーは在庫があると言ってしまったらしい。
店に普段から置いてある商品は必ず品切れをしないようにする、というのが彼の信条だったから、いつものようにそう返事をしてしまったのも無理はなかった。
教会の使者が待つ間、レンダーは倉庫を確認にいき、在庫が切れているのを発見して、夢の世界でまどろんでいたはずのマーシャを叩き起こした。
寝ぼけ眼にそんなものはないと返事をする娘に、レンダーは青ざめた顔をするものだから、マーシャの方が慌ててしまった。
「どうする? 在庫があると答えてしまったよ」
「返事しちゃったものはしょうがないわ。市場に確認を取るから待って」
あると答えてしまったのは仕方がない。
時間を確認したら夜明け前だが、業者の仕入れ市は既に開いている時間だ。
その部品は高価ではあるものの市場にはいつも常備されている品だった。
確認のために魔導具であちらの担当者に連絡を取ってみたら、その品物はちゃんとあると言う。
それなら今から買い付けに行き、帰りに教会に卸せば、それでいいだろう。
そういう経緯だった。
「こんな朝早くから行かなくても、もうすこしあとにしたらどうだ?」
「お日様がでて、海から霧がたちのぼるから、それこそ危険よ。いまが丁度いいわ」
「そうか……。まあ、のんびり行ってこい。太陽も月も昇っていない状況で、船を走らせるのは危険だからな」
「大丈夫よ」
舵を握り、船の運転を管理するシステムを維持するために必要な魔力を注ぎながら、マーシャは不慣れな夜の闇の中を進んでいく。
北の方角に進んでいるせいもあって、太陽はほぼ後ろ側から彼女を追いかけて上がってくる。
向かう先にあるのは薄暗く人工の灯りをともしている、都の中心部だ。
巨大な魚が水面に顔をだして、口を開けているかのように、ぽっかりと闇の中に浮かんで見えた。
その不気味さに何か寒いものを感じて、マーシャは背筋を強張らせた。
「待っていたよ。しかし早かったな」
「お客様が今すぐにでも欲しいって言うの。急いで届けないとあちらに迷惑をかけてしまうから」
「こんな夜更けに、こんな高い部品を欲しがるなんてどこの金持ちだ、贅沢なやつめ」
「とてつもなく大きなお客様からもしれないわよ」
市場で部品を購入し、梱包して貰って、それを船に積み込んでもらう。
部品は一抱えほどもあり、女性の手にはとても負えない品だった。
十六歳になるまで、物心ついたときからずっと、マーシャは父親の店を手伝ってきた。
その辺りで遊びまわっている、同世代の貴族の息子たちよりは力があるつもりだったが、これはさすがに持てない。
それほどに重たい品だった。
積み込まれたボートの喫水が、部品の重たさでわずかに下がった。
顔見知りの担当者と軽口を交わして、マーシャは再び、ボートの舵を握る。
水面を滑るように走り出す彼女の船を追いかけて、ようやく朝陽が東の水平線から顔を覗かせていた。
納品先の教会は、市場とはほぼ対極の方向に存在する。
東南に向かい、太陽にボートの舳先をつきつけて、マーシャのボートは軽やかに走った。
時折、太陽のめざめを知って水中から起き上がってくる小魚の群れにむらがる海鳥たちが、ボートの舳先でその羽を休ませてはどこかに飛んでいく。
彼らの足跡などが商品に付かないよう、上からシートをかけ、急な減速などで転げてしまわないように、ロープで硬く縛って固定はしてあるものの、心にはどこか不安だった。
無事に教会へとたどり着き、そこで作業をしている技術者へと部品を渡す。
マーシャが一人で持ち上げようとしても全くできなかったそれを、彼らは三人がかりで持ち上げて運んでいった。
その背中を見送りながら、店の戸を叩き、レイダーが接客した教会の男性が、代価を手にやってくるのを待っていると、視界の端で見覚えのある誰かの顔が見えたような気がした。
「ケイン?」
王都出身だという彼は、この土地の人間には珍しい髪色をしている。
マーシャは土地の出身者らしく、銀髪に緑の瞳だ。
ケインは王都の人間らしく、黒髪に青い瞳をしている。
黒髪の人間、そんなに見ない存在ではない。
だが、この時間。
西の港で早朝から仕事に励んでいる彼が、真反対のこの場所でいるのは何かおかしい気がした。
「今週は東の港……とか言っていたかな?」
来年の春、結婚式を挙げる予定の彼とは、ここ二週間ほど会っていない。
それは仲が悪いとかではなく、彼が所属している漁協がメインとしている魚の漁が、シーズンを迎えるからだった。
年に二回、北の海からやってきて南の海に戻っていく、というのを繰り返すその魚の群れは、いまの時期が最高に美味しいのだ。
そんな背景があるから、まさか彼が仕事の始まる時間帯にここにいるとは、マーシャも思わなかった。
もしかしたら別人かもしれないし。
そんなことを考えながら、しかし、代金を貰って帰らないといけない。
よく見知った人物の背中を視線だけで追いかけていくと、彼が出てきた建物の奥から、もう一人の誰かが出てきて腕を組む。
仲良さげに恋人たちに見える二人をじっーと見つめるマーシャは、そこに立ち尽くしたまま動けなかった。
「お待たせしました! いやあ、本当に助かりましたよ。これで……ああ、このことは内密に。まだ誰も知らない予定ですから――お嬢さん?」
すこぶる上機嫌で代金の金貨が詰まった革袋を手渡してくる相手とは真逆に、マーシャの顔はすさまじく落ち込んでいる。
それは相手にもすぐに見て取れて、とても不思議そうな顔をされたので、マーシャは、はっと顔を直した。
「はいっ、はい……お役に立てて何よりです。このことは秘密ということで承知いたしました……」
「そうしていただけるとなによりですが。なにかありましたか?」
「いえ。なにも……なんでもありません」
そう言ってマーシャは少し寂しそうに顔を左右に振った。
金貨の袋を開け、中身の枚数を確認してから、それをポケットに仕舞いこむ。
一礼をして、ボートに乗り込むと、その場から逃げるようにして立ち去った。
それから少しばかり遠回りをした。
彼と彼女たちがいった方角へと、舳先を向けた。
まさかそんなことがあるはずがない。
頭はそう考えていたが、心はそうでもないかもしれないと、告げてくる。
二つの相反する考え方に自分でも決心がつかないまま、マーシャは疑問を確信にしようと、ボートを進ませた。
二つほど水路を曲がり、彼らよりも早く次の船着き場にボートを係留すると、マーシャは街に向かい足を進めた。
船着き場の階段を上がり突き当たりに見えた壁を左へと向かうと、そこには大きな街路が広がっている。
教会もあるここは、王侯貴族たちが、自分たちの使用人などを住まわせている場所だ。
富裕層と貧困層が混じり合う場所。
そういう場所にはえてして、聖なるものと、そうでないものが同じように発展するものだ。
夜が終わりを告げようとしているいまの時間には、夜の街で一時の夢を楽しんだ男女がわかれを告げていた。
歓楽街があり、風俗街があり、お酒と欲にまみれた人々が、頭を覚まして日常へと戻って行く帰り道だ。
豊かな金髪と深い緑の瞳、彫りが深い顔つきのマーシャは見た目が豪華なためか、夜の街を歩けばそういった商売をしている女性たちと見間違われることも多い。
マーシャが自分の後方を確認すると、こちらに向かう彼らが歩いてくるのが目に入った。
物陰に隠れる。
そっとやり過ごすと、その後ろを距離を取って追いかけた。
「やっぱり、ケイン……やってんのよ。誰なのよ、その女は!」
普段は嫌な思いをするこの見た目も、この時間、この場所ではありふれたものになる。
婚約者にべっとりと侍っている彼女は、近寄ってみたら亜麻色の髪をアップにし、香水のにおいが離れていても鼻を突く、そんな女性だった。
一目見て男性を相手に商売をする女性だと分かった。
駆け寄っていって、油で固めたその髪をつかみ、後ろに引きずり倒して顔面を蹴り上げてやりたい。
そんな激情が心の底から吹き上がる。
普段はおしとやかにしているが、その実。
意外と感情の起伏が激しいマーシャは、男相手にでも平気で喧嘩をする。
最近は彼という婚約者ができたから大人しくしているだけで、彼女の中身はなにも変わらない。
「その仮面がはがれる前に、さっさと結婚しろよ」なんて父親が女らしくしろと忠告してくるのを、うわの空で聞き流しているのが最近の現実だった。
二人が歩く先には早朝からやっている飲食店などが軒を連ねている。
後をついていると、いくつかの通りの角から、彼らとよく似たような数組の男女が、ケインたちと合流した。
そして、入って行った先には、俗に言ういかがわしい宿屋がある。
そこに入ろうとして振り返った彼と、マーシャの視線が交錯した。
気まずい瞬間。
その数秒間が永遠にも近い何かを感じさせる。
すらりとした彼女の肩に巻きついていた彼の手が、何かに叩かれたように勢いよくストンと落ちた。
「どうしたの?」
と、亜麻色の彼女が化粧で際立たせた顔を彼に向けて、質問する。
太陽がさらけ出す彼の表情には、一筋の汗と、脱獄が刑吏にばれてしまった受刑者のような、情けない驚きが貼りついて見えた。
マーシャはその意味を理解しようとしてみたが、足は勝手に彼のほうに向かって歩き出していた。
ケインを顧み、近づいてくるマーシャを視界に見つけて、彼らはそれまで楽しくはしゃいでいたのをピタリと、止めた。
「フレッド、それにライオネル、ルクスまで……あんたたち、ここでなにやってるのよ。ケイン、どういうこと?」
「えっと、嘘だろ」
「マーシャ……」
「おい、まずいって。なんでこんな時間にここにいるんだよ……」
三人は途端、気まずい顔をして視線を逸らした。
彼女たちはマーシャが誰の彼女なのかを、理解したらしい。
そこは商売をしている女性たちだ。
トラブルを回避する術も、しっかりと学んでいた。
「彼と話をしたいの?」
「私が用があるのは彼だけ」
亜麻色の髪をした女に訊かれて、そう答える。
ケインを指差してやったら、青い顔はさらに青く、日焼けをした顔がそれに拍車をかけて彼の顔をより黒くしている。
マーシャの心は、婚約者の元に駆け寄っていき、どういうことかを問い詰めたいという思いと、この現実に焼けるような痛みを感じておかしくなりそうだった。
「そう……だそうよ、ケイン」
「話があるんだったら二人でやってちょうだい。私達これから仕事だから」
「ごめんなさいね」
そう言い、彼女たちは、彼らを引きずるようにしてホテルに入っていく。
ケインの友人たちは消え、しかし、彼女はそこに残っていた。
仲間たちの後を追わないのか、とにらむと彼女は物欲しげな顔をして手を差し伸べてくる。
「キャンセル料はもらわないとね? こっちも仕事だから」
「……それは彼から受け取ったらどう」
「だって。私の仕事を邪魔をしたのはあなただし」
どうするの、と亜麻色の髪の女はケインの腕を抱いた。
それを振りほどこうともせず、呆然と立ち尽くす彼はそれまで愛情を注ぎ合った男性ではなく、ただの他人に成り下がった誰かだった。
「これはどういうことなの、ケイン。説明して頂戴!」
「……なにもない。男の付き合いに女が口出しするな。結婚して妻になったわけでもないのに……図々しい」
「図々しい? どういう意味よ!」
「そのままの意味だ。俺はこいつと遊んでいる。文句があるなら帰れ! いまは話なんてない」
「へえ……そう。そうなんだ! ああ、そう!」
こっちが怒っていいはずなのに、なぜかマーシャは運河で船に絡みついて離れない、面倒くさい水草にでもなった気分だった。
距離を詰めて、手に力を込め、たった一発。
拳を固めて殴りつければそれだけで気分は晴れるだろうに。
目の前に見えない壁が現れたかのように、そこから先に足を踏み出せないでいた。
「これ以上、邪魔はしないから、好きにしたらいいわ」
心の中から憎しみを搾り出すようにしてその一言を告げると、ケインの顔が一瞬だけ軽く華やぎ、それから絶望に襲われたように、目を見開いてこちらを見返していた。
踵を返す。
もはや彼にとらわれる必要はなかった。
戻って父親にこのことを話し、さっさと婚約破棄をして、いつもの現実に戻ろう。
足早に去るマーシャの名前をケインが叫んだような気もしたが、振り返りはしなかった。
桟橋に戻ると、手早くロープを解いて、船着き場を後にする。
一瞬だけうしろを振り返った。
もしかしたら彼が追いかけてきているかもしれない。
そんな幻想に囚われてしまった。
しかしそれは跡形もなく消えていく。
追いかけてくる人間なんて誰もいなかった。
帰宅してボートを船着き場に係留すると、レイダーに集金してきた金貨の袋を手渡した。
いつになく元気がない娘に、父親は不思議そうな顔をする。
なにかあったのか、と問いかけたら、ぽつり、ぽつりとマーシャはさっきの出来事を話し出した。
可哀想に、ずっと我慢して溜め込んでいたのだろう。
その瞳には普段の勝ち気な彼女らしくない、大粒の涙がこぼれだしていた。
「おいおい、どういうことだよ。あいつは浮気なんてしない男だろう?」
「嘘じゃないってば! 漁師仲間のフレッド、ライオネルもいたんだから」
「だから行くべきじゃないって言ったじゃないか。太陽が出てから行けば出くわすことなんてなかったのに」
「どういう意味よ!」
あまりの唐突な出来事に、父親のレイダーは急に呆けてしまったらしい。
意味不明なことをつぶやいて両手で顔を覆ってしまった。
「知らなきゃいいことだってあるんだよ」
「ふざけないでよ! 結婚した後にこんなことが分かったら離婚だけじゃ済まないのよ? 結婚してしまったら夫婦それぞれに責任があるって、教会は判断するんだから!」
「……わかってるよ。お前の母親もそう言って出ていった」
「なんで親子揃って、大事な人に浮気をされて……」
「俺もお前もそういう運命だってことだ。それよりどうする」
母親は商売に熱心になりすぎて、彼女にかまうことを疎かにした父親に愛想を尽かし、当時、上顧客だった貴族の愛人になった。
彼女はまだこの街中に住んでいて、マーシャと歳の離れた異父兄弟がいる。
彼らとの交流は今でもまだ細々と続いてはいるが、そのことを父親には言っていない。
もう数年前に終わった仲だと、レイダーは思っているはずだ。
「どうするもなにも! 向こうの親にお父さんからちゃんと話ししてよ! 私から話をしにいっても、親同士が先に話をする慣習に外れるって相手にされないのは目に見えてるわ」
「片親だけだと相手が強気に出てくるからな……お前ちょっと母さんに」
「はあ?」
「だから。ティムのやつに連絡とってくれよ。今どこにいるか俺は知らないんだ」
「どうして私がお母さんの居場所を知ってるって思うのよ」
「会ってるだろ? 何年前から……俺が知らないと思ったのか?」
「……ごめんなさい。隠すつもりはなかったんだけど、なんだか言い出しづらくて……」
まさかバレてると思わなかった。
レイダーは仕方ない、と肩を竦める。
「お前は悪くないよ。離婚してしまった父さんと母さん双方に責任があるんだ。お前は子供だった。なにも悪くない……俺だけで話ができるようになんとかやってみるよ」
「うん……」
父親の腕の中に逃げ込んだ。
しばらくすすり泣いた。
それから泣いている自分に腹が立って、悲しみを断ち切るように顔を上げる。
負けているのは悔しかった。
そう思ったら、怒りの波が途絶えた。
一旦治まり、また荒々しく、うねるような感情の激流が、頭の片隅から生まれてくる。
同時に気分が悪くなり、吐き気を催してから、ようやく自分が朝から何も口にしていないことに気づく。
朝から何も食べてなくて胃の中が空腹で揺れていた。
マーシャは空腹を抱えて堪らないという風に叫んだ。
まるで我慢のできない、幼児のように。
「何か食べるものちょうだい」
「えええっ? お前、さっきまで泣いていたくせに、いきなり食事なんて……できるのか?」
「朝から何も食べてない。怒ったら余計にお腹が空いた!」
「そりゃそうだろう。そっちに力を使ってしまうんだから。オーエンズの店で、朝食でも食おう。そのついでに一緒に考えることにしないか」
「婚約破棄はするから! 絶対! 浮気なんて、許さないから!」
まるでそこにケインがいるかのように、マーシャの怒りは小さく爆発した。
煮え切らない態度の父親の胸を、固めた拳で小突きながら、何度も何度もそう繰り返し叫ぶ。
母親が他に相手を作り、父親を裏切り、さらに家族を裏切り……自分を裏切った日のこと思い出して、マーシャは追加で二発ほど、父親の分厚い胸板を殴りつけてやった。
「ストレスの発散に俺を使うな」
「いやよ! さっさと決めてくれない父さんが嫌い!」
「俺はもう決めてるだろ! 婚約破棄をすればいい。どうやって俺達が向こうから慰謝料をせしめるかって話をしようって言ってるんだ」
「……せしめるって言ったら、なんだか悪い人達がするような話しぶりに聞こえるから安心しない」
「じゃあ、言い直そう。どうやって慰謝料を勝ち取るか。その話をしないか」
「それなら、まあ……いいわ」
なんとなく納得して親子は道ひとつ向こうにある、知り合いが経営する喫茶店へと繰り出した。
オーエンズの店は、水の都に相応しくなく、水に関係のない品物で一杯だ。
店主は若いころ、砂漠で長くキャラバンに所属していたとかで、店内には異国情緒豊かな、品物で溢れていた。
影響されるメニューも独特で、パンを薄く伸ばして焼いた生地に、炒めた野菜を巻いて食べるブリトーのようなもの。
油で炒めその後に蒸した炒飯。
小麦粉を練って作った皮に細かくした野菜と香辛料、それに肉を混ぜて作ったタネを包み、水で煮た水餃子などが提供される。
今朝のメニューはいつもと気分が違うのか、自家製のパンに白身魚の素揚げ、それとサラダという、この店にしては風変わりな一品だった。
「……なによこれ。砂漠の味はどこにいったのよ。これじゃ地元料理そのまんまじゃないの」
カウンター席に陣取ったマーシャが責めるように言うと、たまたま視線が合った店主のオーエンズが、厨房から済まなさそうに肩を竦めた。
「本日、最初のお客さんが、地元の料理お好みでね」
「最初……?」
この店は朝早くから開店しているが、それは地元の漁師たちが夜更けからしている漁の合間に寄ることを見込んでのことだ。
開店して間もないこの時間、一時間も経過しないうちに、普段とは違うメニューを出させた客ってどんな人?
そんな顔をしてやると、店主は奥で食事をしている卓の人々を指差して見せた。
その多くが旅装束だった。
夏の暑いこの季節に似合わない、青い法衣を纏い、襟元から足のくるぶしに至るほど長いそれを着こなしている。
服の内側では冷却系の魔導具がさぞや活躍していることだろう。
そんな品物は高価でなかなか手が出ない。
ついでに彼らの法衣は、高位神官のそれだった。
「あんな衣装で来られたんじゃなー……断れないだろう?」
「神官様がなんでこんな店に?」
「こんなって言うな。知らんよ。なんでも船が壊れたとか、そんなこと言ってたな」
「……」
どこかでよく似た話を聞いた気がする。
それもついさっき商品送り届けた先で聞いた気がする。
レイダーと娘は顔を見合わせると、その卓の一番奥で食事を摂る、黒い法衣の少女に目をやった。
黒衣の淵は金糸で彩られており、さまざまな紋様が細かく砕かれた魔石や宝石で描かれている。
間違いない。
噂の……聖女様だ。
そんな彼女をじっと見つめて、店主が嫌そうな顔をして、一言ぼやく。
「嵐が来なきゃいいんだがな」
「嵐?」
聖なる存在が来ているのに、どうして嵐なんか起こるのか、と店主の呟きに彼女は反応する。
彼女の中での認識は、聖女は精霊王に選ばれた存在だ。
この水の都カルアドネは精霊王と契約することで、住むことを許された土地でもある。
そこに聖人が訪れたなら、神は喜ぶはずだ、というものだった。
「神様にも色々あるんだよ」
「意味が良く分からないんだけど。水の精霊王様の聖女様じゃないの?」
店主のオーエンズは声を潜めるようにして言った。
その一言は誰かに聞かれてはまずいようなそんな空気がそこにはある。
二人は顔を乗り出して、その話についつい、聞き入ってしまった。
「あの紋章はな……炎の女神様のものなんだよ。真反対の属性の聖女様がきたら、そりゃ……水の精霊王様だって嫌だろう?」
「あー……そういうこと」
「砂漠じゃよくあったんだよ、そういうことが……土ってのは闇の属性に近いんだ。だから砂漠を治める神の神殿に、光の聖女が来た日には」
「自然災害が猛威を振るったと」
「まあそういうことだな」
「天然の歩く爆弾ってこと?」
「しーっ……! 聞こえるだろう!」
「ごめんなさい」
向こうの一団は会話が弾んでいて、こちらの声が伝わっていないようだ。
下手な発言をして睨まれては賢くないと思うと、慰謝料をどうするかなんて話ができない雰囲気になってしまった。
自宅に戻り親子はなんとなく気まずい雰囲気を味わって互いに言葉は交わせないまま1日が経過した。
夜になり何気なく開いてくる悔しさに涙が沸いてくるのを我慢できず、マーシャは静かに枕を濡らした。
翌朝になると、天候が一変していた。
オーエンズが言った通り、精霊王が聖女の来訪を歓迎していないことがよく分かる。
それは漁に出ていた人々にも伝わっていて、賢い連中は、早々に船を引いてしまっていた。
欲深かったわけではなく、前日に風俗街に入り浸り、沖合で嵐を過ごそうとしていた船に戻ろうとした矢先。
彼らが乗るボートは、折よく荒れ始めていた海の影響をまともに受けて、転覆したそうだ。
そして――マーシャの恨みが天に通じたのか……婚約者であるケインは二度と戻ってこなかった。
結婚相手が遭難してしまったことで、マーシャの縁談も自然的に解消され、互いに納めていた結納金などもそれぞれの手に戻ってきた。
「でも、分からないのよね」
「を? なにがだ、もうすぐ葬儀だぞ」
喪服を着て遭難者の葬儀に参列した娘は、自分の隣に立つ父親に漏らすように言った。
「……自分勝手に浮気をして、そのまま死んでしまった彼の死を。どうやって悼んでいいのか……分からないの」
苦痛を漏らすようなそれでいて平和が訪れたように。
彼女の顔には以前のような、婚約をしなければよかったという、後悔の色が見えなくなっていた。
水の精霊王は、もしかしたら彼女の願いを聞き届けたのかもしれない。