アンドレアの洗礼
東から日が昇る頃、最も慌ただしい朝が来た。
これは大人の問題であるからして、子どもには何の関係もない朝である。
その日の昼下がりも慌ただしい。
こちらは屋敷の門が開くため、表に多くの馬車が止まるのである。
これも子どもには関係がない。
一方その頃、喧騒に見舞われる屋敷をよそに、庭で犬と戯れる少年が一人、育ちのよい容姿でしゃがみこんでいた。
そこに黄色い声が飛んだ。
「おーい!」
親しい少女らしき者が近づいてくるが、その者は少年の許嫁であり、嫁ぐ事が決められている、となりの領地の貴族の娘である。
振り向いた先の、手を振って駆けてくる姿を少年は微笑んだ。
「やあ、来たんだね」
犬の尻を軽く押し、走っていっていくのを見送りながら歩み寄ると、無理矢理のようであっても乱暴ではない、少しの驚きと喜びをあらわにして、手を引いた。
この屋敷は敷地が広く、少し離れた場所に植えられたように広がる無数の花が咲いている。
少年と少女はこの場所がお気に入りで、訪れた際には花の冠を作って笑い会うような時間を過ごしていた。
しかし、ある日を境に生活環境は激変した。
イタリア戦争の火種が業火となって、少年と少女の居る領地周辺を襲うのだ。
屋敷が忙しなかったのはこのためである。
誰しもが同情するような戦争の最中、事件はローマ全体へと拡大し、血痕や死臭の漂う場所と成り果てていた。
思い描く場所とは違う。
見慣れた景色はどこへと消えてしまったのか、忘却の中に手を突っ込んで探してやりたい気持ちがあったが、そう考えていられるのも、少年の領地が幸いにも半壊で留まったからだ。
「どうして、こんな………」
父親は戦死し、母親は失踪したが、生き永らえているだろうと希望は持っている。
瓦礫が焦げて積み重なっている光景も、領民が貧しい事を今まで知らなかった少年に刺さる痛みも、重石を乗っけられる感覚として刻まれている。
ヒタヒタと瓦礫の上を歩いている感覚なんかとうに忘れ、モウロウとする頭を抱える事なんか考えも出来ない。
満身創痍になっているのは明らかだ。
しかし、少年はある場所を目指して進まなければならない事を感じ、本能のみで生きている獣であるかのようにその足を進める。
着くまでに四日。
道中は泥水をススって空腹を誤魔化し、腹を壊しては野糞をしたり、嘔吐したりする生活を送った。
そしてやっとの事で着いた町はとなりの領土で、少女の両親が治めている場所である。
少年は不調であることを忘れて、一目散に少女のところに駆けていくが、この時に気付くべきだった。
焼け野原。
赤いレンガが黒く染まり、木はマッチ棒の燃えカスみたいになっている上、少年は見たくはない物を見てしまった。
「そんな……」
人が二人、うずくまって重なっていた。
「ははは、嘘だよね」
鎧は焦げ付く程度で残っているが、下半身だけ穿いていなかったために焼死体となった姿は察するにそうであり、その下敷きとなった姿を見て、残滓となったのを泣いた。
悪は死に遠く、善は土へと還る世界には、少年も、長くは形を残すことはなかった。




