1.魔導士の畏懼
《サクラ》
翌日、私は我を忘れるように、空いた時間すべてを王宮の図書室に費やした。
災龍の正体。今までは読んでて眠たくなるような、つまらない書物を今では無我夢中で調べ続けている。気が付くと、朝から晩まで調べていたという日々が一週間近く続いたなんてこともあった。
その熱心さは、使用人や雇用の先生、大臣までも驚いたという(ウォークから聞いた)。誰もが、私が勉学熱心になって感心しているらしい。その時のウォークは、いつも以上に機嫌が良かった。
午後3時のティータイム、快晴の気温は高めでも風がよく吹き、涼しさを運んでくる。
いつもの王宮の庭園でウォークと、幼い頃から仲が良い、つまり幼馴染のレインと談笑をした。
正直、この時間も調べることに専念したかったが、ウォークからの珍しい誘いだったので、休憩時間として過ごすことにした。
おやつはオペラ。コアントローのシロップを染み込ませた生地にモカシロップで層を作って、チョコレートで覆われたケーキのことをいう(らしい)。そしてティーはフォートナム・メイソン。ウォーク曰く、最高級品らしい。「最高級のもの多いよね」と言うと、「王族ですからね」の一言。そういうものなのか、とケーキに口を運びながら言う。
「王女、ここのところ随分と勉強熱心でいられますね♪ 感心感心です。頭でも打ったのですか♪」
「……」
「ウォーク、おまえなんかひどいこと言ってねぇか? 下手したら冒涜罪でギロチン逝きだぞ」
椅子にどっかりと座っているレインが呆れながら言う。警備や護衛が仕事の彼は、今は休憩時間らしい。
「でもまぁ、勉学に打ち込んでいるのはいいことだからな。大したもんだぜ、まったくよ」
レインが珍しく私を褒めてくれた。ウォークはいつも以上にニコニコとしていてなんだか怖かった。
「へへへ、なんかそんなこと言われると照れちゃうな~♪」とちょっと調子に乗ってみる。でも嬉しいことに変わりはなかった。
「しかし、話によると調べている内容の多くが、竜の種類と生態と生域、宗教や神話、そしてこれまでアミューダ地方で起きた災害の記録だと聞きました。ひょっとして、災龍について調べているのですか?」
「え!? う、うん、そーだよ……」
調べ始めて10日目、早速ウォークに見破られてしまった。
王族にとってはあまり必要なことじゃなさそうだからな。嫌な展開になりそうだな~……。
「へぇ~、いもしない噂程度の災龍をこいつがね~……まぁそれをきっかけに他の事も学ぶことできるし、いいんじゃねーの? なぁウォーク」
「――しい……」
「……え?」
私とレインが同時に疑問の声を問いかけた後、ウォークは体を震わせたかと思いきや、私の両手を握り、涙目かつ満面の笑みでもう一度同じことを、今度は感慨深く、早口で言った。
「――素晴らしいですっ! 何とも素晴らしい! 私が昔追求し続けていた災龍を今度は貴女が調べるなんて! やはり災龍には何かを惹きつけてくれるんですよ!」
「ちょ、ちょっと……」
「自分以外でこんなに熱心に災龍を調べているお方がいたとは! しかも私の好きな竜学についてまで調べ、知識をつけるとは! それに自然がお嫌いなはずなのに、そのような分野までも手を付けるとは!」
「え、ああ、うん……あの、ウォーク?」
「ああ、何とも素晴らしい! 私と同じ趣味というか気になることというか、とにかくそのような面で私と気が合う人がこんなにも近くに! しかもその人がまさかのサクラ王女という御方! その御方が私と同じように調べ――」
「もうええわ!」
「ほぶしっ」
レインが我をなくし、満面の笑みで涙を流す気色悪い召使を、勢いよく蹴り飛ばした。
その召使はなんともまぁ、きれいな放物線を描いて吹き飛んだ。距離はざっと5メートルか。さすが国軍というか、まぁ人にしてはすごいものだ。
ウォークは蹴られた腹を押さえながら声すら出せずに、ただ横たわったその体を丸めこみ、震わし続けている。
「ったくよ、自分の世界に入るなっての。正直みてられなかったぞ。で、その生まれたての小鹿みてぇに倒れた姿をなんとかしろ」
そうしたのはレインでしょ、と言いたかったが、敢えて言わないことにした。
それにしても、ウォークは自分の調べていることに感嘆していた。賛成ってことでいいのかな。
まぁ、これからも続けられそうだ。
「じゃ、俺は警備があるし、行くとするか」と、立ち上がっては背をググッと伸ばす。そして、5メートル先で倒れている召使に声をかける。
「おーい、ウォーク! いつまでそこで寝てんだ! 早く起きろよーっ! ……では王女、俺はこれで」
幼馴染のレインは私にわざとらしい会釈と笑みを向けたあと、走って王宮の中へ入っていった。
「……あ、あの野郎っ……自分から蹴っといてよくもまぁ自分じゃないですよ的なことを言えたもんだ……っ」
ウォークが半ば怒り気味でゆっくりと体を起こした。よろめきながら私のいる白いテーブルの所に来る。
「……とりあえず、さっきも言ったように、これからもどんどん調べていってください。わからないことがあればいつでも私に聞いてください。……で、では……げほっげほっ、ティータイムはもう終わりにしますか」
ウォークはそう言い、テーブルの上のカップやポットを片付け始めた。彼の整った顔は痛みで歪み、片づけをしている手は震えていた。私はそのぎこちない姿に苦笑し、彼の手伝いをした。
*
《サクラ》
『古の龍:脊椎動物門、亜竜網に属する老虫類の俗称。竜網に属する竜椎類や変鱗類の生態系とは生物学的に外れた孤独的進化系統を指す。共通の点がほとんどなく、動物としての形を成さない種もいるが、比較的竜網の動物に近似した形を成す種が多い。分類不明の大型生物も古の龍として区別される。
両性類や昆虫のように変態し、適応放散する種が比較的多い。化石も発見されており、比較すると、現在の形態とほぼ同じであり、古生代ティバン紀からほぼ進化していないため、生きた化石とも呼ばれている。
生態、能力など、ほとんどにおいて、未だ解明されていない点が多い。中にはハザード指定されている種もおり、地震、嵐、噴火などの天災に匹敵する力を持つことから、古くから神話の神として祀られていた』
「……とすると、災龍は"古の龍"に入るのか」
昼の2時、今日も私は王宮の図書室にいた。無関心だった、竜のことや地理学について、段々と興味を示すようになった。
あれから一度も、災龍について解き明かしたい気持ちは変わっていない。今すぐにでもその正体を暴きたい望みは常にあった。
「できれば外に出て直接会えたらいいんだけどなぁ」
数日前、実際に渓流の古寺――古の社に行って、もう一度災龍の姿を見ようと、王宮から出ようとした。
王女室の隠し通路を通り、竜小屋に入るところを、たまたまレインの同胞のクラウに見つかってしまい、無言のままウォークのもとへ引き渡された。お父さんやプリウス大臣にこの経緯を言わなかったことは有難いことだったが、その代わりウォークにこっぴどく怒られた。一瞬、冒涜罪でクビにしたい気持ちが出てきたが、そのあとのことを考えると、その感情は一気に治まった。
「何とかして外に出たいなー」
時間帯とか警備の状態とかも考えないと。どうにかしてあの山に行きたい。
「あ、そうだ」
思いついた! あの人のところへ行こう。あの人なら、何とかしてくれるはず。
*
《サクラ》
王宮の地下は3階まであり、その殆どは食糧庫や武器庫、金庫などの倉庫が多い。その中で幾つかの研究室があるらしく、専門の人たちが国の為に日々様々な研究に努めている。
その研究所のひとつの分野に、私がまだ1歳の時から、ウォークがここに就くまでの世話人として、共に楽しく過ごした女性がいる。その女性を筆頭になにかを研究し続けているらしい。
確か、錬金術……いや、違ったような。魔術だったかもしれない。実際、どのような学問なのかはわからないが、かつての時代、栄えていた技術だという。
地下のため、てっきり暗い場所なのかと思ったが、壁や天井に自ら発光する鉱石が取り付けられていたので、石畳の廊下は昼のように明るかった。地下二階の奥へ進むと「魔術実験室」というプレートが貼られたドアがあった。開けようとしたが、鍵がかかっていた。プレートの下に『危険物取扱の為、関係者以外の立ち入りを禁ずる』と書かれた紙が貼ってある。
もしかして実験中なのかな。少し待ってみよう。
10分後、ギギギ、と立てつけの悪い音がし、その分厚いドアから黒いマントを着た人が何人も出てきた。魔防用なのか、みんな不気味な仮面をつけている。廊下に置いてあった物資の隅に半ば隠れる形で、私はその顔のわからない集団を見送っていった。
全員出ていったようだ。私は恐る恐るとその黒い扉の前に再び立つ。
「……あ」
部屋締めしていた人なのだろう、最後の一人が丁度扉を開けて出てきた。ばったりと鉢合わせになる。対面して初めて分かる、黒いマントの下の服装。その長身の曲線美を装う服装も黒であり、一目でわかる細身の体形を、その黒服が魅せてくれる。
「……あれ?」女性らしい、よく通る声。その人物がこちらを向いたかと思うと、フードと仮面を外した。艶を帯びた桃色の長髪。少しうす暗い部屋でもよく見える美白肌を持つ妙齢の女性。驚いたように目を大きく開き、満面の笑みで私に飛びついた。
数年前まで私のお世話をしてくれていたもう一人の母親に等しい存在。
イルアだ。
「サクラちゃんじゃない! やだ超久しぶり! こうやって会ったの何年ぶりかしら? ……あ、今は王女様って言わなきゃなんないのかな?」
イルアは苦しくなる程の強さで、締め付けるように抱きしめながらそう言った。前と全く変わらないしゃべり方で安心した。
「あ、別に呼びやすい方でいいよ。昔のままのイルアでよかった」
「あら、何年も経ったから変わったと思った? ふふ、呆れるぐらい全然変わってないわよ」
そう笑うと彼女は私から離れ、すっと立ち上がった。女性にしては少し背が高く、相変わらずのきれいな桃色の長髪と顔立ちと体つきだ。見た目は20がらみだが、実年齢はわからない。本人が言うに「あなたのお父さんより何倍も年上」と言っていた。人間としてはあり得ないことだ。あの美しさをどうやって保っているのかがわからない。これも魔術によるものなのか。
「で、何の用でここに来たの? 好奇心旺盛なサクラちゃんとはいえども、こんなマイナーなとこ、普通王族が来るもんじゃないんだけどね」
「イルアにね、頼みがあって来たの」
「あたしに? いいよ、サクラちゃんの頼みならなんでも聞いちゃうわ」
私は自分の望みを彼女に話した。
「……災龍ってあの災龍!? あんなものと遭うために外に出たいの?」
イルアは驚愕した。今までで一度も見たことがない顔だった。
「誰にもバレずにサルタリス山脈に行きたいの! 何か方法はない?」
「そりゃあ、ないわけじゃないけど……サクラちゃん、あなた本気なの? 災龍の恐ろしさ知らないでしょ」
「本気だよ! 災龍のことだって図書室の本で調べつくしたんだから、災龍の危なさは把握したし、この国での災害の被害も小さいころから知っているんだし、大丈夫! 心配ないって」
「サクラちゃん、本や資料に載ってることなんか序の口に過ぎないわ。災龍の本当の恐ろしさを体感していない。それに、アミューダ地方で日常のように起きている災害も、所詮"二次災害"。サルト国に度々訪れる外部からの災害事故は、その二次災害の余波なの」
あの陽気なイルアが真剣な顔つきになっている。初めて見たかもしれない。
「あなたのように、災龍という未知の幻影に魅了されて、追求した者たちは必ず命を奪われる。なにか『遭って』からじゃ遅いのよ。だから、あたしは行くことを勧めない」
数秒の沈黙。私の目を見続けたイルアは途端、大きなため息をついた。
「……はぁ~、あなたの事だし、それでも行くんでしょうけど?」
私は大きくうなずいた。
「うん!」
「"うん"じゃないわよ全く……サクラちゃんも小さいころから変わってないわね」
「とにかく、何が何でも絶対に突き止めたいの! だから、方法を教えて!」
イルアは暫く悩み続け、頭を抱えつつも答えを出した。
「誰にも迷惑かけない?」
「うん」
「命の覚悟はできてんの?」
「当然!」
「……」
「本気なの!」
イルアは唸る。頭を抱えて唸り続ける。相当迷っているようだ。
「――わかった! その望み応えてあげるわ!」
「っ! ホントに!? ありがとう!」
「だけど! 4つ条件があるわよ」
イルアは強調するように話す。私は真剣に耳を傾けた。イルアは真摯に私を見つめ、口紅を塗っている、潤んだ口を動かす。
「いい? 一つは絶対条件! ――必ず生きて帰ってくること! 死なれちゃ、あたしも国王も国民も困るからね、国にとって今世紀最大の迷惑をかけることになるわよ。二つ目はあたしの言うことを絶対に聞くこと。言うことに反したら命を亡くすことがあるから絶対に、ね。三つ目はこのことは勿論、外で入手した情報は一切人に口に出さないこと。あなたのイケメン金髪の側近、ウォーク君にもね。そして四つ目、信仰地の社には絶対に近づかないこと。わかった?」
「うん! わかった!」
「返事はいいんだよね~この娘は」
イルアは苦笑し、呆れながらも、賛成してくれた。
よかった。これでなんとかなりそうだ。やっぱり小さいころからイルアは頼れる存在だ。
「じゃ、私は研究の事もあるし、三日後の夜10時、竜小屋にこっそり来ること。バレないようにね。その3日間、しっかり準備するのよ」
「わかった! イルア、ありがとう!」
「そういうことは無事に帰ってきてからにしてほしいわ。ま、かわいい子には旅をさせろっていうし、かわいいサクラちゃんの頼みだから仕方なくオッケーしただけよ」
それじゃ三日後に、と彼女は去っていくとき、私は呼び止めた。
「イルア! ひとつ聞いていい?」
「? いいわよ」
「さっき、災龍の本当の恐ろしさとか言っていたけど、イルアって災龍に会ったことがあるの?」
さっきまで陽気で優しさのあった顔が、そのことを聞いた途端、急にその表情を一変させた。
真剣、とうよりは畏怖。背中に嫌な寒気を感じさせる。
「……ええ、何十年も前になるわ。今の国王の三つ前の王、あなたの曾々(ひいひい)おじいちゃんに当たるわね。その人に命じられて、国軍と魔道軍の一部隊は共に、その龍を討伐しにあの山へ行ったわ。探し続けた先に着いたのは、信仰地の社、大樹の古寺に着いたわけ。そこでちょうど牙狼竜と遭っちゃったのよ。で、何人かの兵が携帯式の迫撃砲を集中砲火、けどそいつは全部避けたからその弾を全部はずしちゃったのよ。……このときだったわ」
目を疑うようなことが起きた、という。静まり返った空間で、イルアは一度だけ話すことを躊躇った。微かに手元が震えている。
「……何が起きたの?」
「……突然爆発したの。社だけじゃなくて、砲弾を撃った兵士全員が」
「っ!?」
「何が起きたのかと思った。けど、そう思ったときには、全身が切り刻まれていたの。強い魔力で守られた防護服とその回りの結界の2重結界をしていた私だからこそ、今でもこうやって生きている。けど、そのときは瀕死だったわ。魔道結界を破るなんて、当時は信じられないことだったのよ」
「……」
「もう死ぬんじゃないかって思った。身体も上手く動かなかったし。その中で私が見たものって、なんだと思う?」
「……」答えられなかった。口を噤んでしまった。
「みんなの死体よ」
現実を受け止めるように、はっきりと、そう口にした。
「誰もが一斉にね、身体を欠損させたり、関節が捻られたり、千切れたりして人形みたいにバラバラになっていったの。それも、誰にやられることもなく、勝手にね。もう花火みたいに散っていったわ。聖域だった信仰地は一気に真っ赤色。地獄でも見ている気分だったわ」
「話はここからよ」と付け足す。
「迫撃砲に当たったはずの古の社は傷一つ付いていなかったの。それだけじゃない、暗くてよく見えなかったけど、そこにはね、見たこともない龍……ともいえないし、なんて言うか、異形っていうか……何かがいたの。何かがね」
それが災龍なのか。私は自然と息を呑んでいた。
「その姿を見た途端ね、体から、いえ、本能から、脳から恐怖そのものを植え付けられた感じになって、逃げろ、逃げろ、としか考えることしかできなくなった。本能的危機による……火事場の馬鹿力って言うのかしらね。もう狂ったみたいに力を振り絞って、なんとか魔術でその場から逃げることができたわ」
だけど、と彼女の口調は段々と重たくなる。
「百人はいた国軍兵も、34人いた私の同胞や部下もみんな……殺されてしまったわ。後に調査しに信仰地へ行ったけど、死体は腕の一本すら見つからなかったらしいの。全員、龍の餌食に遭ったって、誰もが思った……これを知った王や国民は、その存在を改めて恐れたの。国の一軍や当時圧倒的戦力として扱われた武力魔道でさえ敵わない存在。無知な私たちは天罰を受けたの。もう、あれに手出しをすることも、関わることも許されない」
「……」
「あたしももう、あんな目に遭いたくない。思い出せば今でもそんな恐怖心が湧いてきてね、神経が狂いそうになる。……私の推測だけど、あの社に危害を加えたから災龍は怒ったと思うの。だから、あの社には絶対に近づかないでほしいの。本当はあなたに、そんな怖い思いをさせたくない! だから、できれば、三日後の夜、来てほしくないの……!」
もう、何も言えなかった。いつでも笑顔で振る舞う彼女の目から、涙が込み上がっていた。
そのあとのことは自分でもあまり覚えていない。彼女の涙で頭がいっぱいだったからだ。
三日後、行くべきか、行かないべきか。普通は行かない方が妥当だ。
でも、欲望としては不正解の方へ行きたい。
一つでもいいから真実を知りたい。
でも、イルアのことを考えると……。
もう、どうしたらいいのかわからない。誰にも聞けないし、時間も限られている。今回ばかりはウォークにもレインにも、誰にも頼れない。
私はどうすればいいの?
*
三日後、夜10時。
「では、おやすみなさい」
いつものように、召使のウォークが私に微笑んでそう言った後、照明を消し、部屋を出ていった。私はこっそりとベッドから抜け出し、ある準備をして部屋の奥の隠し通路に入った。
抜けた先は王宮裏の竜小屋。その小屋の裏にある牧場みたいな広場に行く。
月の光に照らされ、その黒く艶やかな毛を宝石のように輝かせている、猫のような目と艶めかしさをもつ私の乗竜「ナウル」と、その迅翔竜の頭部や顎を撫でている女性、イルアがいた。桃色を帯びた長い髪が風に靡き、その妖しい美しさを保ち続けている彼女の素顔が露わになった。
彼女は私のいる方へ振り返らずに、話し始めた。とっくに気付かれていたようだ。
「あなたはほんとにお母さんに似ているわ。自分が一度興味を示したことは、根っこの先までその真実を追求し続ける。誰がなんと言おうと、決して屈することはなかった。世間を気にしない、自分の意志を貫き通す、強い女だったわ」
お母さんと親友だったイルアは懐かしむように語る。
「その強さがこの国を栄えさせてくれたのかしらね。なんにしても、彼女はあたしが生きてきた中で、いちばんの人だった。あたしのことを一番の親友と言ってくれたもの。誰もがあたしのことを避けていたのにね。彼女がいなかったら、誰とも関わることなく、あたしはただこの世界を放浪するだけだったに違いなかった。キクには本当に感謝しているわ」
イルアは振り返る。優しい笑顔だった。
「……あなたの顔を見ると、彼女の事を思い出すの。キクが生んだ、たった一つの命。あたしは何が何でも、その命を守り続けようと思った。けど、こうやってあなたから旅立っていこうとしている。それは嬉しがるべきなのか、悲しがるべきなのか」
「イルア……ごめんね」
思わず出た言葉。しかし、イルアは首を横に振るう。
「いいのよ。あなたが望んだことなら、ね。どんなことがあろうとも、あなたは己の道を進んでいくでしょう。そして、あたしはその勇姿を見届けなくてはならない。そう信じていこうと思う」
涼しげな風。草が揺れるままに、彼女は私に近づいた。
「あなたの望むままに進めば、運命は変えられる。そう信じなさい。さぁ、出発の準備をしましょう」
イルアはあらかじめ持ってきた今年の信仰祭の巫女の衣装を私に着せた。そして、私とナウルの両手に何かの紋章を描いた後、聞き取ることができない言語で何かを唱え、「はい、終了」といって、私をナウルの上に乗せた。案外力持ちだ、と半ばびっくりする。
「おっと、武器忘れてた。……はい、持って。少し重いわよ。……よし、ちゃんと担げたわね。その携行火器は国軍の武器庫からパクってきたやつだけど、使い方わかる? わかるわよね。あ、一応その武器にも魔術はかけておいたから」
「ねぇ、この服って信仰祭のときに着た物なんだけど、これがちゃんと防具になるの?」
「大丈夫よ! その服、素材が古の龍から獲れたものばっかりだもの。魔法かけるまでもないくらいの強度があるわよ。でも、災龍に遭うとしたらまた別の話になるけど。ま、ちゃんとその服にも強力な魔法はかけておいたから、大丈夫よ」
「イルア、ごめんね。迷惑かけ――」
「らしくないこと言わないのっ、ほら、もう準備は整ったし、もう出発よ! 時間も限られているわ! 謝罪も感謝も、あなたが無事に帰ってきてから!」
「……うん!」
強くうなずいた。それに応えるように、イルアは「よし!」と白い歯を見せて笑う。
「じゃ、あたしは今から、みんなにバレないようにする"おまじない"を唱えるとしますかっ」
彼女はそう言った後、手話のような動作をしながら羅列を唱え始めた。そして、指を鳴らし、その手を地面へ振りおろした。
風に靡いていた葉音が止む。
さっきまで感じていた風も、竜小屋から微かに聞こえていた竜の鳴き声もすべて止んだ。
「……なんか、変な感じ。何をしたの?」
そう訊くと、イルアはいたずらな笑みで「ふふふ」と笑う。
「どう? 時間の静止した世界にいる気分は」
「え、時間が止まってるの?」
ウソでしょ? そんなことも魔術はできるの?
「そう、正確には、周りの世界を時間が止まっているかのように遅くしているんだけどね。それであたしたち二人と、その竜が光のような速さで瞬間的に動いているわけ。静止範囲はサルト国をざっと囲っているわ。あたしが解除するまでこの静止空間は続くけど、早めにこの空間の境界から出てね。結構魔力と気力と体力使うから。あと空間から出ても何の支障もないから安心してね☆」
イルアはそういい、ウィンクをした。
やっぱりすごい人だ。王国丸ごとの時間を止めるとは。しかもこの余裕。
だけど、こんなすごい人を一撃で死に掛けさせた災龍はいったいどれだけすごいのか。
「あ、言い忘れてた。夜明けまでには帰ってくること、いいわね」
私は「わかった!」と笑顔で頷く。
「じゃ、いってきまーす! 必ず帰ってくるから! ほんとにありがとー!」
「いってらっしゃーい! 絶対無事に帰ってくるのよー!」
私は手綱を取り、いつも稽古でやっている感覚で、ナウルを乗りこなす。私はイルアに手を振りながら空高くへと飛び上がった。静止した国の中、竜のナウルが私を乗せ、真っ暗な空を滑空する。私は心を躍らせた。
ついに、外に出れる! ついに災龍を突き止められる!
目指すは、サルタリス山脈へ――。