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序章 誰も知らない歴史

愛しき人に

     1


 風が穏やかに靡き、草葉がサァッ、と音を奏でる。何処までも澄み渡る雲一つない蒼い空。不純なものなど一切なく、ただあるのは青空と草原。世界は上下に青と緑に分かれている。

 その鮮やかな緑一色の丘の先には切り立った崖があった。その崖からの眺めはまるで幻想郷。この世のものとは思えぬ美しい湖や日の光を照らす清輝の森、そしてひとつの巨大な街――誰もいない国の残骸がみられた。

 崖の上には一本の大きな樹と、手作りと思わせるひとつの歪な墓があり、その墓には一輪の可憐な華が添えられている。


 その樹の根元にひとりの男が休むかのように座り、背もたれながら崩壊した街を見つめている。その男はその街の何を見、何を思っているのか。その目は、喜びとも悲しみとも言えない複雑な目だったが、その瞳の一筋からは何かの決意が現れていた。


 青年の髪が靡く。

 その右手には、一通の古ぼけた手紙が握られていた。


     2


「その細い道をまっすぐ行って、つきあたりを左に曲がればいいのさ」

 母の知り合いの堀澤おばさんは言った。「神社が見えたら、あとは一本道をずっとまっすぐ進むだけでいい。図書館はその先だからね。迷うことはないと思うし、図書館ついでに近くの町もぐるっと見てきてごらんよ」うなずいてはお礼を言うと、おばさんは微笑み返し、家の中に戻った。


 夏の日差しの中。奏宴かなえは滲む汗を袖で拭い取り、石段を登った。そこまで段数はなく、すぐに最上段に到着し、振り返る。

 空気には潮の香りが漂っていた。どこからともなく、海鳥の鳴き声が聞こえてくる。船着き場には小型のボートが何艘なんそうか係留されていて、潮の流れにゆったりと揺れていた。都会にずっと住んでいた奏宴は別世界にさ迷いこんできたような気がした。ボートと、海鳥と、とてつもなく広い空があるだけの、遠く離れた静かな世界。


 いまはとても自由な気分だった。自由でいて、どこかうつろ。誰とも話さなくていいし、何も気に掛ける必要はない。周囲にはほとんど人がいなかった。ちょうど自転車に乗った農夫がひとり、こんにちは、と言って奏宴を追い越していった。おどろいた表情をし、返事を返そうと振り返るよりも早く、もう遠くにいってしまっていた。

 奏宴は前を向き、人の少ない港町の外れへと歩いて向かっていった。潮のにおいが掠れてきたところで、手入れのされた、誰もいない神社を通り過ぎた。


 少し進んだ先に錆びついたバス停がぽつんとあった。その先は田畑一色。ぽつりぽつりと農家があり、地平線には深緑の山がどっかりと鎮座している。


「……3時間待ちか」

 歩いていった方が早いだろうと、奏宴はバス一台が通るほどの幅がある道を見つめる。じりじりと照らす日差しが奏宴を焦らす。途方に暮れた目をしては、重たい足を前へと運んだ。


 ここに来たのはいつぶりだろうかと、奏宴は小さいころを思い返していた。青く伸びた稲。多様な音色の蝉の声。慣れない暑さが、じりじりと肌を傷める。それをなにも遮ることのない風が、やさしく撫でてくれる。もう小波さざなみの音はすっかりと消えていた。振り返っても、同じ緑の景色が続くだけ。

 何も変わっていない。それでも、どこか記憶と違う感じが奏宴にはあった。景色そのものではなく、自分自身の見方が変わったのだと瞬時に気づく。

 コンクリートではない、土の道路を進み続ける。自転車に乗った、制服の長ズボンと半袖カッターシャツを着ている3人の男子高校生が並行して、奏宴の横を通り過ぎる。うるさいぐらいに楽しげに話し合っていたのを無表情で一瞥し、再び前の果てしない一本道をつまらなさそうに見つめた。


「あれかな……」

 ぽつりと見えた3階建ての古い建物。ここからでははっきりとみえない。風で稲穂が擦れる音を聞き流す。ふと見上げた青空は快晴。にわか雨すら降り出すことはないだろうと思えるほど、いい天気に奏宴は少しだけうんざりした。「少しだけでも曇ってくれないかな」とつぶやく。


 一羽のとびが上空で鳴く。笛のような響きに懐かしさを思い出す。忙しない毎日が嘘だったかのようだ。あまりもの静けさにつまらなさを感じつつも、心は穏やかだった。癖になっていた考え事。それが今ここに来て、呆然としたかのように何も考えていない。

 周囲を見眺めつつ、奏宴は耳を澄ましていた。田畑と空に広がる静かでおおらかな空虚さを、胸いっぱいに吸い込んでいた。その空虚さは、自身の胸にひそむうつろさにも通じているよう。似た感覚が記憶のどこかにあった。


 奏宴は買い直した携帯端末のマップ機能を開き、目的地を確認した。画面にではなく、立体的に空間に映し出される電子地図。慣れた手つきで操作し、目の前の建物と地図に映る航空写真とを見比べる。

 あちこちで見かけた瓦の軒と同じようにぽつりと建っていたそれは、大きく、古めかしく、方形の館。長いレンガ塀に囲まれ、雑草の生えた土手沿いに伸びている。小さな窓がたくさんあって、どれもがこちらを見つめているようだった。人の気配はないにもかかわらず、だれかに見張られているような気がした。


 この館をはじめてみた人ならば、ある日ひょっこりとあの海を渡ってきて、この静かでおおらかな空と緑を見渡して、気に入ったかのようにここに座り込んだのかと思ってしまうだろう。違和感があるだろう異文化な館は、奏宴にとってはなじみ深いものだった。地図で確認せずとも、わかるはずだった。

 日が昇り、降りるくり返しを見守っている、物静かな雰囲気を夢の中でおぼろげに浮き沈みするように漂わせていた館。塀を過ぎ、立てかけられた古い看板を一瞥する。『八千尾町立鳴園(めいえん)図書館』。奏宴の祖父母が経営している場所。そして、物心つく前から住んでいた実家だった。


 入り口に踏み込み、石段に足を乗せる。両開きの入口の扉を開けるが、立てつけは悪くなく、軋む音は奏宴の思っていたほど高く響きはしなかった。

 都会ではほとんど感じることのない古めかしいほこりくささ。道中で見かけた神社よりも手入れは随分と荒っぽいようだ。


 外観から見れば、その建物は然程大きくはない。都会の図書館の方が大きいといえる。しかし、内部に一歩踏み込んでみれば、目の前に広がるのは見渡さんばかりの大空間。本棚という本棚が壁や通路を支配し、建造物の一部として機能している。当然、その中にはぎっしりと書物が詰まっていた。天井は高く、見渡しきれない書架の壁に圧倒されていた。

 何より、静けさという耳に捉えられない音が張りつめている。外の静寂とはまた違った鎮圧。沈黙とも表現できる。張りつめたような、しかし懐かしみもあって、心を落ち着かせる不思議な空間。奏宴は扉を閉め、奥へと進む。


 窓掛けの隙間から細く入り込む光が木漏れ日のように差し込んでいる。宙を舞う埃に反射し、より光と闇の境界を強調している。やさしい光。それとは裏に、唸る獣が潜むかのような闇も同じ部屋に存在する。

 染みと色褪せ、年経た紙のにおいに満たされた館内。いくつかの通路を挟み、長く延びる書架。途中で連なり、交差する通路。妙な奥行きを感じさせるのは小さい頃から変わらない。迷宮だとあのころの私は言ったっけ、と奏宴は懐かしむ。


 祖母が言っていた。「図書館は魔法の世界。いつになっても、この静けさは母の胎盤の中を思い出させるの」

 私たち書を読む者の振る舞い次第で、図書館は無限の知識と静寂を与える神にも、厳かになり、書を加護する悪魔にもなる。そう教わった。


「……あ」

 手を伸ばしても届かない場所に置いてある本を取るための梯子に、腰を降ろしながら本を読んでいる、丸顔の、背丈の高い老人。あれが喜一きいちおじいちゃんに違いないと思って、奏宴は近づいていった。


「おお、いらっしゃい、こんなところまでよくきたねぇ。無事についてよかったよ」

「ひさしぶり」と微笑む。「いつもこんな感じ?」

「わかってることを聞くもんじゃないさ。そこで休んでいなさい。暑かっただろう」

「私の住んでる所よりはね」と肩を竦める。


 喜一おじいちゃんは軽く笑う。「でも風が気持ちよかっただろう。いま茶を出してくる」

「あ、じゃあその間におばあちゃんにお参りしてくるね」

「ああ、いってらっしゃい。車には気をつけるんだぞ」

「こんな田舎じゃほとんど通ってないでしょ」



 図書館の近くの一本道の途中に墓地がある。近くの村のご先祖様のお墓は緑色に燃え上がる、まだまだ青い田畑に囲まれている。緑の海に浮いた島のようだと奏宴は思い、墓地へと足を踏み入れる。すがすがしい風がお墓に添えられた花を揺らす。


 ひさしぶり、おばあちゃん。元気にしてた?

 心の中で奏宴はお墓の前で話しかける。親しかったおばあちゃんとの思い出。いろんなお話を聞かせてくれた。その大切な記憶は鮮明に覚えている。

 息を大きく吸う。憐れむ表情にもみえる顔で、その墓の向こうにいる祖母を見つめている気分だった。流れる稲穂がさびしげに囁く。 

 またくるね。

 花を添えては、その場を後にした。



「去年は里帰りに来なかったのはどうしてなんだ。なにかあったのか」

「知ってて訊いてるでしょ。それともボケた?」

 奏宴が皮肉を言うと、喜一おじいちゃんは大口を開けて笑う。


「冗談でもないことを言うんじゃない。これでも医者には健康体だと顔を青ざめながら言われたほどだ」

「私より健康かもね」とつぶやく。それは聞こえなかったようで、喜一おじいちゃんは話を続ける。

「まぁ、奏宴がこう元気な姿で会いに来てくれた。何があったとしても、じいちゃんはそれだけで十分だ」

 そう言ってはにこりと笑う。抱えていたものが一気に手放したように軽くなった気持ちは、心地が良いものであった。

「……ありがとうね、おじいちゃん」

 すこし意外な顔をした。そして奏宴は感傷に浸る声でそっと伝える。


「せっかくだし、ここでゆっくりしていったらどうだ? 最近新しい本や資料を取り入れたんだ」

「そうなんだ」と腕時計型のウエアラベルを見る。昼過ぎのまぶしさが図書館の中を明るくさせる。照明を使う必要がないほどだった。


「じゃあ、そっちでゆっくりしてからここの本でも読もうかな。一晩おじいちゃんの家で泊まってもいい?」

「もちろんとも。奏宴がくると聞いて、わざわざ美味いもん買ってきたんだ。帰ってもらっちゃあ困る」

 そういっては笑う。奏宴も「ありがと」と微笑んだ。


     3


 今は夕刻を迎え、窓から射し込む光は赤く焼けていた。仮に今から帰っても、深夜を過ぎるし、もう少しだけこの静かな場所に身を置きたいと感じていた。

 長いこと本を読んでいたようで、奏宴は図書館の柱時計を見る。すでに五時間は読書に集中していた。一息つこうと、喜一おじいちゃんのところへ足を運ぶ。そろそろ夕飯の用意ができている頃だろう。


「ずいぶん長いこと本を読んでたね」

「まぁ、一番落ち着けるというか、懐かしい感じがして」

「それはよかった。まだその心を忘れてなくて安心したよ」

「おじいちゃんとおばあちゃんのおかげもあってこそよ」と笑う。無垢に笑えるのはどうしてだろうか。まるで童心に戻ったようだと、奏宴は思った。

「高校を退学されて刑務所の世話になったにもかかわらず、いい企業とこに就職できるなんて、世の中わからないもんだ」

「本当にね。あ、そういえばさ、図書館と家を繋ぐ廊下のとこに関係者以外立ち入り禁止の部屋あるよね。あれって資料室らしいけど、私でも入っちゃ駄目なの? 一応おじいちゃんの親族にあたってるから、そういう意味では関係者だとは思うんだけど」


「……何か気になることでもあるのか?」

「ちょっとね。小さい頃入れてもらえなかったから、好奇心かな」

 まっすぐと奏宴は喜一おじいちゃんの目を見る。一度目をそらした喜一だったが、唸っては、

「鍵は受付のところにあるよ」

「ありがと、おじいちゃん。あと、そこの部屋ってどんな資料が保管されてるの?」

「ここらの地域の統計資料や歴史や、うちの家のことについてのものばかりだよ。大したものはない」

「物置ってやつね」と半ば呆れる。小さい頃は宝でもあるのかと期待していたが、現実はこんなものだと心の中で苦笑した。


     4


 公開している図書館よりも、非公開の資料室の内部は、書類が床に散らかり、埃で満たされている。――と奏宴は予想したものだが、案外整頓されており、塵も少なかった。しかし高いところまでは手がつけられないのか、天井の蜘蛛の巣は立派に張っており、その家主が元気に動いている。

 それを一瞥し、奏宴はファイルで敷き詰められた資料棚の通路へと入る。あまり部屋の中は広くはないようだ。


「こんな風になってたんだ」と独り言。壁に埋め込まれている本棚の一冊を手に取る。細かい埃が手につき、はらはらと床に落ちる。染みのにおいが思いの外強い。


 奏宴が知りたかったことは、祖父や祖母のことについてだった。

 かつて祖父は兵士として戦争に参加していたらしい。海外まで赴いては重い火器を握りしめ、何人もの人を殺めていた。祖父の過去については父から聞いた。また、植民地にした小さな国の住民に自国の言語や文化について教える先生でもあったという。

 どうしてそのような経緯になったのか、実際の現状はどうだったのか、そこでどのようにして祖母と出会ったのか。戦争に参加してなにを知ったのか。

 直接聞きたかったが、あまり思い返したくはない記憶であることだと、小さな頃からわかっていた。

 だからこそ、この血族についての歴史が記録されているかもしれない資料室に行ってみたかったのだ。


 なるほど、自分の家系はマメに記録を残すようだ。

 手当たり次第に奏宴は資料を漁ってみる。壁際の古い机にはどっさりと資料ファイルが何冊も乗っていた。

 この家や地域の歴史や統計図、家族の経歴や関わったニュース等、喜一おじいちゃんの言ったとおりのものばかり。農家、商人、政治家、兵士……かつての血の繋がった先人たちはどれも異なる生涯を過ごしてきたようだ。


 冷房のない部屋はただ暑く、汗がにじみ出る。漂う埃は湿った肌にまとわりつく。

 さっさと出て風呂にでも入ろう。そう奏宴は急ぎめで資料を本棚に戻す。

「あっ」と思わず声が出てしまうと同時、手元の資料本がバサバサと落ちてしまった。無理に詰めようとしたからか、手が滑ったのか。片手に持っていた資料本を棚に戻し、真ん中あたりにページが開いてしまった資料ファイルを拾おうとした。


「……?」

 心の内で首を傾げた奏宴はその資料の開いたページを見つめる。「サルト事件……?」

 ちょうど見開いたページを見、何かに惹かれるように、そのページの中身を読んでみる。吸い寄せられるように手が伸び、ぱらりとページをめくった。

 切り取られたいくつかの古い新聞記事、色褪せた紙に染み込んでいたインクの綺麗な文字。その内容にさっと目を通す。


 サルト事件。その資料と記事を読んだ限り、事件というよりは震災だった。それも、情報媒体である記録というには、あまりにも現実離れしていた。


 アストラ暦2034年春期、クルム大陸アミューダ地方に厄神ゲナという龍の姿をした神が存在し、その災いの神を討つべく、王族含むその地方の国々が見事捕獲に成功し、その神をサルト国にて処刑する。

 しかし、その祟りで大陸をも揺るがす"複数の"天災に遭い、たった一晩でサルトという王国が滅んだ。要約すれば、どこかの神話にでもありそうな、おとぎ話染みた記事だった。


 まるで物語の一場面。しかし、災害規模は6枚ある白黒の写真をみる限り、凄まじい被害を出している。隕石が墜落したような形跡もあれば大地震と津波に見舞われたような景色もあった。まるで、パンドラの箱の中身をその国にすべて撒き散らしたかのようだと、記事にはコメントとして書いてあり、実際に巨大地震や大規模な台風、そして火山活動の痕跡が残っていると記してある。奏宴は信じられないと言いたげな顔をした。

 奏宴はその竜の姿をした災いの神は、どこかの神官か予言者として天災を予知していた人間か、手に負えないような狂暴な獣だと勝手に予想づけた。奏宴の生きる時代に神の存在は宗教として見られているが、当時は本当に存在していると信じている国が著しく多い。どのような経緯と物語であれ、世界中に共通して『神』の概念があるというのは小さい頃、不思議でならなかった。


「おお、まだそこにいたか」

 奏宴は振り返る。「おじいちゃん、この記事もこの地方や私の家系に関係あること?」そう言ってはサルト事件の記事を見せる。

 途端、喜一おじいちゃんの表情が一変する。ほんの一瞬だけ、思いを馳せたような目。奏宴はしっかり、その一瞬を捉えた。


「おじいちゃん……?」

 声をかける。一度せき込んだ喜一おじいちゃんは、ゆっくりと奏宴の方へと顔を向ける。「一度家に戻ろう。それのことについては、そのとき話す」


     5


 夜。風呂を済ませた奏宴はさっぱりとした表情で和室の方へと向かう。ギシギシと軋む床。手には、奏宴が気になっていた記事が載ってある資料ファイル。喜一おじいちゃんがなぜ、人が変わったような振る舞いをとったのか、奏宴は気になってはいた。


 ふすまを開ける。和室には誰もいなかったが、外側のふすまが開いており、外の景色と縁側が見える。祖父はそこにいた。蒸し暑かったはずの風が、今はどうしてか涼しく感じる。生暖かく、しかし涼しげな、不思議な風。土のにおいが鼻に染み渡る。

 何もいうことなく、奏宴は喜一おじいちゃんの隣に座る。縁側の床は古く、しかし滑らかで、冷たかった。ちらりと奏宴の横顔を見ては、「その資料持ってきたのか」と一言。

「一応、ね」とつぶやくように言う。晴れ渡った夜空には幽玄なる満月が光として庭と縁側を照らしていた。その幻想的な優美さ前に、ひとつの詩が思い浮かびそうなほど。

 祖父は空を見上げる。何かを思い返すように、何かに浸るように。


「その記事を読んで思ったことはあるか?」

 突然、そう言った。半ば首を傾げた奏宴は、

「まぁ、ちょっと変わった話だったね。ただの天災でも、そんな風になるなんておかしいし、人工的にも、そんな技術が昔あったわけじゃないし……形容とは言っても龍や神様っていう名前が出てくる時点で不思議というか、おとぎ話みたいな感じ」

 そう言うと、喜一おじいちゃんは大きく笑った。なにがおかしいのか、奏宴にはさっぱりだったが、すぐに理解する。


「やっぱりそう思うか! はじめて読んだら、そう思うだろうなぁ」

「おじいちゃんの……私たちの家系が関係している記事なの?」

「さぁどうだか。けど、その記事自体とは関わっているよ。とってもね」

「もしかして、この記事を書いた人……?」

「ああ、私たちの御先祖様が遺された原文を歴史的文献の一つとして記されたものだ」

「ご先祖様ね……」

 それだけ遠い昔の人が書いたもの。記事とはいえ、複製されており、また年号や日付は書かれていない。何年前の出来事なのかわからなかった。

 最後に名前がある。Kikeno.U――キケノという記載者が、鳴園家の祖先にあたる人なのかと、奏宴は不思議な気持ちに見まわれていた。まるでこの記事を書いた人物が目の前にいるかのような感覚。その記事に手を触れた。


「確か4000年前だろう。場所は遠く離れているが……」

「それは確かに大昔ね。でも、どこの国を調べても、サルトなんて国、紀元前でもなかったわよ? アミューダっていう地方も大陸も、名前だけなら検索していろんなのヒットしたけど」

 数年前よりもはるかに発達した検索エンジン。しかし、国名で該当したものはないに等しく、ファッション店や海外の地方名ぐらいのものだった。

 喜一おじいちゃんは優しく笑う。月明かりで皺に陰りが入り、より深く見える。


「言うただろう、遠く離れていると」

 その言葉の意を察する。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、奏宴は口に出してみる。

「まさか、別惑星って言わないでしょうね。その年でボケは冗談にもならないからね」

「私がアルツハイマー型の認知症を患っているとでも?」

「ぐ……その言い草は言い返したいけど……」


「まぁ、奏宴の言うとおりだ。サルトという国も、その出来事も、ご先祖様も、この地球上には存在していなかった。別の惑星、というのも考えられるけど、どちらかといえば、別の世界の出来事だ」

「別世界? どこかのファンタジーじゃないんだし」

「けどね、この記事をどう説明する。私が子供の頃に、祖父に教わったことだ」

「それが本当だとしたら、ご先祖様の子孫は何かをきっかけにこちらの世界へと移ってきて、そのときに、その別世界の記事も遺品として持ってきたってことかしら?」

「そういうことになるだろうな」

 奏宴は呆れ、夜空を見上げては息を吐く。自分の祖父は頑固ではないが、少し変わっている。


 信じられない。

 否、それに近いサイエンスフィクションともファンタジーともいえない――つまり科学として証明できない不可思議な現象がこの惑星にとどまらず宇宙で起きていることを奏宴は思い返す。

 どちらかといえば、学者でさえ証明できない難解な事象の方が多いため、喜一おじいちゃんの言うことには何とも言えないけども、自分の遺伝子の根源がこの世界からじゃないとなると、いろいろと複雑な気持ちになる。

 本当のところ、どうなのだか。ここで起きた出来事だろうと、別の場所で起きた出来事だろうと、奏宴にとってはどうでもいいことであった。


「実際、ネットや文献にすら載っていない情報なんてごまんとあるからね、そのアミューダ地方のサルト事件も、歴史の空白としてあったって、別におかしくはないでしょ。別世界っていうほうがおかしいし」

 奏宴の言葉に対し、「そうか」と一言。静かな笑みだった。


「奏宴も二十歳を過ぎた。もう話してもいいだろう」

 ふう、と息を吐く。

「なにを?」と聞き返す。その声にはちょっとばかりうれしげな、期待を込めたものが含まれていた。瞳には疑問と、ちょっとばかりの少年のような輝きを持っていた。


「物語をだ」

 それを聞いた途端、さすがにそこは現実じみていたかと、少し肩を落とす。

「え……なんかの伝説の剣とか、禁忌の魔導書とかじゃなくて?」

「一度精神科行ってこい」

「うるさい」

 二年前にパラノイアと診断されたわよ。そう言おうとしたが、そういえば自分の症状について祖父に話していなかったと口を噤み、冷や汗をかく。紛らわすため、すぐに本題に戻った。


「それで、その物語ってなんなの? このおとぎ話みたいな記事のことについて民謡化されたものとか、小説化したものとか?」

「最期にご先祖様が書かれた逸話……世間には知らされていない、サルト国の真実が書かれている」

「……!?」

 その顔は驚き呆れる、という言葉がふさわしい。「歴史の真実、ていうこと?」


「そう。厳密にいえば、情報として知らされていない事実を寓話化したようなものさね」

「それは……ちょっと気になるわね」

 逸話。誰も知らない歴史がこの記事に隠されていると、奏宴は少し興味を抱いた。それを知れば、祖父が「サルト事件」はこの世界ではなく、別世界で起きた出来事だと拘る理由がわかるかもしれない。


「歴史というのは真実を述べているわけじゃない。人々に受け止めてもらえるように記された、誰かが記した日記帳に過ぎない。だからこの記事の内容をまともに受け止めては真実を知ることはない。けどね、真実のヒントは人の記した日記帳が示しているんだよ」

 ぱらぱらとページをめくり、祖父はにっこりと笑みを返した。


 稲穂のかすれる音が聞こえてくる。それだけ、風が強いのだろう。わずかな雲の流れが、せせらぎに身を任せる落ち葉のようだった。

 今宵は満月。一切の欠けがないそれは、この世のものとは思えぬ美しさ。唯一、時の流れを感じさせない世界が、そこにある。

 サルト事件。その震災をも、この月は見ていたのだろうか。


「おじいちゃんは、その物語を知っているの?」

「ああもちろん。とても残酷で、だけど綺麗で……哀しくとも、愛おしい物語だったよ。――奏宴、おまえにも、私にも、この世界で生きてきた人々も、一度はあるはずなんだ。あの瞬間、人生が変わった。運命が大きく変わった、とね」

 奏宴はこれ以上口を挟むことも、祖父に尋ねることもなかった。

 祖父は言った。


「代々語り継がれた物語の主人公は、決して私たちの一族ではない。でも、我々の一族だからこそ、"彼ら"の物語しんじつを――愛を見つけることができたんだろうね」

 遙かなる大空。月明かりに照らされた、藍。風に揺らめく、緑。ふたつの世界は境界線を作り、混じり合うことなく分かれている。

 寂寞。音のない大地で、ひとりの人間が遙か昔の物語を語る。


「それでは、私たちご先祖様が遺した逸話を――知らされざる本当の歴史を、おまえに継げよう」


 ――それは、今から4千年前……。


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