Break out
喫煙を支援してはおりません。
特記しておりませんが、登場人物は全員成人です。
「ほれ、夜尋。お前だぜ」
松木は舌打ちした後に、夜尋を振り返った。
絞った照明、バーカウンターからテーブル席を四つほど隔てたビリヤードテーブルの周囲には、上着を脱いだ若者たちが十名ほど集まっていた。残るひとつの台はがら空きだった。
「ほいよ」
飲み終えたグラスを残る台の縁に音をたてて置き、夜尋がキューを手に立ち上がった。
「おっと」
少しばかり酔いが深いらしい。腿を椅子にぶちつけて、がたがたと騒がしい音をたてる。
しばらく台上の玉の配置を読んでいた夜尋が、
「これはまた、ポケットインしにくい配置に散らばらせてくれたな……」
松木を振り向いて、睨んだ。
「ふふん。まかせろ。今日こそ、賭け金は俺の総取りだ!」
「ぬかせ」
にやりと笑い、夜尋は、パッケージから取り出した煙草をくわえ、火をつけた。
軽くキューで肩を叩きながら片目を眇める。やがて白い手玉に向けて、おもむろに狙い構えた。
テーブルの縁に腰掛けるようにしてからだをひねったその体勢と、キューの構えかたに、
「あっ」
誰かが、短く感嘆をもらした。
バランスのとれた長身の夜尋がそういう姿勢をとると、格好よさが三割り増しに見える。
キューは、水平ではなく、台にほぼ直角の構えだ。
ゴッ!
台の周囲に、白い手玉をキューが打ち据える音が、小気味よく響いた。
「げっ」
余裕で見ていた松木が、喉の奥で悲鳴を押し殺した。それと同時に、九のナンバーがふられたボールを、台上で最小のナンバーをふられているボールが、捕らえた。手玉は、ころころと、ゆるやかな動きで、夜尋へと戻ってくる。
ガコンガコンと、ポケットに九番目のボールと、最小番号のボールが、続けて落ちる音がする。
松木がテーブルに懐き、賭けに参加していた者たちが、勝敗に一喜一憂する。
くわえた煙草はまだ灰になっていない。煙を思いっきり肺腑に吸い込み、踵を返しかけた夜尋が、瞬時にしてその場に凍りついた。
ビリヤードテーブルに向かって、人が左右に分かたれて、道を空けている。
ゆったりとした靴音をたてながら、静まり返った中を、ほかには目もくれず進んでゆく。
夜尋と新たに現われた人物との距離が縮んでゆくにつれて、磁石の同極同士が反発するかのように、夜尋が後退してゆく。
黒いまなざしが、肉食獣めいた光を宿して、自分に据えられている。
薄暗い照明の中、ゼリーのごとくぬめる濃密な視線が、まとわりついてくる。
まとわりついてくる視線の、その意味するものを、夜尋は知っている。
意味するもの、それは、欲望だ。欲するものをよく知って、微塵も揺らがない。そんな捕食者のまなざしが、夜尋を、恐怖へと陥れる。
先日の、もちろんのこと夢に見たこともなかった、直接の教授からの告白と、その後に起きたことは、いまだ記憶に生々しすぎた。
「愛している」
さらりと、まるで戯れごとのように、肘すらデスクについたままで、四極に言われたことばを、まさか自分に向けたものだとは、思いもしなかった。だから、夜尋は周囲を確認したのだが。
「練習ですか?」
頭をかきながら返したのは、厭味ではなかった。言ってみるなら、純粋な、疑問だ。なのに、窓を背中に、女性受けの好い教授は、喉の奥で笑ったのだ。
馬鹿にしたような——と、感じたのだが、実際問題どうだったのか、なぞのままである。
そのまま、無言で、教授はデスクを回り、立ち尽くしていた夜尋のすぐ目の前にやってきた。
雰囲気にのまれたままの夜尋の足を教授が軽く払い、床に、押し倒す。
誰もいない教務室とはいえ、構内には、まだたくさんの人がいる。焦ってはいたが、なにがなんだか判らないこともあり、夜尋は、そんなことを考えながら、ぼんやりと、教授の口付けを受けていたのだ。
無理矢理のくちづけに、全身が痺れるようになってやっと、夜尋は四極を引き剥がそうと、暴れはじめた。が、時は既に遅く、ジャケットははだけられ、その下の、彼のトレードマークといってもあながち間違いではない濃紺のシャツはたくし上げられていた。
それ以上のことをもう思い出したくなくて、夜尋は記憶を無理やり締め出した。
ともかく、あれから一週間が過ぎている。最終的に未遂だったこともあって、何食わぬ顔で教授に接してきた夜尋であった。しかし、ともすれば脳裏をよぎるのは、あの時の四極のまなざしに誘発された、怖気だった。他人にとっての欲望の対象として自分が見られることの、屈辱的なまでの恐怖であった。
しばらく女性を口説けないなと、負け惜しみのごとく嘯くよりなかったのだ。
腰に当たったブルヤードテーブル。その縁の、硬い感触に、夜尋は我に返った。もとより、逃げ場は、ない。観念した夜尋は、
「教授。俺に用ですか?」
キューで首の付け根を軽く叩きながら、口角を歪めてみせた。
「ああ。そろそろ、この前の返事を聞きたいのだがね」
頬が引きつる。それでも、最後の意地で、
「……お断りしても、いいですよね」
軽く聞こえるように、答えたのだった。
まさかこんなところでは行動には出ないだろう。一縷の望みは、現実味がありそうで、夜尋は、ほんの少しだけ気を抜いていたのだ。高を括っていたと言ってもいい。
「ふむ……。まぁ、君がそう答えるだろうことは、予測の範疇ではあるのだが——ね」
なら、退いちゃって下さいよ———とは、夜尋の本心である。敬服する教授とはいえ、いや、だからこそだろうか、教授の望んでいる関係を結ぶなど、態度のわりには常識人の夜尋には考えることもできなかった。
それなりにギャラリーのいる場所で、よからぬことをするのは無理だろうが、言いだしはしないか、と、ひやひやしている彼の内心を、もとより教授が鑑みることはなく、
「なら、勝負をしようじゃないか」
そんなことを言い出した。
「勝負?」
「そう。場所もおあつらえ向きなことに、ここにはビリヤードテーブルがある」
四極は、上着を脱ぎながら、言う。
「ビリヤードでってことですね」
「そう。君が勝てば、私は退こう。が、私が勝った場合は……わかっているな」
夜尋の眉間が珍しい縦皺を刻む。
ビリヤードの腕前は、まぁ、そこそこだろう。客観的に見て、プロはだしだと思うのだ。はっきりと、負ける気はしないと、言い切ってもいいかもしれない。しかし、あくまでも、勝負は時の運である。
(教授から言いだしたことだし…………)
そこが不気味だといえば、不気味である。教授の底知れなさが、そこここに潜んでいるかのようで、楽観視はできない。それでも、これがチャンスであることには変わりがない。
しかたないな—————と、溜息をついて、夜尋は肩を竦めた。
「男に二言はないですね」
「無論」
真摯な一対の黒瞳が、夜尋を見上げている。それに、ぞわりと寒気を感じながら、
「わかりました。じゃ、バンキングから」
「よかろう」
観客のひとりが、四極にキューを差し出した。
ワイシャツの袖を捲り上げながら受け取った四極は、夜尋と台の一辺に並び、手玉に向かった。
夜尋と四極とがそれぞれの手玉を衝く音が、緊張したその場に響く。
台上のより遠くに手玉を衝いたものが、ゲームの先攻を握る。ふたりが行っているナインボールを簡単に説明すれば、一から九まで番号を振られた九つのボールを白く無番の手玉で、台の脇六ヶ所に設けられたポケットに落としてゆくゲームである。こまごまとしたルールがあるが、まぁ、それは、おいておくことにして。ともかく、先行が上手い場合や、ツキまくっている場合は、後攻は一度もキューを握ることなくゲームオーバーになったりするのだ。だから、このバンキングが、ゲームの中で最も重要な鍵を握っているともいえるのだった。
キューを台に置き、静まりかえったギャラリーたちの前で、
「私の勝ちだ」
と、太い笑みを貼りつけた四極は、夜尋に近寄った。
地獄に突き落とされたような気分で、その場に立ち尽くしていた夜尋は、四極の表情に青褪め、後退さった。
貼りつけられた笑みの裏に滾り立っているものを、夜尋はまざまざと感じ取っていた。
それは、紛れもなく、夜尋へと向けられている、劣情である。
背中を、脂汗がしとど流れる。
黒々とした切れ長の双眸が、夜尋の褐色の瞳を覗き込む。そのまま脳幹さえも灼きつくされてしまうのではないか——と、怯えずにはおられないほどの、それは、激情だった。
そうして、気がつけば、夜尋は噛み付くようなくちづけを、受けていたのである。
凝りついたギャラリーたちの面前で、夜尋のくちびるを堪能した四極は、
「ここは私の奢りだ。好きなだけ飲んで騒ぐといい」
そう彼らに告げて、夜尋の背中を押したのだ。
カラン——と、バーのドアベルが、彼らの硬直を解くまで、店内に、しわぶきひとつたつことはなかった。