停滞する二つ/動き続ける一つ①
僕と彼女が初めて出会った場所は研究所の医務室だ。
ロゼさんによって造られた彼女は医務室のベッドで目を覚ました。
そして、ちょうど彼女の目覚めに立ち寄った僕を見て、彼女は誰かの名前を言う。
『……ハクア?』
それに対して、
『僕の名前はネロだ。そのような名前は知らない』
そう言った時、彼女の表情は絶望に満ちていた。
まるで、知らない世界に迷い込んだかのように。
それ以来、彼女はその名前を忘れ去ったかのように口にすることはなかった。
◇
屋上への扉を開くと強い光が隙間から射し込む。
完全に扉を開ききったとき、その眩しさから一瞬だけ目の前が真っ白になった。
そうしてから、屋上の景色が視界に写る。
屋根のような遮蔽物のないそこは、太陽の光に晒され影一つない。コンクリートのタイルが敷き詰められた床と雲一つない青空、そして落下防止用の柵のみがこの屋上の風景を構成する。
そんな場所へと足を踏み入れる。
風が耳元でひゅうひゅうと音を鳴らす。それは気持ちよくもあったが、少しだけ傷に響いた。
辺りを見渡すと柵の方に、あのメイド姿の彼女を見つける。
僕は安堵の息を吐く。
「――カレン、やっと見つけた」
例の彼女、カレンを呼び、歩いていく。
カレンは僕の方へ振り向かず「ネロさんですか」と力なく答えた。
何故勝手に屋上に向かったのか問い詰めようかと思いもした。しかし、それよりも先に、僕は彼女の横に付いて視線を辿る。
そこにあったのは、研究所から森を越えて見える一つの栄えた街。
「カルデア市、だな」
「はい」
カレンは静かに頷く。
「あの街にはたくさんの人たちが暮らしているんですよね」
「ああ、そうだな。ここにいる人数とは比べ物にならないほどの人が暮らしているだろう」
「たくさんの人で賑わっていて、たくさんのお店があって、そしてたくさんの生活がある」
そして彼女は問う。
懐かしむことすらできない過去について。
「私たちもここに来る前は、そんな場所で暮らしていたのでしょうか」
僕は答える。
「――そうかもしれないな」
曖昧な答えだ。
しかし、そうとしか言えない。
生前の記憶など、僕の中からほとんど消え去っている。
残っているのはただ一つの想い。
そして、ただ一つの後悔だけだ。
「そう言えば、おまえもここに来る以前の記憶を失っているんだよな」
この研究所にいる能力者は皆同じらしい。
フランも、ミラさんも同じだ。
まるでこの場所が人生の開始点であるかのように、それ以前の過去がない。記憶の断片すら残っていないと言う。
「『おまえも』と言うことは、ネロさんもそうなのですか」
そう、確認するように訊く。
「え、ああ。そう、だな。僕にも記憶は残っていないよ」
と、途切れ途切れに答えた。
「……そうですか」
カレンはそれを訊いてどこか寂しそうだった。
数秒の間の沈黙。
僕とカレンはどちらも目を合わせず、ただただ森の向こうの街を眺めていた。
今日は何かのイベントでも開かれているのだろうか。ここまで人の声が聞こえてくる。
この研究所とは対称的だ。
もう一度、カレンの横顔を見る。
やはり同じだ。
そこに笑顔はない。
その哀しそうな表情が、はたしてあの街に対しての憧れからくるものか、それとも嫉妬からくるものか。僕には分からない。
ただ、僕はずっと思っているのだ。
カレンはこのような場所にとどまる必要などない。外の世界に出て自由に生きるべきだ、と。
「カレン。おまえは今の生活が嫌か?」
突然の質問であったからか、カレンは「――え?」と驚きの表情をする。
「い、……嫌では、ありません」
と首を横に振ってから続ける。
「ここには優しい人もたくさんいますし、愉しいこともたくさんあります。だから、だから……」
と次の言葉を探すカレン。
これは少し不用意な発言だったかもしれない。
ここがどんなに空っぽな世界であったとしても、僕たちにとっては第二の故郷であり、帰るべきただ一つの場所だ。
どんなに苦しくたって軽々しく口にできる言葉ではなかった。
それは命を与えられ、ここで生きることが許されているこの僕が一番わかっているはずなのに。
僕は俯くカレンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「な、何ですか」
「すまない、こんなことを訊いてしまって」
「いえ、別に構いません。でも、頭を触るのはよしてください」
と、僕の手をどけて髪を整えようとする。
それを横目に僕は微笑んだ。
「カレン。僕はおまえが何で悩んでいるのか、何故そんな顔をしているのか、僕には分からない。でもさ、何かで行き詰まってどうしようもない時や、不安で仕方のない時、僕は必ずおまえの力になる。側でずっと支えてやる。だから、もし不安があるのなら、無理なことでも、何でも遠慮せずに言ってくれ」
僕は真剣だった。
何故こんなことを突然言おうと思ったのか、自分でも分からない。普通なら、変なこと言ってどうしたんだと笑われるような台詞だ。
それでも、受け入れられなかったとしても、彼女に言っておきたかった。
「僕は、おまえの家族なんだから」
機を逃したくはない。
失敗はしたくない。
既視感、とは少し違うが、いつか遠い昔に似たようなことを経験したような気がしたから。
「よくそんな恥ずかしいことを平気に言えますね」
とカレンは顔を赤らめながら、僕をちらっと見てはまた逸らす。
僕は本気で言ったのだが、カレンのそのような行為を見て、僕も急に恥ずかしくなってきた。
顔がすごく熱い。
「平気なわけないだろ、馬鹿かおまえは」
僕もカレンから目を逸らした。
「でも、家族って言ってくださったことは、いろいろな意味で嬉しかったです」
と、カレンは屋上の出入口に向かって踵を返す。
この時、彼女はどんな顔をしていただろう。
微笑んでいてくれれば幸いだ。
馬鹿にするように笑いを堪えていたら残念だが。
出会った当初のような険悪な間柄でないのだから、そんなことはないと信じたい。
しかし、彼女の言葉に気になる部分があった。
「いろいろ?」
いろいろ、ってどういう意味だ?
訊いてみるも「特に意味はありませんよ」と言うだけだった。
「それではまたあとで」
こつこつと静かな音を立てながら、カレンは歩を進めた。
僕は何かを言って引き止めるつもりはなかった。
どこに行こうと、それは彼女の自由だ。
カレンが何かを考え、自分の意志を持ち、それに向かって進んでいくのなら、僕は喜んで応援しよう。
迷惑がるだろうな、と内心不安ではある。
ミラさんに知られたら、絶対に過保護だっていじられるだろうが。
「――あ」
と、僕はここでミラさんとの会話を思い出す。
そうだ。ロゼさんに呼ばれてるんだった。
危うく忘れるところだった。
結局、ちょっと待て、と言ってカレンを引き止めることになってしまった。
「どうかしました?」
「マスターから召集がかかったんだ」
召集? と首を傾げるカレン。
「ああ、また仕事ですか」
「だろうな」
「そうですか。ではわたしはまたお留守番ですね」
言うと、カレンは哀しい顔をする。
それに対して僕は「どうかな?」と言った。
「今回は僕だけでなくカレンも呼ばれているんだ。理由は知らないが」
それを聞いてカレンは「え!?」と手を口に当てる。
「どうしましょう。わたしがマスターに呼ばれるなんて」
先程のまでの優美な雰囲気から考えられないような慌てふためくカレンの姿は見ていて面白かった。
「そういえば、おまえは初めてだったか?」
「はい。実はまだマスターの姿を見たことがありません」
「……そうだったのか」
それならきっと、カレンは驚くだろうな。
ロゼさんの容姿にしても、性格にしても。
「マスターってどんな人なのですか? 今までは訊きづらかったのですけど」
「まあ、そうだな。行ってみればわかるさ。それまでのお楽しみってことで」
僕は微笑する。
「まだ時間もあるし、昼食をとってからマスターの部屋に訪ねるとしようか」
「御一緒してもいいのですか?」
「何を言っている。もちろんいいに決まっているだろ」
カレンはそれを聞いて、ふふ、と微笑んだ。
やっと、普段のカレンに戻ったようだ。
「ありがとうございます」
そうして、僕たちは昼食のために食堂に向かった。