友と歩む日々②
僕とカレンは研究所の本館へ向かっていた。
徒歩ではなく、スクーターに乗って。運転するのはカレンで、僕は後ろに座っていた。誰にも見られたくない光景である。
本館は研究所の中央に建てられている。十階建てで、屋上からの景色は結構見物だったりする。
訓練施設から本館までは数百メートル離れていて、そこの二階に医務室が設置されている。
本館に着いたところで、僕はカレンの肩を借り、医務室までゆっくりと歩く。
「すいません、ネロさん」
沈んだ声で言うカレン。
戦闘の邪魔してしまったことをまだ引きずっているらしい。俯いたまま僕の顔を見ようとしない。
罪悪感があるからか、僕の頭部から血が流れているからか。どちらでも構わないが、カレンにしては珍しい行為だった。
「そう落ち込むな。僕は別に気にしてないよ」
そう言いながら医務室に足を運んでいた。
事実として傷ができただけでその他に支障はほとんどない。あるとすれば、いまだに右目が痺れて開けないことくらいだ。
ついでにいうなら、頭がくらくらすること。
せっかくなので、横について歩いているカレンにおぶってもらうのが懸命だろうか。
「…………」
いや、流石にないな。
思い浮かべただけで恥ずかしくなる。
そんなことを考えているうちに医務室に着いた。
横開きの扉で、開くとそこには白衣を着たお姉さんが足を組んで座っていた。
紫色でウェーブのかかった長髪に長身で細身のモデルさんのような体型。しかし、一番の特徴は顔のほとんどを覆い隠すように巻かれた包帯だ。理由は未だに不明である。
そんな彼女の名前はミラという。
どうやら悩み事のせいで呆けている最中らしい。
包帯のせいで表情を読み取ることは難しいが、その態度は明らかにそのような雰囲気を醸し出している。
話しかけない方がいいのかもしれないが、こっちはこっちで緊急事態なのだ。
「あの、ミラさん」
と彼女の名を呼ぶも「はあ………」と溜め息を吐くだけでこちらに気がついていない。
「ミラさん、聞こえてますか」
と少しだけ大きな声で再度ミラさんを呼ぶ。
すると「はっ」と顔を上げる。
やっと僕の声に気がついたミラさんは「ごめんごめん」と慌てて言う。
「この声はネロくんだね。今日は何の用かな?」
そしてこちらを向いた瞬間だった。
「ぷふっ……」
――え?
何故か腹を抱えて悶えるミラさん。
「あの、どうかしたの――」
ですか? と言い切る前に、彼女は大きな声をあげて笑いだした。
「あははははは……何それ、なんで頭から血が流れてるの?」
はははは、と笑い続ける。
どこがおかしいのやら。全く分からない。
「あの、この状況は笑うところですか?」
「ち、違うけど。違うけどさ。ちょっと待って。堪えるから」
と言ってから数秒後、笑いの嵐は過ぎ去ったようだ。今度は落ち着いた口調で話し始めた。
「ごめんねネロくん。まさかあなたがこんな馬鹿みたいな怪我をするなんて思わなくて」
「そんなに珍しいですか?」
「ええ。あなた、今までかすり傷は何度もしてたけど、こんなに血を流したのは初めてでしょ」
「言われてみれば、確かにそうかもしれません」
自分の能力とは関係なく、本当に大きな怪我をしたことがないのだ。
実のところ、使用後の身体の怠さが嫌という理由から、本当に必要な時以外あの能力を使ったことがない。
「だからね、君を見た時はカレンちゃんにケチャップでもかけられたのかと思ってつい笑っちゃったの」
ふふ、と危機感のまるでない微笑を浮かべる。
「――あの、そんなことどうでもいいので早く治療してくれませんか?」
「あぁ、はいはい。ちょっと待ってね。準備に少し時間がかかるかもしれないから、あなたはここに座っておいて。カレンちゃんも一緒にね」
そう言って椅子を二つ用意すると医務室の入口付近にある扉を開き、その中に入っていった。
それを見届けた僕は早速椅子に座らせてもらうことにした。
「はあ、やっと座れる」
疲れきっていた僕はすぐに座ったが、カレンはそのまま動かず立ったままだった。
「どうしたんだ? おまえも座れよ」
「え?」
「だから座れって」
「いいのですか?」
「いいに決まってるだろ。何を言っているんだ。ほら」
そう言って椅子をポンと叩く。
「で、では失礼します」
と静かに椅子に座る。
ふわっとなびく橙の髪。
甘い匂いが漂ってくる。
彼女の横顔はどこか儚げだ。
それなのに惹き付けられるほどの美しさを彼女から感じる。
結構絵になるよな。
誰か絵の上手い人にカレンの肖像画でも描いてほしいくらいだ。
そして部屋に飾る。
…………。
な、何考えてるんだ僕は。さっきから頭の中がどうかしている。全部フランのせいだ。そうしておこう。
「――あの、ネロさん」
「え、何?」
「さっきのは本当のことですか?」
「血を流したのは初めてってことか?」
カレンは首を横に振る。
「違います。気にしてないって言ったことです」
僕は大きく溜め息を吐く。
またそれか。
「本当だ。だからもう気にするな。おまえはいつも通り明るく振る舞えばいい。僕はそういうカレンの方がいいと思う。だから、今みたいなおまえの落ち込んだ顔を見ていると、こっちまで落ち込んでしまう」
というより気持ち悪くて傷に響くからやめてほしい、というのが本音だ。が、当然口にすることはない。
「そうですか?」
不安そうに訊いてくるカレンに「ああ」と答えると、カレンの口が少し緩んだ。
「ふふ、何だかうれしいです」
「許したことが、か?」
「違います」
と強く否定するカレン。
「わたし、ネロさんのそういうところは嫌いです」
「そうかよ」
勝手に言っとけ。
「せっかく座らせてもらいましたが、わたしは外で待たせてもらうことにします」
「何でだよ」
「何ででもいいでしょ!」
そう言ってカレンは立ち上がる。
「ネロさんはミラさんといた方が楽しそうですからね」
ふふ、と妖艶な笑みを浮かべながらカレンは踵を返して外に出ていく。
すると後ろでカレンとミラさんの話し声が聞こえた。
「ネロさんのことお願いします」
「え、ええ。任せてちょうだい」
その短いやり取りの後、ドアが開き閉められる音が部屋に響いた。
こつこつ、と足音が近づいてくる。
「ネロくん、前髪かけ上げといて」
そう言って自分の椅子に座るミラさん。
「はい」
答えて言われた通りにする。
髪を触っているはずなのにドロッとした感覚が手に伝わる。
「うわ、けっこう傷が深いわね。ちょっと痛いでしょうけど我慢してね」
と言われると、瞬く間に僕の頭はどこからか突然現れたら包帯に締め付けられ、がっちりと固定される。
ミラさんの能力。包帯のような帯状の物体を自由に作り出し、そして操作する力だ。
能力自体はそこまで強力ではない。しかし、元から作り出せるものが『帯状のもの』に限定されているためか、それ以外に能力の制限はないらしい。故に、ある程度の応用が利くため、僕の能力とは正反対の特徴と言える。
それよりも、この包帯は処置の最中に僕が動かないようにするためだろうが、フランに負わされた傷よりもむしろこちらの方が痛かった。
「……は、はい」
と僕は苦しそうに答えるだけだった。
邪魔な血液の除去をして麻酔を射つ。そして、傷口の消毒を済ませる。その後、額の右端にできた深い傷口の縫合を素早く且丁寧に。いつ見ても見とれるくらいの手際の良さだった。
その後、包帯による拘束から解かれる。
「ねえ、ネロくん」
ミラさんは能力ではなく自分の手で僕の頭に優しく包帯を巻きながら、囁くように訊いてくる。
「ネロくんって意外と鈍感?」
「……そんなことはないと思いますけど」
「そう? ネロくんって強くて格好よくて、その上気遣いのできる素敵な男の子だと思う。なのに、なんでカレンちゃんの気持ちには気付いてあげられないのかな?」
ミラさんの言うことは分からなくもない。僕の言動からすると、そう思わない方が珍しい。
しかし、それは全て誤魔化しなのだ。
つまり、
「――ちゃんと気付いてますよ」
「そうなの?」
「ええ」
「なら何で応えてあげないの」
「いろいろあるんですよ。僕たちには」
そう。
いろいろと。
応えることが必ずしも正しいとは限らない。
悲しませたくない。
泣かせたくない。
大切な人だからこそ。
僕はカレンの気持ちに応えられないのだ。
だからいつも、話を逸らそうとしてきた。
「そういえば」
と僕は訊く。
それもいつも通りの逃げでしかなかった。
「ミラさんは何に悩んでたんですか?」
「ああ、そのことね」
と深い溜め息を吐き微笑を浮かべるミラさん。
「わたしって大抵ここにいるじゃない?」
「――ですね」
「怪我人や病人を相手にしてるじゃない?」
「――ですね」
「この美貌で男性の心を癒してるじゃない?」
「――です……え?」
「ごめんね、冗談よ」
僕は何も言わず彼女をじーっと睨んだ。
「だから冗談よ。そんな目で見ないでよ。それは置いておくとして、もしかすると、その役目も後少しで終わりそうなのよ」
「それってどういうことですか」
「まあ、いろいろと理由があってね。簡単に言うとわたしも近いうちに仕事に出かけることになりそうなのよ」
仕事に出かけるということは、すなわち彼女も戦わなければならない可能性があるということだ。
「意味が分かりません。何故ミラさんが」
「わたしにも分からないわよ。知りたいならマスターにでも訊けばいいんじゃない?」
そろそろ最終段階に近づいているからなんだと思うけど、とミラさんが呟く。
ミラさんはこの研究所で一番いなくてはならない存在のはず。言わば最終防衛線。なのにあえて危険な場に出させる理由が分からない。目的は何なんだ。
「――ネロくん」
「何ですか」
「わたし、これから大丈夫かな」
「さあ、どうでしょう。でも、ミラさんは強いんですからなんとかなりますよ」
戦闘においても彼女の実力は相当なものだ。
簡単に死ぬことはないだろう。
しかし、戦いに参加するとなれば相手によっては殺される可能性だってある。
僕にはマスターの考えが全く理解できなかった。
すると突然ぷるるるる……と音が部屋に響く。
発信源はミラさんの机にある電話のようだった。画面に表示される番号を見て浅い溜め息を吐く。
「話は一時中断ね」
と言ってミラさんは受話器を取り、誰かと話し始めた。
「ミラです。どうかなされましたか?」
『――』
「ええ、ネロくんでしたらここにいますが」
『――――』
「え? カレンちゃんも一緒にですか?」
『――――――』
「はい。わかりました。ネロくんにはそう伝えておきま――あ、切られた」
がちゃ、と受話器を元の場所に戻す。
「あの、誰からだったんですか?」
「マスターからよ。ネロくんに伝言」
「マスターからの伝言、ですか」
そう言えば、フランは無事だろうか。
「ええ。本日十四時にカレンちゃんを連れてマスターの部屋まで来いと」
十四時か。それだとあと一時間半ほどの余裕があるな。
「それで、マスターは何の用で僕たちを?」
「言ってなかったわ。どうせ何か新しい任務でも与えられるんじゃない」
確かに。今までの例にもれなければそうだろう。
しかし、何故だろう。
今日に限って僕の心中は穏やかではなかった。
嫌な予感。
そう表すのが適切だろう。
しかし、どんな任務を言い渡されてもどうせやるしかないのだが。
僕はマスターに反逆する力など持ち得ていない。
その後、数分の間雑談をしてから医務室を後にした。
「――では、失礼します」
と言って立ち上がる。
「お大事にね」
とミラさんは優しく微笑んだ。
それに対して僕は小さくお辞儀してから医務室を出ていく。
ミラさんの微笑みは暖かく、そしてどこか哀しそうに感じた。
けど、それについて深く問い詰めることは、僕にはできなかった。