幼馴染の女
「本当なんだって。本当に地面を素手で粉砕したんだって」
春休みという十日間の休日明け。軽い顔合わせの意味を持つ短縮授業を終えた、その放課後。
義務教育を終え食堂で昼食を取っていた龍樹は、友人であり同級生でもある千石雫に朝方の出来事を話していた。
対して、机を挟み目前に座る雫は、
「……そうか」
と気だるそうに答える。
言葉こそ聞けば肯定と受け取れるかもしれないが、頬杖を付き、龍樹に冷たい眼差しを浴びせながらのそれは明らかに信じていないようだった。
当然と言えば当然な反応なのかもしれない。だが拳が生身かどうかだったかはさておき、別に嘘を吐いていない龍樹としては不満を禁じえない。
「言っとくけど本当に本当だからな。何だったら調べてみろよ。ほら、商店街の路地裏。あそこでそれに似たような事件があったかどうか」
「分かった分かったって。誰も嘘だなんて言ってないだろ」
頬杖を解き居直る雫。
馬鹿が何か言ってるとでも思っていそうな呆れ顔をしながらトントン、と机の上でプリントを整えなおす。
「……絶対嘘だと思ってるだろ」
やはり納得のいかない龍樹。
しかし雫は表情一つ変えなかった。手にしたプリントの内容を確認しながら、
「だから、お前もしつこいな。信じてるって言っているだろ」
「信じてたらなんでそんなに冷静でいられるんだよ。地面だぜ。アスファルトだぜ。それに自動販売機だって、あんなの目の当たりにした日にゃ穏やかでいろってのが無理な話だ」
「ああ、全くだ。随分と物騒な話だよな」
「だろ。ほんとびっくりだよ」
「そういうのを見たら関わりを持たないのが一番だ。いいか、絶対に首を突っ込まないようにするんだぞ」
「分かってるよ。俺だって妙な事に巻き込まれてややこしいことになるのは嫌だからな。平凡が一番さ」
「そう言ってもらえると安心するよ」
本当に思っているのか、いないのか。
視線を相変わらずプリントに向けながら、雫は軽く息を吐いた。
それがどういう意味合いなのかは、龍樹にはいまいち分からない。
「さあ、この話はもう終わりだ」
拍手を打ち、プリントから視線を上げ龍樹へと向き合った。
突然の打ち切りに虚を衝かれた龍樹だったが、雫は構わず言葉を重ねる。
「お前も色々と思うところはあるだろうが、今日起こったそれは日常に起こった珍事、とでも捉えておくといい。世の中にはそういった出来事が突然目前に現れる事もある。だからその時の為に色々と備えて置くべきなんだと」
「……まあな。むしろ考えたところでどうこうなるような問題でもなさそうだし」
「まさにその通りだ。七日通る漆も手に取らねばかぶれぬ、とも言うだろ」
「だな……?」
困り顔の龍樹。
雫が言ったのはきっとなにかしらの諺なのだろう。
だがただでさえ勉強が苦手な彼にはなんのこっちゃ分からなかった。
秀才な彼女にして見れば、それこそ犬も歩けば棒に当たる並みにポピュラーな諺なのかもしれないがと、適当に捉える。
話も一段落すると、
「さて龍樹」
人の良さそうな笑みを浮かべた雫が問いかける。
「なんだよ?」
急に改まったそれに龍樹は聞き返す。
すると雫は机の上にあるプリントへと指を差し、
「本題に戻ろうか」
一瞬にして険しい表情に戻ると、そう言った。
鋭い眼光で促す様はまるで検問官のようだ。
別に悪い事をしている訳ではないのに、その威圧感に龍樹もわずかにたじろぐ。
「本題って……なんだっけ」
呑気なその反応に。
全く、と溜め息を吐き、雫は続けた。
「お前の赤点の話だよ」
そうだった、と龍樹は思い出す。
赤点。この場合はいわゆる学力基準というものだ。
それが危ういという話の最中だった。
雫はプリントを手に取り、気だるそうに見ながら、
「あまりこんな事は言いたくないが……出来が悪いというかなんというか。最早ここまでくれば敬服の意すら覚えるよ」
「はぁ……そりゃどうも」
なにやらご立腹の雫。
彼女の手にするプリントは以前受けたテストの結果を要約したものであり、その生徒名は空野龍樹と記載されていた。
そこの一部にはこう記されている。
先の期首テスト十二科目の合計。六百九十点。
雫はその持ち主に見せびらかすようにプリントをヒラヒラと振りながら、
「どうしたらこうなるんだ。いくらなんでもこれはひどい。少なくとも以前私が鞭を執っていた時は出来ていたじゃないか。それがこのザマ、あの猛勉強は全て無駄だったという事か?」
「いやそういう訳じゃないけど……なんでだろうな。俺もどっかで習ったような気はするんだが、それが本番になるとてんで思い返せないんだよ。ほんと参っちゃうよ」
龍樹が他人毎のようにそう言うと、雫はより一層険しい顔付きを取った。
わざわざ時間を割いた人間としては当然の怒りだろう。
それもそんじょそこらの時間ではない。
将来を嘱望され、いくつもある道を絞り込む時期に差し掛かっている才女の時間だ。
そんな貴重な時間を奪ってしまったにも拘らずこの結果では、いくら幼馴染で仲の良い龍樹といえども罪悪感のようなものは感じてしまう。
その射るような視線に耐え切れず顔を逸らすと、龍樹は机に置いてあったブリックパック式のコーヒーを手に取り、啜る。
ズーズーとストローからは下品な音がした。
飲み終え心を落ち着かせるとそれを机の上に置きなおし、彼なりの弁を述べる。
「でも国語とか地理とかは平均点以上なんだぜ。そこをもっと評価しても良くないか? 」
「他の科目が平均点以下じゃ帳尻すら合いやしないだろ。それに一般論の話をしてどうする。別に普通の高校ならここまで大事には至らないさ。今お前が置かれている立場で、この点数はマズいと言っているんだ」
「そんな事言われてもさあ……」
そもそも地頭が違うんだし、と口にしようとした龍樹だったが、それを察知したのか雫がまたより一層険しい顔付きになったのでやめた。
自分の意見も言えないだなんて強迫観念じゃないかと内心で愚痴るが、世話になっている以上そんな事は軽々しく口に出来ない。
前にうっかり溢してしまった際には小一時間ほど説教のようなものを食らってしまった。
他人の為によくもまあここまで熱くなれるよと感心したのを覚えているが、だからといってあんな思いをするのはもう御免だ。
出来る出来ない以前に、やろうともせず諦めるという考えが、彼女は大嫌いなのだ。
「……とりあえず。このままでは駄目だ。今までのやり方で成果が得られなかった以上、取り組み方を変えなければ」
これまでの話をそう要約した雫。
「取り組み方を変えるって……具体的には?」
机に頬杖をつき、眠そうな目で龍樹は訊いた。
雫は机の上に広げた筆記用具を方しながらさあな、と答えた。
「それを今夜にでも考える。ただ、今まで以上に内容の濃いものになるのは確かだろう」
「うげ、マジで」
「マジだ」
露骨に嫌そうな顔をした龍樹に、雫はびしっと言い放つ。
そんな事を言う資格はお前には無い。冷めた目で彼を見るそれは、間違いなくそう言っている事だろう。
「仕方ないだろ。これも自分の為だ。未来への投資と割り切るに他ない。諦めろ」
短く乱暴な言葉使い。
一見してまるで彼の意志を尊重していないように見えるが、これも彼女なりの優しさ。
幼い頃から空野龍樹という男を知っているからこそ何が効果的かを理解していて、そのツボを押さえているからこそ龍樹も下手には逆らえない。
ただ口には出来ない反動として、顔や態度には現れてしまってしまう。
眉を八の字に曲げ、不貞腐れる龍樹。
彼をもどかしそうに見ながら、雫は続けた。
「そんな顔をするな。誰でも通る道なんだ。これも今までサボっていたツケなんだよ」
押し付けるような物言いを受け、益々嫌そうな顔をする龍樹。
雫も雫で往生際の悪い彼にいい顔はしない。
分からず屋の彼に対して、少々声を荒げてしまう。
「何も全教科で満点を取れといっているんじゃない。せめて平均点に迫るものを取れといっているんだ。それがなぜ分からない」
「分かってるよ。分かってるけどさ……平均点って、この学校のだろ。何点だっけ?」
「一律して大体八十点だ」
八十点。
それは百点満点のテストではじき出した数値だ。
しかもそれは、ちょっと特殊なこの高校の出来の悪い男子共を加えた数字であって、差別的観点から行われていない女子だけの平均に限ればもっと上がるのだろう。
どんなに頑張っても彼女たちの前では最早どんぐりの背比べ。
そりゃ憂鬱にもなる。
「……無理だな」
「ほら、またそうやって自暴自棄になる」
堪え切れずつい愚痴ってしまった龍樹に、雫はすぐさま噛みついた。
せっかく帰る準備をし始めていた血相を変え、
「それこそがお前の伸び代を堰きとめている原因だ。もっと自分に自信を持て。端からそんな心構えだと出来るものも出来ないだろ。現実を見ろ。彼も人なり予も人なりともいうだろ。人が出来る事を人が出来ない訳がない」
そんな事を言う雫。
きっとそれは何でも出来てきた奴ならではの発想だろう。
頭の良さをこの際置いて考えると、それは絶対間違いだと龍樹は言い切れる。
出来ない奴は、どうがんばっても出来ないのだ。
「現実なら見てるよ。だって考えてもみろ。短期間で点数を五百近く引き上げないといけないんだぜ。普通に考えれば、やっぱり出来っこないよそんなの」
「だから、その考えが駄目なんだって。そりゃ私だってお前が満点近くの点を取れるとは本気で思っていないさ」
「……思ってないのかよ」
「だから言ってるだろ、平均に迫るものを取れと。少しずつ上がっていれば不満を有れど誰も文句は言いやしない。お前の場合は下がってるから問題なんだろうが」
「だって……覚えなきゃいけない事があり過ぎて」
「それは覚えようとしていない人間のセリフだな」
わずかな言い訳さえも、雫は摘む。
「いいか龍樹。人の可能性は無限大だ。見解を超えたそれを人は奇跡という。お前も聞いた事はあるだろ。奇跡は信じる者に訪れるという言葉を」
「ああ……そりゃな。でもあれはどうかと思うよ。思うだけで何でも叶うなら人は苦労しないだろうし」
「心の支えになるのは確かだろう。ようは心持ち如何なんだよ。奇跡も非科学的に思えて実は科学に適ってる。やる気が出ているのと出ないのとでは脳の活性化からして断然違う」
「そうか? そうやって理解している時点でまやかしになるような気が……」
「いちいち難癖付ける奴だな。エジソンみたいな事言ってんじゃないないよ全く」
かつてその変人ぶりで、教師を困らせたひねくれ者。
もちろん龍樹が述べているのはただの屁理屈で、そんなものと一緒にされては故人も堪ったものではない。
とにかく、と論点がズレ始めていると判断した雫は、力強く話を戻す。
「さっきも言ったように、誰でも通る道なんだ。これを乗り越えてこそ人は強くなれる。仮にこの場を凌いだとしよう。次にこういう場面があったらどうする。また逃げるのか? そういった具合に、いつかは向き合わなきゃいけない問題なんだよ」
「そうは言ってもねぇ……どうしても思っちゃうんだよな。別に俺一人ぐらいだらけてたっていいんじゃないか、って」
「……またそんな事言ってるのかお前」
まるで信じられない発言を聞いた、と言わんばかりの面持ちを取る雫。
その顔を見てまた口が滑ってしまったと龍樹は後悔する。
しかし思ってしまうのは仕方がないと、若干開き直っていたりもする。
それこそ何十、いや何百と口にしたかもしれない言葉。
流石の龍樹も丸っきりの本気で思っている訳ではない。
世の中というものに携わる以上はそれなりにがんばらなくてはいけないし、他人に迷惑を掛けないよう常に心がけるのも当然の義務なのだろう。
つまりその発言は彼の本意というよりかは思わず漏れた愚痴のようなものであって、決して本心から来るものではない。
しかしこうは思う。
「はぁー。でも意地悪だよな、世の中って。産まれた時から差がついてるのに、そのままの状態で同じ土俵にあげるなんて……そりゃ差別が生まれるに決まってるじゃん。ほんと、そういう風に仕立て上げた神様とやらは意地が悪いよな」
「何言ってんだ。お前が勉強できないのは今までを疎かにしてきた結果だろうが」
食い気味に否定した雫。
まさにその通りなのだろう。
返す言葉も見当たらないとはこの事だ。
正論過ぎる現実を突きつけられ更にだらけた体勢を取る龍樹に対し、雫も断固として退く姿勢を見せない。
「前にも言っただろ。この世に特別なんてものは存在しないんだ。成るものは成るようになるし、成らないものも成らないものにしかならない。端から全ては平等なんだよ。ただ単に生き方が違うだけ。持って生まれたものが違う、それだけだ」
「……」
解かったような、解からない様な。
生き方が違うだけ。持って生まれたものが違うだけ。
それを差と呼ぶと思うのだが……その考えが違うのかと、龍樹の頭は混乱する。
そんな彼に構わず雫は説き勧めを続けいく。
「いいか、龍樹。人は弱い。たかだか十数年生きただけの私が言うのもおこがましい話しだが、それだけは間違いないだろう。命を存続させるには何かを摂取しなければいけないし、自然の恩恵だって受けている。繁殖だって一人じゃ出来ない。要するに、だ。人間に限らず、生物ってのは何かに縋って生きていかなければならないんだよ。だがもちろん、縋るだけでは駄目だ。時には与え、時には摂取。つまりは需要と供給だな。お前だって食物連鎖や種間相互作用ぐらいは知っているだろ?」
「……まぁ」
とは言ったものの、流石に食物連鎖は分かるが、シュカンなんちゃらは何となくしか分かっていない。
きっとそれは彼女達にとっては至極一般的な言葉なんだろうなと思いつつも龍樹は、
「でもさぁ。お前の言い分も分かるけど、やっぱり俺一人どうなろうと世界に影響が無い、という点に関しちゃ間違いじゃないだろうよ。どっかの国の大統領でもなければ、インフラを製造する人間でも、ライフラインを確保する人間でもないんだしさ」
懲りない発言に、雫は益々機嫌が悪くなっていった。
ついには凄みのある剣幕で身を乗り出すと、
「まだお前はそんな事を言っているのか。何も無理難題を押し付けている訳じゃない。努力はしろといっているだけだ。なぜそれが分からない」
怒りに満ちた声で、そう訴え掛ける。
圧倒された龍樹は思わず身を反らした。
やがて冷静になったのか、落ち着くように一息吐くと雫は椅子に座り直す。
やや強張った表情を浮かべる龍樹に向き直り、もう一度ため息。
「全く、お前にはほとほと呆れるよ。周りに感心が無いというか、自立心が無いというか……出来るだけ温厚に接しようと思っても、いつもこうなってしまう」
「大変だな、お前も」
うるさい、と雫は言った。
ひどい。せっかく労いの言葉を掛けたのに、と龍樹も少しばかりへこむ。
「とにもかくにも、一から洗い直しだ。私も空いている時間は出来るだけ付き合う。だからお前も『やろう』『がんばろう』という意欲を見せろ。いくら外側から働きかけても、当の本人が漫然では限界がある。最終的には己の心組み如何なんだよ。こんな事、今さら言われなくても分かるだろ?」
確かにそんな事は、言われずとも分かる事だと龍樹は思う。
だが逆に言えば、
「俺だって別にあまのじゃくじゃないんだ。お前の熱意には答えてやりたいし、頭が良くなれるならなりたいって気持ちもある。でも、それだって分かるだろ、がんばったって個人差ってものがある。同じ事して同じものが得られる訳じゃないんだよ」
「だからといってそのままでいいほど世間が甘いと思うか?」
売り言葉に買い言葉。
雫も頑として退かない。
それはそうだろう。
なにせ龍樹が述べているのは、ただの屁理屈でしかない。
「生きる事は行動する事だというのは有名な言葉だ。進歩なき一日は無価値だという考えでな。無価値というのは言い過ぎだろうが、まあその辺はより言葉に重みを持たせる為の演出だろう。逆説的に見ても、呼吸や食事、行動しなきゃ生きてはいけないし、生きる意味もない。根幹はそれと同じなんだよ」
「んなオーバーな……人間の寿命なんてたかだか七十かそこらだぜ」
「そうだ。限られているんだ。長かろうが短かろうがそんなのは問題じゃない」
「大体さあ。ここで学ぶことなんて普通に過ごしてたら使うことなんか滅多にないだろ。数学なんて足し算とか掛け算出来れば充分だし、英語だって翻訳の機械を使えば事足りると思うけどな」
「大事なのは知識だけじゃないだろ。お前が将来どんな職に就くかは分からないが、その時に色々と覚えなきゃならない事はあるはずだ。例え必要が無かったとしても長い人生で色々と価値観が変わる事だってある。その時にやり方を知っておく為の作業でもあるんだよ、勉強ってのは」
当たり前の言葉で、だからこそ否定のしようがないその思想。
不覚にも納得してしまう。それは負けを認めたという事。
「というか、そんな未来の話じゃなくて今お前が置かれている立場で話をしているんだって。まずはそこを理解しろ」
また話がズレていると本筋に戻す雫に、それを聞いて苦虫を噛み潰したような顔をする龍樹。
「……やっぱりやらなきゃ駄目」
「駄目だ」
質問は間髪いれず返された。
それでもなんとか抗いの言葉を捜してみる。
根競べのように龍樹はしばらく雫と睨み合う。
次の一手を模索しながら目を細める彼に、文句があれば言ってみろという雫の剣呑な目付き。
傍から見れば龍樹が何か不利な契約を力尽くで結ばれているかのような構図で、実際は逆なのだから何とも皮肉だ。
時間にしておよそ五秒ほど経った頃だった。
やがて観念したのか、
「はぁ~。分かった分かった。分かりましたよ」
ここまでの説き勧めに心が折れた龍樹は、半ば投げやりにそう言った。
それを受けた雫はよろしい、と言いそこでようやく微笑む。その笑顔はいつも道りの他人思いで、朗らかとしている。
「じゃとりあえず今日はもう良いだろ?」
おもむろに龍樹は立ち上がる。
これ以上ここにいてはまた良からぬ方向に物事が動きそうだと警戒したのだ。
対する雫はまだまだ言いたい事がありそうな顔をしていた。
だがあまりやいやい言うとまたやる気を無くすと思ったのか、その感情は胸に仕舞ったようだ。
とりあえず触りだけでも取り繕えて最低限の条件はクリアできたであろう雫は「ああ」とそれを応諾した。
「じゃあな」
許可が出た以上、阻むものは何も無い。
机の下に置いてあった学生鞄片手に、龍樹は出口へ向かおうと動き出す。
しかし、
「最後に」
どうしても心配なのか、雫が釘を刺す。
「何分進学したばかりの過渡期。私も色々と足回りを固める用があってな。明日は無理だから、明後日から取り組む。その為の心構えぐらいはしておけよ。みっちり仕込んでやるつもりだからな」
「……」
不満全開の面持ちで雫を見る龍樹。
「なんだその目は? 生憎と今日ばかりは無用でな。なんだったら今から勉強会を開いてもいいんだぞ」
それは御免だった。ここはあまり逆撫でしないほうがいいだろうと、龍樹は逃げるように歩みを再開させる。
「あまり遅くならないよう、ちゃんと家に帰るんだぞ」
「……うっさいな。お前は俺の親か」
仏頂面でぼそっと呟き、龍樹は出口へと足を進める。
「分かってるな。明後日だぞ」
しつこいその声に、龍樹はもう一度だけ振り返る。
そこには今日が始業式ということもあってか久々の顔合わせに浮かれる生徒達の中、険しい表情でこちらを見ている馴染みの女がいる。
厳かな雰囲気を醸し出しながら、千石雫は言うのだった。
「返事は?」
「……」
はっきり言って、嫌なものは嫌なので、ここで元気よく返事をするだなんてもちろん出来なかった。
それでもちゃんとした返事しなければ帰してはくれないのだろう。
何となくそう思った龍樹はとりあえず、
「むぅ」
と曖昧な返事をし、その場を後にした。