対峙した両者
東廊下二階。
壁に乱雑な足音が反響する。
謎の追走者を片づけ、逃走を図る褐色の男。
もうすぐ出口。そう思っただけでもずいぶんと体が軽くなった。
息が上がってはいるが、それほど身体に疲れは無い。腕の傷も随分と治癒したようだ。
流石だな、と褐色の男は感服する。
異形の者と契約した者は超越的な力の他に、その治癒能力も受ける事が出来る。理由は力を扱う為に身体の筋組織の構造に変化が生じたという科学的なモノから、加護を受けているという神智学的なモノまであり判然としない。
その中で一番有力とされている説に浸食が進んでいるだけなので危険という見方もあるようだが、はっきり言ってメリットにしか感じていない。
今回もそうだが、この治癒能力のお陰でいくら助けられたものか……
気付けば、次の出口が見えてきた。
脳内に描いた地図によると、あの先は吹き抜け式の食堂だったはず。ドーナツ構造のそこを抜け、少し進んだところに外への出口はあるはずだ。
(……もう少し)
そう、もう少し。
自然と褐色の口元が綻ぶ。まだ問題は解決している訳ではないが、ここを切り抜ければ光明が見えてくる。
謎の契約者である金髪碧眼の女の能力は、風を操るというもので間違いなさそうだ。目に見えない脅威は確かに強力なモノかもしれないが、接近に持ち込めば恐るるに足りない。
(負傷した腕が治り万全な状態になれば、今度こそぶっ殺してやる)
邪魔する者は容赦なく排除する。今までそうやってきたのだから、今回だってそれを実行するまで。
死と隣り合わせを生き抜いてきた男は、今さら命の重さを尊ぶつもりは無い。
どうということはない。
広大な面積を誇る地球で、たった一人、生物が居なくなるだけなのだから。
「……」
しかしそこで、順調だったはずの走りが止まった。
外までの出口が近づいてきた安堵感。ここまで中休みをいれなかったので足休め――によるものでは、もちろんない。
「……ふん」
煩わしさから鼻を鳴らす。
「隠れているつもりか? ……出て来いよ」
褐色の男は奥歯を噛み締める。顔付きが憎しみで溢れていった。
「どこまでも邪魔を」
対照的に、その女は冷静だった。
「仕方がないでしょ。それが仕事なんだから」
後方からの返答。
およそ周囲の生徒達を、一般人を気遣って外まで尾行するつもりだったのだろう。
だが、褐色の男だってプロだ。
微かに感じ取った、無理やりに押し殺そうとしていた存在を看破した。
「しつこいな。俺は下っ端だ。だから組織に致命傷をもたらすような情報――お前らが知りたがっている情報なんて、俺は持ってない」
「何度同じ事を言わせるの。それを決めるのは私達」
冗長な、とでもいいたそうに放たれたそれに、褐色の男は思わず苦笑いし――そのままの剣幕で振り返る。
そこにはやはり、発言に似合った無愛想な面で、服のポッケに両手を突っ込みこちらに見下す様な視線を当てている追跡者――褐色の男がここに至った原因の女がいた。
頭には例のムカつく鳥も乗っかっている。
女の顔をまじまじと見た褐色の男は、嫌悪感を隠そうとはしない。
「相変わらず鼻につく奴だ。大人しくしてればいいものを……年もまだ若いだろうに。いまならまだ間に合う。お前だって命が惜しいだろう?」
空笑いすら崩れ、褐色の男は威を乗せて警告する。
「最終警告だ。死にたくないなら、とっとと失せろ」
「……死にたくないなら」
反芻するようにそう呟いた後、アテナは奇妙な間を空けた。
何か物思いに耽るような、事それに対して真剣に考えるような。
無表情というのもあるのだろうが、見た目にそぐわない落ち着きを纏った独特の雰囲気。
そこから彼女が普通の道を歩んでこなかったという事を窺い知るのは、十分だった。
しばらくすると、女は口を開く。
褐色の男の言葉に返事を、否、疑問をぶつける。
「どちらか分からなければどうすればいいの」
「……あ?」
よく分からない答えに、褐色の男は眉間に皺をよせ疑問符を提示する。
そんな彼を見たアテナは、下世話で言う、小悪魔のような笑みを浮かべて、
「冗談」
半ば茶化すように、そう言った。
直後、風が吸い寄せられていく。
どこからともなく渦を巻いていくそれは華奢な身体に纏わり付くと、煌びやかな金髪を掻き揚げた。
その風格が変っていく。というより――戻る。
あたかもいま見せた微笑が幻だったかのように、アテナの顔からは一切の感情が引っ込んでいた。
何か仕掛けてくる。そう思い身構える褐色の男。
だが女が動かしたのは口だった。
「私があなたに求めるものは只の一つ」
その声には何の感情もこもっていない。
「所属している組織について知っている限りの情報を、大人しく素直に教えなさい」
あるのは磐石なる無。まるで本人の意思ではないように、あらかじめ決められた事柄のように放たれるそれは何の揺らぎも算段もない。
ただ無感情で、無遠慮で、高圧的。
「……」
そんな彼女を見て、褐色の男はしばし考え込む。
感情が壊れた人間なんてのは裏の世界では結構いる。というより、何らかの内情がない限り、命を賭すなんて馬鹿げた立場に立つ輩はいないだろう。
それが正義か、慈善か、自己満足か、嫌々か、あるいは――分からず、気づいたらそこにいたのか。
極左に属する彼は見てきた。第一線で動く同志が、地獄と言っても言いすぎではない空間に神経がおかしくなる様を。
自ら死ににいく者も居た。
もちろん無駄死にではない。
正義の為に。
一秒先が保障されていない、死が蔓延している世界に葬られた同胞達。
そんな彼等を裏切る事なんて出来ない。
そして、する必要もない。
「……いいぜ」
これまでの言動を見て、この女に下手な小細工は効かないだろう。そんな見解に至った男は決意する。
「邪魔をするってんなら容赦はしない。後悔するなよ。これはお前が選んだ選択だ」
放たれた弁明に、アテナは浮かばれなさそうに目を細める。
そこに自分の意思はない、とでも褐色の男は言いたげだった。
概ね、自己防衛、正当防衛とでも称したいのだろう。
答えを返すのもおこがましい。素直に話す気がないのなら、取る手段は決まっていたようだ。
「風達は寄り添い密になる」
右の掌を広げアテナがイタリア語でそう言うと、周囲の風達が渦を巻きながら吸い寄せられていき、集結していく。
そして展開される風の球体。
球体といっても、その形状は未だ安定していない。それは強すぎる流れが反発し合い拮抗状態にあるがゆえの偶発的なものなのだろう。
不安定な凶器とは裏腹に、女の心境には何の揺らぎもないはずだ。
それは自分の為でもあるが相手の為でもある。
どうせ結果が悲劇なら、せめてそこまでの道のりは最短距離で辿り付く方がいいに決まっている。
一方で。
「まずは一匹」
敵の女をねめつけながら、褐色の男は意味不明なことを呟いた。
「耐えれば二匹」
独り言のような口調で、その男は自分に確認を取るように言葉を綴る。
「それでダメなら三匹だ」
言い終えた頃だった。褐色の巨躯から、何かが噴き出し始める。
それは〝煙〟。
人間の体からまず発生しないであろう、湯気や吐息とは違う正真正銘の白煙。
奇体な――気体。
謎の煙はシュウシュウと音を立てながら辺りに漂う。白かった色は次第に半透明に近い色合いになり、周囲に広がる手前で空気に交わり、肉眼では見えなくなっていく。
それを確認したアテナの眉間がわずかに、ほんのわずかに皺を寄せ集める。
状況が不明だったから、では無い。
「姐さん」
「ええ、どうやらその様ね」
やり取りから勘繰るに、アテナとパードリッジにはその現象が解かっているらしい。
「思ったとおり契約者か。また随分とややこしいのが絡んでるっぽいな、今回の連中は」
「ややこしいのはいつものこと。それに、その問いは愚問というものよ。道理に適った問題ごとは表で対処できる。言うなれば私達は複雑な事情が絡み合って対処しにくい、世の中に対しての異分子を排斥する為に存在しているのだから」
ようするに、それが一般的には〝ややこしい〟と呼ばれるもの。
「そりゃそうだが……いや、そうだった。流石姐さん、的を獲た見解だな」
その褒め言葉に返事はない。超然とした性格の彼女なら有り得なくない反応だったが、今回に限っては違うのだろう。
戦闘態勢に入ったと思われる。
周囲からの干渉を遮断し、自分の世界へと没頭する。精製された集中力をさらに研いでいく。
そんな素養に同調するように、風の球体は形を整えていった。風の勢いが増し一体感を伴ってきたそれは、どうやら安定期に入ったようだ。
それを見て以心伝心したのか、パードリッジは無言でアテナの頭から飛び立つ。
距離を置き、その対峙の行方を見届ける。
アテナの手に展開される風はいつのまにか完全な球体を成し、まるで長年の歳月を川の流れに磨かれた珠のようだった。しかしそのすっきりとした球状の内部では逃げ場を無くした風達がもがき回っており、今にも破裂しそうな勢いだ。
掌には圧縮された風の球。研ぎ澄まされた神経。
お膳立ては出来た。後は相手の出方を窺うだけ。
その相手も工程を進めていく。
「求めるは力。闇に染まりし同胞よ。今こそその契約に則り、俺に力を授けろ」
呪文のようにアラビア語でそう唱えた褐色の男。
すると虚空に亀裂が奔り、そこから這うように何かが出て来た。
それは褐色の男が契約を交わした悪魔だった。
異様な醜態。およそこの世のものとは思えない見映え。
直径一メートルほどの球体で、所々沸騰したようにボコボコと泡立つそれに、爛れた皮膚に存在する顔とおぼしき異相。
そんな化け物が契約者の男の背後に姿を現わし、浮遊していた。
褐色の男は拳を握る。力強く、内で沸きあがった憎悪を拳へと込める。
ミリミリという軋み音が聞こえてくる。褐色の筋肉が過密されていく音だった。凝縮され、それこそまさにダイヤを研ぐ要領で、筋肉を研ぐ――いや、研がれていく。
(くっ、相変わらず容赦ねぇな。一匹でこのザマとは……まあ良い)
筋肉痛にも似た痛み。それに歪めていた顔に浮かんだ不適な笑み。その鋭い眼光が標的である女を射程に捉える。
分析していく。
華奢な体だ。少しでも触れれば壊れてしまいそうな程に細く、儚げだ。風を操れるようで攻撃力は中々のものらしいが、防御力は常人と同じはず。
むしろ、この力の前ではそれ以下と見受けられる。
(接近戦を強いて、相手にこの力をぶち込む)
本来なら腕の治療を済ませたからの予定だったが、こうなった以上は仕方がない。
それに力の配分を上げるように悪魔まで引っ張り出したのだ。リスクが高いとはいえ、その能力向上はこれまでと一線を画す。
今の状況を模索すればするほど、希望が、勝機が湧いてくる。
懸念すべきは副作用。だが、それも問題なさそうだ。
そう。
速攻で片付ければいいだけの話なのだから。




