メイド、乱心
「……そう、そこをそうして」
「こ、こうですか?」
「おう、上手いぞ。本当に初めてか?」
「…はい。機会、ありませんでした」
「そうか。俺と住んでる間は嫌になるくらいするんだから、よぉく練習しとけよ」
「は、はい」
「なんて言っても、コレが上手くないと男は満足しねぇからな。よし、続けよう」
「わ、わかりました」
*
一定のリズムで御主人様は手を動かし続ける。
初めてにしては中々上手く、怯えよりも好奇心が勝っているのだろう。自ら積極的に取り掛かっている。
「……ちゃんと、できてますか?」
御主人様が上目遣いで見上げてくる。そういう仕草は見ていてなかなか可愛らしい。小動物チックなのだ。リスというか、子犬というか。思わず拾って帰ってミルクを舐めさせてやりたい気分なる。
「おう。いい感じだ。やっぱ料理は女の武器だからな。料理の出来る女に男は弱いんだ」
ちなみに現在、カレーを作っている最中である。俺一人で作ろうと思っていたのだが、御主人様がやりたいと言い出したので、俺が補佐に回っている。考えたら、中学生にもなってカレーも作ったことがないというのは問題である。お金持ちの御嬢様が料理をする必要が今後あるのかどうかはわからないが、取り敢えず俺との共同生活では必要になってくるだろう。
「男はな、肉じゃがと味噌汁に弱いんだ」
「あぅぅ……よ、よくわからないですよぅ」
「ま、男のロマンを解する歳でもねぇか。取り敢えず包丁使えるようになっとけ。それだけで全然違うから」
「は、はい……」
御主人様は丁寧に人参を短冊切りにしていった。初心者にしては上手い部類ではないのだろうか。
「添える手は猫みたいにするんだ。やってみれ」
何故猫の手かは知らないが、常識っぽいので教えておく。まあ、指を切り落とさないための予防策みたいなものなのだろう。
「えぇと…猫の手と言われても……」
「手で猫の真似してみろ」
「え、え、えっと………うにゃ〜」
「口は要らんが、手は合ってる。そのまま人参に添えて……そうそう」
猫真似が妙に似合っていたというのはここだけの秘密だ。猫耳を装着させてみたい気がしないでもないが、生憎肝心の猫耳を持っていなかった。今度高木に頼んでみようか。ヤツならば或いは持っているかもしれない。
猫耳は兎も角として、御主人様はそこそ器用に人参を切り終えた。
「次は玉葱行ってみようか」
「は、はい」
べっこう色にまで炒めるのがポイントの玉葱は微塵切りが望ましい。簡単に微塵切りの説明をすると、御主人様は早速玉葱の皮をむき出した。流石にずっと見ていても仕方ないので、俺はコンロと鍋、それに油の用意をする。
台所に備え付けられた棚に収容した鍋を取り出して、コンロにセット。油を引いてガスの元栓を開ける。
「よし、準備完了。御主人様、そっちはどうだ?」
「あ、はい……後は細かく切れば……っ!!!」
俺の問いに答えようとした瞬間、御主人様の顔がゆがんだ。手元を見ると、指から血が滲み出している。
「あぅぅ……」
「馬鹿、余所見しながら手を動かすからだ」
「す、すみません〜〜」
涙目で謝る御主人様。痛みというよりは玉葱を切っていたせいだろう。
「いいから早く水で流せ。玉葱の汁も沁みるだろ」
血が流れる指をどうしてよいのかわからない風の御主人様の腕を半ば強引に流し台の上に持ってゆき、蛇口を捻る。勢い良く流れ出た水に傷口をあてがい、ティッシュで水を吸い取って常備してある絆創膏を指に巻きつけた。幸い傷は浅く、出血も既に止まりかけていた。
「これでよし。包丁は怖いからちゃんと集中してないと駄目だぞ」
「は、はい……」
少し落ち込んだようで、しゅんとしてしまった。しかし、刃物の扱いは厳しいぐらいがちょうどいい。下手にここで甘やかすと、次に何が起こるかわかったものではない。これもよい経験である。
「まあ、今日はこれぐらいにしておけ。後は俺がやるよ」
俺は包丁を手にとって、玉葱を素早く微塵切りにした。そして換気扇を回してコンロに火をつける。
「あ、あの……見てて、いいですか?」
「ああ。参考になるほど上手いわけじゃないけどな」
鍋に油をひいて、玉葱を放り込む。菜箸で混ぜつつ、一段落したら素早く人参、ジャガイモ、鶏肉を包丁でカットして、鶏肉から鍋に入れていく。そして水を入れて、沸騰させて野菜を纏めてぶっこんで待つ。簡単な作業だ。
「……凄いです」
「そうでもないさ」
今のうちにルーを用意して、いつ入れていいのかわからない林檎を摩り下ろす。しきりに鍋を覗き込む御主人様に苦笑しつつ、時間がいい具合に過ぎていった。
「そろそろ、ルーを放り込むか。甘口の上に、林檎と蜂蜜だけどよ」
細かく砕いたルーを鍋に入れて、オタマでくるくるとかき混ぜる。
しばらくするととろみが出てきて、美味そうな匂いが漂ってきた。
「あぅぅ……お腹、鳴っちゃいますよぅ」
「ははは、鳴らせ鳴らせー。飯が美味くなる」
俺も鳴りそうだ。というか、久しぶりの自炊にちょっと浮かれている。たまに自分で飯を作りたくなるのだが、母親はズボラな割に料理好きらしく、機会があまりなかったのだ。
……明日から、嫌と言うほどしなければならないのだろう。まあ、今日だけは楽しんでおこう。
10分ほど煮込むと、カレーは丁度よいとろみになていた。つまるところ、完成である。
御主人様がいそいそと皿を並べている姿を見て、一体どちらがメイドなのだろうかと内心で問うが、よくよく考えると、御主人様も初めての料理で浮き足立っているのだろう。顔も明るい。
事前に炊いておいたご飯をよそい、カレーをかける。しかしそこで、重大なことに気づいてしまった。
「……福神漬けがねぇ」
甘口のカレーと言えども、やはり福神漬けは欠かせない。カモにはネギ、カレーには福神漬け。たとえ金がなくとも、福神漬けはカレーに絶対必要なものなのだ。幸い、スーパーで購入はしてある。あとは容器にあけるだけなのだが。
「はさみがねぇ」
生活必需品は大体そろえたと思っていたが、うっかりとはさみを買い忘れていたらしい。仕方がないので包丁で袋を開けることにした。
「ええと、母親は確かこうしてたような……」
袋に手を添えて、真一文字に袋の上部を裂く。よい切れ味である。だが、残念なことに勢いあまって俺の手まで切ってしまっている。
「あぅぅ……血、血が出てますよぅ!」
様子を見ていた御主人様が、慌てて救急箱を取りに行こうとする。
「あー、いいって。なめときゃ治るだろ」
大したことはない。それより福神漬けが心配だったのでさっさと容器に移すことにした。
しかし、御主人様がふと俺の指を握った。怪我をした、その指を。
「舐めときゃ、いいんですよね?」
「はい?」
予想外の展開に、面食らう。御主人様は俺の指をじっと見詰めて、そして―――舐めた。ぺろり、と。
「………っ!!」
なんだ、この背徳感は。上目遣いの御主人様といい、なにか根本的なところで間違ってないか?
「あ、あのぅ……これで、治りますか?」
御主人様は実に真っ直ぐとした視線を俺に浴びせかけてくる。指を、相変わらず舐めながら。
ぺろりと御主人様の舌が指に触れるたびに、妙な電気が身体を走るような気がして、俺は思わず後ろに飛んでいた。御主人様が目をぱちくりとさせている。
「あ、あぅぅ……痛かったですか?」
「い、いや。そうじゃなくてだな……」
どう説明すべきことなのだろうか。悪いことをしたわけでもないし、かといってこれから先、同じことをされては適わない。子供の躾に戸惑う親の気持ちが、ほんの少し理解できる気がする。なるほど、これは厄介なことだ。
「ま、まぁ気持ちは有難いんだけどな。そういうことは普通、しないんだ」
「で、でも舐めとけばいいと…」
「自分で舐めるからいいんだよ。ほら、こうして」
ぺろっと、傷口を舐めてみせる。すると、何故か御主人様は急に真っ赤になってうつむいてしまった。
「ど、どうしたんだ?」
「あ、あぅぅ……」
調子が悪いようには見えない。恥ずかしがっているというか、照れているというか。
「……ん?」
そこまで考えて、今の自分の行為を改めて冷静に省みる。俺の指を舐められて、それを自分が舐めて……
「どぅわっ!!!」
どうしたもこうしたもあったものではない。立派な間接キスではないか。それも舌同士のかなりディープなシロモノだ。
「こ、こ、こ、これはだな。偶然、偶然なんだ。別にやましい考えがあったわけじゃないぞ!」
弁明するが、何故かすればするほど弁明が言い訳に変換されていくような気がする。
断っておくが、ヘンな気持ちはなかったんだぞ。
「よ、よし。カレー食うぞ。腹減ったしなぁ〜」
「あ、は、はい。そうですよね……」
お互い顔を真っ赤にしながら、それでも何とか食卓について、俺達初の自炊料理を食した。ごまかしごまかしなのは目に見えているのだが、御主人様も俺も、そのことについて触れようとはしなかった。
カレーは妙に甘かったり、野菜が少しいびつだったりしたが、まあ美味かったように思う。
ただ、残念なことに、お互いを妙に意識してしまって味を堪能する余裕がなかった。せっかく高木が用意してくれた林檎と蜂蜜も、よくわからなかった。
取りあえず、今日の収穫は御主人様は根本的なところで、どうしようもないくらいの世間知らずということが判明したことだ。
後、これから先、もっと大変な毎日が待っているということも―――