メイド、再誕。
薄暗い工場の社長室は、大きな机と革張りのソファがあるだけのがらんどうだった。
「恵一。来てくれたのね」
雨宮佳乃はまるで社長のように、その革張りのソファに腰掛けていた。長い黒髪を手で掬いながら、少し垂れ気味の眼を妖艶に歪ませている。ぱりっとしたワイシャツに、タイトな黒のジーンズ。シンプルな格好ではあるが、美人であることに違いはなく、不思議なほどに絵になっていた。無論、悪い意味でだが。
「お望み通りかどうかは知らないが、来てやった。さあ、千晴を返せ」
一歩前に出て、雨宮を睨みつける。しかし、雨宮はそれすら心地良いとでもいうように、口角を上げるばかりだった。
「忠義のメイドを持って、千晴ちゃんも嬉しいでしょうね。それとも、男として来たのかしら?」
メイド。最近ではすっかりメディアに露出して、変なイメージばかりがその言葉につきまとう。俺もそんな適当な情報しか持っていなかったから、適当にメイドと呟いて、メイドになってしまったのだが。
それでも、俺と千晴の関係はやはりメイドと御主人様だった。執事じゃおかしい。家政夫でもないし、世話役でもない。メイドって言葉が一番しっくり来た。どういう理由かなんてわからないし、別に知りたいとも思わない。ただ、俺は千晴のメイドだった。それに、忠義という言葉なんて要らない。別に忠義で千晴に仕えてきたわけじゃない。
最初は仕事だと思ってやっていたし、今では生き甲斐みたいにも思えるが、別に千晴に恩があるわけじゃない。雇ってくれと頼んだ記憶はないし、蹴ってしまえば高校生として真っ当な人生を歩んでいただろう。確かに千晴は俺に良くしてくれたが、それは恩義や忠節というよりも、一緒に生活をする人間としての絆みたいなものだ。
男として。それに関しては、正直なところ半分正解だろう。惚れた女が攫われて、黙っている男なんていない。ただ、そんなことは、どうでもいい。
「理由なんてどうでもいい。千晴を助けたいと思った。それだけだ」
ああだこうだと考えるのは、高木に任せればいい。メイドだから。男だから。あれこれと細分化して考えるのは嫌いだ。
俺だから。仁科恵一だから。それでいい。否、それだけでいい。
「……ふふ、そうね。すごく恵一らしいわ。あの頃から、根っこはちっとも変わってない」
あの頃。俺が中学生のときのことだろう。雨宮と俺が付き合っていたとき。
正直なところ、そんな過去に興味はない。一部分だけ自分の記憶がないというのは少し不気味だが、忘れてしまったんだから、つまりは忘れたい内容だったか、よほどどうでもいいことだったんだろう。
それでも、その過去がなければ、このような状況にはなっていない。どうやら、どう足掻いても向き合わないといけないらしい。
いいだろう。どんな過去でも構わない。謝れと言われたら土下座でも何でもしてやろうじゃねえか。
今よりも大切な過去なんて、俺の知る限りこの世には存在しない。
「条件を聞こう。一体、何が目的で千晴を誘拐したんだ?」
俺は一歩前に出て、雨宮を見据えた。
雨宮が千晴を誘拐したのは、やはり俺が目的なのだと思う。一体、俺に何を求めているのかはわからないし、そもそも俺と雨宮の間に何があったのかさえ思い出せないが、誘拐するからには理由があるはずだ。逆を言えば、その理由さえ解決してしまえば、千晴は戻ってくる。
「身代金が目的と言ったら、どうする?」
雨宮が試すように問いかけてくる。俺は鼻で笑ってしまった。
「それなら、俺を指定する意味がない。それに、本当に身代金が目的なら、お前達はとっくに警察に捕まってる。言ってしまえば、そこらの不良と、一人の女が集まっただけの集団だ。大財閥と国家権力を相手にできるほどのコトはできねえよ。あくまでも別の目的だし、俺達がそれを理解するところまで、お前達は考えて行動してるんだろ。俺たちの力で何とかしようと思える範疇の規模で動かなけりゃ、この状況は無かった。とっくに警察が介入して、お前達はお縄についてる」
「……しばらく見ないうちに、頭だけは良くなったみたいね。確かに、規模は調整したわ。本当に警察に来られると、どうしようもないからね。けど、そこまでわかってて、どうして警察に頼らなかったの?」
「逆上されても困るからな。千晴達の無事が最優先だ」
誘拐事件の大半が身代金目的であり、そして九割以上がその受け渡しで逮捕される。それを知っているから、犯人の要求に警察への連絡を拒むのが基本であるが、被害者だってやはり知っているから、通報する。
ならば、身代金が目的ではなく、俺自身が目的の場合はどうだろうか。最悪、俺は千晴の変わりに雨宮に捕まっても良いとさえ思う。要は、千晴が無事ならばそれでいいのだ。雨宮だって、そのことを理解しているからこそ、誘拐という極めて成功率の低い犯罪に手を出した。そう考えるのが自然だろう。
仮に千晴達に危害を加えているのならば、雨宮達に逃げ場は無い。俺達の誰かが即刻携帯電話で通報してしまえば、彼女らに逃げる余地などない。だからこそ、千晴達は無事であり、俺達は真っ正面から突入することができた。千晴は、俺達が雨宮を逆上させることがない限り、無事なのだ。だからこそ、ある程度までは雨宮の筋書き通りに事を運んだ。伊達と高木は後続を断ち切るために残り、俺だけがこの場所にたどり着くという状況も、雨宮達だけが狙った展開ではないのだ。
言わば、ここまでの出来事はお互いにとっての予定調和。ただし、不利な状況を作っては意味がないので、お互いが全力で向かい合っただけに過ぎない。雨宮達は、警察が動かないギリギリのレベルでの戦力で。俺達は、限られた時間で集められた戦力で。
「人間って、成長するのね。もう、恵一は頭も良いし、身体も立派。私が助けなくても、ちゃんと生きていけるようになっちゃったわけか」
俺の思考を読んだかのように、雨宮が嬉しそうに微笑みかける。
ここからだ。ここからが本当の勝負なのだ。
雨宮がこんな戦略を組んだ理由までは、わかる。だが、戦略を組んでまで俺と真っ向から対立する動機だけが、どうしてもわからなかった。
高々、痴情の縺れでここまでの大事件にはしないだろう。それに、どれだけカリスマ性があったとしても、そんな理由で人を集めることが出来るはずがない。他の理由が、必ずあるのだ。
俺個人と真っ向から話したいだけならば、そう言えば良いだけの話だった。俺が忘れてしまったことを思い出させてくれるならば、俺だって聞く耳を持つ。千晴を攫う必要はない。俺が有無を言わずに飲まなければならない条件を、雨宮は提示するつもりだ。それこそ、千晴と引き替えにしなければならないほど、俺にとって重要なモノを、彼女は要求してくる。
「私の仲間はね、みんな鈴ノ宮財閥に怨みがあるの。そうでなければ、人は集まらないわ。これがまず、これだけ多くの人間を動かせた理由ね。勿論、逆恨みもあれば、割と真っ当な怨みもあるのよ」
「……大財閥だ。怨みの一つや二つ、無いほうがおかしいだろ」
「ええ。この工場も、元は父が経営してたのだけど、受注の大半が鈴ノ宮財閥だったわ。数十年来の付き合いがあったのに、あっさり切られた。私が千晴ちゃんに怨みを持つとすれば、それぐらいかしらね」
あっさりと、雨宮は俺に情報を与えてきた。高木の言によれば、情報というのは駆け引きにおいて最も重要なものだという。それをあまりにも簡単に教えてくれるというのは、おかしい。確かに、この誘拐事件に多くの人間が動いた理由として、かなり納得のいく説明ではあるが、俺を追い込むためならば、報せて良い情報でもないだろう。
つまり、これは俺を揺さぶるための、捨て石のようなものだろう。鈴ノ宮財閥に捨てられた人間ということで、同情をひくこともできる。実際に、俺に「何故そんなことを教えるのだろうか」という疑問も持たせた。ならば。
「お前以外の人間の動機は、わかったよ。身代金より、個人的な怨みを晴らすほうが大事だと思う、割と素直な連中だってこともな。けど、お前は違う。千晴に怨みを持っているのかもしれないが、それだけじゃないだろ?」
こちらも、情報を与えてやればいい。俺が切れるカードは、おそらく大半が雨宮にも知れていることだろう。千晴と俺の関係も見抜いている様子だし、高木や伊達のことも知っている。交友関係を調べておいて、他を疎かにするほど馬鹿でもあるまい。だとすれば、俺の持っていて、相手に効果的な情報となると、今現在の考えていることや、どう考えたかという理論の道筋だ。駆け引きというのは、言ってしまえば知恵比べなわけだから、こちらが如何にお見通しであるかという情報を突きつければ、多少なり優位に立てる。
「俺が目的なら、俺に正面から向かい合えばいい。千晴が目的なら、俺達に場所を報せる必要がない。こっそり嬲って、溜飲を下げればいいだけだからな」
千晴が乱暴をされる様子を一瞬でも想像してしまい、身の毛がよだつ。
駄目だ。冷静にならなければいけない。ここで俺が感情的になってしまうと、どんな要求をされるかわからない。俺の命ならば、千晴と交換もできるが、雨宮の目的がはっきりしない以上、何もできない。
「……つまり、お前の目的は俺と千晴の両方か、もしかすると、全く別のこと。俺も千晴も関係ない、これ自体が茶番だって可能性だ。まあ、十中八九、俺と千晴に関係するんだろうが」
「そうね。その通りよ」
雨宮はくすくすと微笑んで、ソファから立ち上がった。
「私の目的は、恵一と千晴ちゃん。まず、千晴ちゃんだけど、もう用事は済んだわ」
「用事って、どういうことだ?」
「恵一を譲ってもらえないか、お願いしたのよ」
俺を、譲る?
どういう意味だろうと思うのも束の間、ふと頭にメイドの三文字がよぎる。
「最初は嫌がってたけどね、私と恵一の話をしたら、こう言ってくれたわ。恵一の気持ちに任せます、って。素直で可愛いわよね」
嫌な感覚が身体中に広がる。俺の気持ち次第だと。冗談もほどほどにして欲しい。
俺が誰を選ぶかなんて、わかりきった話だ。一つの迷いもない。だが、それはあくまでも、他に何の条件がなければの話だ。雨宮だってそれぐらいわかっている。
ならば、彼女が俺に求めているのは。
「千晴ちゃん達を大人しく返してほしければ、素直に譲られてくれないかしら?」
ああ、そうだろう。それしかない。
雨宮の目的は、俺自身だ。俺に何かしろってわけじゃない。俺の、おそらくは人生丸ごとを奪うつもりだ。
千晴を攫ったのは、鈴ノ宮財閥に怨みを持つ兵隊を揃えるためと、俺に言うことを聞かせるため。一石二鳥の存在だったからだ。
「わかった」
迷いは無かった。俺の身体一つで千晴達が助かるのならば安いモノだ。
「あら。あっさりと了承してくれたのね。少し意外だわ」
「メイドの返事は早い方が良いだろ。それより、千晴達を解放してくれ」
雨宮は少しつまらなさそうだったが、懐から携帯電話を取り出すと、小声で指示らしきものを出した。微かだが、千晴を解放するようにという内容が聞き取れる。
「これでいいかしら?」
「ああ。それより、お前こそ良いのか。俺が素直にお前に従うような男に見えるのか?」
「ええ。恵一はそういう人だから」
にこりと笑う雨宮に、悔しいが参ったと思う。この女は、俺のことをよく理解している。
しばらくすると、がちゃりとドアが開いて、高木が入ってきた。伊達に肩を貸しながら。
「……ふむ、事情が少し変化しているようだな」
「どうでもいいだろ。その女を殴り飛ばせば、話は終わりだ」
大人数を相手にしておきながら、伊達は物騒だ。左腕は折れているのか、だらりとぶら下がっている。高木が容赦なくその左腕を掴み、伊達が悲鳴をあげる。
「暴力で解決できる問題は、もう終わっているということだ。殴って済むのなら、仁科がやっている」
「くそ、痛いだろうが……まあ、それもそうだ」
伊達は高木から離れ、俺をまっすぐと見据える。その表情は、怒りを露わにしていた。高木も、事態を見極めようとしているのだろう。冷たい視線で俺を見る。そりゃそうだ。俺が立っているのは、雨宮の隣。まるで付き従うかのような形になっているのだから。
「千晴ちゃん達は解放したわ。連絡もあった。えぇと、天王寺君と健二君が、ちゃんと保護したそうよ」
雨宮の言葉に、高木が頷いた。
「こちらにも連絡があった。千晴ちゃんや巴達はみんな無事だ。後は仁科を連れて帰れば、それでいいのだが」
「残念だけど、恵一はここに残るの。彼の意志でね」
ギンという音が聞こえそうなほど、鋭い目で伊達が俺を睨み付けてくる。
わかっている。伊達が怒るのも承知だ。高木は冷静に振る舞っているが、俺の行為を馬鹿なものだと思っているに違いない。だが、千晴達が助かったのならば、もうそれでいい。
「高木。伊達。悪いけど、約束しちまったんでな。俺は雨宮のメイドになったんだ」
俺の言葉に、高木が眉を少し動かした。伊達も、僅かだが顔から怒気が消える。
「雨宮佳乃。君は、仁科をメイドにする覚悟があるのか?」
高木がふと楽しそうな声で雨宮に問いかける。
「不思議なことを言うのね。恵一を手に入れるから、こうしたのよ?」
雨宮は何を当たり前のことを聞いているのだという態度だ。
「……ふむ。そういうことか。ならば仕方在るまい。伊達、帰ろうか」
「ああ。メイド、か。そりゃいい。忘れてたけど、仁科はメイドだったな」
高木と伊達が、まるで俺の気持ちを全て察したかのように微笑み、くるりと背中を向ける。こいつらには、流石にお見通しだったか。
「随分と物わかりのいい友達じゃない。恵一、私達も行きましょう。工場は見ての通りだけど、家は広いし、貴方を住まわせるぐらい平気なのよ」
雨宮が嬉しそうに言う。それを聞いて、高木と伊達が肩を震わせるのが見て取れた。あいつら、笑ってやがる。
まあいい。ここまで綺麗に同じ流れになるなら、それも仕方のない話だ。
「でかい屋敷は、性に合わねえんだ」
半年前に、似た台詞を呟いた記憶がある。
「雨宮。引っ越しの準備だ。とりあえずそれぞれの部屋があればいいから、こじんまりした家にするぞ」
俺の言葉に、雨宮は首を傾げる。そりゃそうだ。いくら情報を集めたところで、俺の全部を見てきたわけじゃない。俺と千晴が暮らした家だって、俺が適当なことを言わなければ住む事なんてなかったのだから。
「何、言ってるの?」
「だから言ったろう。覚悟はあるのかと。仁科のいうメイドとは、つまり――」
「御主人様とやらを自由にしていい立場のことだ」
伊達と高木が、答えだけを言って部屋を出る。バラすなよ。
「……話が見えないんだけど?」
雨宮は流石に戸惑ったのだろう。俺を責めるように見る。
そりゃそうだ。雨宮が知るはずもない。
俺が千晴の父親と交わした約束。言わば、契約内容。
「千晴から俺を譲られたんだろう? 俺は千晴のときと同じように仕事をするだけだ」
「それが、どうして引っ越しになるのよ!」
流石に雨宮も苛ついた声をあげる。これだけ大規模な事件にしておいて、ようやく目標を達成したところで思わぬ狂いが生じたのだ。そりゃ苛つきもするだろう。逆に俺は冷静だ。あのときの言葉を、なぞればいいだけなのだから。
「どういうわけか知らんが、俺は全てを任されてた。勿論、御主人様の躾もな」
千晴は大人しい、出来た女の子だったから俺は気に入って、自分から仕える気になった。だが、そんな出来た女の子を誘拐するような困った御主人様にはお仕置きが必要だ。
「あー、けど参ったな。お仕置きしようにも、千晴を叱ったことねえから、どうすりゃいいかわかんねえが……ケツでも叩けばいいか」
俺は雨宮を抱きかかえて、膝の上に乗せる。割と魅力的な尻が目の前にあった。叩く前に撫でてみようか。
「ちょ、何するのよ。こんなメイド、聞いたことないわよ!?」
「なーに心配するな。ちゃんと御主人様って呼ぶし、三食も作ってやる。掃除洗濯も随分と巧くなったし、高木のおかげで舌も回れば、伊達のおかげで格闘の心得だってある」
それはつまり、雨宮が俺に逆らう術が残っていないということで。
「よし、躾っていうからには、きちんと反省させないと意味無いからな。御主人様の悪いところを言いながら叩く。納得するまでやめないぞ。まずは、当然ながら人を攫っちゃいけない」
気合いを入れて、一発尻を叩く。バシっといういい音が響いて、雨宮が悲鳴を上げた。
「次。戸田のおっさんを殴ったこと」
「それ、私じゃない――」
「お前がやらせたから、お前の責任な」
バシン。
「人質と交換に、人の人生を貰おうなんて考えもメッだ」
バシン。
「後先考えずにメイドなんて雇うのもアホだ」
バシン。
「いくらなんでも、伊達の骨折るのもやりすぎ」
「ちょ、痛い、痛いわよ!」
「口答えも禁止な」
ビシ、バシッ!
「それから――」
思いつく限りの駄目出しをしながら、雨宮の尻を叩く。まさかの事態に、流石の雨宮も動転したのだろう。途中から半べそになり、最後には泣き出していた。三十回以上叩いたので、痛いから泣いただけかもしれないが。
「やめてよぅ。私が悪かったから、もうしないからやめてよぅ」
ぐしぐしと涙を零しながら雨宮が懇願する。ここらでいいだろうか。
「どうだ御主人様。少しは懲りたか?」
「うぅ……千晴ちゃんにも、これしたの?」
「んにゃ。あいつはオイタをしなかったからしてないけど、同じことやらかしたら、まあやってただろうな」
それだけ聞いて、雨宮はがくりと項垂れる。
「よし、引っ越しだ。荷造りの準備だが……流石に、今から物件探すのもしんどいな。よし、俺にアイデアがある」
「ちょっと、ねえ、恵一ってばぁ」
独断専行は俺の得意分野だ。雨宮の声を無視して、俺は携帯電話を取りだして千晴の電話番号を呼び出す。
『も、もしもしっ!』
コールすると、千晴がすげえ勢いで電話に出た。そういえば、雨宮を御主人様として扱うのに手一杯で、千晴の声を聞くのもすっかり忘れていた。
「おう。無事か?」
『何を暢気に言ってるんですか!?』
普段の千晴からはあり得ないぐらいの大声が電話越しに聞こえてくる。よかった、どうやら無事らしい。安心した。
「それはそうと、すまんな。もう千晴は俺の御主人様じゃなくなった」
俺の膝の上で尻を突き出して半べそかいてるのが、今の俺の御主人様になってしまったのだ。
『……高木さんと倭さんから、聞いてます』
俺が無事だと言うことも聞いたのだろう。千晴の声は呆れた調子だった。事の経緯や、俺の行動も聞いたのだろう。
「それで、すまんがウチの御主人様の家が、どうやらでかい家に住んでるらしいんだが」
『……恵一、苦手なんですよね?』
「おう。それで、今まで俺達が住んでた家あるだろ。あそこに御主人様を住まわせることにした。部屋余ってるよな?」
『へ……え、ええ。それは、余ってますけど……い、いいんですか?』
長い付き合いだけあって、千晴は呆気にとられたのも束の間、すぐに我に返った。
「俺は御主人様の躾も任されてるからな」
『……恵一らしいです。戸田さんに頼んで、車を表に回しておきます。みんなで行きましょう』
千晴の声は、明るかった。
さて、すっかり大人しくなった雨宮を背負って部屋を出ると、高木と伊達が散々活躍したのだろう、不良達がぶっ倒れていた。
「とりあえず、解散な」
俺が雨宮を背負っていることで、どういう勘違いをしたのかは知らないが、全員が頷いた。根は素直な連中なのだ。
工場の外に出ると、もうリムジンは停まっていた。高木と伊達。それに天王寺と健二。それに、巴に、姫子に、漣に。千晴。
「恵一ッ!」
俺の姿を見つけて、千晴が駆け寄ってくる。片手で雨宮を支えながらも、千晴を思いきり抱きしめる。乱暴をされた様子はないし、血色も良い。なにより、温かい。
「無事で良かった」
それだけ呟いて、思わず両手で抱きしめる。背中からぼとりと雨宮が落ちた。
「いけね。御主人様落としちまった」
きゃあという悲鳴と共に、まだ半べそだった雨宮が地面に伏せる。我ながら酷いメイドだ。
「け、恵一……そ、それはちょっと、酷いです」
俺の胸の中で、流石に千晴が文句を言うが、俺から離れない時点で同罪だ。
まあ、やってしまったものは仕方ない。千晴は兎も角、親の敵のように雨宮を睨み付けている天王寺も、この状況を見れば少しは落ち着くだろう。
「それよりな。千晴に渡すもの、あるんだ」
ズボンのポケットにしまっておいた、今日のために用意したもの。ちょっと予定はズレちまったが、いいだろう。
雨宮が転がっている上に、全員が見ているという状況だが感動の再会には違いない。
「これ、クリスマスプレゼント」
ポケットから、ネックレスを取り出す。突然のことに、千晴は呆けていたが、ようやく今日がクリスマスイブだと思い出したのだろう。ちょっと照れたように微笑み、受け取ってくれた。後は、そう。ここまで来たのだから。
「それからな、断られるのが怖い。嫌だったらすまんと先に謝る」
それだけを宣言して、千晴の唇にそっと自分の唇をあてる。
はじめてのキスは、とても柔らかくて、温かい。
「っ……!」
千晴は驚いたように固まったが、やがて、自分から顔を近づけてくれた。心地よい弾力と、幸せな気分で胸がいっぱいになる。
やがてどちらともなく離れ、顔を見合わせて照れ笑いを浮かべる。
「順番、違いますよぅ」
「や。フられるなら、せめてキスぐらいしたかったから」
どうやら。
俺の恋も報われたみたいだ。うん、千晴は笑ってる。みんなも、笑ってる。
「……ねえ、恵一。私のこと忘れてるわよね?」
「ああ、すまん御主人様」
新しい御主人様は、もうすっかり大人しくなっていた。