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それぞれの想い。そして。

今回は主役が恵一ではなく、サブキャラクターたちです。


 恵一が台所で千晴と仲良く料理をしている中、居間では二人の友人一同がそれぞれ、適当に近くにいた人間と言葉を交わしていた。

 普段から親しい友人。あまり会ったことのない人。初対面。

 本来なら、全員で話してもいいところなのだが、肝心のメイン二人がいないのでは、進む話も前へは進まない。

 高木聖人は、腕時計をちらりと見て、肩をすくめて独り言を漏らした。

「あと、一時間で完成というところだろうか」


 伊達倭は少々、うろたえていた。

 恵一に突然呼び出されて、家にやって来たまではいい。両親ともに格闘家という家庭に生まれ、あろうことか生涯現役を誓った両親は海外へ武者修行へ行ったまま、帰ってこない。たまに手紙を寄越すのだから、生きてはいるのだろうが、高校生にして道場を任されてしまった伊達は、道場を立派に守っているものの、生活力には乏しかった。

 小さい頃から両親に叩き込まれたのは武術のみで、料理の作り方や洗濯などは一つも教わってはいない。そんな一人息子が一人暮らしをはじめたのだから、メイドが欲しかったのは、それこそ伊達なのであった。

 つまり、食事を振舞ってくれるという申し出は、誰であってもありがたい。たとえ、普段からあまり好かない高木がいようとも、腹いっぱいに美味いものが食えるのであれば気にならない。恵一の料理の腕前は、稽古の報酬として毎度貰っているので理解している。武術の才能は正直なところ、人並みか、せいぜいそれに少し毛がはえた程度であるが、料理の才には恵まれていると伊達は考えている。誘われてすぐにやってきたのは、そのような下地があったからだが。

 しかし、いざ到着してみると、未だに料理は完成しておらず、なんだか高木を女にしたような中学生の少女がじっとこちらを見ているではないか。

「えぇと、紹介するね。巴ちゃんと、漣ちゃんと、姫子ちゃん。こっちは、伊達君。私たちと同じ学校の同級生なの」

 伊達と面識のあったひとみが説明すると、伊達は慣れたもので、にこりと笑って「よろしくね」と優しく言った。巴と呼ばれた少女は恭しく。姫子と呼ばれた少女はのんびりと。そして、漣と呼ばれた女は、不敵に挨拶を返したのだった。

 そして今、どういうわけか漣が、伊達の前に座り、じっと伊達の様子を窺っているのであった。

「あの、漣ちゃんだっけ?」

 伊達が遠慮がちに尋ねると、漣は「うむ」と頷いて、やはり伊達をまじまじと見つめなおした。その言い草が高木を髣髴とさせて、伊達は少し億劫になった。

 苦手なのだ。不必要だと思うほどに重々しい口調も、尊大な態度も。

 どこが苦手なのか。何故苦手なのかと問われると、伊達は答えに窮する。生理的に受け付けないとしか言いようが無く、その答えは相手に失礼にあたる。

「ええと、どうしたのかな?」

 努めて伊達は、優しく声をかけた。自分の容姿のことは、自分自身で把握している。切れ長の眼は威嚇しているように思われることが多く、低い声がさらに気分を重たくさせる。体格も威圧感を与えてしまう上に、経歴が経歴だけに十中八九、相手は怯える。何度か伊達はそうやって怯えられ、いつしか明るい表情と優しい声を使いこなせるようになったのだ。そうしなければ、上手く周囲と馴染むことができなかった。

「いや、たいしたことではないが。やはり、高木さんと似ていると思ってな」

 漣の言葉に、伊達は気色ばんだ。確かに、高木と自分が似ている面があるとは、伊達自身も思っている。体格はほとんど同じだし、顔のつくりも何となく似ている。趣味や嗜好は違うが、いざとなると妙に似たことばかりを言うのも、自覚はあった。たとえば、千晴と恵一が不良に絡まれたときの行動だ。


 恵一からのメールに、隣で笑っていた恋人を置いて、慌てて駆けつけた。廃工場の前まで慌てて駆けつけると、やはり肩で息をしている高木がほとんど同時に現れたのだった。

「お前の出る幕じゃない」

 何故高木もここにいるのかなど、十分にわかっていた。それでも伊達がそう言うと、高木は息を整えながら、にやりと笑った。

「一緒にいた恋人に何も言わずに駆けつけたんだ。出番でなくとも、傷の一つでも負って帰らないと、言い訳ができない」

 お前もだろう、とでも言いたげな目だった。伊達はやれやれと肩をすくめ、廃工場の重そうな鉄扉を見た。中で人が動く気配がある。怒号からすると、そろそろ駆けつけないと危ない頃合だろう。

「手早く終わらせるぞ。身体に傷を負った友人と、心を傷つけてしまった恋人が待っている」

 高木が鉄扉の前に立ち、片足をひょいと上げる。

「暴力は苦手と思っていたんだが、そうでもないらしいな」

 伊達も隣に並び、不思議と同じ体勢を取った。

「必要とあらば手を出す。相手が老若男女関係ない。護るべきものは護る」

「同感だ」

 高木の言葉に、素直に同意できたのは初めてだったかもしれない。ここでまた知ってしまう。趣味や嗜好はおろか、性格も違うのに、何故か考え方が似通っている。

 二人はまるで計ったかのように同時に扉を蹴り飛ばし、傷ついた恵一を助けるために、不良に踊りかかったのだった。


「……まあ、似ている箇所もあるだろうね」

 伊達はついこの間の乱闘を思い出しながら、曖昧に答えた。漣はその様子を、じいっと見つめている。まるで伊達の言葉から、真実を手繰り寄せようとするような、真っ直ぐな瞳である。

「漣ちゃんも、高木に似ている気がするよ」

 伊達が言うと、漣は口角を上げて、大仰に頷いた。高木に嫌悪感がないだけ、素直に認めているのだろう。

「考え方や見た目は違うがな。喋り口調と性格は驚くほどに似ている。おそらく、伊達さんは私に苦手意識を感じているのではないだろうか。私も少々、伊達さんが苦手なようでな」

「随分とはっきり言われたなあ。いや、まあ高木とは他に確執もあったからね。多分、それもあってお互いに好かないのさ。漣ちゃんは、少なくとも苦手というわけではないよ」

 嘘とまではいかないが、少々大きくものを言った。苦手は苦手なのだが、高木よりは全然喋ることが出来るというのが、伊達の漣への感想である。漣はそれを聞いて、少しだけいぶかしんだが、まあいいか、とぽつりと漏らして、隣でのほほんと笑っている姫子に思い切り抱きついた。

 一体何だったのだろうと伊達はしばらく考えたが、結局、漣の行動は謎のままだった。






 時を同じくして、漣の隣に座っていた姫子は、隣に座る巴と、面前にいる天橋ひとみの二人と言葉を交わしていた。

 二人が少しだけ、微妙な関係にあることは姫子も知っている。兄を求めた巴と、その兄になってしまった高木。そして、その恋人であるひとみ。仲はとてもいいようで、巴とひとみは実の姉妹のように微笑みあっている。高木は少し離れたところで五十鈴涼子となにやら小声で会話をしているが、二人とも、高木の様子を気にしている素振りは見せない。話題はもっぱら恵一と千晴のことであり、しかしながら、彼女らの関係についても言及しているのだった。

「最初は、千晴ちゃんたちを見て、本当に仲のいい兄妹だなって思ってて、すごく憧れて。だから、私もお兄ちゃんがほしくなって。中学生にもなって、小さい子供みたいなこと考えてるなあって思ったんだけど」

 巴がぽつぽつと、ひとみに話しかけている。ひとみはにこにこと笑って、じっと話を聞いていた。

「まさか、兄妹じゃないなんて、全然考えもしてなくて。今でも、不思議なんです。あのときの二人は、本当に仲のいい兄妹だったのにい。今じゃ、どっちかというと、恋人みたいな雰囲気で」

「うん。私もそう思ったよ」

「やっぱり、実際に血が繋がっていないからなのかな。嘘っこの兄妹だから、お兄さんも、千晴もお互いを好きになったんじゃないかなって考えてて。でも、そうなると、私とお兄ちゃんも、そうなっちゃうんじゃないかって」

 巴は不意に、悲しそうに眼を伏せた。姫子は何も言わない。ひとみも黙って、ただ巴を笑顔で見つめるだけだった。

「お兄ちゃんは、とても優しいし、好きになっちゃうってことも、ありえる気がして。けど、私はお姉ちゃんもお兄ちゃんと同じくらい大好きで、二人にはずっと一緒にいてほしくて」

 巴は千晴と恵一の関係を知ってから、ずっとそのことで悩んでいたのだろう。漣にも相談したかもしれないと、姫子は思った。

 自分に相談が来ないことは、姫子は気にしていない。むしろ、ありがたいと思う。相談に乗ることができないからではなく、その状況は、あまりにも自分と酷似していたからだ。


 姫子には、血の繋がりがない兄がいる。幼い頃からずっと一緒で、最初は本当の兄だと思っていたが、ある日両親から聞かされて、以来、姫子と、兄の亮平は不意に距離を縮めてしまった。

 姫子にもわからない。昔から兄のことは好きだった。しかし、それは恋慕ではなく、家族愛だったはずだ。漣のように兄を邪険に思ったことはなく、亮平と遊ぶことが、友達と遊ぶのと同じぐらいに楽しめるものだったというだけだ。

 ただ、血の繋がりがないという事実だけで、二人の関係は変わってしまった。ちょうど、今年の夏あたりだ。亮平はずっと前からそのことを知っていたらしい。全てを知ったときに、姫子の心は、まるで自然の摂理のように亮平に傾いた。否、傾いたというよりも、最初から傾きっぱなしだったことに気がついたというほうが正しいのかもしれない。あるいは、傾くという中途半端なものではなく、亮平に向かってばったり倒れ込んだ、ぐらいの勢いだったのかもしれない。

 どちらにせよ、初恋だった。初恋が兄という話はたまに聞いたが、どれもみんな、幼稚園とかそれぐらいの年齢の話で、中学生になってまで兄を真剣に好いている人間はいなかった。

 つい先月、姫子と亮平はお互いの初めての人を、お互いに選んだ。意識してから僅かな間であったが、兄妹として育んできた時間は決して短くなかった。それが障害になるよりも、お互いへの信頼になったのは、やはり血の繋がりがなかったからなのだろうか。姫子にはわからないが、悪い気はしなかった。

 そのことを知るのは漣と巴と、千晴だけである。両親には怖くて報告などできなかった。漣は素直に祝福してくれて、千晴は恵一と自分に立場を置き換えたのだろう。うらやましそうだった。ただ、巴だけが顔を曇らせていた。素直に祝福されるような恋でないことは姫子もわかっていたが、まさか、巴は千晴とは違う意味で自分達と重ねていたとは。


「巴ちゃん。私も巴ちゃんが大好きだよ。ずっと妹と一緒に買い物をしたり、出かけたりできたら楽しいだろうって思ってたから。聖人と付き合ってから、妹がいないか聞いてみたんだけど、いないって言うし。恋人の妹なら、私の妹にもなるだろうって思ってたから、少し期待してたの。もちろん、そんなことを考えて聖人を好きになったわけじゃないけどね。だから、巴ちゃんが、聖人の妹になりたいって聞いて、一番嬉しかったのは、多分私だと思う。すごく可愛くて、素敵な妹ができて、本当に嬉しかった」

 ひとみの言葉に、姫子は我に返った。ひとみはやはり微笑んでいるが、少しだけ固くなっている気もする。

「だから、何があっても私はずっと巴ちゃんを妹だと思ってる。たとえ、私が聖人と別れたとしても。その後、巴ちゃんと聖人が付き合うことになったとしても。ライバルになっても、いいんじゃないかな。姉妹で聖人を取り合うのも、なんだかドラマみたいで、ロマンチックじゃないかな」

 ひとみの言葉に、巴は嬉しそうにうなずいた。

 姫子はふと、この二人はずっと姉妹のままなのだろうと思った。たとえ、高木とひとみが別れても、この二人の関係は続く。そして、巴が高木に恋愛感情を抱くこともないのだろうと思う。何故そう思ったのか、やはり姫子にはわからない。ただ、血の繋がらない兄を持つ人間として、自分達よりも兄妹らしく、高木と巴があり続けると、そう思ったのだった。

「ふふ、もしもそんなドラマみたいな展開になっても、聖人は渡さないけどね」

「あはは。今はお姉ちゃんには敵わないけど、十年後は若さで勝負するもん」

 本当に楽しそうに、そんな会話ができるのも、お互いがそんな展開にならないことがわかったからなのだろうと、姫子は微笑んでその様子を眺めていた。いきなり、隣で伊達と喋っていたはずの漣に抱きつかれるまで。



「高木君。少しいいかな」

「ああ。僕からも少し、話があるところだった」

 高木と涼子は机を挟んで向かい合ったまま、静かに会話をはじめた。

 何かと訪れる機会の多い高木に対して、涼子がこの家に入るのは初めてであり、恵一が台所にいる今、親しい友人は高木とひとみだけだった。ひとみは巴と喋っており、涼子が気軽に声をかけられるのは高木だけであった。

「先に言ってよ」

「ふむ。ならば単刀直入に聞くとするか。五十鈴さんは、仁科が好きだと思っているのだが、正しいだろうか」

 本当に高木の言葉はいきなり核心を突いてきた。涼子はしばらく考えて、首を縦に振った。

「今更、隠しても仕方がないわね。割と、バレてるんだろうって自覚もあったし」

「五十鈴さんは頭がいいからね。では、ここからは純粋な疑問なのだが、どうするつもりだい。仁科を好いている人間に言うのも酷な話かもしれないが……」

「言われなくてもわかるわよ。千晴ちゃんには敵わない。諦めるように努力するつもり」

 涼子がやれやれとため息をついて、肩をすくめる。高木はその様子を見て、少しだけ心が痛くなった。

 涼子の気持ちに、恵一がまったく気付いていないことは、ずっと近くで見てきた高木にはよくわかった。千晴に心を寄せていることも、本人より先に気付いていた。その反面、学校で涼子がいつも恵一のことを心配していたのも知っていただけに、どうにかならないものかと考えたものだった。

 しかしながら、恋愛というのは素晴らしいものでありながら、非常に残酷でもある。気持ちを通わせることができるのならば、それは幸せなことだが、叶わない恋愛は、こと思春期の女の子にとっては地獄のようなものだろう。ただでさえ、相手が突然現れて、奪い取っていくように恵一と引き離されたわけだから。

「仁科に伝えなくていいのかい」

「まあ、本音で言えば、言うだけ言っておきたいわね。中学からの三年越しだったし、色々あったから。けど、考えたらわかるでしょ。もう入り込む余地なんてどこにもないし、それでも踏み込んだら、恵一が戸惑うだけで、千晴ちゃんも遠慮しちゃう。隣にいるのが自分じゃないからって、好きな人の幸せを崩すのって、悲しいじゃない」

 涼子が苦笑する様子に、高木は素直に感動した。

 並大抵の想いでは、ここまで相手を尊重しないだろう。自分の気持ちを押し殺すことができるほど、恵一のことが好きで、真剣に幸せを願っている。三年越しという言葉が、十七歳の高木には重くのしかかった。高木の乏しい恋愛経験では、かける言葉が見つからなかった。

「まあ、こういうことは二回目だし、仕方ないのよ。中学で恵一に彼女ができたときよりも、よほど気分は楽だし」

 間を取り繕うように呟いた涼子の言葉に、突然高木は目を見開いた。聞き逃してはならない。否、聞き逃すことができるはずもない言葉が、含まれていた。

 高木はそっと周囲の様子を伺った。どうやらそれぞれが話を終えたようで、漣が姫子に抱きつき、伊達はなにやら考え込んでいる。こちらに気付く様子はないが、自分の勘を信じるならば、絶対に他人に漏らすわけにはいかないことである。

「……五十鈴さん。少し、場所を変えないか?」

「へ。どうしたの突然。ああ、慰めとかはいらないわよ。ひとみに悪いし、高木君じゃねえ」

「まあ、どのような慰めを想像したのか知らないが。確かに話しかけたのは、何か力になれるかと思ってのことだったが、少々、事情が変わりそうだ。とても、大事な話になるかもしれない」

 声のトーンを落として、決して他人に聞き取られないように注意しながら、高木は立ち上がった。ただならぬ高木の様子に、涼子も立ち上がり、そのまま二人は外に出た。

「それで、どうしたのよ。私なにか、変なことを言ったかしら?」

「うむ。いや、変というよりも、僕の持っている情報と食い違う点があったものでね。確認したかった」

 高木は少しだけ状況を整理して、改めて涼子に向かい合った。

「仁科は、中学の頃に誰かと交際していた経験があるのか?」

 それだけを聞いて、高木は心をなるべく静めるように努力した。いつか聞いた話では、恵一が自分で、今まで誰とも付き合ったことがないと言っていた。中学時代に交際していたのを、忘れるほど馬鹿な男ではないし、嘘をついているようにも思えなかった。交際期間が短すぎて、カウントしていないという可能性も考えたが、それよりも恐ろしいことが脳裏を掠めた。

「えっと、もしかして。恵一、高木君にも話してなかったの?」

 涼子は予想外という顔で、高木を見上げた。

「いや、話す、話さない以前の問題だ。仁科は、僕に『彼女なんていたことがない』と明言していた。よもや、中学時代のことを忘れるような男ではあるまい」

 高木の言葉を聞いて、涼子は突然身体をビクンと震わせた。高木はじっと黙って、その様子を窺がう。涼子は混乱しているようで、じっと考え込み、不意に顔が青ざめだした。そして、そのまま踵を返して、家に駆け込もうとする。高木は慌てて腕を伸ばし、涼子の手首をしっかりと掴んだ。

「離して!」

 今までにない、ヒステリックな怒声が涼子の口から飛び出した。しかし、高木は揺るがずに、一層涼子の手首を強く握った。

「落ち着くんだ。今、いきなり飛び込んでも、混乱させるだけだ」

「高木君に何がわかるのよ。いいから、離して!」

「わからないから、聞こうとしている。少なくとも、今の五十鈴さんより僕のほうが冷静だ。数年前の話なのだろう。僕に説明してからでも、そう遅くはあるまい」

 一分、一秒を争うような出来事ではないだろうと高木は判断した。涼子はそれを理解したのか、あるいは高木の力に屈したのか。力を抜いて、再び高木に向かい合った。

「ほんと、言葉が巧いわね……とりあえず、恵一に中学時代に彼女がいたのは本当よ。恵一とはずっと同じクラスだったし、仲も良かったから。知ってるのは当人以外じゃ、私だけになるけど」

「相手は、誰か知っているのか?」

「そりゃ、ね。何度か会ったこともあるし。三つ年上の人……ねえ、高木君?」

 かちり、と高木の中でパズルのピースがはめこまれていく。そのピースのどれもが、どれも気味が悪いもので、完成した絵を見ることを躊躇いたくなる。

「もしかして、恵一は。その、記憶が……?」

 恐る恐る、涼子は高木に尋ねた。高木はしばらく考えて、少しだけ頷いた。

「決めつけるのは早計だが、そのようだ、としか言いようがない。聞いている様子では、一時期の記憶が全て抜けているわけではないようだ。仮に、仁科が記憶を失っているとして、五十鈴さんは今までそれに気付かなかった。つまり、局所的に忘れているのだろう。話の流れから考えれば、その当時の恋人とのこと、になるのだが」

「……私、聞かなかったのよ。相手の子から、別れたって聞いて……慰め方なんてわからなかったし。けど、恵一はケロっとしてたから、ちゃんと踏ん切りをつけたんだなって……そう思って……聞かなかった。気付いて、あげられなかった」

 涼子は声を震わせながら、地面にぺたりと座り込んでしまった。高木は少し迷ったが、涼子を支え、肩を貸して立ち上がらせた。

「その相手の女性に、鍵がありそうだ。五十鈴さん。最初に言っておく。君は決して悪くない。むしろ、仁科の様子をよく見て、自分にわだかまりがあるのに、それを堪えて仁科の傍にいた。忘れなければならないほどのことがあって、それでも心が折れなかったのは、そのときに五十鈴さんが隣にいたからだ」

 高木はしっかりと涼子を肩を掴み、力強く呟いた。普段とは違う、勢いのある高木の言葉に、涼子は少しだけ気を強く持つことができた。

「高木君、ありがとう。もう大丈夫みたい。これ以上やると、ひとみに怒られちゃう」

「それは、少し困るな。ひとみが怒ると、かなり怖い」

 お互いにあまり面白くない冗談を言い合い、気を紛らわせる。実際にひとみが怒ると、高木もひたすらに謝るしか道はないほどに怖いので、あながち冗談でもないのだが。

「とにかく、そのかつての仁科の恋人だった女性……気になるね」

 高木は、二日前のことを、思い出した。千晴から電話で、相談されたのだ。

 恵一は知らないこと。おそらく、この件に関して頼れるのが、高木ぐらいしか思いつかなかったのだろう。電話口では慣れないのか、ひどくたどたどしい口調で、千晴はスーパーで、かつての恵一の恋人だと名乗る女性に出会ったという話をした。


『恵一は、知らないと言っていました……た、高木さん。えっと、その、何か、知っていることとか、気付いたこととか、な、ないですか?』

 突然の千晴からの相談には驚いたが、高木は内容を聞いて得心した。千晴が連絡を取ることができる人間で、一番恵一の過去に詳しいのは高木であった。その高木も、高校時代からの友人関係であり、少なくともその中に、恵一が女性と交際していたと思われる記憶はない。念のために去年、恵一と同じクラスだった友人にも連絡を取ったが、やはり彼女などいなかった。むしろ、今まで一度も彼女なんてできたことがないと言っていたと、高木も本人から聞いたことのある言葉が返ってきた。性質の悪い冗談なのか、それとも真実なのか。高木には判別がつかず、千晴にはとりあえず、そんな人は知らないから、人違いだろうと説明しておいた。日頃の行いのおかげだろうか、千晴は納得したようで、それ以来の進展などはなかったが、高木の胸にはしこりが残ったままであった。

 今日、五十鈴涼子という、恵一にとって高木よりも付き合いの長い人間に出会えて、高木はずっと質問をするつもりだった。折良く二人で会話をする流れを作ることができたまでは良かったが、飛び出してきた話は嫌な確証であった。

 おそらく、その女性は嘘をついていない。何らかの事情で、仁科恵一が完全に忘れてしまっているのだ。


「おーい、飯できたぞー」

 二人が黙り込んで考えているところに、ガチャリと玄関の扉が開き、エプロン姿にオタマを持ったままの恵一がひょっこりと顔を出した。

「おいおい、珍しい組み合わせだな。高木、天橋が怒るぞ」

「はは、それは困る。せっかく誕生日プレゼントを決めるために、五十鈴さんに相談していたのに。それで怒られては元も子もない」

 高木は即興の嘘をついて、場を和ませた。恵一も高木が涼子と浮気をするなんてそもそも考えてもいないのだろう。素直に納得して、二人に中に入るように促した。

「苦労したんだぜ。まあ、まだまだ勉強の途中だから、レストランみたいな料理じゃないけどさ。冷めないうちに食おうぜ。俺も疲れた」

「ああ。ご苦労様。では、五十鈴さん、ありがとう。行こうか」

「え、ええ」

 三人で揃って、家に入ろうとしたときだった。

「あれ。恵一?」

 家の門の前に、高木の知らない女性が立っていた。すらりと背が高く、正確な年齢はわからないが、大学生というあたりだろう。大人っぽい美人であるが、近所の人間にしては、随分と親しげである。

 恵一はやれやれと顔をしかめて、大仰にため息をついた。

「またアンタか。いい加減にしてくれよ」

「あら、ごめんなさいね。でも、偶然通りかかっただけよ。すぐに帰るし、そう邪険にしなくてもいいじゃない」

 女性が笑顔のままそれだけ言って、立ち去ろうとする。しかし、ふと振り返り、少し驚いた声をあげた。

「あら、涼子ちゃんじゃない。久しぶりね!」

 全員の視線が、涼子に集中する。

 涼子は呆然とした様子で、女性をうつろな瞳で見つめていた。まるで、幽霊にでも出会って、魂を抜かれてしまったようである。

 小さく、唇が震えている。恵一は事情がさっぱりわかっていないのか、首をひねって不愉快そうにしているばかりである。

 高木が不味いと思い、打開策を講じる。しかし、恵一はこの状態では役に立たないし、涼子は心ここにあらずという放心状態。千晴を呼べば事態が悪化する。せめて、伊達か漣。ひとみでもいい。巧くこの場を切り抜けることができる人間がきてくれれば。あるいは、自分の口八丁でこの状況を切り抜けられないものか。必死で考えるが、過去を知らない高木は、どのような言葉で場を切り抜けることができるのかという、判断材料が無い。

「ふふ、しばらく会わなかったから忘れたかしら。まあ、いいわ。またそのうちね」

 涼子の様子を知ってか知らずか、女性は手をひらひらと振って、歩いていった。偶然なのか狙ったのかの判別はつかないが、高木はひとまず安堵した。この状況ならば、まだ誤魔化しがきく。

 せめて、今宵の宴が終わってからでもいいだろう。ようやく二人が嘘から解放されて、これからは嘘の兄妹という関係を演じる必要などなく、すごすことができるのだ。二人にとって幸せな日のはずであるし、高木にとっても嬉しい日だった。せめて、今日は楽しめばいい。高木はそう願い、口を開こうとした。しかし。

「ヨシノ……雨宮あまみや佳乃よしの

 夢遊病のように、気の抜けた顔をしていた涼子が、ぽつりと漏らす。

 否。漏らしてしまった。

「さ、さあ。よくわからんが、戻ろう。僕も随分と腹が空いたし、早く食べたい」

 慌てて取り繕おうとしてみるが、間に合わなかった。

「雨宮……佳乃?」

 恵一が、その名前を口にした。


次回から、再び恵一が主役に復帰です。

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