メイドの一日
御主人様との共同生活は、早くも三日目を迎えていた。
芦田女史の用意してくれた住居は、二人で住むには広すぎる一戸建ての二階つき。冷暖房完備、庭もけっこう広かった。
引越しの片付けから、食料の買出し。その他諸々の用事を済ませ、ようやくコンビニ弁当生活を抜け出そうとしていた矢先のことだった。
「あぅぅ……起きてくださいよぅ、朝ですよぅ」
「もう少し寝かせろー。昨日は3時まで片付けしてたんだ」
「が、学校に行くんですよぅ、朝ごはん作ってくださいよぅ」
「自分で作れー。キッチンに食パンあるから」
早速俺はダウンしていた。情けないことに慣れない仕事に体が追いつかなかったのだ。
過労というほどでもないが、今の俺は何よりも休息を必要としていた。メイドであるという前に、人間としての本能が動いていた。
「あぅぅ……ご、御主人様命令ですよぅ」
「断固拒否」
「………むー」
伝家の宝刀をあっけなくあしらわれたと見える。俺の布団の端をぎゅうっと握って、ぐいぐいと引っ張るという妙な作戦に切り替えてきた。
「だぁぁっ、うるせぇ!!」
力任せに布団を自分の身体に丸め込むように引っ張った。きゃあという可愛い悲鳴が聞こえて、ボスンという音がした。
静かになった。どうしたものかとふと目を開けてみると、俺に添い寝するような格好で、セーラー服の御主人様が俺をぽかんと眺めていた。布団を離さなかったらしく、引っ張られてベッドインしたらしい。
「……大胆だな、御主人様」
「あ、あ、あ、あ……」
みるみるうちに真っ赤になってゆく御主人様。なんというか、いじらしく思えてこっちまで少しドキっとしてしまった。
急に気恥ずかしくなって、どうしたらいいのかよくわからなくなる。なんとか目線を合わせないように天井の染みを数えようとしたが、その途端に御主人様の顔が、すぅっと俺の胸板におしつけられた。
「なっ……お、おい!」
かなり混乱してしまって、体が動かせない。そして、
がぶり
痛々しい音と、俺の胸板に無理やり噛み付いた御主人様の顔と。
「っぐぁぁぁぁーー!!」
またもや、隣三軒に轟くような叫び声をあげてしまった。
*
「それはそれは、なかなか面白うございましたね」
「面白くなんかねえよ。歯型がくっきり残ってやがる」
なんとか御主人様を中学校に行かせた後、戸田のおっさんがやって来たので、現在リビングで二人してくつろいでいる。
洗濯物を干したり、細かい家事をしたり、となかなかメイドというのは面倒くさいが、高校に行かない分昼間に空調の整った場所でのんびりできるのは悪いことではなかった。
「しかし御嬢様は元々引っ込み思案で、十年来付き従った私にも未だ心を開いてはくれません。共同生活三日目にして、仁科様を噛むなど、やはり素晴らしい相性だけのことはありますね」
「10年もあれに仕えてるのか?」
「ええ。無論運転手と雇い主というだけの関係ではありますが」
「専属だろ。すげえな……というか、よくやるよ」
御主人様の引っ込み思案は筋金入りだ。普通三日も共同生活を続ければ、十分な会話もできるだろうに、俺たちはこれといった真っ当な会話を交わしてはいない。こちらからの質問にはある程度答えるのだが、向こうから俺に話しかけるといったことは、仕事に関してのことを数に入れても三日で二回。まあ、普通はメイドに世間話をもちかけはしないだろうが、どうせ二人しか居ないのだから、もう少し会話らしきものがあっても良いと思う。
それでも俺は異例の速度で打ち解けていると戸田のおっさんは言う。
「御嬢様は、それはそれはお優しいお方です」
戸田のおっさんはそれだけぼそりと呟いて、俺の出した美味いのか不味いのかよくわからない茶を啜った。
戸田のおっさんは茶を飲むと、奥さんが作ってくれたという家庭料理のレシピを残して帰っていった。料理教室の先生をしているという戸田婦人のレシピは実に細かく、包丁の扱いもまだ慣れぬ俺にとって、重宝しそうなものだった。
というわけで、早速今晩から自炊である。米や調味料、その他保存の利くものは買ってあるが、野菜や肉は未調達である。スーパーへの買出しが必須なのだが、この時間はまだ危険である。現時刻は三時。半額シール、3割引シールが張られる瞬間を狙うには、6時前後に行く必要がある。実はこの家を借りるにあたって、諸費用込みで今月の養育費は残り3万円しか残っていない。まだ半月残っているので、出来るだけ食費や光熱費は安く抑えておきたいところだった。
ちなみに、こういう細かい一人暮らしの知恵みたいなものは、事前に友人に確認してある。
引越しの際に手伝わせ、今後の生活に必要なものを揃えてくれたという、俺の友人一号、高木である。高校からの付き合いではあるが、妙に色んなことに詳しく、また家もこの近辺だというので引越しの際に召還したのだ。
彼ならば色々と相談に乗ってくれるだろう。少々風変わりなところもあるが、性根は優しい男だ。
早速、電話をかけてみる。コール三回で高木は電話に出た。
「あー、仁科だが」
『馬鹿者。こちらは授業中だぞ』
「じゃあなんで電話に出てるんだよ?」
『阿呆。サボっているからに決まっているだろう』
これである。高木は物知りで、イロイロと機転が利いたり、人に優しかったりするのだが、どうにも興味がなくなると途中で放棄するヤツなのだ。
『まあいい。妹さんとの二人暮しは慣れたか?』
「あ、ああ。まあな」
周囲(友人・ご近所)には御主人様と俺は兄と妹ということにしてある。くだらない詮索を受けないようにするための、苦肉の策だ。危ない趣味に開花したと思われるのは真っ平御免である。
『しかし、学校を辞めることもないだろうに。ああ、休学だったか。どっちにしろ、そういうのはよろしくないぞ。おかげで授業も詰まらん』
「馬鹿。なんで俺がいないだけで授業がつまらなくなるんだ」
『キミも言うようになったな。まあいい。それより何の用だ?』
忘れるところだった。咳払いを一つ、夕飯についての相談事をかいつまんで持ちかける。
『初心者らしくカレーでも作ってみればどうだろうか。作り方はわかるか?』
即、安直な答えを出しやがる。だが、やはりカレーは無難で美味い。
「馬鹿にするな。ルーの箱の裏面に記載されてることぐらい知ってるぞ」
『けっこう。ちなみに肉と一緒に玉葱も炒めておくといいぞ。玉葱をよ〜く炒めると、カレーは凄まじく美味くなる』
「それも知っているぞ」
『ああ、リンゴと蜂蜜というものも……』
「くどい。というか、そんなに色々放り込まないぞ。安く仕上げたいんだからな」
『そうか、ならばまぁ構わないが。また何かあれば連絡してくれ。キミの居ない学校はすこぶる詰まらないものでね』
「何かあれば、な」
それだけ言って電話を切る。少々喋りすぎるのが高木の勿体無いところである。
それにしても、高校の友人が非常に懐かしく思える。たった三日だというのに、全然違う世界に放り込まれたような気さえする。奉公に出たといえば、いささか時代遅れではあるが良い話である。しかし、俺は奉公に出るような人間ではないのだ。友達と馬鹿な話で盛り上がり、嬉し恥ずかしの恋だって楽しんでみたい。ああそうさ、彼女なんて生まれてこの方できたことねーよ。
ここのところ、大人と御主人様としか真っ当に会話していないせいだろうか。高木と話せたことが―――ごくごく詰まらない内容ではあったが―――少しだけ俺の心を晴れ渡らせた。そう、ほんの少しだけなのだが。
結局レシピは今回使うことはなさそうだが、いずれきっと役に立つだろう。
「た、ただいまです」
夕方、御主人様が中学校から帰ってきた。
「おう、おかえり。勉学に励んできたかね?」
なんとなく居間から顔を出して御主人様を出迎える。メイドたる者、出迎えの一つぐらい出来なくてどうするか。
……いや、立派なメイドを目指すわけではなく、なんというか、条件反射のようなものだ。俺の中のメイドさん像が無意識に行動に移らせたのだろう。
「あ、はい……お勉強、嫌いじゃないです」
御主人様は重そうな通学鞄を両手で持って、居間で一息ついた。6時間分の教科書とノートが丸々詰まった鞄が、ドスンと床に落ちる。
俺は、中学校のときから教科書は必要最低限しか持って帰らなかったような人間だ。チェックのはいらない宿題は当然しない。自習時間は世間話に花を咲かせる。駄目な高校生の手本のような生徒だったように思う。
「そうか。実は俺も勉強は嫌いじゃないぞ」
「えっ?」
御主人様が思わず声をあげて俺を見る。そしてその後「しまった」とでも言わんばかりに目をそらすことも忘れない。
「……御主人様。それはつまりアレか。俺は勉強嫌いと呼ばれる人間に属していたと言いたいわけか?」
「あぅぅ……そ、そんなこと……」
「正直に答えていいぞ。なんてたって、御主人様は俺の御主人様なんだからな」
「あ、じゃあ……はい、です」
「やっぱりかこのヤロウ!!」
「あぅぅ……な、な、なんでっ!?」
「正直に答えてもいいと言ったが、怒らないとは言ってねぇ!」
「そ、そ、そんなぁ〜〜」
御主人様は「あぅぅ」と声を漏らして小刻みに震えだした。そんなに怖がらせるつもりなんてなかったんだが。ここで『おまえのせいで学校という場所が良いところだと知った』などと言えば、からかうどころじゃすまなくなるかもしれない。女の涙なんて見たいものじゃない。
「ったく、それより今日の夕飯から自炊にするぞ。カレーだ、好きか?」
さっさと本題に移ることにした。御主人様にしてみれば追求から逃れられたことに安心したらしく、落ち着きを取り戻している。
「あ、はい。カレーは好き…ですけど……甘いのがいいです」
なんとなく予想はついたが、御主人様は辛いものが苦手らしい。
「しゃあねえ、甘口なんて食えねえから普通の辛さでいいよな?」
「……すいません」
「謝ることじゃないだろ。俺も正直辛過ぎるのは駄目だからな」
某カレー専門チェーン店で調子に乗ったところ、世の中ってのは、やっぱ甘いのより辛いモノのほうが多いんだなと実感した。以来俺は甘党を宣言している。世知辛い御時世に、甘さを好むのはまあ仕方のないことではないだろうかと思う。……それも甘え、か。
「っと、カレーだカレーだ。材料買いに行くぞ」
「あ、あたしもですか?」
「俺の仕事だが……一緒に行くか?」
「……行きます。自分のご飯、ですから」
実に良い答えだ。流石は俺の御主人様なだけある。
「よっしゃ、着替えて来い。表で待ってるから」
「は、はいっ!」
御主人様は珍しくきびきびした動きで自分の部屋に戻っていった。俺は表に出て、少ない自分の荷物―――ママチャリ、愛称フレイアを引っ張り出した。鈍く光る青緑色の自転車で、当時は羽振りの良かった親父が、自分の吸っている煙草のパッケージの色と引っ掛けて命名したという代物だ。由来は兎も角、響きは気に入っている。
着替えて出てきた御主人様を後ろに乗せて、フレイアは軽快に走り出した。
住宅街を抜けて表通りへ。おっかなびっくりの御主人様がしっかり抱きついていることは深く気にせず、フレイアは人の群れを右へ左へ避けつつ走り抜けてゆく。むぅ、中学生と油断していたが、胸の感触はあるものだ。
馬鹿か俺は。相手は中学生だ。犯罪だぞ、ロリコンの烙印を押されるぞ。いや、愛に年齢は関係しないだろうが。いやいや、愛やら恋とか、そもそもそんな感情など俺たちの間に存在はしない。そう、表向きは兄妹、実は御主人様とメイド。どちらも恋愛はご法度だ。ご法度故に萌える、などというオタクな意見は却下する。
柔らかな双丘(そんな立派なものでもないが)に気を取られつつも、俺たちは無事に目的地に到着した。
「あぅぅ…二人乗り、初めてです……」
「そうか。どうだった?」
駐輪場に自転車をしまって、自動扉をくぐる。初めて来るスーパーだが、中々品揃えもよさそうだ。
「あ、あなたの背中…おっきかった」
「そういう感想を聞きたかったわけじゃないけどな」
思わず苦笑してしまう。というか、かなり美味しい発言ではないだろうか。相手が中学生ではなければの話だが。
それより、だ。
「あなた、っていうのはいただけないな。ちゃんと名前があるし、呼びにくいなら周りに言ってるとおりに『お兄ちゃん』って呼ぶのもいいし」
夫婦でもあるまいし。これから先、『あなた』なんて呼ばれ続けら恥ずかしいことこの上ない。
「そ、そうですね……うーん……」
御主人様はなにやら考えているようだ。俺は買い物籠を取って、早速ジャガイモを放り込んだ。
「別に呼び捨てでも構わないんだぜ。いや、本来の関係からするとそっちのほうが妥当というか、自然なんだけど」
人参をさらに放り込んで御主人様を見る。指を口に添えながら思案するその姿は、ドレスを纏わずとも深層の令嬢という気がしないでもない。ちんまいガキじゃなかったら、ときめいていたかもしれない。
「そうだなぁ、俺は人前では呼び捨てにするって決めたから、お兄ちゃんと呼ぶのが妥当なところなのかもなぁ」
中々決めない御主人様に、アドバイスしてみるが、よほど集中して考えているのだろうか。耳に入っていないようだ。
玉葱も籠に入れて、何かと使えるもやしもついでに買うことにする。
「……戸田のおっさんは仁科様。芦田さんは恵一さん。親父さんは仁科君、だったか」
もはや聞いていないことを覚悟して、いくつか例をあげてみる。半額シールが張られた牛肉を籠に入れることも忘れない。
御主人様は相変わらず考え中なようで、俺の後ろを黙ってついてくるばかりである。
「なあ……聞いてるのか、ち、千晴」
「黙ってて、考えてるから」
「は、はい……」
一瞬、普段と立場が逆転――否、正しい立場になったような気がした。なるほど、一つのことに集中すると周りを見なくなるようだ。初めて名前で呼んで変な感じがしていたので、ちょうどいい。
それにしても、無意識だと敬語じゃないのか。それは心を開いているからなのか。それとも単純に見下しているのか。いや、メイドに敬語というのがそもそもおかしいのだけれど。
「……あ、決まりました」
ようやく、御主人様が俺を見た。気を取り直して、どんな呼称なのか聞いてみる。
「……け、恵一と呼びます……人前では『お兄ちゃん』と呼びますけど」
「へぇ、呼び捨てか。いいんじゃねぇの」
「お、怒らないですか。……ち、ちんまいガキに、呼び捨てにされるのは」
「別にかまわねえよ。近所のガキはいつも『けーいち』って呼び捨てにしてたしな」
「……やっぱり、ガキですか」
少し不満そうに御主人様は下を向いてしまった。これはあれか、ガキ扱いされたくないってやつだろうか。
そういえば初めて会ったときも、思わず首根っこ引っ掴んで『ちんまいガキ』と呼んでたしな。それを根に持ってるのだろうか。なんだか、逆にそういうところが背伸びしてるガキっぽくて可愛いもんだ。
「……あ、あたし、確かにちっちゃいです。けど……た、たった3つしか年が違わないです。恵一と呼ばせて…くれますか?」
「…ああ、勿論だ」
俺はその3つが大きく感じられるのだが、それはやはり男女の差であり、年上と年下の差であり、個人の考えの差であるのだろう。
御主人様は俺の言葉を聞いて安心したような笑みを浮かべた。俺は無言で牛肉を棚に戻して鶏肉を改めて籠に入れた。単純に鶏肉のほうが安かったからだ。
その後、御主人様が甘口のルーを持ってきたのを苦笑して受け取り、レジを済ませた。スーパーを御主人様と並んで出ると、何故か学生服を着た高木がそこにニヤニヤしながら突っ立っていた。
「やぁ、仁科兄妹。無事買い物は終わったかな?」
眼鏡を人差し指でくいっと押し上げて、俺と御主人様を交互に見る。
「ふむ。やはり似ても似つかない兄妹だな。もしかして血がつながっていないとか?」
……ビンゴ。さらに言えば兄妹でもない。
「似てなくて悪かったな。どうせ俺は千晴と違って捻くれてるよ」
「……お、お兄ちゃんは、あたしのお兄ちゃんですよぅ」
いきなバレるのは勘弁して欲しい。俺と御主人様は額に汗を浮かべつつ、兄妹であることをさりげなく主張した。
「はっはっは。そうかそうか、そうだね千晴ちゃん。僕が間違っていたよ」
高木は御主人様に笑いかけて、ふいっと俺に視線を戻した。何故か目が笑っていない。
「千晴ちゃん。お兄ちゃんを少し借りていいかな。勝手に学校を休んだりで、あまり話も出来なかったものだからね」
「あ、あ、はぃ……」
御主人様には視線を向けず。それでも声は優しく御主人様に話しかけた。一体何を考えているのだろうか。
「じゃ、じゃあお兄ちゃん……自転車、どうしよう?」
「千晴が乗って帰っていいぞ。サドル少し下げたら大丈夫だろ?」
「う、うん。じゃあ、先に帰ってる」
「おう。材料は冷蔵庫に入れておいてくれ。帰ったらすぐに飯作るからな」
「は、は〜い」
少し心配だが、まあいくら何でも中学生だ。平気だろう。
御主人様に自転車を渡して、とてとてと走ってゆく後姿を眺める。自転車に無事にまたがって、走り出したところで高木に視線を戻した。
「……で、何のようだ。わざわざご…千晴のいないところで話すことなのか?」
「ああ、つまらない話だからね。それにもし、僕の勘が正しければ……いや、率直に聞こう。千晴ちゃんは君の妹では無い。そうじゃないのか?」
速攻でバレていた。高木の目は既に確信している。
「……いつ、わかった?」
これ以上、何を言っても無駄だろう。俺は観念して高木をじっと見た。悪意はなさそうだが。
「君たち二人で住むと言った辺り――引越しの時だな。親も弟も居るのに、何故二人でわざわざ住むのか。学校を休んで妹と同居なんて無理があるんじゃないのかい?」
「……そうか。お前に手伝ってもらったのは失敗だったか。人選は悪くないと思っていたんだが」
三日目にしてもうバレるなんて、もうどうしようもない。高木にはこれ以上嘘は通用しようもない。全く、いやに鋭い男だ。
「……本当のことを言えば、黙っている。千晴ちゃんは君の何だ。恋人か、奴隷か――と、失礼」
高木は照れたような笑みを浮かべて、それでもすぐ真顔になって俺を見た。
「……御主人様だ」
俺は観念して呟いた。高木は表情を変えない。
「ほう、御主人様」
「ああ、千晴は俺の御主人様だ。俺は千晴――御主人様に仕えている」
「なるほど、千晴ちゃん専属メイドか―――千晴ちゃんがメイドの方が似合うのに」
この男は、驚くかと思ったが素でながしてやがる。それどころか笑いを堪えているようにも思う。変なヤツだと思っていたが、ただの変なヤツというわけでもなさそうだ。
ちなみに、こいつも執事や世話役という言葉を使わない辺り、なかなかどうしてツワモノである。
「いや、しかし君はいつも面白いことをしてくれる。君のような友人を持つことが出来て僕は幸せだよ」
「うるせぇよ。好きでメイドやってるわけじゃねえ」
「はは、そうか大変だな」
高木は苦笑して視線を空へと向けた。しばし沈黙が続く。
俺も空を見上げてみる。茜色の空は物悲しいというよりは忙しない。
「―――出来る限り、協力しよう。秘密を守ることは勿論、僕に出来ることなら何でも言ってくれ」
ぽつりと、高木が呟いた。空から高木に視線を戻す。相変わらず眼鏡をかけたひょろ長い、地味な男だ。しかし、彼は見かけよりずっと優しく、そしてそれ以上に思慮深い。
「何故、協力を?」
「……面白そうだし、何より君は僕の友達だ。友達は大切に――友達を大切に出来ない人間は、誰も大切にはできないものだよ」
それは某ゲームのヒロインの言葉だ。知っている俺も俺だが、こんな場面で使う高木は本当に凄いやつだと思う。
「―――高木よう、てめぇは変なヤツだな」
「仁科――僕がこんな人間なのは、君のような友人が居るからだよ」
俺たちは不敵に笑い、互いの拳を軽く突き合わせた。そう、男同士の挨拶はこれだけでいい。
帰りは高木がバイクの後ろに乗せてくれた。学校に無断で免許を取ったらしいが、運転はまずまずだった。痒いところに手が届く男である。
「それじゃあ、色々あるだろうけどがんばってメイドをやってくれ。ちょくちょく遊びに行くよ」
「ああ、何かと相談するだろうがよろしく頼む。けっこう頼りにしてるからな」
「…光栄だね。いつでも電話してくれ。ああ、今日の目的を忘れるところだった、ほら」
高木はにかっと笑って、リンゴと蜂蜜を手渡した。
そして勢いよくバイクを駆って遠ざかっていく。家の前に、一人残されたような気分になる。
そう、俺はメイドなのだ。もう高木や友達のような高校生活は当分送ることは出来ない。
それでも、やると決めた以上はやるしかないのだろう。
御主人様が腹をすかせて待っている。そう思うと、玄関までのわずかな距離も思わず走ってしまう自分がいた。