メイド、一喜一憂
千晴が俺のことをどう思ってるかと、漣に聞くのをすっかり忘れていた。
漣達が千晴をどれだけ好きなのかということを感じ取って満足してしまったのが、原因だろう。
「恵一、ひどいですよぅ。勝手に秘密を喋っちゃうなんて」
涙目の千晴が俺を見上げている。漣達に真実を話して、怒るのか、喜ぶのかと危惧していたが、まさかまさかの大逆転。なんと千晴は半泣きだった。
「朝から三人ともいなくて、すごく心配してたのに。どうして学校に行くように言わなかったんですか?」
よもや、千晴が俺をどう思っているか知りたくてと答えるわけにもいかず、そしてそのときになって、ようやく漣から肝心のそれを聞いていないことに気付いたのである。我ながら情けない。
「あたし、ほんとにショックだったんですから……どうせなら、自分から嘘をついたことを謝りたかったのに」
「す、すまん。いや、なんか漣の舌先三寸の言い回しにやられたというか」
「高木さんの友達やってて、漣ちゃんの話術で籠絡されるなんてはずないです」
そんな成長した俺といつも話をしている千晴も、やっぱり言葉が巧くなったと思う。昔ならこんなにきちんと言い返してくることはなかっただろう。勿論、気を許してくれていることもあるのだろうが、立派に成長しているんだろう。現状、ちょっとそれが俺を苦しめているわけなのだが。
「ごめん」
それしか言えないのが辛いところだ。すると、千晴はなんだか急に頬を緩めて、しばらく俺の顔を見た。好きな人の視線に耐えうるほどの度胸を持たないチキンハートの俺は、案の定、顔を伏せた。すると、くすくすという笑い声が聞こえてくる。
「……今日は、罰としていつもより美味しい晩御飯をお願いしますね」
「え。あ、おう! まかしとけ!」
ほんと、俺はいい御主人様を持ったと思う。
腕によりをかけて美味い晩飯を作ることになった俺は、早速スーパーへと自転車を走らせた。
我が愛機、バトルホッパーを出動させないのは、ヤツが排気量50ccの原付で、二人乗り禁止であるからで、まあ、本来は自転車も二人乗りは禁止なわけだが、寛容なる我が陽桜市の警察は、若い男女の自転車二人乗りを笑顔で見送る粋がある。愛機よりも愛しい人との二人乗りを選ぶのは、もはや思春期真っ盛りであろう十七歳にしてみれば、当然の選択だと思う。
「美味しいものを食べたいと言ったのはあたしですから、あたしも行くのは当然です」
千晴がそう言って聞かなかったのもあるが、それに気をよくして、いそいそと自転車を取り出すあたり、やはり俺は喜んでいるのだろう。視線には弱いが、背中の感触を楽しみにしているあたり、我ながらスケベだと思う。
「でも、お家に食材あったはずですけど」
「折角だから、良い肉を使う」
「恵一の腕なら、安いお肉でも美味しいですよ?」
「いや、今の俺なら、良い肉を使えばもっと美味いものを作ることが出来るはずだ」
背中にあたる感触に感動しながら、軽快にペダルを踏んでゆく。バイクの風を切る感覚も好きだが、自転車のなだらかな、まるで風と一緒になる感覚も決して嫌いじゃない。
「……最近ちょっと背中が大きくなりましたね」
「ん、そうか?」
「大きくなったというか、広くなった気がします」
「あぁ、まぁそりゃ一応毎日鍛えてるからな。ちょっとは筋肉ついてきたんだろう」
「……えへへ」
千晴はちょっと甘えた声をだして、ぎゅっと抱きついてきた。
落ち着くんだ、俺。今は二人乗りだし、激しいリアクションとかは駄目だ。ふ、甘えん坊めと思いつつ、変わらぬペースでスーパーにたどり着くのが先決だ。
「あれ、恵一。さっきの角を曲がるんじゃ無かったんですか?」
全然冷静にはなれなかった。
スーパーに到着して、食材を順番に選んでいく。目利きも最近はけっこう上がってきたし、今回は俺としても楽しみだ。贅沢な食事は嬉しいが、贅沢な食材を調理するのもまた、嬉しいのだ。
「今度の休みはどうする?」
千晴と世間話をしながら、野菜コーナーを見て回る。
「そうですね。お小遣いもちょっと苦しくなってきたので、お家で遊ぼうかなって思ってました」
「おいおい、足りないなら足りないって言えよ。一応、形式的に決めて毎月渡してるけど、元々は千晴の金なんだし」
「駄目ですよぅ。そういうのはきちんと守らないと。それに、恵一だってお給料上がるの、一度は断ったって芦田さんが言ってましたよ?」
「それは十分に足りてたからだ。つか、余ってるぐらいだな。バイクもゲームも買ったけど、一月分の半分すらまだ手つかずだぞ」
「あたしも、今月は遊ぶにはちょっと心許ないだけで、手つかずのお金もありますし、貯金もしてますよぅ」
中高生とは思えない堅実な生活自慢になってしまっている。大財閥の令嬢が月々の小遣いから少しずつ貯金をするというのも、少し違和感があるな。テレビでセレブとかの生活や、馬鹿お嬢の浪費癖とかを特集していると、同じ金持ちのお嬢であるはずの千晴の堅実さとか、計画性とかには恐れ入る。ちょっと背伸びしてアクセサリーとか、オシャレとかをしてもよさそうなものなのに。
「ちょっとは贅沢してもいいんだぞ。それだけの金は渡されてるんだ」
「ええ……あまりそういうのは得意でなくて。あ、でも。石鹸だけはいいのを使わせてもらってますよ」
「石鹸って、風呂場の石鹸か。確かになんかオシャレな石鹸だよな」
「実は、あれってけっこうなお値段です」
ちょっと値段を聞いてみる。そしてそのまま、俺は石鹸売り場にダッシュした。
「……俺、実はアレをがっつり使ってました。すいませんでした」
「え、いいじゃないですか。すごく肌にいいんですよ?」
「いや、そんな大層な石鹸だとは知らず、洗面器にお湯張って放り込んで、手でシャボン玉作ってました」
「……贅沢なシャボン玉ですね」
確かになんか割れにくくて、調子に乗って風呂場をシャボン玉だらけにした記憶がある。
「すまんかった。今度買っておく」
とりあえず、俺は自分用のお徳用石鹸と、玩具売り場でシャボン玉セットを買い物カゴに放り込んだ。
「使っていいんですけど……シャボン玉にしなかったら。けど、たまにはいいですね、シャボン玉。家に帰ってお庭でやりましょう」
「あ、ああ。そうだな……」
いい歳してはしゃいだのを、年下の女の子に微笑ましく眺められているような気分だ。いや、ような、というかそのままなんだが。
少々の失態は見せてしまったものの、買い物は順調だった。良い肉も買えたし、付け合わせの野菜も、隠し味用の調味料も揃えることができた。千晴は楽しそうに笑っていたし、俺も楽しかった。
だからだろうか。不意打ちのように現れた、あの人に。俺はただただ、呆然とするばかりだった。
「あら、久しぶりね。恵一」
買い物カゴをぶら下げ、レジに向かおうとしたときだった。不意に背中から声をかけられた。女性の声だった。
俺を恵一と呼ぶ女性は、真横にいる千晴と、母親と、涼子ぐらいしかいない。まさか母親の声をわからない筈はないし、涼子の凜とした声とも違う。もっと落ち着いた、艶のある声だった。
「……どちらさんッスか?」
振り返って声の主を確かめてみて、俺は首を捻った。まったく見覚えがない。ロングストレートの黒髪と、ちょっとたれ気味の目。すらっと背が高く、口元は微笑んでいる。正真正銘の知らない人だった。
「あらあら、悲しいこと言うじゃないの。いくら別れたからって。昔付き合っていた女も、忘れちゃうの?」
こいつ、何を言ってるんだ?
昔に付き合っていた女、だと。冗談じゃない。未だかつて俺は彼女がいたことなんてないし、こいつのことも知らない。
「……恵一?」
千晴が、少し震えた声で俺の名を呼ぶ。俺はよくわからないまま、呆然と突っ立っていた。
「あらあら。可愛らしい子ね。弟はいたはずだけど、妹はいないって言ってたし。もしかして彼女かしら。だとしたら、ちょっと間の悪い登場だったかしらね。ごめんね、恵一」
「……いや、その前に多分、人違いだと思う。俺はアンタを知らないし」
辛うじて、それだけを言う。言葉では、そう言っていたが、内心では自分の言葉を疑っていた。
弟がいる。妹はいない。俺の名前と顔が一致している。これだけの情報を揃っている。多分、人違いではない。だが、だとしたら、この女は一体誰なんだろうか。
「ふふ、ごめんなさいね。邪魔するつもりはなかったの。えぇと、彼女のほう、お名前教えてくれないかしら」
ふと、目の前の自称俺の元彼女は千晴に目を向けた。口調も穏やかで、微笑んでいる。千晴は、少々混乱した様子だったが、ふと顔をあげて、向き合った。
「鈴ノ宮千晴と、いいます」
「鈴ノ宮……って、えぇと、あの鈴ノ宮財閥の?」
「……はい、そうです」
「あらあらあら。すごいじゃないの。恵一、どうやってお近づきになれたの?」
「……喋るようなことじゃない。っていうか、ほんとに誰だよテメェ」
段々いらついてきた。わけがわからない。一体、この女は何がしたいんだろうか。百歩譲って俺のことを知っていたとしよう。親の知り合いかも知れないし、健二の知人ということもありうる。それ以外にも、友達の友達という可能性もあるだろう。何らかの形で俺のことを知っていても不思議ではない。しかし、昔の彼女というのだけが解せない。少なくとも、俺の覚えている限りは、俺は誰とも付き合ったことはないし、そもそもまともに恋愛をしたことすら……いや、まあ千晴が始めてというわけではないのだが、誰かに迫られたとか、アタックしたとかいう記憶はない。
駄目だ、段々と頭が痛くなってきた。小難しいことはけったいな友人のせいで聞き慣れているし、考えることも出来るが、いくら考えてもわからないことに悩んでしまう。折角、千晴と二人で買い物を楽しんでいるというのに。
「あ、そうそう。恵一。私ね…」
「千晴、行くぞ」
なおも話を続けようとする女を置いて、俺は踵を返して歩き出した。
「え、あ。恵一、レジは……」
「ナシだ。外で食べる」
スタスタと早足で歩きながら、近くの店員にカゴを突き出して、そのままスーパーの外に出る。
嫌に悲しくなるぐらいの夕焼けが広がっていた。夏に見たときは、燃えるような、力強い夕焼けだったのに。
「け、恵一……待ってくださいよぅ」
千晴が小走りで俺の後をついてきた。さっきの女はいない。流石にぞんざいな態度を取って、
「すまん、千晴。自分でもよくわからねえけど……メシ、美味いところ連れてくからさ、許してくれ」
「それはいいんです。そんなことを気にしているんじゃなくて」
千晴は真っ直ぐに俺を見つめていた。真剣な眼差しだった。
「さっきの人からの言伝です。ごめんなさい、だそうです」
俺は曖昧に頷いて、思わず目をそらしてしまった。
「……さっきの人のこと、本当に知らないんですか?」
「ああ。顔も知らないし、まさかそんな人間と付き合うはずないだろ。見ず知らずの他人で、初対面だ」
「恵一がそう言うのなら、そうなんだと思います。他人のそら似というわけではないんでしょうけど……何だったら、調べてみましょうか。もしも、恵一のストーカーか何かだったら、とても危険です」
「そんなのありえねぇよ。わざわざ俺をストーキングする暇人なんていないって」
「恵一はカッコイイので、あり得ます」
こんなに真っ直ぐにカッコイイと言われたのは初めてで、しかもそれが好きな女の子からの言葉で。
本当なら、こんなに嬉しい話はないんだろうけど、あの訳のわからない女のせいで、台無しだ。
「そ、それよりも……さっきはごめんなさい」
「へ?」
やりきれない気分で、何を言って良いのかわからなくなっていたところに、千晴は思い出したようにがばっと頭を下げた。
「あ、あたし……その、えぇと、け、恵一の、か、彼女って……ひ、否定しませんでした。あの人に、勘違いさせてしまいました」
ふと、先ほどのやりとりが脳裏に浮かぶ。そういえば、千晴は俺の彼女と間違われて、けど、それを否定せずに自己紹介をして。
「……えぇと、まあ、その、なんだ。そう思われても、不思議じゃないだろ」
それだけの台詞がやけに恥ずかしくて、俺は自転車を止めてあるスペースに向かった。
「あ、あぅぅ……ど、どういう意味なんですか〜?」
千晴がぱたぱたと後を追いかけてくる。そんな些細なことが、どうしようもないくらい、幸せだった。
沈んだときには、いつも千晴の存在に助けられている。本人は決して自覚がないのだろうが、その自覚のない一言が、闇の中に差し込む一筋の光になって、俺を導いてくれる。
ただ、やはりそれを素直に喜べないのは。
あの不可思議な女の言葉だろう。名前も顔も知らない、昔付き合っていたという女。
完全に自分の中で否定することが、できたはずだ。全てをタチの悪いストーカーということにしてしまい、全否定もできただろう。ただ、それをしなかったということは。
俺にも、俺自身が気付かないだけで、心当たりがあるのかも知れなかった。