メイドの恋と、少女達
充実した日々というのは、実に短く感じるものだ。
朝、六時に起きて洗濯と朝食の準備を始め、七時には千晴が起きてくるので、一緒にパンを食べる。
八時前に千晴が登校する頃には洗濯物を干し終えており、掃除を始める。大抵は一時間ほどで終わるので、そのまま近所のスーパーへ買い物に出かけて、食材と生活用品を買い込むと、後は自分の昼食を作っているうちに昼になる。
週に三度は戸田先生に料理を習いに出かけ、その足で伊達の道場で汗を流す。それ以外の日は基本的に筋トレと走り込みをしたり、夕飯の下拵えをしたり。それでも時間が余っているときには、ゲームで時間を潰す。洗濯物が乾いているなら当然、取り込んでたたむ。最近は千晴の下着を深く考えずにたためるようになった。ブラがワンサイズ大きくなっていて、ちょっと感動したのはここだけの秘密だ。
千晴が帰ってくるのは、大抵は五時前後なので、その後は二人でゲームをしたり、テレビを観たり、喋ったり。夕飯を食べ終えると、千晴が宿題を始めるので、俺は風呂を沸かして、家の戸締まりやガス栓を確認。ゆっくりと風呂に浸かり、天気予報をチェックして、晴れなら洗濯機のタイマーを翌朝六時半にセットして、余った時間はやっぱり千晴と過ごす。
考えてみれば、夕方から寝るまで、大抵は千晴と一緒にいることになるのだが、なんだかんだとこの生活を続けて今月で半年を迎えることになる。慣れてしまったと言えばそれまでだが、最近は少々意識過剰なのか、距離に悩んでしまってもいる。
まあ、つまり、アレだ。前々からわかっていたこと。否、わかりきっていたことなのかもしれないが。明確に気付いたのは、つい最近のことなのだ。身分の違いもあったし、歳も少し離れていた。近くに居すぎたことも、認めるのを躊躇っていた理由の一つだろう。
それでも、気付いてしまったのは、やはりそれだけ自分の中で彼女の存在が大きくなっていたということなのだろう。
最初はちんまいガキだと思っていた筈なのに。何も知らないお嬢だと思っていた筈なのに。
いざ共同生活を始めてみると、思っていたよりずっと、しっかりと世間を見ていて、自分を持っていて。
少し世間知らずなところはやっぱりあるけど、俺が指摘すると、あっという間にそれを理解する、頭の良い子で。
小学生みたいだと思っていたが、改めて考えると目鼻立ちは整っているし、不覚にも何度も揉んでしまった胸は、それなりの大きさだったと思う。背は低いが、人より少々遅い成長期なのか、最近は少し伸びた。
今まで障害になっていたことが、この半年で全て氷解していった。気付かぬうちに、ゆっくりと。或いは大きな衝撃とともに、あっさりと。
長々と言い訳のように理由を考えるのは、それだけ明確な言葉で表現するのが気恥ずかしく、また、勇気の要ることであったからだ。それでも、やはり隠せぬほどに大きくなった気持ちを、表現せずにはいられない。
伝えたいと思う。今のこの関係がどうなるか考えない筈がない。それでも、メイドとしてではなく、一人の男として、この気持ちは抑えがたく、待ち受ける答えが拒否であっても、伝えなければならないとさえ思う。
俺こと、仁科恵一が。鈴ノ宮千晴のことが好きであると。彼女自身に、伝えたいと思うようになった。
「いってきます」
「おう、いってこい」
朝、千晴を送り出すと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
最近は、千晴と顔を合わせているだけでなんだか落ち着かなくなり、言葉にも詰まるようになった。いよいよ末期症状というやつだろう。
家事に勤しんでいる間や、料理や格闘技を習っている間なんかは集中しているので忘れられるが、やることが無くなると、途端に千晴の顔が脳裏に浮かんでくる始末である。
告白すべきだろう。男として。
仕事も覚束ないというわけではなく、むしろ集中すれば忘れられるから何事にも全力投球ではあるが、気持ちの良い全力投球ではない。俺としては、千晴と結ばれた幸福感から全力投球したいわけで、悶々とした気持ちを発散させて作った晩飯に、愛情が篭もるとも思えない。
だがしかし、やはり告白するからには受け入れられたい。気持ちを伝えただけで満足というのは、俺からしてみれば言い訳や強がりにしか聞こえない。だって、そりゃそうだろう。告白してお付き合いするか、フラれるかでは気分に天と地の差が生まれるのだ。やはり、告白するからには、OKサインが欲しい。
果たして、千晴は俺のことをどう思っているのだろうか。問題はその一点に絞られる。
自惚れとかじゃなくて、嫌われているとはどう考えても思えない。半年間の寝食を共にして、家族のように暮らしてきたが、最初こそ怯えられていたものの、今じゃすっかり仲良しなのだ。これで実は嫌われていたというオチはあり得ないだろう。曲がりなりにもデートだってしたんだし、流石に嫌われてはいないはずだ。
では、単なるメイドとしか思われていない可能性はどうだろうか。これはちょっと可能性がありそうだ。
よもや単なるメイドとデートはしないだろうが、二人で生活をしているという特殊な環境であり、友達感覚という面もある。メイド兼友達という感じで、デートをしたというのは有り得る。名前で呼ばないと怒るというのも、異性としてではなく、友達だからという理由なら辻褄が合ってしまう。合わないで欲しかったけど。
他にも可能性はある。これは友達よりも大きいだけに考えたくもないのだが、兄として見られている可能性である。
他人には兄妹ということになっているし、実際年齢的にも一番それが近い。家族のような生活もあるし、実際に兄が欲しかったという発現すら聞いている。ああ、なんだかこれが正解のような気もしてきた。
いやいや、異性として意識されている可能性だってあるはずだ。やっぱりデートっていうのは異性がするものだし、千晴の様子を見ていると、俺のことが好きなんじゃないかなって思うときもある。いや、それこそ自意識過剰なのかもしれないが、そう思ってしまうものは、そう思ってしまうので、仕方がない。
「……あぁあ、わかんねぇ」
もしかして、意識してはいるけど、まだ好きって段階じゃなくて、もう少し時間をおけばOKってこともありうるかもしれない。そうだとすれば時期尚早だし、とっくの昔に惚れられてたとして、色々サインを出してくれてたのに、俺がまごまごしている間に別の男に気が向いたりしたら、それは後の祭りだ。
女心なんてわかるはずもなく、タダでさえ鈍感と涼子に言われる俺が、千晴の気持ちを考えるだけ無駄なのかもしれない。
いや、待て。だとすれば、だ。もしも千晴の傍にいる女性の意見を聞くことが出来たとすれば、だ……
「やあ、お兄さん」
「うおッ!?」
俺がどうしたものかと一人で悩んでいると、不意に横合いから不敵な声が聞こえた。慌てて声の主を見ると、さきほど見かけた制服を着た少女が、悠然とした笑みを見せて立っていた。
率直に言えば、三人娘の裏ボス、当麻漣がいつもの態度で俺を見ていた。
「てめぇ、どこから入った」
「玄関からに決まっている。何度も呼び鈴を押したが、反応がなかったもので、まさか鍵は開いていないだろうと思ったが、ドアノブを捻ってみるとどうだ。空いているじゃないか。何かあったのかと様子を見に来たのだが、お兄さんが一人で『わかんねぇ』と叫ぶだけで、こちらも意味がわからない。仕方なく声をかけた次第だ」
高木を女にすると、こんな感じなんだろうなと、改めて思う。それよりも、問題は時間である。千晴だってそんなに余裕がある時間に出ているわけではないので、こいつは完璧に遅刻確定である。
「学校は?」
「お兄さんだって行ってないだろうに。私は自主休講だな」
「……そうかよ」
俺はサボりじゃなく、休学の身であるが、それを知ってか知らずか、漣はこともなげに言う。
「まあ、たまにはお兄さんとサシで語るのも悪くないと思っていた。お兄さんにしてみても、私あたりから情報が欲しいと思っていたんじゃないかと思ってな」
「おまえ、ほんとに人間か?」
まったくもってその通りなだけに、こいつが実は宇宙人が作った有機アンドロイドか何かじゃないかと疑ってしまう。無口で無表情なのも嫌だが、こういう妙にアクティブで掴めないという性格も困りものだ。
「私は正真正銘の人間だよ。それも、千晴の親友で、健二の恋人でもある。お兄さんの嘘を見抜くには、これほど相応しい人間も少ないんじゃないかと、我ながら思うのだが」
「……!」
嘘という言葉に、一瞬からだが固まる。そんな俺を見て、漣は愉快そうに笑った。
「無理があったのは、わかっていただろう。私もそれなりに勘が働くほうだし、健二の様子や、千晴の態度。その辺りを見ていればわかることだ。設定にも無理があったしな。概ね、高木さん辺りは気付いていて、協力してくれていたのではないだろうか」
「……なんのことだか」
「健二から小さい頃のお兄さんのことを聞かせてもらったよ。四つ離れているが、それはもう兄にべったりの弟だったらしいじゃないか。とても血が繋がっていないなどと思えない。戸籍謄本まで調べはしないが、間違いなくお兄さんと健二は実の兄弟だ。これは断言できる。だとすれば、千晴とお兄さんはどうなのだろうか。二人で生活をしているからには、それなりの繋がりがあるのかもしれないが、それにしたってお兄さんが高校に行っていないのはおかしい。何らかの制約があるようだ。しかし、千晴と一緒に遊んだりはする。この状態を鑑みて、少なくとも兄妹でないことまではわかった。まあ、最初から胡散臭いとは思っていたが、確証までは持てなくてな」
「……末恐ろしいヤツだよ、お前は」
気付くとしたら漣だろうという気はしていた。それにしたって、まさかここまではっきりと指摘されるとは思っていなかった。
「興味本位だが、詳しい話を聞いて良いだろうか。騙されていた私には、その権利があると思うのだが」
漣はふと真面目な顔をして呟いた。中学二年の女子とは思えぬほどに理知的で、こちらの言動をすべて見透かしているような鋭さがある。その反面、言いたくないことまでは聞こうとしないという態度も見て取れる。こういう、微妙な気の配り方も、とても中学生とは思えない。
「興味本位ってのが、下手な理由よりもよほどいいな」
「勿論、興味本位で知ったことでも、大事なことはきちんと考える。口外しないことを約束してもいい。これでも、口は固いほうだ」
「見てればわかる」
飄々とした態度と、真摯な瞳を併せ持つことの出来る、この中学生女子は、きっと俺よりもよほど精神年齢が高い。高木よりも高いんじゃないだろうか。
「まあ、黙っててくれるんならありがたい。出来れば千晴の力にもなってもらいたい。こちらから提示したい条件としては、その二つだ」
「受け入れよう」
さも当然であるかのように、漣は即答した。
ああ、成る程。こいつは最初からその気だったのかもしれない。興味本位というのも偽りではないだろう。しかし、千晴のためでもあると考えたのだ。より明確に言えば、千晴の理解者になろうとしている。高木が俺の友達であり、理解者であるのと同じように、漣は、千晴の友達と理解者を兼ねるつもりなのだろう。
女の友情というものが、どういうものなのかはわからない。よくよく儚いものだと聞く。けど、こいつらは違うんだ。心の底から相手を友達だと思っていて、信じることが当然なのだ。友達を助けたい、理解したいと思うのが、ごくごく自然なことなんだ。
「わかった。最初から全部話す。長くなるけどいいのか?」
「そのつもりで来た」
「よし、珈琲でも淹れてくるから、その後にな」
珈琲を二人分淹れて、居間に戻ると、何故か人間が増えていた。
「お邪魔してます〜」
「あ、あの。すみません、勝手に上がってしまいました」
のほほんと笑う姫子と、申し訳なさそうにペコペコと頭を下げている巴だった。よもやの三人娘勢揃いである。
「……いらっしゃい」
なんとなく。本当になんとなくだが、こんなことなんじゃないだろうかと思っていた自分がいる。
もともと、こいつらは三人揃って一つみたいな印象があったし、巴も漣に劣らず聡明な女の子である。姫子は方向違いの勘をよく働かせるが、きっと巴と漣の様子には気付くのだろう。千晴のことにも。
「お兄さん、わかっているとは思うが、千晴の力になりたいのは……」
「皆まで言うな。わかってるさ。二人とも、珈琲でいいな?」
「あ、お気遣い無く〜」
「すみません、すみません」
二人の性格をよく反映した態度に、俺は思わず相好を崩した。
漣はとかく、こいつらは学校をサボるような人間ではない。多分、漣がサボろうとしたのを止めようとしたのが巴で、それにくっついてきたのが姫子。俺の家まできて、勝手に上がった漣を止めることも出来ずに呆然としていたが、心配になって今頃ひょっこり顔を出したというのが正解か。
普段なら意地でも止めるようなことだろうが、それをしなかったのは、やはり千晴と俺のことで、何かしら思うところがあったからなのだろう。漣だけじゃない。巴も姫子も、千晴のことを友達と心から信じているに違いない。
そんなことを考えたら、追い返すことも、理由を聞くことも忘れてしまった。千晴は良い友達を持ったんだなと、嬉しい気持ちだけでいっぱいで、他の余裕なんかない。
「ありがとうな」
それだけを言って、俺は追加で二人分の珈琲を用意しに台所に戻った。
三人娘に今までのことを全て話した。
千晴と出会い、メイドと御主人様という関係になり、一緒に暮らすことになって、高木に協力してもらったこと。
対外的には兄妹という関係にして、お互いの友人達を騙していたこと。
さすがに、年下の少女たちに自分の恋心まで語るほどにお喋りな性格ではないので、そこだけは省略させていただいたが、千晴をただの御主人様としか見ていないわけではなく、それ以上の何かがあるということぐらいは伝わってしまったかも知れない。
流石にメイドという単語が飛び出したときに漣が吹き出したが、あとは真面目な顔をして聞いてくれていたのが嬉しかった。
「ってわけでな。今まで、嘘をついていてすまなかった。決して悪気があった訳じゃなかったんだが」
「いえ、そんな事情があったのなら、仕方ないと思います。千晴も、辛かったと思いますし。あの子、嘘つけないから」
俺が頭を下げると、巴が取り繕うように笑顔を見せた。
「必要な嘘、ありますもんね〜」
姫子は暢気な口調だが、いつもからは考えられないほどに大人な感じの言葉をもらした。
必要な嘘、か。確かに、あのときの俺達には必要だった。それは対外的な問題もあったし、嘘でも兄と妹という関係のように振る舞うことで、距離を埋めることができたから。いびつな関係だったが、半年前の俺達は、もともとちぐはぐな関係だったのだから、それもまた必要だったのだ。
「なんにせよ、美味い珈琲だ。これを毎日飲めるのだから、千晴にとって悪い話でもなかった筈だ。お兄さん、珈琲のおかわりを頼んで良いか?」
「もう、そのお兄さんってのもやめてくれないか。千晴の兄貴じゃねえってわかったんなら」
「健二の兄なら、やはり私にとってもお兄さんだな。それとも、義兄と書いてオニイサン、と呼ぼうか」
「……好きにしてくれ」
漣はくすりと笑って、カップを俺に差し出した。
美味い珈琲。最初はけっこう失敗だってしたんだ。うまく豆が膨らまなくて、温度を調節したり。
全部、千晴のためだった。職業意識ってのもあったけど、やっぱりどうせなら美味いのを飲んで欲しかったし。
もしかすると、俺はそのときか既に、千晴のことが好きだったのかもしれない。いや、よくわからねえけど。今、どうしようもないくらい千晴が恋しいと思うから、そう思ってしまうだけなのかもしれないけど、そっちのほうがちょっと気分がいいのも確かだった。
「お義兄さん、顔が赤いぞ」
漣め。そっちのほうも気付いてやがるな。
結局、昼前には三人とも学校に戻った。
「私はフける」
「はいはい。駄目だからね。さっき先生に電話して、午前中だけのお休みだって連絡したから、午後からは出なきゃ」
サボりを続行しようとする漣を、巴が無理矢理引き摺るように学校に連れて行ったのは、やはり三人。いや、千晴も含めて四人か。四人が対等の関係で、精神的に早熟した漣がリーダーというわけではないのだ。
「千晴ちゃんに早く会いたいよね〜」
姫子のこの一言で、漣もつい従ってしまうあたり、やはりそうなのだろう。
俺も午後からはいつも通り、家事に専念して、千晴の帰りを待った。
放課後になった時間ぐらいに、千晴からメールがきて、三人娘と遊んで帰るから遅くなると報告があった。きっと、俺が全てを話したことを、きちんと打ち明けるのだろう。そうすれば、あの少女達の絆はもっと深くなる。
さて、千晴が帰ってきたときに、どんな顔をしているのだろうか。サボった漣たちを引き入れたことを怒るだろうか。全部話してしまったことを怒るだろうか。それとも、嘘を終えたことを喜んで、笑顔で帰ってくるだろうか。
どれにしろ、今夜は千晴と長く喋ることができそうだ。
長らく間が空きました。
元々、筆の遅い人間でして、諸々の事情で書き始めるのに時間がかかってしまいました。
恵一もようやく自分の気持ちに気付いてくれたので、ようやく終点が見えたかな、という感じです。