メイド、修行開始
身体が完全に治ったのは、夏休みも終わりに近づく頃だった。
俺はなまった身体を鍛え直すべく、仕事の合間に筋トレを交えながら、今まで迷惑をかけた分まで、しっかりと千晴に仕えることにした。
「千晴、風呂湧いたぞ」
「あ、はい。入ってきますね」
「背中流そうか?」
「あぅぅ、何言ってるんですか……ヘンタイですよぅ」
「いや、俺はそんなつもりじゃなくて、ただ世話になったから……」
「あ、あぅぅ。じゃ、じゃあ、水着で……」
「あ、そっか。裸は不味かったな」
尽くすにも一苦労だな。
さて、俺と千晴の風呂場での背中の流し合いについて多くは語るまい。別にやましいことをしたわけではなく、逆に何も起きなかったからだ。
強いて言うならば、千晴のスク水姿にちょっと嬉しくなって、丁寧に背中を流した結果、千晴も俺の背中を流してくれた。ハートウォーミングと言うか、ほのぼのした出来事だった。毎回水着を着るのも面倒だし、千晴がけっこう照れていたので、当分やることがないだろうが。
そんなこんなで、夏休みは瞬く間に過ぎていった。今日から新学期。九月の一日である。
千晴は夏休みの宿題を引っ提げて登校していった。俺はいつものように、洗濯と掃除を済ませて、他にも雑務をこなす。昼飯を適当に掻き込むと、いそいそとヘルメットを被った。
「行くぜ、バトルホッパー」
我が愛車二号機。オートバイ。いや、原付だが。
スクーターじゃないので荷物はあまり搭載できないが、快適な走りが楽しめる。
「行くぜー」
慣らし運転はしてあるので、落ち着いて出発。
普段は自転車でひいこら言いながら走っている道が、瞬く間に流れすぎていく。
「やっぱバトルホッパーは最高だな」
風に身を任せるように走る。無論、制限速度は守っているぞ。こんなところで捕まったらシャレにならないからな。
十分ほど市街地を走り、少し大きな家が見えてきて、俺はバトルホッパーを停めた。表札の字を確認する。
「戸田……と。間違いないな」
軽く咳払いして、呼び鈴を押す。しばらくして、品の良い女性の声がスピーカーから聞こえてきた。
『どちら様でしょうか?』
「先日、電話した仁科です」
『あら、主人がいつもお世話になっています。今、開けますね』
がちゃりと、玄関のドアが開く。気のよさそうな老婦人が、笑顔で出迎えてくれた。
何を隠そう、この人。戸田のおっさんの奥さんで、料理教室をやっているという、戸田夫人である。
「さぁさ、お入りください」
「ども、お邪魔します」
俺は戸田夫人に誘われるがままに玄関に入り、台所に案内された。
けっこう広いシステムキッチンで、長年使っているようだが、小綺麗に整理されてある。
「お若いと聞いていましたが、ほんとに若いのねぇ。それで、料理を習いたいって聞いているのだけど……」
「はい。月謝のほうはきちんと支払います。我流でやってきただけで、初心者なので、是非一からよろしくお願いします」
そう。俺が免許を取ろうと決心した理由。それがこれだ。
戸田夫人のレシピは、非常に重宝した。初心者にも解りやすい、丁寧なレシピを作った本人に、是非料理を習いたかったのだ。千晴は今のままでいいと言ってくれたが、俺としては、これから先に、もっと美味いモノを食わしてやりたい。
料理本を買ってみたが、書いてあるのはレシピだけ。それに、やはり先生がいてくれたほうが心強い。戸田夫人が頭に浮かんだ瞬間、これしかないと決めたのだ。
「事情は聞いています。大切な人に、美味しいものを食べて欲しい。そんな気持ちがあるのですね。私で良ければ、喜んで教えさせてもらいます」
戸田夫人は上品に微笑み、それでは早速、とエプロンを身につけた。俺も持参したエプロンを取り出し、身につける。
「では、最初に包丁の持ち方など、基本的なところから見ていきますね。初めてらしく、カレーを作りましょうか」
よし、やってやる。
「……あらあら、それでは力みすぎですね。食材が傷んでしまいます」
「こんな感じですか?」
「それだと、力が入らないですよ。いいですか、こうして、無駄のない包丁捌きを心がけます」
「成る程……っとと……」
「そうそう、筋は悪くないですよ。自己流でも二ヶ月も包丁を握っていただけありますね。下手な主婦より上手いぐらいです」
「ありがとうございます」
「あら、一つの食材を終えたなら、包丁は軽くゆすぎましょう。これも基本ですよ」
「は、はい」
戸田夫人。否、戸田先生の料理指導は一時間に及び、あっという間にカレーが出来上がっていた。
味見をしてみると、なるほど、確かに今までとは少し違う。食材の切り方一つで、ここまで違ってくるモノなのか。
「タッパに詰めておきましたよ。それでは、次は二日後ですね。仁科さんはとても教え甲斐がありますので、楽しみにしています」
「ありがとうございました。これからもよろしくお願いします!」
俺は戸田先生からタッパを受け取り、再びバトルホッパーにまたがる。次に目指すは、伊達の家だ。
伊達の家は、戸田先生の家からさらに十分ほど離れたところにある。これまた大きな屋敷だった。
呼び鈴を押すと、半日授業だった伊達がひょっこり顔を出した。道着姿である。
「やあ、待っていたよ。さあ、早速始めようか」
「おう、頼むぜ」
俺は伊達に案内して貰い、家の裏にある道場に入った。
高校にも道場はあって、三十人ほどが一斉に竹刀を振ることが出来るほどの大きさだったが、ここはさらにその倍ほどの大きさがある。
時間が早いこともあってか、誰もいなかったが、綺麗に掃除されてある。
「先日の喧嘩で、己の無力さを感じたようだな」
「ま、ぶっちゃけそういうことだ。最低限、千晴を守るだけの力は欲しいからな」
「よし、じゃあ基本から始めるか。運動神経は悪くないし、そこそこ鍛えてあるみたいだな。俺が教えるのは、格闘術の中でも、護身術の類。メイドたるもの、攻めより守りが重要だろう」
「ああ。別に無意味に強くなりたいワケじゃない」
「目的意識があるなら、それに越したことはない。じゃあ、まずは受け身からだな。これができないと、満足に練習も出来ない」
伊達の言葉に頷いて、受け身の練習を始める。
柔道の授業で基本を習っていたので、ある程度はできるが、それでも伊達の投げは鋭く、ギリギリ受け身を取れるか取れないかというレベルである。何度かモロに背中から落ちて、息が出来なくなった。
「ヘバると追撃が来るぞ。すぐに立ち上がれ」
「っくそ!」
「そうそう。よし、まだまだ行くぞ」
「よっしゃ、こい」
これまた、さらに一時間。気付けば全身アザだらけで、身体が軋むように痛くなっていた。それでも伊達の教え方は上手く、確実に受け身の技術が上がった実感はあった。
「受け身はここまで。最後に、軽く組み手をするか。本気でかかってきていいぞ。こちらは手加減する」
少しの休憩を挟んで、伊達がにやりと笑いながらそう言った。
組み手か。伊達相手に通用するとは思えないが、やはり俺も男であり、それなりの自負はある。ちょっと楽しみなのが本音だ。
「よし、行くぞ。てぇい!」
軽く構えて、まずは一発。しかし、すんなりと伊達に避けられた。
「ふん、そんな大振り当たらない。パンチはもっと小刻みに打て」
「ハッ!」
「ジャブは手数も重要だ。もっと数を出せ」
「せぃ!」
「ストレートは戻す早さが重要だ。振り抜かずに、すぐ戻す!」
「でぇあああっ!」
「蹴りはモーションがでかい。不用意に放つと、ほらこのとおり」
「ぐぇっ!?」
「足払い一つで簡単にコケてしまう。ああ、受け身も忘れているぞ」
「くそ……」
「まあ、一朝一夕で身に付くモノでもないさ。今日はここまでにしよう。千晴もそろそろ帰ってくる頃だ」
流石に、まだまだ伊達には遠く及ばないか。赤子の手を捻る以前のレベル差だった。
「お、おう。じゃあ、ほんとにコレでいいのか?御礼ならちゃんと……」
俺は先ほど作ったカレーを取り出して、伊達に渡す。伊達はうむと頷いて、笑顔でタッパを受け取った。
「友達の力になるのは当然のことだからな。それに、母親が父親について世界中を飛び回っているので、飯が悩みの種だった。週に二日の夕飯が浮くのは助かる」
「ま、俺としても助かる。段々上手い飯に変化していくはずだ」
「ほう、それは楽しみだな。では、こちらも気合いを入れて教えるとしよう。自主トレーニングも欠かさないようにな。基本は身体だから」
「わかった。じゃあ、また明後日によろしく頼む」
俺は伊達に挨拶して、再びバトルホッパーにまたがる。よし、この時間なら千晴はまだ帰ってきていないはずだ。
帰宅後、慌てて洗濯物を取り込んで、夕飯の準備を進める。よし、これでバレずに済むだろう。
「ただいまですー」
「おぅ、おかえり」
千晴が帰ってきて、ぱたぱたと台所にやってくる。
「恵一、お手伝いすることありますか?」
「いや、今日は大丈夫だ。とりあえず着替えてこい」
「あぅぅ〜、無理しないでくださいよ?」
千晴は少し心配そうに俺を見る。俺は料理の手を止めて、千晴の頭を撫でてやる。
「無理なんざしてねえよ。困ったときはちゃんと千晴に頼むからさ」
「……わかりましたけど……恵一、カレーの匂いがしませんか?」
千晴の言葉にドキリとなる。千晴は不思議そうに俺を見て、さらに、
「そういえば、あちこちアザも出来ています……喧嘩、したんですか?」
「い、いや。喧嘩なんてしてないぞ。ちょっと、カレー粉使おうとして、転んだだけだ」
「……まだ、完全に復活してないですよぅ。わかりました。あたし、お風呂掃除してきますね」
「あ、いや、いいって。後で俺が……」
「駄目です。御主人様命令ですよぅ。恵一は大人しくすること」
千晴はそれだけ言って、自分の部屋に上がっていった。そしてすぐに着替えて戻ってくる。
「御夕飯は期待してますから、頑張ってくださいね」
暗に、夕飯にだけ集中しろと言っているのだろう。まったく、初日からこれじゃ思いやられる。もっとちゃんとした言い訳ぐらい考えておかないとな。
別に、隠す必要はないのかもしれない。千晴は許してくれるだろうし、そっちのほうが動きやすいだろう。だが、同時に千晴は今以上に俺に対して遠慮をしてしまうだろう。それじゃ、俺が料理を勉強して、身体を鍛える意味も無くなってしまう。
いつからだろうな。ここまで千晴のことを考えて動くようになったのは。今や、千晴のために何かをするのが、俺の生き甲斐みたいに思えてくる。
「……メイドの鑑だね、我ながら」
とりあえず、早速戸田先生に教えてもらった野菜の切り方を実践してみるとするか。
今夜はカレーにしよう。
久方ぶりの更新です。お待ちしていた皆様、遅れてしまい申し訳ありません。
のべ読者数が二万人に近づいており、我ながら驚きです。今後共に頑張って更新していきますので、よろしくお願いします。