メイド、当分戻らぬ学園生活
「―――馬鹿」
涼子の、呆れたような声が頭の上から聞こえた。
「……あー」
「あー、じゃないわよ。しっかりしなさいよ」
「……おー」
ぐわんぐわんと揺れる脳みそが、言葉にならない声を出させる。
「本当に、馬鹿なんだから」
涼子の冷たい手がそっと額に当てられた。どうしてか、妙に気持ちがいい。
「……すまん」
「いいわよ、別に」
素っ気無く呟かれた涼子の言葉は、懐かしく、温かかった。
*
なんと言うことは無い。涼子の手を取って教室を出たは良かったが、一日働き通した身体が急に文句を言い出して、一瞬力が抜けただけのことだ。ただ、それが階段を降りる最中だということが、大いに災いした。
幼稚園以来である。階段から転げ落ちたのは。
「あー、みっともねぇ」
ようやく落ち着いてきた頭を微かに動かす。途端、鈍痛が走った。
「ぐぬぅ」
「馬鹿、無理しないの」
「いや、後夜祭が……」
「いいわよ。それより、ほら」
ぺたんと腰を降ろした涼子が、俺の頭を太ももに乗せてくれた。膝枕というやつである。
「……しばらく、休んでないと」
「お、おう」
後頭部から伝わる温かさが、少し歯がゆい。男とは明らかに違う、柔らかさというか、なんというか。
「ほんと、わりぃ。サボらせちまった」
「諦めてたし、いいって。自分の心配しなさいな」
涼子が苦笑して再び俺の額に手を当ててくれた。打ち付けたのは左側頭部であるが、額から癒されるような気がする。痛みも、少しずつ引いていっているようだ。
「ふふ、そう言えば恵一、お化粧は落としてなかったよね」
「げ、そうだっけ?」
「はっきり言って、かなり変」
自分で化粧しておいて、よく言ったものである。
「どのみち、人前に出れるもんじゃないのよ」
「―――ああ」
そうか。それが言いたかったのか。まったく、遠まわしに気をつかってくれるとは。本当に情けない限りである。エスコートすると言っておきながら、介抱されるなんて、まるっきり逆ではないか。
「ぐ…ぬ」
「ちょ……やめなさいって」
止める涼子の声を無視して、無理やり身体を起こす。鈍痛が頭をがんがんと鳴らせるが、気にせず一気に立ち上がった。
「ふぃぃ……OK、もう大丈夫だ」
まだ多少痛むが、気をしっかりと持てば普段と同じように動くことが出来る。膝枕は少し名残惜しいが、それ以上に気恥ずかしいのだ。恋人にしてもらうなら兎も角、親友に膝枕というのは、かなり自分の中で違和感がある。もっとも、恋人なんぞいた例がないので、そんんな感じだろう、という感覚ではあるのだが。
「……よし、もう平気だ。気を取り直して行くか」
「もう遅いわよ。ほら、音楽鳴り出したでしょう?」
曖昧に微笑んだ涼子は、階段に腰を降ろした。
「もういいわよ。今日は恵一も頑張ったんだから、疲れてたのよ。無理はしないほうがいいの」
むぅ。なんというか、ますます情けない。今頃、皆は楽しく踊っているだろうに、俺は涼子の相手役を務めるどころか、足手まといになっていしまっている。
「あはは、そんな顔しないの。そうねぇ、じゃあさ、ここで踊ろうか」
悪戯っぽく笑って、涼子が立ち上がった。
「ここなら、音楽の聞こえるし、ね」
「……そうだな」
階段の踊り場で、踊る―――か。洒落がきいていて、いいかもしれない。多少狭いが、二人で踊るのには十分だろう。
「それじゃあ―――涼子、俺と踊ってくれるか?」
こほん、と咳払いを一つ。一応の礼儀として、紳士的に尋ねる。敬語にすべきかとも思ったが、そこまでするとなんだかうそ臭くなるのでやめておいた。涼子はにっこりと笑って「喜んで」と呟いてくれた。俺はグラウンドから流れてくる軽快なメロディにあわせて、涼子に向かい合った。
「そういえば、どういうふうに踊るんだ?」
「―――馬鹿ね、それも知らなかったの?」
「普通の高校生男子は知らん。オクラホマミキサーかと思っていた」
普通、後夜祭と言えばオクラホマミキサーが定番だ。しかし今流れているのはどこかで聞いたことがあるものの、名前も踊り方も知らない曲である。クラシックのようでもあるし、ジャズのようでもあるのだが、音楽には疎いのでよくわからない。
「……オクラホマミキサーのでいいわよ」
涼子がくすりと微笑んで、手を差し出してくる。それをそっと掴んで、軽く一礼する。
「そういえば、オクラホマミキサーも踊れなかった」
「どうしようもないわね。じゃあ、言うとおりにしなさい」
いよいよ涼子はおかしそうに笑って、曲にあわせてリズムをとりだした。
軽快なメロディに身を委ね、涼子の指示に従いながらステップを踏む。そう難しいものではなく、二、三回踊ると、覚えてしまった。
「飲み込みは早いわね、相変わらず」
ようやく普通に踊ることが出来たのか、涼子は楽しそうに言った。俺も涼子に遅れを取らないよう、リズムに合わせて軽く涼子の腰に手を添えて、ステップを踏んだ。間近に顔が近づき、吐息がかかる。
妙に、胸が高鳴る。なんとも形容しがたい、もやもやとしたものが心のそこから湧き出てくるような感覚がした。
「……なんか、私たちが踊ってるって、変な感じよね」
「ああ、なんか変だな」
お互い、現状をよく理解していない。否、わかろうとしていないのだと思う。親友だと思っている女の子の腰に手を添えて、抱き合うような格好で踊る。ごくごく普通に考えるならば、これはつまり、華の高校生男女が二人きりで身を寄せ合っているわけである。
「……」
「……」
黙々と、目を合わせずに俺達は踊った。
薄暗い廊下で、外の喧騒を遠い世界のことのように思いながら。
自分が今何をしているのか。誰と、何を想いながら身体を動かしているのか。それすらも判別できないようになっていく。
次第に音楽も気にならなくなり、踊りも最早身を寄り添うだけの、ステップも何もないものになっていた。
「……恵一」
なんとなく、ただ身体を揺らせるだけの動作の中で、涼子がぽつりと呟いた。
「なんかさ、ひっかかると思ったんだ」
大きな溜息と一緒に、涼子が苦笑する。ふと、繋がれていた手が解かれ、身体も離れた。
「心ここにあらず。私と踊ってるのに、ずっと、別のこと考えてたでしょ」
その一言にはっとなる。確かに俺は何を考えていいのかわからなくなっていたが、目の前で寄り添っていた涼子のことまで完全に忘れてしまっていたような気がする。涼子と踊っているから考えが追いつかなくなったのでなく―――。
「千晴ちゃんのこと心配?」
「!」
千晴―――御主人様。そう言われてみれば、確かに御主人様のことを考えようとしていたのかもしれない。教室に残ったきり、御主人様には会っていない。今は何時だろうか。御主人様はどうしているのだろう。
「まったく、そんなに心配ならそう言いなさいよ。なんか一人で踊ってる気分だったんだからね」
「あ、ああ。すまん」
けらけらと笑う涼子に、とりあえず頭を下げる。なんだかんだで、こいつにも心配させてしまったようだ。
「ほら、もう後夜祭も終わりよ。参加してたのなら、グラウンドにいるはずよ。行ってきなさい」
「でも、涼子は?」
「私は着替えるから。ああ、恵一も顔だけは洗っていきなさいよ。不気味なんだから」
それだけ言って、涼子は階段を上っていってしまった。仕方がない。御主人様も心配なので下に降りることにした。
グラウンドは既に宴の後らしく、残っている生徒も少なかった。その中でひときわ背の高い高木を運良く見つけたので近寄る。
「高木、御主人様は?」
「ん、ああ仁科か。千晴ちゃんなら校舎の影で巴ちゃんと待っているよ。漣ちゃんと姫子ちゃんは、漣ちゃんの兄が送ってくれるそうだ。僕も後片付けを切り上げる。一緒に帰るとしよう」
「わかった。俺は御主人様のとこに行ってる。後で来てくれ」
それだけ言って、高木が言っていた校舎の陰になっているところへ向かう。校舎沿いに歩くと、すぐに御主人様と巴が座っているベンチを見つけることが出来た。
「おう、どうだった?」
声をかけるが、二人からは何の返事もない。む、放っておいたので嫌われてしまったか。
「おーい、ほっといて悪かった。ささ、帰るぞ」
「……」
「……」
反応なし。さてはいよいよ愛想をつかされたとか。
考えてみれば、きちんと面倒見るつもりで連れて来たのに、最後の最後で涼子と二人で踊ってしまったわけだから、怒っていて当然なのかもしれない。久しぶりに高校に来て、仕事を忘れてしまうとは何たる不出来なメイドだろうか。我ながら情けない。
「機嫌治してくれって。俺が悪かった。明日は頑張って美味い飯にするからさあ」
「ふむ、ならば僕もお邪魔しようか」
「ぬぁっ!?」
気がつくと横に高木が立っていた。相変わらず神出鬼没である。
「仁科。二人とも寝ているだけだ。よほど疲れたのだろうな。巴ちゃんは教室でも寝ていたし」
「ん、ああ。寝てたのか。そりゃ反応ないよな」
俺としたことが、寝てる人間相手に何を真剣に謝っていたのだろうか。急に恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「気にするな。それよりも連れて帰らなければな。戸田さんたちは帰ってしまったのだったな。起こすか?」
「んにゃ、おぶって帰ろう。今日は俺に付き合せちまって、随分恥ずかしい思いまでさせちまったからな」
正直、御主人様の寝顔を見るのは始めてである。なんというか、無垢というか、純真というか。兎に角こう、壊したくないのだ。
「ふむ、では僕は巴ちゃんを任されようか」
「襲うなよ」
つい、口が出てしまった。てっきり高木は怒るかと思ったが「まさか」と呟いて、
「妹を襲う趣味はないんだ。残念ながら」
さりげなく、そして優しく巴を見た。
「……高木?」
「君が言ったのだろう。巴ちゃんの兄に僕を推すと。天橋までその気になって……やれやれ、タイプの女の子だと思ったら、兄になってしまったよ」
タイプだったのか。天橋と巴は全然違う感じなのだが。
「付き合ってると言えど、タイプの女性とは限らないものだ。それにタイプだから必ず好きになるというわけでもないだろう」
高木は巴の頭を軽く撫でると、そのまま軽く揺さぶり、半目を開けたところで自分の背中に掴まる様に指示した。巴はまるで吸い寄せられるように高木の背中に寄りかかり、そのまま無事背負われた。
「ほら、御主人様。掴まれ」
俺も軽く御主人様を揺さぶって背中を向ける。御主人様はうっすらと意識を取り戻したらしく、さりとて判別はままならないらしく、巴同様、特に何の支障もなく背中に寄りかかってきた。腕を肩に乗せ、足を脇に挟んでバランスを取りつつ立ち上がる。
「あぅぅ……お兄ちゃん……」
御主人様の寝言が、ふと耳を掠めた。ただでさえ御主人様の寝息が首筋にかかって、こそばゆいというのに。柄にもなく俺は照れてしまい、取り繕うように高木に目を向けた。高木はにこりと笑って「君はただのメイドじゃないんだよ」と、一言だけ呟いた。
「―――ああ、ここにいるぞ。千晴」
俺はそれだけ呟いて、高木と共に学校を後にした。
背中には、そう。それぞれの血の繋がらない、けれど大切な妹を乗せながら。