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 第十六章~終章

   第十六章


その日から、三樹夫はパソコンと向き合う時間が多くなった。

ともかく時間があれば、カチャカチャとキーボードを叩いていた。

午前中の儚生流月と呼吸法の練習。水曜日の午後の呂明亮の針治療以外はほとんど提供してもらっている和室の部屋に隠りひたすらパソコンを打っていた。

画面に向かってやたらと「うーん」とか、「やっぱり違うか」とか独り言を呟いてはまたキーボードを叩く。

「うーん、難しいな」

 大きな溜息を吐きながら三樹夫が背伸びをした。

「田島さん、ちょっといいですか?」

障子越しに儚生流月の声が聞こえた。

「あっ、はい。どうぞ」

「失礼しますよ」

 儚生流月が静かに障子を開いて入ってきた。

「昨日はありがとうございました。妻も本当に喜んでいましたよ」

 儚生流月が頭を下げた。

「気に入っていただけたなら何よりです」

「妻も私もクリスマスプレゼントなんて、もう何十年ももらっていませんでしたから本当にうれしいですよ。ありがとうございました」

三樹夫が笑顔を溢した。

「ところで田島さん。今、私に加藤さんという方から電話がありまして」

 三樹夫の表情から笑顔が消えた。

「貴方の事を聞かれました」

三樹夫が様子を窺うように儚生氏を見つめた。

「何か、言ってましたか?」

 三樹夫が視線を落とした。

「貴方が私の所に来たか、もし、今の貴方の居所を知っているなら教えて欲しいと」

「で、先生はなんと?」

「そのまま答えましたよ。私の家に居ることも、週一度呂先生の鍼治療を受けていることも、そして今体調が凄く良いことも言いました」

「そうですか、ありがとうございました」

「身体の調子が良いことを話したら、泣いておられましたよ」

「そうですか」

 一瞬春美の切なそうにしている顔が脳裏を過った。

「明日、お嬢さんを連れてここに来るそうです」

 儚生流月の言葉は三樹夫の予想していたとおりのものだった。

「御迷惑をお掛けいたします」

 三樹夫が深々と頭を下げた。

「田島さん」

「はい」

「余計な事だとは思うのですが、貴方が家に戻られないのはこの女性が原因なのではないですか?」

 三樹夫が苦渋に満ちた表情を儚生流月に向けた。

「先生」

「申し訳ない。失礼な事を聞いてしまったようですね」

 儚生流月が頭を掻いた。

「御迷惑でなければ、私の話を聞いて頂けますか?」

「構いませんよ」

 そう言って儚生流月は微笑んだ。

 そして、三樹夫は自分の過去のすべてを儚生流月に語り始めたのだった。


「私もそうですが、男という生き物は本当に不器用ですね」

 三樹夫の話を聞き終えた儚生流月が重苦しく呟いた。

「特に惚れた女の前では、本当に男は素直じゃなくなる。何故なんでしょうね?」

 儚生流月が珍しく溜息を吐きながら静かに呟いた。

「先生」

「少し、酒でも飲みますか?」

「えっ?」

 三樹夫が信じられない顔つきで儚生流月を見つめた。

「ほんのちょっとだけなら大丈夫ですよ」

 儚生氏はそう言ってニヤリと微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。

「今、用意してきますね」

 それから十分程して、儚生流月は熱燗を一本とお猪口二つ。小鉢に漬物を入れて戻ってきた。

 それを手際良くテーブルの上に乗せると

「さあ、どうぞ」

 と徳利を三樹夫に傾けた。

「本当にいいんでしょうか?」

「昔から酒は、百薬の長と言うじゃありませんか」

 三樹夫に注ぎ終えた儚生流月は、さっと自分のお猪口にも酒を注いだ。

「乾杯」

 と儚生流月がお猪口を顔の前で軽く持ち上げ、それをあっという間に飲み干した。

 その様子を見ながら、恐る恐る三樹夫もお猪口から一口だけ口に含んだ。

 舌の上で甘辛い上質な酒の味が広がり、ゴクリと飲み込むと同時に酒の温度が喉からゆっくりと胃袋へと染み渡ってゆく。

「美味しいです」

 三樹夫がしみじみと呟いた。

「こんなに美味しいお酒は、生まれて初めてです」

「それは、良かった。さあ、どうぞ」

 儚生流月が、再び徳利を三樹夫に傾けた。

「田島さん」

 ゆっくりと儚生流月が酒を注ぎながら三樹夫を見つめた。

「はい」

「変な例えですが、貴方は自分が癌になって当然酒を止めましたよね」

「はい」

「酒は体に悪い。そういう思い込みで酒を断った」

「はい」

「でも、どうです。体には良くないと思っても、こうして久しぶりに飲むと本当に美味く感じられるでしょう」

「はい」

「その美味しく感じられるのは、久しぶりに飲むからだけではないんですよ。田島さん」

 三樹夫が静かにお猪口を置いた。

「どうぞ、飲んで下さい」

 三樹夫が再びお猪口に口を付けた。

「どうですか?」

「美味しいです」

 儚生流月が大きく頷いた。

「それは、酒を飲むという覚悟が決まっているから美味しいんですよ」

「覚悟?」

儚生氏もまた一口酒を飲む。

「癌になってしまったから……」

 また酒を飲む。

「その思い込みだけで、貴方は自分自身に嘘をつき、酒を断ったのと同じように自分の愛している女性からも遠ざかった」

「先生」

「酒を飲んで美味しいと感じられるのは、酒に接したからです。貴方のようにただ、自分の愛している女性からも逃げてしまっては、その人の本当の想いはいつまで経ってもわかりませんよ」

 三樹夫は儚生流月のその言葉に強い衝撃を受けていた。

「確かに、自分の愛する人が他人の妻であるならば、その感情は当然表に出すことは出来ないでしょう。しかし、愛する人にすべてをさらけ出す覚悟さえ出来ていれば、例えその想いを表に出す事が出来なくても心はきっと通じ合うはずです」

 三樹夫は言葉が出なかった。

 頭から冷水を浴びたような気分であった。

「ああ……」

とようやく呻く様に声を漏らした。

「先生……ありがとうございます」

 項垂れた三樹夫の瞳から涙が零れ落ちていた。


 翌朝、三樹夫はいつものように六時に起きるとき三十分程散歩して儚生氏の部屋を訊ねた。

「昨日は本当にありがとうございました」

「よく眠れましたか?」

「はい」

「どうやら決心が付いたようですね」

「本当に先生には何から何までお世話になりっぱなしでした」

 儚生流月が微笑んだ。

「先生と飲んだお酒の味は一生忘れませんよ」

 三樹夫も微笑んだ。

「今度またゆっくりと飲みましょう」

「ありがとうごさいます」

「田島さん」

「はい」

「貴方が今回、加藤さんを傷つけたくないとの思いでこのような事をしたのも良くわかります。でも、もしこのままの状態を続けていたら、もっと彼女を傷つけていたでしょうね」

「はい」

「男は実に身勝手な生き物です。そして、知らず知らずに女性への考え方、その想いも男は身勝手な解釈をしてしまう。しかし、女性はそんな男の身勝手な解釈などどうでもいいんです。

 私が思うに女性がいつも男に求めるのは、どれだけ真剣に自分をみてくれるか。それだけだと思うんです」

 儚生流月の言葉を聞きながら三樹夫は妻の美佐子の事を思った。

「そうですね」

「田島さん」

 儚生流月が三樹夫の顔をじっと見つめた。

「男と女は、いつの時代も間違いながら生きているんじゃないんでしょうか?」

 三樹夫が笑った。

「私だって妻に対しては、結局の所、何もしてやれていないと思います。ただ、私は自分が愚かで駄目な人間である事を妻には隠したりはしません。儚生流月という男が存在できているのは妻の支えがあるからです」

「やっぱり、先生は凄い人です」

「いいえ。私が凄いのではなく、妻が凄いのです」

 二人が大声で笑った。


 そして、その三時間後。

 三樹夫は約二ヶ月ぶりに春美や羽純と再会したのであった。

 十二畳程の和室に長方形の座卓が置かれている。

 その座卓を挟むように三樹夫と儚生流月。三樹夫の正面に羽純。儚生氏の正面に春美という順に座っていた。

 ただ羽純だけは座椅子が用意されており、それに背を預ける形となっている。

 羽純のお腹はすっかり大きくなっており、始めてそれを見た三樹夫は複雑な思いを隠す事が出来なかった。

 羽純と春美も三樹夫がこれ程元気でいられる事を想定していなかったようで、かなり戸惑いのようなものが見られた。

「しかし、たったの二ヶ月見なかっただけで、これ程大きくなるもんなんだな」

 三樹夫がしみじみと呟いた。

「竜也さんのお母さんのおかげで凄く順調なのよ」

「本当にありがとうございます」

 三樹夫が深々と頭を下げた。

「田島さんも本当にお元気そうで安心いたしました」

 春美が何かに耐えるような表情を浮かべながら呟いた。

「それは、こちらにいる儚生先生のおかげなんです」

「父がお世話になり、本当にありがとうございました」

 羽純が礼を述べながら小さく頭を下げた。

「いいえ。私は本当に何もしていないんですよ。すべては田島さんの努力の賜です」

「儚生先生と、呂先生がおられなかったら、今頃私は生きて娘にこうして会える事は出来なかったでしょう。あっ、呂先生というのが、私が一週間に一度鍼治療をうけている先生でね」

三樹夫がチラリと視線を春美に送った。

「この先生がまた凄い人なんだ。私が箱根に来たばかりの頃宿で癌の痛みに苦しんでいたら一発で痛みを止めてしまったんだよ」

三樹夫が少し興奮気味にその様子を語った。

その話を聞きながら春美の表情がどんとんと険しいものへと変わってゆく。

「田島さん」

 春美が険しい表情のまま語気を荒げた。

「やはり、そのような身体の状態で、家族のものが近くに居られないというのは本当に心苦しくてなりません。羽純ちゃんだって口には出さなかったものの、この二ヶ月はずっと心配していたと思うの。そういう心労は当然胎教にも良くないと思うわ」

「そうですね。本当に羽純にも加藤さんにも御迷惑をお掛け致しました」

「帰ってきて、お父さん」

 羽純の視線が三樹夫に刺さった。

 三樹夫が小さく、数回頷いた。

「本当?」

「ああ」

 三樹夫が微笑みを浮かべながら答えた。

「ただし、病院ではなく、家の方に帰る。それから週に一度の呂先生の鍼治療は続けさせてもらう」

「はい」

 春美が安堵の表情を浮かべながら答えた。

「羽純は今までどおり、加藤さんの家に居させてもらいなさい。宜しいでしょうか?」

「もちろん、構いませんよ」

 春美がようやく微笑みを三樹夫に向けた。

「ありがとうございます」

 三樹夫も微笑んだ。

「先生」

 三樹夫が改めて儚生流月に向き合い、手を付いて頭を下げた。

「先生にはどんなに感謝しても感謝仕切れません。先生のおかげで生きることが出来ました」

「よして下さいよ。田島さん」

 儚生流月が照れくさそうに頭を掻いた。

「貴方のその真摯な生きることへの想いに、私は感動しただけです。さあ、頭を上げて下さい」

 儚生流月が三樹夫の手を取り、ゆっくりと身体を起こした。

「頑張って下さい」

「呂先生の所に来た時は、必ずこちらにも寄らせて頂きます」

「無理しなくてもいいですよ。さあ、堅い話はこれくらいにして田島さんの送別会といきますか。おーい、美紗子」

「はーい」

 いつもの明るい声が返ってきた。

 そして、次々と料理が運ばれ、三樹夫の送別会が始まったのであった。


    第十七章


 三樹夫が羽純達と自宅へ戻ったのは暮も押し詰まった二十七日の夕刻であった。

 事故で病院に入院していた期間も合わせると、約五ヶ月ぶりの我が家である。

 病院に入院していた頃は、もう二度と帰る事は出来ないと思っていた。

 それがこうしてまた自分の家に帰って来る事が出来て、感慨も一入であった。

 儚生流月が送別会が始まってから一時間程して呂老人を呼んでくれて、また会は一層盛り上がり、年末年始にかけては鍼治療もゆっくりできないだろうからと、念入りに鍼治療までやってくれたのであった。

「たぶん、これでしばらく痛みの方も大丈夫ですよ」

 と言われ、次の鍼治療は年明けの七日と決まった。

 そして、儚生氏夫妻と呂明亮に何度も礼を述べて別れたのであった。

 家に戻ると竜也と武彦が三樹夫を出迎えてくれて、そのまま快気祝い的なパーティーになった。

 三樹夫にとってはこれ程幸せな満足感を得られた一日はなかった。

 人の情、家族の絆。恐らくそう長くはない先に自分が迎える死の瞬間に、自分が想い起こすのは間違いなく今日の事であろうと三樹夫は思った。

 結局、自分は一人では何も出来ない。こうやって何気ない毎日を送る事ですら今は誰かの力に縋らなければならない。

 今までなんと自分は奢りに満ちて生きてきてしまったのだろう。

 人生を生きるといのは、自分で生きる事ではないのだ。

 人によって生かされるのである。

 この事に気付くまでに、一体どれだけの過ちを繰り返し、どれだけの人の心を踏みにじってしまったのだろう。

 そう考えると、今自分が味わっている死への恐怖は、自分がしてきてしまった事に対しての当然の報いなのかもしれない。

 ならば、自分が死にまでにすることはその償いしかないである。

 春美という愛する女性を傷つけてしまい、今また自分の死を優しく向かい入れてくれようとしているこの架け替えのない人の為に。

 儚生流月は『愛する人にすべてをさらけ出す覚悟さえ出来ていれば、例えその想いを表に出す事が出来なくても心はきっと通じ合うはずです』と言った。

 確かに自分は勝手な解釈で春美の想いを決めつけ、春美の前から去ろうとした。

 しかし、それは結局春美の想いを裏切ることであり、新たな傷を与えてしまうところであった。

 死はその関わった者に深い悲しみを与える。

 これはもうどんなに避けようとしても、無理な事である。

 そして、悲しみを乗り越えるのは残された者がしなければならない試練である。

 その試練に耐えられる希望は、その逝ってしまった者の想いや言葉ではないのか――

 箱根に居た頃、三樹夫は春美に過去の思い出を物語にすれば、春美との時間を分かち合い、それが生きる希望へと繋がるのではないかと思い、小説を書き始めていた。

 自分が春美に出来る事は、共有した思い出を物語として残す事。

 この家で癌と闘いながら、自分と春美の物語を紡ぐ。

 それが三樹夫の出した結論であった。

 今まで小説を読むのは好きだったが、実際にそれを書くとなると素人の三樹夫にとってはとんでもない作業となった。

 今まで読んだ小説家の作法を思い出しながら、丁寧に一行づつ自分の過去と春美の過去を物語としてパソコンに打ち込んでゆく。

 難しい作業ではあったが、逆に三樹夫にとってはこの時間が至福の時間にもなった。

 三樹夫の考えた物語はこうである。

 主人公の田崎光雄は恋人の須藤清美と大学時代に同棲していたが、清美が妊娠してしまい、光雄はまだ結婚は出来ないからと清美に中絶を勧める。

 しかし、清美はどうしても中絶は嫌だと光雄の前から姿を消してしまう。

 必死に行方を探す光雄だったが、ついに清美の消息は判らず、やがて大学を卒業する。

 大手の銀行に就職した光雄は順調に出世街道を進んでゆく。

 常に清美の事だけは気がかりであったが、日々の忙しさに追われ年月だけが過ぎていった。

 そして、十五年の歳月が流れたある日。

 光雄の元に一人の女子高生が現れる。

 その女子校生は須藤夏美と名乗った。

 清美の娘で、父親は光雄だと言う。

 愕然とする光雄であったが、一人で自分の子供を生み育てくれていた清美に激しい後悔と深い感謝をするのであった。

 しかし、清美は子宮癌に罹り余命半年との事だった。

 既に妻も子もいる光雄は迷い苦しむが、ついに離婚を決意し、清美の元へとゆくのであった。

 自分の為に離婚してしまった光雄を最初は責めた清美であったが、残された日々を誠心誠意介護する光雄と共に最後の幸せを得られ死んでゆく。

 今まで蟠りを持っていた夏美も、母を介護する光雄の姿に次第にその心を開くのであった。

  清美の死後。自分の子供として認知した夏美と暮らし始めた光雄は、離婚した妻の慰謝料と、子供の養育費を払いながら、必死に働きその責務を全うする。

 そして、十年後。

 夏美の結婚式の日。清美の遺影を抱きながら光雄は自分の人生を車椅子に乗りながら振り返っていた。

 光雄もまた、肺がんに罹り余命二ヶ月といわれていたのであった。

 しかし、光雄の顔に死に対する恐怖は微塵もなかった。

 すべてをやり遂げた満足感と、ようやく清美の元へ逝き一緒になれる喜びに満ち溢れていたのである。

 これが三樹夫の考えたも物語『夏の翳り』であった。


 三樹夫が自宅に戻り、三ヶ月が経過していた。

 戻った当初、春美が何日かおきに三樹夫の様子を見にこようとしていたが、自分は大丈夫だだからと羽純の面倒に専念してもらうことした。

 それでも、春美は三樹夫の身体を気遣い強引に竜也と一緒に週一回は必ず三樹夫の元へ訪れていた。竜也は無事にT大の工学部に合格が決まり、竜也の卒業と同時に羽純の入籍も決まっていた。

 この時点での入籍は、いよいよ来月に出産を控え、万が一速く子供が生まれた場合私生児となってしまうのを心配した春美のたっての願いであった。

 保証人には、滝医師がなってくれていた。

「お義父さん。僕達の思いを受け入れて頂き、本当にありがとうございました」

 三樹夫の元で婚姻届を書き終えた竜也が深々と頭を下げた。

「いや。本当に大変なのはこれからだよ。竜也君」

「はい」

 竜也の声に強い緊張感が込められていた。

「来月には、確実に君たち二人はもう親になるんだ。離婚してしまった私が言える立場ではないが、親になる以上はもう中途半端で投げ出す事は出来ないんだよ」

「はい」

「ごめんね……お父さん」

 羽純が涙ぐんでいた。

「幸せになるんだぞ。羽純」

 羽純が泣きながら頷いた。

「竜也君やあちらのお父さんお母さんと一杯思い出を作りなさい」

 羽純が三樹夫に抱きついて泣きじゃくった。

 恐らくこの二人の前途は多難であろう。しかし、愛し合う強い絆と、それを見守る温かい家族がいればこの二人は必ずその困難を乗り越え、幸せな家庭を築けるに違いない。三樹夫はこの若い二人を見つめながらそれを確信していた。

「竜也君。羽純を頼みます」

「絶対に御嬢様を幸せにします」

 三樹夫が二人に微笑みながら静かに頷いた。

「羽純」

 三樹夫の表情から微笑みが消えた。

「今日からお前は加藤羽純になるんだ。もう二度とここには帰ってこれないと思いなさい」

「ありがとう。お父さん……」

「さあ、いつまでもそうやって泣いていたら身体に悪いぞ」

「では、これから二人でこれを提出してきます」

「おめでとう」

 三樹夫が声を詰まらせながら呟いた。

 三月五日。十八歳と十六歳の若すぎるが、希望にあふれた夫婦の誕生であった。

 

そして、その四日後の昼前。儚生流月から突然電話があった。

『田島さん、どうですか? 身体の調子は』

「お陰様でかなり良いです」

『それは良かった。実は今日は田島さんに良い知らせと悪い知らせがあるんですよ』

「はあ?」

『まずは良い知らせの方なんですが、例の『夏の翳り』の事です』

「はい」

『東麗出版というあまり大きな会社ではないんですが、そこが協力出版という形で半々の出資で『夏の翳り』を出版したいという事なんですが、いかがでしょうか?』

「いやぁー、ありがたいです。私はまるっきりの自費出版しか考えていなかったものですから、出版に関してはまったくわかりませんので宜しく願い致します」

『わかりました。では、早速東麗出版の方に連絡いたします』

と言ってしばらく沈黙があった。

その沈黙に耐え切れず三樹夫が「先生」と言い掛けた時だった。

『悪い知らせの方なんですが……』

再び沈黙の後、重苦しそうに儚生流月が口を開いた。

『今朝、呂先生が亡くなられました』

「えっ!?」

『心筋梗塞だそうです』

「そんな……」

 三樹夫が呻き声を上げながらその場にへたり込んだ。

「ううっ……」

 涙が自然と溢れ、止まらなかった。

「ああっ……」

『大丈夫ですか? 田島さん』

「すぐに……そちらへ向かいます」

 三樹夫が大きな息を吐いた。

『無理なさらないで下さい』

「大丈夫です」

 そう言って三樹夫は電話を切った。

「どうして……?」

 三樹夫は電話を握り絞め、項垂れたまま嗚咽を漏らすしか出来なかった。


 三樹夫が羽純に電話かけて事の経緯を話し箱根へと向かったのは、儚生氏の電話から二時間後だった。

 まさか自分が死ぬ前に、こうして黒のスーツを着ることになろうとは思ってもみなかった。

 三樹夫が呂明亮の自宅へと駆けつけ時には多くの弔問客で溢れ、自宅前には長蛇の列が出来ていた。

 長い年月と共に様々な患者と関わった呂明亮の人柄が、その弔問客の人数を見れば明らかであった。

 三樹夫がその列に並び、呂明亮の亡骸と対面できたのは約二時間程してからであった。

 悲しみに打ちしがれる奥さんを前にお悔やみの言葉を述べ、呂明亮の安らかな死に顔を見た時、三樹夫はたったの数ヶ月という短い付き合いでありながら、その胸に去来する様々な思い出に押しつぶされそうになった。

 笑顔を浮かべている呂明亮は今にも起き出してきそうであった。

 涙が止めどもなく溢れ、三樹夫は「ありがとうございました」と言うのがやっとだった。

 奥さんに再び頭を下げ、列から離れた時儚生流月から声を掛けられた。

「大丈夫ですか? 田島さん」

「この間、お会いした時にはあんなお元気だったのに……」

 三樹夫が左手で頭を抱え俯いた。

「人の死は、いつも突然です。故にその関わりを持った人々に深い悲しみを与えてしまう」

 三樹夫がハンカチで目頭を押さえた。

「しかし、私や貴方は呂明亮という人物からもっと別なものを教わったはずです」

「別なもの?」

「死というものをどう捉え、そこから何を学ぶか。私と貴方はそれを教わったはずです」

 呂明亮の様々な言葉が三樹夫の脳裏に蘇った。

「人間なんて所詮わがままな生き物なのさ。自分の思い通りにならなければすぐにふてくさちまう」

五日前に三樹夫が受けた最後の治療の時、呂明亮はそう言って笑った。

「でも、田島さん。生きる事って結局はその自分のわがままを我慢する事なんじゃないかと私は思うんです」

「先生の話はいつも難しいですね」

 三樹夫も笑って答えた。

「難しくないさ。私の話はいつでも簡潔明瞭じゃ」

「そうですか」

 また笑った。

「すべての生き物は誕生した瞬間に死が約束されている」

「やっぱり難しい話じゃないですか」

 ニヤリと微笑んでそのまま呂明亮は言葉を続けた。

「生きるということも一つのわがままじゃ」

「なんか、矛盾してませんか? 先生。生きる事自体がわがままで、でも生きる事はわがままを我慢しなければならない……」

「それでいいんじゃよ。田島さん」

「はい?」

「結局は何もかもが矛盾だらけなんじゃ。生きたい思い続けても生きられない矛盾。愛しいと思っても愛されない矛盾。正義だと信じていたものが実は悪だった矛盾。この世の中矛盾だらけで出来ていると言ってもおかしくなかろう?」

「確かにそうですね」

 三樹夫が大きく頷いた。

「では、その矛盾だらけの世の中で、人はどう生きれば良いのですか?」

 呂明亮が三樹夫を見つめた。

「私が思うに……」

 一瞬の間を置いて呂明亮が静かな口調で語り始めた。

「その答えは存在しないと思うのです」

「どう言う事ですか?」

「個人の思いや、価値観が違うように結局その答えも人それぞれだと言う事です」

 三樹夫は何となく肩透かしをされたような気分で、呂明亮を見つめた。

「世の中の常識が、すべての人に当てはまらないように、生きる事にも絶対これが正しいという答えはないんです。私は矛盾を感じる人間は、まだ生きる事に余裕があるんじゃないかと思うんです」

「余裕ですか?」

「ただ、ひたすらに生き続ける事にがむしゃらになっている人間は、そんな矛盾を感じる余裕などないはずです」

 三樹夫が頷き、笑っている呂明亮を見つめた。

「やはり……」

 三樹夫が重苦しく呟いた。

「先生の話は難しいです……」

 歩きながら呟いた三樹夫の瞳から、また涙が零れていた。

 

 儚生宅に付いた三樹夫はこれから予定などを儚生流月と話し合っていた。

「今日の六時半からが通夜で、明日が告別式。出棺は明後日の十時だそうです」

「はい」

 三樹夫が目を真っ赤にして頷いた。

「田島さん」

「はい」

「呂先生がこのような事になってしまった以上。貴方の病状が悪化するのも時間の問題です」

 儚生流月が重苦しく呟いた。

「覚悟は出来ています。もとはと言えばここまで生きられなかった命です。こんなにも長らえさせて頂いて本当に感謝しております」

「田島さん……」

「あと一体どれくらい生きられるのかわかりませんが、なんとか孫の誕生までは頑張りたいと思います」

「恐らく来週あたりから、また少しずつ痛みの方が出てくると思います」

「そうですね」

 三樹夫がそう言って小さな溜息を吐いた時だった。突然、三樹夫の携帯が鳴り響いた。

「あっ、失礼します」

 と三樹夫が立ち上がりかけた時儚生流月が声をかけた。

「構いませんよ」

 と自分が立ち上がった。

「妻が先生の方の手伝いに行ってるものですから、何もお構いしませんでしたね。今、お茶を入れてきます」

「すみません」

 と言って三樹夫が携帯のディスプレイを開いた。

 画面の加藤竜也の文字が、着信音と共に点滅している。

「どうした? 竜也君」

『すみません、お義父さん』

 かなり慌てているような雰囲気が、竜也の声から感じられた。

『羽純の陣痛が始まりました』

「なに!」

「つい、三十分前から突然お腹が痛くなって、今滝産婦人科へ向かっているところです」

「予定よりも二週間以上早いじゃないか?」

「はい」

「わかった。ともかくすぐにそっちへ戻る」

 三樹夫が電話を切るのと同時に儚生流月が薬膳茶を持って戻ってきた。

「すみません、先生。羽純の陣痛が始まったようですので、私これで失礼させていただきます」

 三樹夫が慌てて立ち上がろうとした。

「田島さん!」

 儚生流月が一括した。

「こんな時に慌てるなと言う方が無理かもしれませんが、まずは一呼吸置きましょう」

「えっ?」

 儚生流月がお盆のお茶を差し出した。

「飲んで行って下さい」

 儚生流月が微笑んだ。

「昔から、慌てて事を運んで良い結果が出た例なんかありませんよ」

「すみません。すっかり慌てちゃって……」

 三樹夫が笑いながら茶碗に手を伸ばした。

 口に当て、それを音を立てて一口啜る。

「田島さん。さっきも言ったように、呂先生の治療が出来ないという事は、確実に癌が進行します」

「はい」

「呂先生との別れが突然であったように、貴方との別れも突然かもしれない」

「先生」

「一期一会ですね」

 儚生流月が静かに目を閉じた。

「ありがとうございました」

 三樹夫が深々と頭を下げた。

 それ以降、すべて語り尽くしてしまったように二人は何の会話もなく静かにお茶を飲んだ。

 三樹夫が儚生宅を出たのはそれから十分後だった。


     第十八章


 三樹夫が滝産婦人科に着いたのは、夜の六時を少し過ぎた頃だった。

 病院の入り口では竜也が待ってくれていた。

「羽純は?」

「四時半に破水し、そのまま分娩室で頑張っています」

 話ながら慌しく二人は病院の中へと入って行った。

 診察室から五メートル程先に分娩室があり、その前で春美と武彦がソファーに座っていた。

「すみません。遅くなって」

 三樹夫が二人に頭を下げた。

「申し訳ありません、田島さん。羽純ちゃんには充分気を使っていたつもりだったのですが、こんな事になってしまい本当に申し訳ございません」

「とんでもありませんよ、加藤さん。これだけ充分にしていただいてこれ以上の事を望んだらバチが当たりますよ」

 とその時、分娩室の中から突然元気な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「生まれた……」

 三樹夫が呆然と呟いた。

 春美も武彦も立ち上がって分娩室のドアを凝視していた。

 ゆっくりとドアが開かれ、オペ用の白衣を着た滝医師が出できた。

「三千百八十グラム。元気な男の子ですよ」

 三樹夫の瞳から涙が溢れていた。

「ありがとう……ございます。先生」

 三樹夫が言葉を詰まらせながら、頭を下げた。

「今、産後の後処置とか行いますのであと三十分程お待ち下さい」

 そして、三十分後。再び滝医師が分娩室から出てきた。

「お待たせ致しました。どうぞ、皆さん。中へお入り下さい」

 滝医師に促され順番に分娩室へと入って行った。

「ありがとう、羽純。本当にありがとう……」

 分娩台に横たわりぐったりしている羽純の手を握り竜也が呟いた。

 羽純の瞳からも涙が落ちていた。

「よく頑張ったな、羽純」

 三樹夫が竜也の反対側から声をかけた。

「お父さん……」

 羽純の瞳からまた涙が零れた。

「望夢を抱っこして、お父さん……」

「いや、それはまず竜也君が最初だ」

「いいえ。どうぞ、お義父さん。抱っこして上げて下さい」

「いや、君は親としての自覚を持つ為にも一番最初に抱くべきだ」

「わかりました」

 そう言って恐る恐る竜也が看護師から赤ん坊を受け取った。

「しっかりとこの首の所を支えて下さいね」

 看護師が抱き方を竜也に教える。

「なんか怖いな」

 言いながら竜也が赤ん坊を抱いた。

「その弱弱しさをしっかりと心に刻むんだ」

 三樹夫が呟いた。

「その弱弱しさを覚えている限り、親は子供の為に必死になれる」

「はい」

竜也が力強く答えた。

「どうぞ、お義父さんも抱っこして下さい」

 ゆっくりと静かに、赤ん坊が竜也から三樹夫へと移った。

 三樹夫が大きな溜息を吐き、涙を堪えた。

 赤ん坊の顔をじっと眺め、また大きく息を吸い込んだ。

「どうぞ、加藤さん」

 武彦に促した。

 そして、武彦。春美と抱っこされた後、赤ん坊は新生児室へと移されたのだった。


 分娩台に横たわる羽純を、優しい眼差しで三樹夫は見つめていた。

「本当によく頑張ったな」

 分娩室に居るのは今は三樹夫だけだった。

「最後にお父さんは、素晴らしいプレゼントを羽純にもらえたな」

 羽純が小さく首を振った。

「竹場先生からは、望夢を見る事は出来ないと言われていた。しかし、今こうして生まれた望夢を抱く事が出来た」

 三樹夫が大きく息を吐いた。

「もうお父さんは思い残す事は何もない」

「お父さん!」

 羽純が悲しそうな表情で三樹夫を睨んだ。

「あっ、すまん。すまん」

 三樹夫が頭を掻きながら微笑んだ。

「お父さんが望夢を抱く事が出来たのは、すべて呂明亮先生のおかげだ」

 羽純が小さく頷いた。

「その呂先生が亡くなられてしまった以上、お父さんの癌は確実に悪化する」

 羽純が激しく首を振った。

「たぶん、今度羽純に会う時はこんな風に落ち着いて会う事は出来ないだろうな……」

「お父さん……」

 羽純の瞳から涙が零れた。

「お父さんは、呂先生に望夢の事を報告してこなくてはならない」

「また、行くの?」

 三樹夫が頷いた。

「明日のお葬式で望夢の事を報告してくるよ。お父さんを助けてくれた命の恩人が朝に亡くなり、その夜にお父さんに希望を与えてくれた望夢が誕生した」

 三樹夫は運命的なものを感じていた。

「羽純」

 父と娘が静かに見つめあった。

「人の出会いは素晴らしいぞ。お父さんは本当に色んな人に助けられた。加藤さん御夫妻や竹場先生。滝先生や儚生先生。呂先生。そして、望夢。皆素晴らしい人達だ。お前もこれからいろんな人と巡り会うだろう。その一つ一つの出会いを大切にしなさい。そして、人に出会えた事に感謝するんだ」

 羽純が泣きながら頷いた。

「じゃあ、行ってくる」

三樹夫が静かに振り返った。

「気を付けてね。お父さん」

「お前が自分の子供で本当に良かった」

 ポツリと呟き、ゆっくりと分娩室から出て行った。


 そして、その翌日。再び三樹夫は箱根へと赴き呂明亮の葬儀に参列した。

 一晩儚生宅に泊めてもらい告別式にも出た。

 出棺、火葬とすべての葬儀が終了し、三樹夫は儚生流月に丁重な礼を述べて別れた。

自宅に戻ったのは四月一日の昼過ぎであった。

 そのまま滝産婦人科病院へ行き、羽純を見舞い望夢の顔を見た。

 滝医師に出産の時のお礼と婚姻届の保証人のお礼を言って病院を出た時、三樹夫の恐れたものがついにやってきたのであった。

 立ち止まったまま、三樹夫は天を仰いだ。

「ついに、来たか……」

 ゆっくりと呼吸を整えながら、三樹夫が腰を摩った。

 青冷めた三樹夫の額から冷や汗が静かに落ちていた。

 

その日から三樹夫は自宅に篭り、以前もらった痛み止めだけで毎日襲う激痛に耐えた。

 羽純が無事に退院するまでは、絶対に自分は入院はしないと心に決めていたのである。

 そんな中、竜也のT大の入学式が終わり、羽純の退院も決まった。

四月の六日の朝の診察が終了次第退院して良いとの事だった。

「明日の退院さえ……無事に終われば……」

 苦痛に顔を歪めながら三樹夫は闇を睨んでいた。

 そして、三樹夫はほとんど眠れない状態でその日の朝を迎えていた。

 儚生流月から貰った薬膳茶を飲み、三樹夫はバナナを半分だけ食べて痛み止めを飲んだ。

 ここ二日くらいで痛み止めが効いている時間がかなり短くなった。

 四日前までは朝昼晩の三回飲めば何とか我慢できる程度だったのだか、三日前からは三回から五回に増えていた。

 しかし、これ以上薬の飲む回数を増やす訳にもいかず、ひたすら次の薬の飲む時間まで激痛に耐える日々が続いていたのであった。

 しかし、今日の羽純の退院さえ無事に見送れば、もうこの激痛を我慢しなくてもいいんじゃないかと三樹夫は漠然と思っていたのである。

 全身を蝕むような不快な鈍い痛みを感じながら三樹夫は、携帯を取り出し儚生流月に電話を掛けた。

「朝早く申し訳ございません、先生」

『どうしました、田島さん?』

「実は今日、娘が退院するんです」

『あっ、それはおめでとうございます』

「ありがとうございます」

 三樹夫が軽く息を吸い込んだ。

「実は、娘の退院が無事に済みましたら、私入院しようと思っております」

 儚生流月の溜息が電話から聞こえた。

『やはり、来ましたか?』

「はい」

儚生流月も三樹夫もそれぞれ次の言葉を探している様で、短い沈黙が出来た。

「恐らく、先生にお目にかかる事はもうないかと……」

 また沈黙があった。

「ありがとうございました」

『田島さん……』

 言葉が続かなかった。

「失礼いたします」

 三樹夫が静かに電話を切り溜息を吐いた。

 ゆっくりと立ち上がると、荷物をまとめたカバンを持ちそのまま家を出た。

 家を出てバス停まで行くと、そのままバスに乗って村川総合病院へと向かった。

 病院前でバスを降り、今度は五分程歩いて駅に行くとそこにあるコインロッカーに荷物を預けた。そして、駅前のタクシー乗り場でタクシーを拾い、滝産婦人科病院へと向かったのであった。

    

第十九章


 三樹夫が滝産婦人科病院に着いたのは、九時を少し回った頃だった。

 そのまま羽純の病室を訪ね、隣のベビーベッドで安らかな寝息を立ている望夢の顔を覗き込んだ。

「ずいぶん早いのね。お父さん」

「なんか家にいても落ち着かなくて……」

「本当は少しでも早く望夢の顔を見たかったんでしょう」

 三樹夫が羽純に笑顔を向けた。

「それよりも荷物の整理は出来ているのか?」

「昨日の夜、竜也さんがほとんどやってくれたの」

「そうか」

 三樹夫が幸せそうな表情を浮かべている羽純の顔をしみじみと眺めた。

「竜也君達は、何時ごろ来るんだ?」

「診察が十時からだから、たぶんその頃じゃないかな」

 三樹夫が頷き、再び視線を望夢に向けた。

「ねえ、お父さん」

三樹夫の横顔を見つめながら羽純が呟いた。

「あまり、顔色が良くないみたいだけど、大丈夫なの?」

「ああ、心配するな。しかし可愛いな、望夢は。この目元の所なんかお父さんに似ていると思わないか?」

「そうね……」

 敢えて自分から無邪気な親ばかぶりを演じる三樹夫を、羽純は静かに見守るしかなかった。

 その時、病室のドアをノックする音が響いて竜也と加藤夫妻が入ってきた。

「わざわざすみません」

 三樹夫が武彦に頭を下げた。

「いいえ、とんでもない。それよりもお体の方はいかがですか?」

「ありがとうございます。お陰様で調子良いです」

 三樹夫が笑った。

「そうですか、それは良かった」

 また、ドアをノックする音が聞こえて今度は看護師が入ってきた。

「加藤さん、診察のお時間です」

「はい」

 と言って、羽純が看護師と一緒に部屋から出て行った。

「では、私は清算の方を済ませてきます」

 三樹夫が部屋から出て行こうとした。

「あっ、田島さん。それは私共が……」

「いいえ。これは私に払わせて下さい」

 そう言って三樹夫が頭を深々と下げて、部屋から出て行った。

「父さん」

 竜也が口を開いた。

「田島さん、あまり顔色が良くなかったけど大丈夫なのかな?」

 武彦が小さく唸り声を上げた。

「やっぱり、あれ。今日やった方がいいんじゃないのかな」

「そうだな。今、ちょっと確認の電話をしてくる」

 そう言って武彦も部屋から出て行った。

 数分後、武彦が戻ってきた。

「大丈夫だそうだ」

 武彦が笑顔で答えた。

「やっぱり前もって今日に入れておいて良かったね」

 竜也も微笑んだ。

「羽純に言ってくる」

 竜也が今度は部屋から出て行った。


「おめでとうございます」

 滝医師が病院の玄関で羽純達に頭を下げた。

「本当にお世話になりました」

 竜也が頭を下げた。

「羽純ちゃん、今度は来週の木曜日ね」

「はい」

 羽純が望夢を抱きながら頷いた。

「ありがとうございました」

 羽純が頭を下げ、三樹夫も一緒に頭を下げた。

 病院の駐車場から出てきた大きなワンボックスカーが、そのままゆっくりと玄関前で止まった。運転席から武彦が降りてきた。

「この車は……」

 三樹夫が尋ねた。

「父さんが、望夢を乗せるなら広い車の方が良いって買い換えたんですよ」

 竜也が説明した。

「そうですか」

「どうぞ、田島さんも乗って下さい」

 武彦がドアを開け促した。

「いいえ、私はこれで失礼させていただきます」

「何を言っているんですか。これから羽純ちゃんの退院祝いもするのに」

「お願い、お父さん。少しだけならいいでしょう」

「う、うん……」

「さあ、どうぞ。お義父さん」

 竜也が最後部の座席へと三樹夫を案内した。その三樹夫にベビー用のカゴに寝せられた望夢と羽純。二列目には竜也と春美が座った。

「では、出発しますね」

 と言って武彦がゆっくりと車を発進させた。

 手を振る滝医師と看護師達にそれぞれが頭を下げた。

 それから二十分程走り、車は三樹夫が予想していた所とはまったく違う場所で止まった。

 パセフィックグランドホテル。

 と英語でその建物には書かれていた。

「ここは?」

 一瞬ホテルのレストランが三樹夫の脳裏に浮かんだ。

「着きましたよ」

ホテルの玄関前で車を止めた武彦が呟いた。

ホテルマンがさあっと車に駆け寄り、ドアを開けた。

「お待ちしておりました。田島様」

 春美と竜也が車から降り、竜也が羽純から望夢を受け取った。

 三樹夫も訳がわからないまま車から降り、そのままみんなと一緒にホテルの中へと入って行った。

 ホテルに入った一行はそのままベルボーイに三階へと案内された。

孔雀の間と書かれた十五畳程の部屋だった。

「私達ちょっと向こうの部屋で望夢のオムツをみてくるわ」

 そう言って羽純と竜也は別の部屋へと入って行った。

 中に入ると、丸いテーブルに椅子が三つ程あり、その上には豪華な料理が並べられていた。

 ベルボーイが丁寧に椅子を一づつ引いて三樹夫、春美、武彦の順番に座らせて行った。

「ごゆっくりどうぞ」

 そう言ってベルボーイが下がって行った。

「羽純と竜也君の席がありませんが……」

 三樹夫が武彦に尋ねた。

「田島さん。勝手に事を運んでしまい、本当に申し訳ありません。しかし、これは竜也と羽純ちゃんの強い希望なのです」

 三樹夫が不思議そうな顔で武彦を見つめた。

「どうしても貴方に、羽純ちゃんのウェディングドレスを見せたいと……」

 三樹夫が息を呑んだ。

「本当にささやかなのですが、今から二人の結婚式を行います」

 武彦が言い終えると同時に、場内にアナウンスが響いた。

「本日のめでたき旅立ちの日に、加藤家、田島家のご両家におかれましては、心よりのお喜びを申し上げます。本日の結婚式の司会を務めさせていただきます、私木村と申します。つつがなく式の方が進むよう精一杯頑張りますので、よろしくお願い致します」

 武彦と春美が拍手をした。

「尚、本日の結婚式は御両家の強い希望にて、御家族のみの結婚式とさせていただきます。ゆえに形式に捕らわれず、和やかな雰囲気で式の方を進行させたいと思っております。只今、新郎、新婦は皆様にその艶やかなお姿をご披露すべく準備中でございます。今しばらくお待ち下さいませ」

 司会者の言葉が終わると同時に数人のホテルマンが現れ、三樹夫達のテーブールの前に別のテーブルを用意し始めた。

「本来であれば、新郎新婦は高砂の席にて皆様のお祝いを頂くのでございますが、本日は新郎新婦の強い御希望にて御家族様の目の前にお二人の席を準備させていだきます」

 あっという間に羽純と竜也の席が出来上がった。

「えー、新郎新婦の準備の間、皆様には新郎新婦よりビデオメッセージがごさいます。どうぞ、正面のスクリーンをご覧下さいませ」

 場内が暗くなるのと同時に、正面の巨大なスクリーンに羽純と竜也の姿が映し出された。

 白無垢の着物と角隠し姿の羽純と紋付袴姿の竜也が静かにこちらを見ていた。

「ああ……」

 思わず三樹夫が声を漏らした。

「お父さん」


 角隠しに憂いを帯びた羽純の顔が、ゆっくりと上を向いた。

「今日のこの幸せがあるのは、すべてお父さんのお陰です。どんなに感謝の言葉を並べようとも感謝しきれません」

「うっっっ……」

 三樹夫の瞳から涙が溢れていた。

「今日まで、育てていただいて本当にありがとうございました」

「お義父さん」

 今度は竜也が喋り始めた。

「自分の生涯をかけて、羽純さんを愛し続け、守り抜く事をここに誓います」

「一体、いつこんなビデオを撮ったのですか?」

 三樹夫が泣きながら武彦に尋ねた。

「昨日、滝先生に無理を言って、少しばかり外出させていただきました」

 三樹夫が目頭をハンカチで押さえた。

「さあ、お待たせいたしました。新郎、新婦の入場です!」

 ウェディングマーチが場内に響き渡った。

 スポットライトが入り口に当てられ、ゆっくりと扉が開いた。

 純白のウェディングドレスに身を包んだ羽純が、グレーのタキシードを着た竜也にエスコートされて静かに歩き始めた。

 言葉を出すことさえ忘れ、三樹夫は涙でぼやける羽純の美しい姿を必死にその心の奥底に焼き付けようとしていた。

  

 羽純と竜也がテーブルに着いた。

「新郎、新婦がテーブルに着かれところで、ここでお二人での始めての共同作業でございます。ケーキ入刀です」

 司会者の言葉と共に、左の入り口が開いてワゴンに乗った三段のウェディングケーキが運ばれてきた。

「新郎、新婦。今一度前の方にお進みいただき、準備の方を宜しくお願いいたします」

 羽純と竜也がウェディングケーキの前に並んだ。

「まったくの違う人生を歩んで来た二人が、巡り会い今ここで共に生きる事を誓い合いました。

これからの人生、様々な困難をも共に力を合わせ乗り越えられることでしょう。その共に生きる第一歩がこのケーキ入刀でございます。若きお二人に永久に幸あらんことを。どうぞ!」

 二人で持っていたナイフが静かに下ろされた。

 ホテルマンの一人がカメラで二人の写真を撮ってくれていた。

「いかがでしょう。せっかくケーキ入刀でのこの素晴らしい新郎、新婦のお姿とご一緒に、御家族様も御一緒に写られてはいかがでしょうか?」

「ああ、それはいい」

 武彦が頷いた。

「さあ、皆様前の方へどうぞ」

 武彦と春美が立ち上がり、竜也の後に並んだ。続いて三樹夫がゆっくりと立ち上がった。

「うっ!」

 三樹夫の背部にあの痛みが走った。

 その痛みに耐えながら三樹夫は静かに羽純の後へと並んだ。

「あっ、田島様。せっかくですので、もう少し真ん中の方へ移動していただけますか?」

 三樹夫が武彦と並んでいる春美の横へと移動した。

「はい、ありがとうございます。それでは何枚か取らせていただきますので、緊張なさらずに自然に笑って下さい」

カメラを持っているホテルマンが言った。

「はい。撮りまーす」

 シャッター音と共にストロボが光った。

 三樹夫をじわりじわりと攻め続ける痛みもさっきに比べるとその強さを増してゆく。

「はい、もう一枚いきまーす」

 三樹夫が大きく息を吸った。

 背中の痛みが広がった。

「田島様。もう少し笑っていただけますか?」

 カメラを覗いていたホテルマンが注文を付けた。

 三樹夫が引きつったような顔のまま作り笑いを浮かべた。

「はい、オーケーでーす」

 三樹夫が静かに息を吐いた。

「本当に……きれいだ……」

 三樹夫が声を震わせながら羽純の後で呟いた。

「では、皆様、お席にお戻りくださいませ。しばし、お食事等をされながら御歓談下さい」

 武彦、春美が自分の席に戻り始めた。竜也と羽純も動き始めた。

 三樹夫だけが立ち止まったまま動けなかった。

 胸が締め付けられていた。背中の激痛にも耐えられなかった。

 目の前が真っ白にぼやけてゆきながら、羽純のウェディング姿だけがまるでスローモーションのように一瞬脳裏を横切った。

 羽純の悲鳴が聞こえていた。

 しかし、すぐにそれも聞こえなくなり三樹夫の意識は完全に深い闇の中へと落ちていた。


 そこにいた全員が、一瞬何が起こったのか理解出来なかった。

しかし、竜也だけは咄嗟に動き一番最初に倒れた三樹夫の元へと駆けつけていた。

うつぶせのまま倒れている三樹夫を抱き起こしていた。

「救急車!」

 悲痛なまでの叫び声だった。

「早く!」

 次に動いていたのは武彦であった。すぐに携帯電話を取り出し、百十九のボタンを押していた。羽純が三樹夫の元に駆けつけていた。

「お父さん!」

 泣き叫んでいた。

「三樹夫さん……」

 春美が声を震わせながらポツリと呟いた。

「竜也、呼吸しているか、確認しろ」

 武彦が電話で言われた事をそのまま伝えた。

 竜也が三樹夫の口元に耳を近づけた。

「していない!」

「心臓マッサージ出来るか?」

「学校の防災訓練で一度やったことがあるけど……」

「やれ!」

 武彦が怒鳴った。

 すぐに竜也が三樹夫の上に跨り、左手の上に右手を添えて心臓の辺りをマッサージし始めた。

「一、二、三!」

 救急車が来るまで、とてつもなく長い時間に感じられたが、実際はニ十分程で到着した。

 酸素マスクを当てられ、担架に乗せられて運ばれる三樹夫を羽純は泣きながら見送った。

「どなたか、一緒に来ていただけますか?」

 救急隊員が尋ねた。

「私が……」 

 と言い掛けた羽純を武彦が遮った。

「羽純ちゃんと竜也は着替えもしなくてはならないし、向こうに預けてある望夢もいる。まずは君が一緒に行ってくれないか?」

 武彦が春美を見つめた。

「わかりました」

「私たちも準備が出来次第、すぐに追いかける」

 春美が小走りで救急車へと乗り込んで行った。

 そしてサイレンを鳴らし、救急車はホテルを後にした。

「さあ、急いで着替えて来なさい。その間私は行く準備をしておく」

「急ごう」

 そう言って竜也は羽純を奥の控え室へと連れて行った。


 一方救急車は車内で春美から身体状況を聞き、一路村川総合病院へと向かっていた。

「しっかりして、三樹夫さん!」

 ストレッチャーの上で横たわる三樹夫の手を握り締めながら、悲鳴に近い叫び声を春美が上げた。

「お願い………」

 春美の声が嗚咽に混ざった。

 しかし、閉じられた三樹夫の瞳は開くことはなかった。

 そして、病院へ着いた三樹夫は竹場の待つ緊急処置室へと運ばれたのであった。

 春美は呆然としたまま、運ばれてゆく三樹夫の後をフラフラと着いて行った。

 無常に閉じられた処置室の扉の前で、春美は泣き崩れた。

「助けて……」

 それからしばらくして、慌しく駆けつけてきた武彦に春美は抱き起こされ、扉の横にあるソファーへと座らされた。

「どうなんですか? お母様」

 羽純が望夢を抱いたまま尋ねた。

 春美はどう答えたらいいかわからず、泣きながらただ首を横に振るだけだった。

 そして、処置室の扉が開かれ、中から沈痛な表情をした竹場が出てきた。

「残念です」

 一言だけ呟いて頭を下げた。

「お父さん!」

 羽純が泣き叫んだ。

 その声に驚いて望夢も泣き出した。

 けたたましく泣き喚く望夢の声に、羽純が少し冷静さを取り戻した。

「ごめんね、よし、よし……」

 泣きながら望夢をあやし始めた。

「その子が、望夢君ですか?」

 竹場が尋ねた。

 羽純が頷く。

「では、田島さんは望夢君をご覧になっていたのですね」

 望夢の泣き声が収まってきた。

「あの状態でここまで本当に生きられたとは……奇跡ですね」

 竹場が唸った。

「いいえ。奇跡でもなんでもありません」

 羽純が呟いた。

「父は……たぶん毎日痛みに堪えながら、必死に希望を持って生きようとしたんです。きっと、今日だって……」

 そこからは嗚咽だけで言葉にならなかった。

「羽純ちゃん」

 武彦が声を掛けた。

「辛いだろうが、今は一度このまま家に戻りなさい」

「えっ?」

「何を言っているんだ、父さん」

 竜也が反論した。

「今、望夢もいるこの状況で、きちんとお別れが出来ると思っているのか? きちんと準備が出来てから心置きなくお別れをした方がいい」

 武彦が静かな口調の中に力強さを込めて言った。

「わかりました」

 羽純が頷いた。

「春美、申し訳ないが羽純ちゃんと望夢を頼む」

「はい」

「私と竜也は、このまま田島さんを自宅へお連れする準備をする」

「はい」

「あっ、それから羽純ちゃん。一応この事はイギリスにいるお母様にもお伝えした方がいいんじゃないのかな」

「ありがとうございます。でも、父から言われていたんです。どんな事があっても、今のお母さんの生活を壊すような事をしては駄目だと」

「そうか、田島さんらしい」

 武彦が薄く微笑みを浮かべ呟いた。


     結 章


 三樹夫が亡くなって一週間が過ぎた。

 結局、三樹夫の死因は急性心不全と診断された。

 三樹夫が以前行っていた鍼治療にて、一時的に癌の進行は抑える事ができたようであったが、その鍼治療を突然中断した事により、抑えられていた癌細胞が急激に活性化増幅し、その急激な癌細胞の増幅に三樹夫の心臓自体が付いてゆけなくなったのだろうとの事だった。

 慌ただしかった日々にも、ようやく落ち着きが戻りつつあった。

 三樹夫があれ程慕い、尊敬を抱いていた儚生流月はついに葬儀には現れなかった。

 しかし、羽純は特別その事については何の感情も持たなかった。

それよりも、羽純は三樹夫が死ぬまでの間、いかに準備良く死を迎えたかを痛感していた。

 亡くなるあの日。三樹夫は自ら病院へ入院するため荷物をコインロッカーに預けていた事も持っていた鍵でカバンを回収してきた武彦に聞かされた。

そのカバンの中には羽純宛てに手紙が入っていた。

羽純。

お前がこの手紙を読む頃には、お父さんはもういないはずである。

お父さんは、望夢を抱くことが出来て、本当にうれしかったよ。

ありがとう。

お前の行く末を見届ける事ができないのが、唯一の心残りではあるが竜也君や加藤御夫妻が着いてくれていれば何も心配はない。安心して逝く事が出来る。

ただ、お前に対して親らしい事が本当に出来たのか、そう思うとすべてが中途半端であったような気がしてならない。

すまなかった。

せめて、私の死んだ後、金のトラブルがないようにお前の通帳に私の退職金の残りと保険の一時金を入れておく。自由に使いなさい。それから同封の保険証書と私の死亡診断書のコピーを保険会社に送るだけで保険金が下りるはずである。当然受取人はお前になっているから、気兼ねなく使ってほしい。そして、もしそのお金の一部が望夢の養育に関わる事に使われたのならこれ以上うれしい事はない。

私が最後に親として出来るのは、こんな事ぐらいである。

羽純。お父さんはお前という子供に巡り合えて本当に良かった。

心から感謝しているよ。

ありがとう。

お前は、お父さんの何よりも自慢の子供だ。

羽純の幸せがいつまでも続きますように祈ってます。

さようなら。


                        父より

一つ一つの文字が痛みに耐えながら書いたのか、かなり震えていた。

その光景を想像するだけで、羽純は涙が止まらなかった。

 そして、どこまでも自分の事を死ぬ直前まで心配していた父の深い愛情に、改めて感動したのであった。


儚生流月が加藤家を訪れたのは、三樹夫が死んでから二週間程経っての事だった。

「遅くなり申し訳ありません」

 玄関で出迎えた春美が、信じられないような表情で儚生流月を睨んだ。

「田島さんにお線香を上げさていただいてもよろしいでしょうか?」

「今まで何をなさっていたのですか?」

 春美が悔しさをぶつけた。

「田島さんがどれほど先生を尊敬し、慕っていたか御存知なんですか?」

「私と田島さんの別れはとっくに済んでおりました。しかし、私の中ではどうしてもその別れを受け入れる事が出来なかった……」

 儚生流月が悔しそうに唇を噛み締め涙を零した。

「だからと言って、葬儀にも出ないなんてあまりにも三樹夫さんが可哀そうすぎます」

「いいえ。私が葬儀に出なかったのは田島さんとの約束を果たすためです」

「約束?」

 儚生流月が持っているカバンの中から一冊の本を春美に手渡した。

  夏の翳り        春風 儚想

「これは?」

「その春風儚想は、田島さんのペンネームです」

「えっ!」

「この本の仕上がりに少しだけ時間がかかってしまいました。完成したものを貴方に手渡してほしい。それが私と田島さんの約束でした。夏の翳りは、田島さんが貴方の為だけに書いた物語です」

 毎日襲われる激痛にじっと耐えながら、自分に気持ちを伝えたいその想いだけでこつこつと慣れない事をやり遂げ、こうして最後にその愛の形を残した田島三樹夫。そんな素晴らしい男性に自分が愛されていたと思うだけで春美はうれしくて涙が止まらなかった。

「春風儚想のペンネーム。その意味を一度だけ聞きました。美しい春を儚く想い続ける私の心。出来ればそよ風のように優しくその人に届いてほしい。そう意味で付けましたと照れくさそうに笑って言ってました」

「ああ……」

 春美が愛おしそうに本の表紙を撫でた。

「田島さんに、無事に貴方に本を渡した事。報告してもよろしいですか?」

 春美が無言のまま頷いた。

 

三樹夫の仏壇は、加藤家の一番奥の部屋にあった。

遺影は十数年前に撮られた若しき頃の三樹夫であった。

その遺影の横にあの結婚式で撮った家族全員の写真が飾られてあった。

「この写真は?」

「亡くなった日にホテルで結婚式をしたんです」

「そうですか。娘さんの晴れ姿も見られ、本当に御満足だったでしょうね……」

 儚生流月が言葉を詰まらせた。

「田島さん。貴方の『夏の翳り』やっと完成したよ」

 儚生流月がカバンの中から十冊程また本を出して仏壇の前に積み上げた。

「春美さん。この本は全部で百冊作りました。残りは来月から一応全国の書店で販売予定となっております」

「そうなんですか……」

「もし、貴方がお嫌でなければ、娘さんにもこの本をお渡し願えますか?」

「はい」

「全国で売られる以上、その売上げの十パーセントは印税として娘さんに入る事になるでしょう。出版社としては、売上げ如何では増刷も考えているようです」

「ちょっと待って下さい。突然印税云々言われても私にはどう対処していいのかわかりません」

 春美が困惑の表情を浮かべた。

「著作者である田島さんが亡くなられている以上、この本の著作権は娘さんが相続するのです。

すでにその書類も田島さんが用意されております。後は娘さんの承諾のサインを頂くだけですべての手続きは完了いたします」

「貴方って人は……」

 春美が三樹夫の遺影を見つめながら呟いた。

「貴方への真摯な想いが、この物語を誕生させました。しかし、この素晴らしい物語はもっと多く人々に読まれるべきだと私は考えております」

儚生流月が手を合わせ、目を閉じた。

閉じた瞳から涙が零れていた。

「では、先程の書類もこちらに置いときますので宜しく願い致します」

 そう言って儚生流月は加藤家を後にした。


 『夏の翳り』に書かれている言葉は、すべて三樹夫の言葉であった。

 主人公の光雄の思い、その言動はまさに三樹夫そのものであった。

 不器用なまでの実直さで物語をシンプルに語る手法は、まるで三樹夫自身と会話しているようであった。読みながら春美は何度も泣き、心を震わせた。

 これ程までに自分は三樹夫に愛されていたのか。

 その想いがひしひしと伝わってきた。

 本のあとがきで三樹夫はその想いのすべてを書き殴っている。


 この本を手に取って下さったすべての皆様へ。

 皆様がこの物語を読まれる頃、私はすでにこの世にはおりません。

 ゆえにこの物語は私の遺書のような想いで書き上げました。

 人が誰かを好きになる。しかし、その想いを伝える事が出来ないとしたら――

 私は物語を紡ぎ、その物語の中でその想いを伝えようと思いました。

 ですから、この物語の主人公である光雄は私自身なのです。

 出来れば、この光雄の物語が、皆様の心の片隅に少しでも残っていただけるなら

 作者としてこれ以上の喜びはございません。

 物語などをまったく書いた事のない私が、こうして一つの物語を完結させられたのは

それは、私が心より愛した女性の存在でした。

この人のお陰で、私は生きる希望を持ち、死をも受け入れる覚悟が出来たのです。

貴女に私の想いが少しでも届けられたら――

私はそれだけで本望です。

いいえ。想いが伝わらなくても、貴方がほんの一瞬でも私を思い出してくれたなら――

それだけで私はいいんです。

貴女の前途が、もし絶望の闇に閉ざされてしまったなら、勇気を持ってその闇をじっと見つめて下さい。例え、その闇がどんなに濃く深い闇であろうと、必ずそこに微かな光は隠れているはずです。

だから、どうか希望は捨てないで下さい。

必ずその微かな希望は、貴女を照らす道しるべとなるはずです。

力強い夏の日差しに、例え翳りが見られたとしても、希望という心の糧がある限り、時は廻り、再び力強さを取り戻す事が出来るのです。

どうか、今の絶望よりも明日を信じ生きて下さい。

この物語に携わったすべての人々へ

ありがとうございました。

そして、さようなら。


                        春風儚想


読み終えた春美が三樹夫の遺影を見つめた。

「そうね。希望という心の糧がある限り、時は廻り再び力強さを取り戻す事が出来るわね」

 そう言って優しく微笑んだ。

 その笑顔は、かつて三樹夫が心より望んでいた喜びの笑顔であった。



                        了




  もし、読むのに苦痛を感じるようであれば、深くお詫び申し上げます。

  

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