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 第十二章~第十五章

     第十二章


 その日から、三樹夫はひたすら痛みに耐え続けた。

 あまりの激痛に、何度モルヒネを打って下さいと看護師に頼みそうになった事だろう。

 しかし、三樹夫にはまだやり残した事があった。

「ぐぅあっ!」

 ベッドの上でのたうち回りながら、出来るだけ声を出さない様布団に囓り付く。

 冷や汗がたらたらと流れ落ち、意識が遠のく。

 このまま意識を失ってしまえばどれだけ楽だろう。

 しかし、意識を失いそうになると更に強い痛みが三樹夫の全身を稲妻の如く走り抜けるのである。

 春美!

 この痛みに耐え続ける事が、君へのせめてもの償いだ。

君に与えてしまった苦痛と絶望は、こんな事で帳消しになるわけないけど、今の俺はこうやって耐える事しか出来ない──

そして、絶対に羽純の子供を見るまでは死にたくない!

 生まれてくる子供だけが、今の俺には唯一の希望なんだ。

 望夢の顔を見るまでは絶対に死なんぞ、俺は――

 しかし……痛えなぁ……

 くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!

 大きくゆっくり何度も深呼吸を繰り返し、全身の痛みに気持ちを合わせる。

 少しだけ痛みが和らいだ。

 三樹夫は消灯台に置いてある自分の携帯電話を取った。

 アドレスのボタンを押して、カーソルを移動してゆく。

 加藤竜也のところでカーソルをストップさせると、OKボタンを押した。

 短い呼び出し音と共にすぐに竜也が出た。

『どうしました? お義父さん』

「すまない、竜也君」

『お体の調子はいかがですか?』

「ああ、心配ない」

『実は、僕も今お義父さんに電話しようと思っていた所なんですよ』

「羽純に何かあったか?」

『いえ、今日定期検診に滝先生の所へ行って参りました』

 三樹夫の背部に再び激痛が走る。

「どうだった?」

『はい。母子供にとても順調だそうです』

「そうか、それは良かった」

 三樹夫が大きな溜息を吐いた。

『それで出産予定日が決定いたしました』

「いつだ?」

『来年の四月十日です』

「四月十日か……」

 今日が十月の三十日だから約半年先である。

 医者からは望夢の誕生は見ることができないだろうと言われている。

 一瞬、これ程残酷な仕打ちはないと三樹夫は思った。

 しかし、すぐにその考えは自分の中で沸き上がった感情に打ち消されたのであった。

 望夢を見てみたいと――

 心の底からそう思った。

はっきりと出産予定日がわかった以上、それを目標に出来ないかと三樹夫は考えた。

人間には自然治癒力があると、昔読んだ本に書いてあった。

そして、その自然治癒力は人間の精神力に大きく左右されるとも書いてあった。

そうだ!

思い出したぞ──

 あの作家。儚生流月。

 確か『やる気だけで人生変わる!』

『もしもし、お義父さん、どうかしましたか?』

 あまりの長い沈黙に、竜也が心配そうな声で尋ねた。

「あっ、いや。何でもない」

『大丈夫ですか?』

「ああ、大丈夫だ。実は今日君に電話したのは頼みたい事があってなんだが、明日は病院に来られるかい?」

『はい、大丈夫です』

「そうか、それじゃ来る時に今から言うものを持って来て欲しいんだけど、いいかな?」

『はい』

「私の家ヘ行って、書斎から私が使っていたノートパソコンとUSBと本棚に儚生流月という作家の書いた『やる気だけで人生変わる!』という本があるから、それを持って来て欲しいんだ」

『わかりました。羽純もお義父さんに会いたがっていたので喜びます』

「竜也君」

『はい?』

「悪いが、明日は一人で来てくれないか?」

 三樹夫の声のトーンが変わった。

 短い沈黙があった。

『わかりました』

 竜也も三樹夫のその声の変化に気付き、力強く答えていた。

「ありがとう」

 とそれだけ言って三樹夫は電話を切った。

 再び、激痛が背筋を走る。しかし、今度は三樹夫は声も出さずにそれに耐えた。

 それは、三樹夫がこれから行なおうとしている事への強い意志を示すかのようだった。


 翌日。竜也が三樹夫の元に訪れたのは昼の一時頃であった。

 てっきり学校が終わってから来る物だと思っていた三樹夫を驚きの表情のまま竜也に尋ねた。

「学校はどうしたんだい?」

「今は秋休みなんですよ。お義父さん」

 竜也が笑いながら答えた。

「あっ、そうか。私の時代には秋休みなんてものはなかったからうっかりしてたよ」

 三樹夫もそう言って笑顔を浮かべた。

 竜也はその笑顔を見つめながら、スポーツバックの中から頼まれた品物を取り出し始めた。

「パソコンとUSBと、この本でいいんですか?」

 竜也が取り出した本を三樹夫に手渡した。

「そう、そう。この本だ。ありがとう」

 竜也がスポーツバッグの中からビニール袋に包まれた小さなプラスチック容器を取り出した。

「羽純がお義父さんが好きだからって言ってました。きっとあまり食べれないだろうけど頑張って食べて欲しいって……」

 三樹夫が受け取った容器のふたを開けてみた。

 中に食べやすいように切られてあるイチゴとキウイフルーツが入っていた。

 三樹夫が無言のままイチゴを口に入れた。

 甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。

「美味しいよ。羽純にありがとうと言っておいてくれ」

「一つ聞いてもいいですか?」

「なんだね?」

「お義父さんは、もしかしたらもう羽純とは合わないつもりでいるんじゃないんですか?」

 三樹夫が黙ったまま竜也を見つめた。

「やっぱりそうなんですね」

「竜也君」

「はい」

「私は、医者から恐らく望夢を見る事は出来ないだろうと、言われている」

 三樹夫が視線を窓の方へと向けた。

 竜也の返事を最初から期待しているわけでもなく、三樹夫が言葉を続けた。

「最初はそれでも良いと思っていたよ。でもね、昨日君から望夢の生まれる日を聞かされて一晩考えたんだ」

 再び三樹夫が竜也を見つめた。

 その瞳の中には力強い意志がはっきりと込められていた。

「私は死にたくない。望夢を絶対に一目見たいと思った……」

「お義父さん……」

 死という現実と対峙している三樹夫に、まだ十八にも満たない若者がかける言葉などなかった。

「最初は自分が癌だとわかり、できれば家族に迷惑をかけず死ねれば良いと思っていた……」

 こんな時に何を言ったら励ましになるのだろう?

何を言っても白々しく思えてしまい、結局竜也は三樹夫の話を黙って聞く事しか出来なかった。

「すまん、竜也君。本来君に対してこんな事を話す事自体が自分の死に対して甘えている証拠なんだ」

 三樹夫が申し訳なさそうに頭を下げた。

「いいえ」

 竜也が首を振った。

「こういう甘えが、いつしか君や羽純を苦しめ、君のお母さんも苦しめるような気がするんだ」

「母ですか? 母なら大丈夫です」

 そう。春美なら──

 恐らく笑って何もかも受け入れてくれるだろう。

 だからこそ、俺が死んだ後張り詰めていた心のやり場がなくなってしまうはずなのだ。

 やはり、話しておくべきだと三樹夫は思った。

 これまで何度もその葛藤を繰り返し、迷い続けたが自分か死んだ後の穴埋めが出来るのは竜也しかいないだろう。

「君のお母さんは、どんな事に対しても前向きで頑張れる人だ」

 竜也が少し照れくさそうに笑った。

「そんなお母さんだからこそ、羽純の事も私の事も両方快く受け入れてくれるだろう。まして、私の命はもう長くはない……」

 三樹夫が一瞬目を瞑った。

「そして、君のお母さんならきっと、私に出来るだけ心安らかな死を迎えさせたいと必死に自分を犠牲にしてまで頑張るに違いない……」

「……?」

 竜也が不思議そうな顔で三樹夫を見つめた。

「本当に素晴らしい女性だと思う……」

 それまで我慢していた痛みが、急に激しいものとなって三樹夫の背筋を走り抜けた。

「んっ!」

 一瞬、三樹夫が呻き顔を顰める。

「お義父さん! 大丈夫ですか?」

「何でもない……大丈夫だ……」

 大きく息を吐きながら三樹夫がゆっくりと答えた。

「少し休まれた方がいいんじゃないですか?」

 三樹夫がゆっくりと深呼吸を繰り返す。

「すまん、もう大丈夫だ」

「無理なさらない方がいいですよ」

 三樹夫が笑顔を浮かべながら小さく首を振った。

「竜也君……」

「はい」

「私が今から話す事は、君のお母さんの事だ。もし、私の話を聞いて君が納得が出来なかったら遠慮しないでそのままこの部屋から出て行ってもらってもいい……」

「母の事……?」

「私は君のお母さんと若い頃に付き合っていたんだ」

「えっ!?」

「私が大学の四年の時だ。君のお母さんと同棲していたんだ。ところが、君のお母さんが妊娠してしまってね。私はまだ就職も決まっていなかったし、お母さんは大学に入ったばかりだった。私は迷ってしまった。お母さんはそんな私の態度を見て私に失望し、結局子供は中絶して私の前から姿を消した」

「そんな……」

それ以上の言葉を出す事が出来ず、竜也は三樹夫の言葉に耳を傾けた。

「私が今回、羽純の事で君達を理解できたのも過去のこの事があったからだ。逆にいえば、過去の君とのお母さんの事がなく、羽純の妊娠があったなら間違いなく中絶させていたに違いない」

「どうして?」

と呻くように竜也が呟いた。

「どうして、話したんですか?」

「君のお母さんに、中絶という苦しみを与えてしまった私が、のこのこと家族に見守られながら死んでゆくなんてことが許される訳ないんだ。まして、死ぬ程の辛い苦しみに耐え抜いた君のお母さんの前で死ぬなんて、私にそんな権利はない……」

 竜也が大きな溜息を吐いた。

「君のお母さんを傷つけるような事など、私は二度としたくない」

 三樹夫が表情が一瞬苦痛で歪んだ。

「もしかして……」

と言いかけた言葉を竜也は飲み込んだ。

 この人はまだ母の事を愛しているんだ――

 田島三樹夫と母が付き合っていたという事実は衝撃だったが、竜也はそれ以上に今自分の死を目の前にしてここまで自分に厳しく、そして愛する人の事を思う姿勢に感動すら覚えていた。

「だから……」

 と三樹夫が口を開いた。

「私はこの病院を退院しようと思っている」

「退院って? そんな無茶な……」

「ここに居れば、恐らくそう長くない先に私は死を迎えるだろう。さっきも言ったが、私はまだ死にたくないんだ。生まれて来る望夢のためにも、私は私なりに出来る事を考えた」

「お義父さんが出来る事?」

「私はまだ、癌と闘っていない」

「充分、お義父さんは頑張っているじゃないですか?」

「いや、ここでの治療は抗癌剤と鎮痛剤だけの対症療法だ。私は自分なりに色々と癌について調べてみたんだ」

 三樹夫は笑って携帯電話を指差した。

「本当にネットっていうのは便利だな。おかげで色んな事がわかったよ」

「で、退院してどうするおつもりなんですか?」

「癌に効く色々な治療法を試そうと思っている」

「しかし、お義父さん……」

「どうせ死ぬなら、何もしないで死ぬより無駄だと思えることでもやってみたいんだ」

 三樹夫の真剣な表情に竜也は返す言葉がなかった。

「で、悪いんだが退院する準備を君に手伝ってほしい」

 竜也が小さな溜息を吐いて三樹夫を見つめた。

「これから私は竹場先生に退院の許可をもらう。君はその間に銀行に行ってお金を下ろして来てほしい」

「わかりました」

「ありがとう。これがキャッシュカードとそのメモに下ろす金額と暗証番号が書いてある」

「はい」

「それから、家に戻って着替えを二、三組バッグに詰めて持って来てくれないか」

「わかりました」

 竜也が受け取ったキャッシュカードとメモを持ってイスから立ち上がった。

「竜也君」

「はい」

「勝手な事ばかり言って本当に済まないと思っている」

「いいえ」

 竜也が静かに部屋から出て行った。

 と同時に三樹夫はベッドの上で今までにない激痛を背中に感じ、苦痛に顔を歪ませていた。


     第十三章


 病院から出た竜也はすぐに春美に電話を掛けていた。

「もし、もし母さん」

『どうだった? 田島さん』

 一瞬、竜也の脳裏に先程の三樹夫の言葉が蘇った。

私は君のお母さんと若い頃に付き合っていたんだ──

結婚していて、昔の恋人と再会するといのはどういう気分なのだろう?

やはり、気持ちは揺れ動くものなのだろうか?

いや、母さんは父さんを愛している。

でも、田島三樹夫という男は潔さみたいなものが感じられ、男の自分でも充分魅力を感じる事が出来る。

まして、母の場合はその男の子供を中絶しているのである。

どれだけ複雑な気分で今まで対応してきた事だろう。

一体、どれだけの葛藤と母は戦ってきたのか?

そして、田島三樹夫という男。あそこまで強く人を愛せるものなのか?

悔しいが、自分の父親とその愛の強さを比べたら田島三樹夫の方が勝っているように思える。

まして、今田島三樹夫は愛する者達の前から、自ら消えようとしている。

怖くないのか? 寂しくないのか?

今までにない複雑な感情を竜也は覚えていた。

『どうしたの? 竜也』

「あっ、実は田島さんが病院を退院するって言っているんだ」

『何、どういう事?』

「田島さんが言うには、今の病院の治療では満足出来ない。どうせ死ぬなら自分の思い通り色々な癌治療を試したいって……」

『色々な癌治療って?』

「具体的な方法は言ってなかったけど、なんか、ネットで色々と調べたみたいだよ」

『まったく、困った人ね』

 母のその言い回しを聞いて、竜也はドキリとした。

 その言葉の中に秘められた微かな母の感情が見えたからである。

『で、今貴方は何をしているの?』

「田島さんに銀行からお金を下ろすように頼まれて、今から銀行に向かうところ」

『いくら下ろせって言われたの?』

 竜也が咄嗟にメモを見た。

「五十万……」

『わかったわ、ともかく母さん。すぐにそっちに行くから』

「それが、母さん。どうやら田島さん。退院して何処かへ行くつもりらしいんだ」

『えっ?』

「自宅から着替えを二、三組バックへ入れて持って来てほしいって」

 一瞬の沈黙があった。

『わかったわ、貴方は田島さんに言われた通り、着替えを取りに行って、銀行でお金を下ろしておきなさい。で、準備が出来たら病院の前で待っていて』

「わかった」

『それから、竜也。銀行の機械でお金を下ろす時、一度に五十万は下ろせないから、二回に分けて下ろすのよ』

「わかった」

『今、一時五十分だから、三時に病院前で待ち合わせしましょう』

「うん」

 そう言って、竜也が電話を切った。


「どういう事ですか、田島さん」

 竹場が口調を荒げて三樹夫を見つめていた。

「貴方、御自分の身体がどういう状態なのかわかっているのですか?」

「わかっています。わかっているからこそこうしてお願いしているんです」

「何を考えているんですか、貴方は?」

「先生が御気分を害されるのもよくわかります。私は先生には本当に感謝しているんです」

「だったら、どうして私の言う事が聞けないのですか?」

「私は、けして先生の治療方針に文句がある訳ではありません。ただ、少しでも長く生きられる可能性を試してみたいだけなのです」

「長く生きられる可能性? どういう事ですか」

「現在の抗癌剤治療だと、どうしても食欲がなくなります」

「それは矢も得ません」

「私は病気と闘うにはやはり、体力がなければ闘えないと思っております」

「もちろんです」

「しかし、抗癌剤治療をしている以上。どうしても食欲が湧いてこない。物を食べれないという事は体力が持続出来ません」

「だから、不十分な栄養等は点滴で補っております」

「わかります。でも、実際に食べて取る栄養と点滴とでは差があると思うんです」

「それは当然色んな種類の食物を咀嚼して取る方が、栄養価が高いのは当たり前の事です」

「それに、気功療法も試してみたいのです」

「気功療法が癌に良いというのは、私も知っています。しかし、実証はありませんよ」

「先生がおっしゃる事も良くわかります。しかし、ここで漫然と死を迎えるより、望夢に会える可能性が少しでもあるなら、私はそれに賭けてみたいんです。お願いします」

「のぞむ?」

「生まれて来る孫の名前です。希望の望に夢と書いてのぞむです」

「良い名前ですね。田島さんが付けられたのですか?」

「はい」

 竹場が溜息を吐いて一呼吸置いた。

「わかりました。では、一週間に一度必ず受診をするということで退院を許可しましょう」

「先生、それは無理です」

「無理?」

「私は退院したら、箱根へ行こうと思っています」

「箱根?」

「はい。さっき言った気功療法の方が箱根に住んでいるのです」

 竹場は小さく溜息を吐き、席を立った。

「ちょっとお待ち下さい」

 そう言うと三樹夫の部屋から出て行った。

 そして五分程して、また戻ってきた竹場は一通の手紙を三樹夫に手渡した。

「これは?」

「紹介状です。箱根の市立病院に宮島という私と同期の医者がおります。もし、困った事が起こったら尋ねてみて下さい」

「ありがとうございます。先生」

「望夢君、見れると良いですね」

 竹場はそう言って部屋から出て行った。


 それからしばらくして、看護師がやってきて点滴を抜いたり退院手続きの書類を書かされたりした。

「しかし、こんな状態で退院するなんて信じられませんよ。田島さん」

「色々と御世話になりました」

 三樹夫が看護師に向かって頭を下げた。

「自分でも馬鹿な事をやろうとしているのはよくわかっています。でも、どうせ死んでしまうなら自分が納得する事をやって死にたいんです」

「それから竹場先生が、これを渡してくださいって」

 白い病院名が入っている封筒を看護師が手渡した。

「田島さんの診断書です。たぶん、色々と役に立つだろうとおっしゃっていました」

「ありがとうございます」

「では、くれぐれもお体の方お大事にされて下さいね」

 そう言って看護師が部屋から出て行こうとした時だった。

 突然病室のドアが勢いよく開いて春美が入ってきた。

「は……。加藤さん」

 思わず春美と言いかけて慌てて訂正した。

「何をしているの、貴方は?」

「失礼します」

 看護師が頭を下げて部屋から出て行った。

「そうか、竜也君か」

春美が持っているバックを見つめて三樹夫が呟いた。

「退院する事にしたんだ」

「何、馬鹿な事を言っているの、今の状態で退院なんか出来ると思っているの?」

「竹場先生には許可はもらってある」

「まったく竹場先生も一体どういうつもりなの!」

 三樹夫が春美の怒っている顔を見つめながら微笑みを浮かべた。

「少し落ち着いて、まず座らないか?」

 三樹夫がゆっくりと丸イスを春美に差し出した。

「座ってなんかいられないわよ。竹場先生の所に行ってくるわ」

「まず、いいから少し落ち着いて」

 三樹夫が笑いながら春美の両肩を掴んで丸イスに座らせた。

「よっこらしょっと」

 三樹夫がベッドに腰掛けて改めて春美を見つめた。

 春美を見ているだけで自然と笑顔が溢れる。

「久し振りに君に怒られた」

 三樹夫の笑顔を見て、春美自身も少し落ち着いたようだった。

「本当に退院するの?」

「ああ……」

 と短く三樹夫が答えた。

「竜也の話だと、どこかへ行くつもりみたいだけど、本当?」

 三樹夫が頷いた。

「どうして?」

 春美の表情が険しいものへと変わった。

「竹場先生の話だと、今のままだと俺は望夢を見る事が出来ない」

 春美が息を呑んだ。

「でも、俺は来年の四月十日まで何としても生きて、望夢を見たいんだ」

 春美の瞳に哀しみの色が浮かび、今にも泣き出しそうだった。

「望夢を見る為に、俺はあらゆる事をやってみようと思う」

 春美の大きな瞳から涙が溢れた。

「どこに行くつもりなの?」

「それは、聞かないでほしい。家族に居場所を教えたら俺自身が甘えてしまうような気がするんだ」

「それじゃあ、残されたものは不安でしょうがないわ」

「俺の最後の我が儘だ。頼む」

 涙が次から次へと溢れ、春美は首を振りながら三樹夫に抱き着いた。

長い邂逅を経て、ようやく二人の気持ちが重なり合った瞬間だった。

抱きしめたかった。

このまま強く、力一杯春美を抱きしめたかった。

三樹夫は目を閉じて春美の温もりを心に焼き付けた。

これで頑張れる。

そう思った。この温もりさえあれば、俺はどんな事にでも耐える事が出来る。

 しかし――!

 これ以上春美の優しさに甘えては駄目だ。

 今ここで春美を抱きしめてしまえば、残された春美が今以上に辛い思いをするのだ。

 三樹夫が唇を噛んだ。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと春美の身体をそっと引き離してゆく。

「ありがとう」

 三樹夫が呟いた。

「絶対に四月十日に帰って来るから」

 そう言って微笑んだ。

 

第十四章


儚生流(はかなきりゅうげつ)月は、中国気功術を取り入れた整体師であった。

三十五才の時に、応募した医療ミステリーが滝丘サスペンス大賞を受賞し、それ以降医療ミステリーの第一任者として活躍してきた。

しかし、四十五歳で肺癌となり、一時文壇から遠ざかる事になった。それが今から十二年前の事である。

当時の関係者は、誰しも儚生流月はもう小説を書けないだろうと考えていた。

事実、それ以降儚生流月は一本も小説を書いていない。

そして、出版関係者にも忘れられた頃、儚生流月は小さな出版社から一冊の本を出版した。

それが『やる気だけで人生は変わる!』だった。

この本は、小説ではなく儚生流月がどのようにして癌と闘い、克服したかその闘病記録をまとめ上げたものだった。

三樹夫がその本を読んだのが今から三年前の事である。

そして、病院を退院した三樹夫が真っ先にした事が、箱根へ向かい儚生流月と会う事だった。

最初に東京の出版社に行き、素直に自分の身体の状態を説明し、儚生流月氏に会いたいので住所を教えてほしいと話した。

出版社の人も、あの本が出てから時折貴方のような人が訪ねてくるんですよ。言って素直に住所を教えてくれた。どうやら儚生流月氏から、自分宛てにそういう人が訪ねてきたら遠慮なく住所を教えても構わないと言われているとの事だった。

丁重に礼を述べてすぐさま箱根へと向かい教えてもらった住所を訪ねた。

出迎えてくれたのは儚生氏の奥さんだった。出版社から連絡はもらってあるという事ですぐに中へと通してくれたが、生憎儚生氏は不在だった。

それが昨日の事である。

そして、今日。三樹夫はついに儚生流月と対面したのであった。

「昨日は申し訳ありませんでしたね。田島さん」

目の前に腰を降ろしながら、儚生流月が満面の笑みを浮かべた。

今年で六十才になっているはずだが、とても六十には見えなかった。どうみても四十代後半か、五十代前半くらいにしか見えない。背は小さかったが綺麗に短く刈られている黒々とした髪と、艶のある肌が印象的だった。

「いえ、私の方こそ勝手に押しかけてしまい、申し訳ありませんでした」

 昨日出迎えてくれた奥さんがお茶を持って部屋に入って来た。

「昨日は失礼致しました」

 と言って蓋の付いた茶碗を三樹夫に差し出す。

「ありがとうございます」

 三樹夫が頭を下げた。

「どうぞ」

「あっ、いただきます」

 三樹夫が静かに蓋を取って、お茶を啜った。

 一瞬、微かな苦みが口に中に広がり、その後何とも言えない甘さが舌の上に残った。

 苦みと甘さが絶妙であった。

「美味しいお茶ですね」

「中国の薬膳茶です」

 儚生流月が付け加えた。

「なるほど」

「所で田島さんは、膵臓癌の末期だと伺いましたが、医者からはいつまでと言われてますか?」

 何とも遠慮のないストレートな問いであった。

「来年の春までは持たないだろうと言われてます」

 三樹夫もまたストレートに答えた。

 その答えを聞いて儚生流月がまた笑った。

「あの本を読んで、私の所に来る人は、皆、私が何とかしてくれるだろうと思ってここに来ます」

「はい」

「でも、それは違います。実際癌と闘うのは癌に罹っている本人だし、私は実際何も出来ません」

「はい」

「田島さんは、死ぬのが怖いですか?」

「はい」

「そうですね。私も死ぬのが怖いです。では、田島さん。何故死は怖いのでしょう?」

 三樹夫は一瞬考えた。今までそんな風に考えた事もなかった。

 答えられなかった。

「田島さん。死が怖いのは、自分が愛する者に会えなくなるからなんですよ」

 と儚生流月が答えた。なんとシンプルな答えなのだろう、と三樹夫は思った。

 しかし、あまりにもシンプルすぎてその答えに揺らぎはなかった。

「生きたいですか? 田島さん」

 儚生流月が微笑みながら三樹夫を見つめた。

「はい」

 と答えた瞬間、三樹夫の瞳から涙が零れていた。


 儚生流月から教えられた事は実に簡単な事だった。

 規則正しい生活をする事。

 出来るだけ脂肪の多い食物は避ける事。

良く噛んで食べる事。

そして、米は玄米を食べる事。

これだけだった。

「本当にこれだけなのですか?」

 思わず三樹夫が尋ねた。

「これだけです。でも、田島さん。最も重要な事は、生きたいと強く思い続ける事です」

「わかりました」

 とても信じられなかったが、しかし、今の三樹夫にとってはどんな事でも試す価値はあった。

「ありがとうございました」

 三樹夫が頭を下げて立ち上がろうとした時だった。

「一つだけ。やって貰うことがあります」

「えっ?」

「朝、昼、晩の三回。気持ちをリラックスさせて、まず、心の中で生きたいと思って下さい」

「はい」

「そしたら、その生きたいと思った気持ちをゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、頭の上へ持って行くイメージをします」

「はい」

「次に頭の中にある生きたいをゆっくりと背中からお尻の方へと、深呼吸をしながら移動させます」

「はい」

「最初は身体の痛みもあるので、上手く出来ませんが、これを十回繰り返して下さい」

「わかりました」

「では、三日後にまた来てみて下さい」

「はい。ありがとうございます」

 三樹夫が深々と頭を下げて立ち上がった。

 玄関で儚生流月に見送られて靴を履いていると、奥さんがビニール袋を持って来てそれを三樹夫に手渡した。

「どうぞ、お持ち下さい」

「これは?」

「先程の薬膳茶です」

 奥さんが答えた。

「急須にスプーン一杯ぐらいで充分ですから、それで一日飲めます」

「ありがとうございます」

「さっき言った方法を試す前に飲んでみて下さい」

 儚生流月が付け加えた。

「本当に今日はありがとうございました。では、失礼致します」

「あっ、田島さん」

 頭を上げた三樹夫に儚生流月が声を掛けた。

「田島さんはどちらにお泊まりですか?」

「こちらの下にある桜月館に泊まっております」

「ああ、あそこの温泉は良い温泉です。しかし、長湯は禁物ですよ」

「わかりました。ありがとうございます」

そう言って三樹夫は儚生流月の家を後にした。


三樹夫の泊まっている温泉宿は湯治客が自炊も出来るこぢんまりとした宿だった。

この地区一帯は山並みに覆われてはいるが、温泉がある事で観光地としても賑わっている場所でもあった。

三樹夫の泊まっている桜月館は、儚生氏の自宅より十分程坂道を下った場所にある。

そして、そこよりさらに五分程坂道を降りると、この温泉町の繁華街へと出るのであった。

儚生氏の自宅を出た三樹夫は、この十五分の道のりをゆっくりと休み休み三十分以上かけておりたのであった。繁華街に出た三樹夫は商店街へ行き、小さな炊飯器と玄米、キュウリの漬け物を買った。

帰りの桜月館までの五分の距離が堪らなく長く感じたが、三樹夫は何故かこんな事をしている自分がとても面白くて、一人でニヤニヤしながらその坂道を一歩づつ登って行った。

宿に戻った三樹夫は、部屋に着いた途端へたりと座り込み大きな溜息を一つ吐いた。

目を閉じてゆっくりと呼吸を整える。

早速、先程儚生流月から教わった事をやってみようと思った。

まず、心の中で強く生きたいと思う。

生きたい。生きたい。生きたい……

まるで呪文のように三樹夫が念じた。

 ふーと、また大きく溜息を吐く。

「難しいなぁ……」

 三樹夫は買い物してきた物を持ってゆっくりと立ち上がった。

 そのまま洗面所へ行き、炊飯器を箱から出した。

 蓋を開けて中から釜を取りだして、計量カップで玄米を二合程量ってそれを洗った。

「えっと、玄米の水加減は、ここの目盛りか」

 コンセントを差して、炊飯ボタンを押した。漬け物と奥さんから貰った薬膳茶をそのまま冷蔵庫へ入れると浴衣に着替え、タオルを持って部屋から出た。

 浴場へと着いた三樹夫は、久し振りに湯船につかりくつろいだ。

 長湯は駄目だと、念を押されたがあまりにも気持ちよくてつい長湯してしまいそうになった。

 それでも十分程で湯船から出ると、頭や身体を洗いもう一度湯船につかった。

 そして、湯船につかりながらさっきの事をもう一度やってみた。

 心地よいお湯のぬくもりが全身の緊張を解いてくれているせいか、さっきに比べたら生きたいが上手く心の中で思い浮かべる事が出来そうだった。

 死が怖いのは、自分が愛する者に会えなくなるからなんですよ―─

 儚生流月の言葉が蘇った。

 春美の顔が浮かんだ。

 病院で別れた辛そうな春美の顔が心に焼き付いて離れなかった。

 春美の笑顔が見たかった。心から嬉しそうに笑っている春美の笑顔が堪らなく見たかった。

 どうしたら、君は笑ってくれるのだろう?

 君が心から笑えないのは、俺のせいなのか?

 俺が突然君の前に現れ、また君を苦しめてしまったから――

 結局、君の前からいなくなる事が、君の笑顔を取り戻す事になるのか?

それは違う。そんな事ではないのだ。

春美が心から笑えないのは自分自身に嘘をついているからなのだ。

しかし、その嘘はずっとつき続けなければならない。

彼女の嘘を理解出来るのは、その嘘の原因を作ってしまった俺しかいない。

ならば、俺といる時だけしか春美は心から笑う事が出来ないではないか?

 なのに、俺は彼女の心を解き放ってやる事ができない。

 どうすればいい?

 どうすれば、いいんだ! 俺は?

 くそお!

 三樹夫が立ち上がって、宙を睨んでいた。

 

タオルで全身を拭き、浴衣に着替えながら三樹夫はひたすら考えていた。

春美の笑顔を取り戻す為に、俺は何をしたらいい?

何が、一番嬉しいんだ?

何だ?

着替えを終えて、前方を睨みながらズカズカと廊下を歩いて三樹夫は部屋へ戻った。

 気持ちが昂ぶっているせいか、背中にいつもの鈍い痛みがあった。

 溜息を吐き、その場に胡座をかいた。

 とその時、三樹夫の携帯が鳴った。

 メールを知らせる合図だった。

 三樹夫がテーブルに置いてある携帯を取ってディスプレイを開いた。

 手紙マークの付いたボタンを押す。

 羽純からであった。

 >大丈夫? 身体なんともない?

と書かれてあった。

 >お父さんは大丈夫だ。何も心配しなくていい。必ず四月十日に望夢を見に帰るから、お前は望夢の事だけを考えなさい。

と打って送信する。

 すぐに返信が来た。

 >私に何も言わずに勝手に居なくなるから悪いんだよ。

 三樹夫の苛立ちが治まっていた。

 口元を微かに緩め、

 >すまなかった。

 とだけ送信した。

 部屋の中にピーという電子音が響いた。

 どうやら温泉に行く前にセットした玄米が炊き上がったようである。

 炊飯器の蓋を開けてみると、玄米特有の臭いが三樹夫の鼻腔をくすぐった。

「あっ」

 三樹夫が短く声を上げた。

「茶碗を買うのを忘れてた」

 三樹夫はしょうがなくテーブルの上に置かれている湯飲み茶碗に、炊き立ての玄米をよそった。

 苦笑いを浮かべながら、冷蔵庫の中から漬け物を出してそれをおかずに玄米を食べ始める。

 いつまでも宿暮らしという訳にもいかないので、明日はきちんと住む所を探さねばいけないなと三樹夫は思った。

 まずは今の俺に出来る事をやるしかない――

 焦っては駄目だ。

 まずは食う事。食って体力を付ける。

 そして、儚生流月に教わった生きたいのイメージトレーニング。

 春美の事を考えるのはその後だ。

 明後日の儚生流月に会いに行くにも、今のまま何も変わらない状態ではあまりにも進歩がなさすぎる。

 儚生流月も何らかの変化をもたらすであろうから、この方法を教えてくれたのだ。

 絶対に何らかの……

 と、そこまで考えた時、三樹夫ははっと思った。

 そうか──

 こういう事が焦りの原因か……

 口に入れた玄米をごくりと飲み込み、三樹夫が笑った。

「出来なければ出来ないでいいじゃないか……」

 また、玄米を口に入れてゆっくりと意識しながら咀嚼を始める。

「それが出来なかったなら、別な方法を探せばいいんだ」

 気持ちが楽になった。

 そう。焦らずに気負わずに、リラックスした状態を出来るだけ保つ。

 心にゆとりがなくては、何事も良い方向に進む訳がないんだ。

 出来れば、痛みにも耐えられる平常心。

「さすがにそれは無理か」

 三樹夫がまた笑う。

「しかし、キュウリの漬け物と玄米だけとは……」

 湯飲み茶碗を見つめながらまた笑う。

 そうやって、三樹夫はゆっくりと時間を掛けて食事をしたのだった。

 食事の後片付けをし、自分で布団を敷き、歯ブラシをして三樹夫は布団に潜った。

 時刻はまだ夜の七時半を少し過ぎたばかりである。

 どうせ、すぐには眠れないだろうと思っていたが、意外と早く睡魔が訪れそのまま三樹夫は眠りに就いた。


 三樹夫は信じられない気持ちで朝を迎えていた。

 眠りに就く時は、どうせ痛みで起きるはずだと思っていたのが、その痛みを感じる事もなくこうして朝まで眠れたからである。

 こんなにぐっすりと眠れたのは何ヶ月ぶりかであった。

 久しぶりに感じられるすがすがしさであった。

 何が良かったのか?

 どう考えても昨日の呼吸法は出来ていないのだから、あの薬膳茶しかなかった。

 こんなに効くものなのか?

布団から出て、冷蔵庫を開け薬膳茶の紙袋を取り出した。

テーブルの上の急須に目分量でスプーン一杯程入れ、そこにポットのお湯を注ぎ込む。

なんとなく、ウーロン茶のような匂いが部屋の中に広がった。

急須を軽く二、三回回して湯飲み茶碗にそれを注いだ。

一口啜り、その味を舌の上で確かめる。

昨日飲んだのと同じ苦みと甘さの絶妙さがとても美味しかった。

ズズッと音を立ててそれを数回に分けて飲んだ。

時計を見ると、六時四十分だった。

「気分が良いぞ、今日は」

 三樹夫がそう言って立ち上がった時だった。

 一瞬、背筋に鈍い痛みが走った。

「んっ!」

 三樹夫が腰に手を当ててしゃがみ込んだ。

 と同時に今度は凄まじい激痛が三樹夫を襲う。

「ぐぅっ!」

 三樹夫が唇を噛み締め、その場に転がった。

 痛みに耐えきれず思わず声を上げる。

「いっ……がっ……」

 のたうち回った。何をどうしても一向にその痛みは治まらず三樹夫は転げ回った。

 先程までのなんでもなかった状態がまるで嘘のように、背中の激痛が三樹夫を責め立てる。

 呼吸が荒くなり、冷や汗が額から滴り落ちた。

 その時、『田島さん!』と自分を呼ぶ声がしたが、声の主を確認する余裕など三樹夫にはなかった。 

「がっ!」

 と三樹夫が呻き声を上げる。

「先生、早く!」

 声の主が叫び、三樹夫の両手を掴んだ。

「田島さん、すぐに楽になりますから、少しだけ我慢して下さい」

 声の主、儚生流月が力一杯三樹夫の両手を押さえ叫んでいた。

 そして、先生と呼ばれた一人の老人がつかつかと三樹夫の元へ行き、持っていた鞄の中から金属の小さな箱を取りだした。

 そして、その金属の箱を開き、そこに並べられている針を一本摘んだ。

「儚生さん、うつぶせにしてもらえますか?」

 老人が呟いた。

「田島さん! すぐに痛みが消えますから、少しだけ我慢してうつぶせになって下さい」

 言われるまま、三樹夫は必死に痛みに耐えうつぶせになった。

「少し、首を左に向けますよ」

 儚生流月が三樹夫の首を左に向けこめかみを押さえた。

 それと同時に老人の右手の人差し指がツーと首の後ろをなぜる。

「田島さん大きく息を吸って!」

 儚生流月が言うのと同時に老人の右手が動いた。

 三樹夫の首の後ろに長い針が刺さっていた。

 

 何とも言えない虚脱感が三樹夫の全身を包んでいた。

さっきまで感じていた激痛は嘘のようにピタリと止まっていた。

自分がどうなったのかわからないまま、三樹夫はぼんやりと儚生氏流月の言葉を聞いていた。

「大丈夫ですか? 田島さん」

 儚生流月の言葉が何処か遠くから聞こえてくるようだった。

「やはり、様子を見に来て良かった」

「儚生……先生……」

「このまま、呂先生に少し治療していただきますので、そのまま楽にしていて下さい」

 呂先生と呼ばれた老人の手が三樹夫の背中で、慌ただしく動いている。

 老人の手が動くたびに気持ちが良くなってゆくのを三樹夫は感じていた。

 あまりの気持ち良さに睡魔まで現れ、何時しか三樹夫は意識を眠りの中へと移していたのである。

 そして、三樹夫が再び目を覚ましたのはそれから三時間後で儚生流月も呂先生と呼ばれた老人も居なく一枚のメモだけが残されていた。

 

田島様。

 あまりにも気持ちよくお休みなので、このまま自宅へ戻ります。

 目が覚めて、体調が良ければ拙宅までお越し下さい。

 

                     儚生流月


 追伸。

 お節介ながら、今後の事も御相談したく、宿の荷物をまとめ、一度精算されてからお越し下さい。

 先程の呂先生は、中国の鍼灸師の方でございます。癌の疼痛除去に関しては一流の先生でごさいます。ぜひ、御紹介したいと思っております。


 涙が出るほどうれしかった。

 あの激痛から解放されるかと思うと、自然と別な力が湧いて来るようだった。

「すぐに行かないと……」

 三樹夫が恐る恐る立ち上がった。

 右手で首の後ろをさすり、左手で腰をさすってみる。

 そのまま歩いてみたが普通に歩けた。

 三樹夫はすぐに洗面を済ませ、着替えを始めた。

 昨日炊いた残りの玄米と漬け物をまたゆっくりと食べた。

 そして、炊飯器の釜と湯飲み茶碗、急須を洗い、三樹夫は荷物をまとめて桜月館を出たのであった。

 右手にスポーツバック、左手に炊飯器を持ち、石畳の坂道を一歩ずつ登って行く。

「しかし、人の巡り会いというのは、本当に有り難いものだな」

 三樹夫が坂の上を見つめながらポツリと呟いた。

 昨日はこの坂道を登るのがきつく感じられたが、針治療の御陰なのか、それとも痛みを感じないでいられる安心感なのか、少しだけ楽に登れる気がしていた。

 それでも二十分程かかり、三樹夫は儚生氏の家の呼び鈴を鳴らした。

 すぐに奥さんが顔を出した。

「大変でしたね。田島さん。どうぞ、主人が奥で待っています」

「すいません。失礼いたします」

 三樹夫が深々と頭を下げる。荷物を玄関の端に置き、三樹夫が奥へと進んだ。

 奥の和室に儚生流月と、呂先生と呼ばれていたあの老人が座っていた。

「今朝は本当にありがとうございました」

 三樹夫が正座し、両手を付いて頭を下げる。

「いや、私の方こそ代えって申し訳ない事をしてしまいした。やはり昨日は無理にでもこちらにお泊めするべきでした」

「いえ、とんでもございません」

「田島さん。今朝も言いましたが、こちら中国の鍼灸師、呂明亮(ろ、めいりょう)先生です」

三樹夫が改めてその老人を見つめた。

綺麗に禿げ上がった頭部に白眉、顎に白髭を生やしていた。

紺の作務衣のようなものを着て、ニコニコと三樹夫を見つめていた。

「初めまして、田島三樹夫と申します。今朝は本当にありがとうございました。御陰で痛みの方はすっかり消えました」

「それは一時的なものですよ、田島さん」

 呂老人が表情を変えずに呟いた。

「鍼灸の基本は血流の改善です。血の流れは人間の身体に於いて必要不可欠なものです。血の流れが滞れば人は病に冒されます」

「はい」

「そして、貴方のように癌に冒される方の血流は激しく乱れ、その乱れが神経を刺激し凄まじい痛みとなって貴方を襲うのです」

「はい」

「今朝少しだけ診させてもらいましたが、田島さんはかなりの転移があるようですね」

「そんな事までわかるのですか?」

 三樹夫が驚愕の表情を浮かべた。

「はっきり言って、田島さん程転移が進んでしまっては、鍼灸治療を行っても癌症状の改善は見られないでしょう。いいところ一年寿命が伸びる程度です」

「一年も!」

 三樹夫が歓喜の声を上げた。

「本当に一年も生きられるのですか?」

 三樹夫はうれしさのあまり涙が込み上げていた。

 目を瞑り、大きな溜息を吐いた。

「お願いします、先生。一年で充分です。私を生かさせて下さい……」

 三樹夫が泣きながら頭を畳みに擦りつけていた。


     第十五章

 

「一年で充分とはどういう事ですかな?」

 呂明亮の表情から先程まで浮かべていた微笑みが消えていた。

「医者からは来年の春までは生きられないと言われております」

 三樹夫が涙を零しながら、呂明亮を見た。

「私には、今年高校生になったばかりの一人娘がおります」

 呂明亮が小さく頷いた。

「しかし、その娘が妊娠してしまい、来年の四月十日に子供を産むのです」

 今度は儚生流月が溜息を吐いた。

「私はその生まれて来る孫の顔さえ見られれば、もう思い残す事はありません」

「なるほど、そう言う事ですか……」

 呂明亮の顔に微笑みが戻っていた。

「医者からは孫の顔を見る事は出来ないと言われていたのが、先生の鍼治療を受ければ孫の……」

 三樹夫が思わず言葉を詰まらせた。

「孫の顔が見られるのです。こんなにうれしい事はありません」

「わかりました、田島さん。今日から早速治療をしましょう」

「ありがとうございます」

「でも、田島さん。一つだけ約束して下さい」

「はい」

「先程、私は一年と言いましたが、絶対に生きる事を諦めないで下さい。孫の顔を見られたらそれで充分などと思わないで、もっと、もっと。そのお孫さんの為にも生きる事にしがみついて下さい」

 涙が止まらず、三樹夫は何度も頷いた。

「それから、田島さん」

 と今度は儚生流月が三樹夫に言葉を掛けた。

「四月十日まで、ゆっくり治療に専念してもらう為、どうでしょう? 狭いですが、この家に住みませんか?」

 三樹夫は言葉が出なかった。

 ただ、泣き続けた。

 人の情けがこれほど有り難く思えた事はなかった。

「では、そういう事で決まりですね。おい、美紗子!」

 三樹夫がどきりとして思わず顔を上げた。

「はーい」

 儚生流月の奥さんが障子を開けた。

「今日から田島さんが治療の為、ここに住む事になる。一番奥の部屋を使ってもらうから」

「はい」

 美紗子はそう言って微笑むと静かに障子を閉めた。

 こんな偶然もあるのだな―─

 と三樹夫は頭を下げながら考えていた。


 鍼灸治療は毎日行われるものと最初三樹夫は思っていた。

 しかし、呂明亮の話では、血流の改善は治療の回数が多ければ良いというものではないらしい。

 食生活や、生活習慣の改善という基礎が出来上がってこそ、初めて体質の改善が始まるとの事だった。

 したがって、現在の三樹夫の体質と今までの痛み具合からみても、鍼灸治療は一週間に一度で充分というのが、呂明亮の見解であった。

 呂明亮の治療院が休みの毎週水曜日の午後が三樹夫の鍼灸治療に当てられた。

 そして呂明亮が、三樹夫の為に調合してくれた滋流湯という漢方薬を朝晩服用するようになってから、三樹夫自身の体調も少しずつ変化が見られて来た。規則正しい生活習慣を送るようになったせいか、三樹夫自身今までは苦手であった朝起きる事が、何の苦もなく毎朝六時に起きられるようになったのである。

 三樹夫は六時に起きると必ず儚生氏の家周辺を三十分程散策する。

そして、七時には儚生氏の奥さんの美紗子さんが用意してくれた玄米食を食べ、それから儚生氏から借りた本を読んだり、パソコンをいじったりしながら午前中を過ごす。

 午後からまた散歩を兼ねて下の温泉街まで行き、ゆっくりと温泉に浸かった後、少し昼寝をして家に戻り、六時に夕食を食べて、またパソコンと向き合い、そして、八時半には就寝するのが三樹夫の日課となっていた。

 そんな日々を送りながら三樹夫は毎日考えていた。

 こんなゆったりとした時間を自分は費やしていて本当にいいのだろうか?と。

 確かに癌という病気になり、少しでも長く生きられる為の手段は今の方法しかないように思う。

 しかし――

 と三樹夫は思う。

 仮に今この時点で自分が死んでしまったなら、俺は後悔しないで死ねるのだろうか?

 答えは否である。

 後悔だらけである。

 今のままでは死んでも死にきれない。

 日に日に自分の体調が変わっていくのを実感する度に、その思いは強くなってゆく。

 羽純や竜也の事。生まれてくる望夢の事。そして、春美の事。そういう事を考えるとこれから自分が迎える死が堪らなく恐ろしい。

 この箱根に来たのも元はと言えば自分が、春美の前で苦しみながら死んで逝くのを春美に見られたくなかったからである。それは当然春美の心に傷を負わせる事であり、その傷を最小限度に留める為のこの箱根行きだったはずである。

 しかし、呂明亮が言ったように生にしがみつけばつく程、春美に会いたくなってしまう。

 春美が愛おしくて堪らないのである。

 三樹夫は布団に潜ったまま闇に目を向けた。

 溜息が自然と溢れる。

 何の答えも見つからない。毎日考えれば考える程迷いは膨らみ、不安と恐怖だけが募って行った。

そして、季節は冬に移り変わっていた。


三樹夫が箱根に来て一か月が過ぎていた。

あと一週間もすれば、クリスマスイブであり、竹場の診断ではそろそろ身体的にも限界が来るだろうと予想していた時期である。

しかし、呂明亮の鍼灸治療と漢方薬。そして、食生活の改善の成果なのか、三樹夫の体調はすこぶる良かった。

以前、感じていた激痛は今では嘘のように無くなっていた。

呂明亮の針治療の前日になると、かすかに腰に痛みを感じるくらいで、もう治ってしまったのではないかと錯覚してしまう程である。

「しかし、呂先生の鍼は本当にすばらしいですね」

 背中に針を打ってもらいながら三樹夫が呟いた。

「最近はかなり調子が良いようですね」

「お陰様で本当に調子いいです」

「しかし、油断は禁物ですよ。田島さん」

「はい」

「あなたの身体は時限爆弾を抱えているのと一緒なんですから」

「はい」

「さあ、今日はこれくらいで良いでしょう」

 呂明亮が三樹夫の背中から最後の鍼を抜いた。

「ところで田島さん」

 三樹夫がゆっくりと布団から起き上がりながら呂明亮を見つめた。

「本当に調子が良いようなので、どうでしょう? 来週の鍼治療が終わったら、一度御自宅の方に戻られてはいかがですか?」

「家に……ですか?」

「さぞかし娘さんも心配されている事でしょう」

「はぁー」

「一度娘さんに、元気な姿を見せて上げてきたらどうですか?」

 この一ヶ月あまりひたすら迷い続け、色々と考え抜いたが結局何の答えも見出せないでいる。

 こんな状態で羽純や春美と会ってしまったら、自分が何か飛んでもない事をしてしまいそうで三樹夫は堪らなく怖かった。

「いや、やっぱり止めときます」

 三樹夫が苦笑した。

「そうですか」

 三樹夫の葛藤を察したのか、それ以上呂明亮も何も言わなかった。

 

 翌日、三樹夫は箱根市内のデパートへと買い物に出ていた。

 羽純達へのクリスマスプレゼントを買うためである。

 考えてみれば、もう何年も羽純にクリスマスプレゼントなどしたことがなかった。

 こんな事を忘れてしまう程、俺の心は荒んでいたのか?

情けない男だな、俺は──

三樹夫はデパートの中を歩きながら、そんな事を考えていた。

 そして、色々と物色しながら数時間かけて三樹夫はようやくそれぞれのプレゼントを買い揃える事が出来た。

 羽純と竜也にはお揃いのコーヒーカップを。春美と武彦。儚生夫妻には夫婦茶碗を。

 呂老人には新しい作務衣を購入した。

 羽純達のプレゼントは日にち指定の宅配便で送り、儚生夫妻と呂老人のプレゼントは持ち帰る事にした。

 三樹夫は人にプレゼントする喜びを数年ぶりに思い出していた。

 楽しかった。こんな心の高揚感を覚えながら買い物をしたのは一体何年ぶりだろう。

 プレゼントをもらった時のそれぞれの顔を思い浮かべるだけで心が躍った。

 春美に対して夫婦茶碗というのが、正直悔しかったが春美だけにプレゼントできる立場ではない。

春美だけへのプレゼントか――

 思えば、付き合っていた時にも春美に対してプレゼントなどしたことがなかった。

 当然誕生日だって、クリスマスだってあったのに、三樹夫は一度も春美にプレゼントをしたことがない。

 しかも、春美は一度たりともそういうプレゼントをねだったりはしなかった。

 何を考えていたんだ。俺は?

 三樹夫は激しい自責の念に囚われながら大きな溜息を吐いた。

「春美だけのプレゼント……」

 ポツリと呟いた。

 もし、春美だけにプレゼント出来るとしたら、何がいいんだ?

 武彦の手前、物は駄目だ。

 周りからは怪しまれず春美が持っていても自然で、なおかつ自分を思い出してくれるもの。

 春美と自分が共有出来て、春美にだけわかるもの。

 三樹夫が苦笑し、また溜息を吐く。

「そんな都合の良いものあるわけが……」

 自嘲気味に呟きかけて、三樹夫は思った。

「そうか、想い出か」

 三樹夫の顔に笑みが毀れた。

 小走りに歩きながら、三樹夫は笑いを堪える事が出来なかった。


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