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第八章~第十一章

    第八章

 

三樹夫が律黎高校に着いたのは九時十分であった。

高校に電話をかけ、羽純の担任の森川浩二と連絡を取ったのが、八時三十分。

娘の事で大事な話がある。とだけ伝え、九時半に会う約束をしたのであった。

これから学校に行って来る事は、武彦にも伝えた。本来なら自分も同行しなくてはならないはずだが、自分は午前中どうしても外せない仕事があるのでよろしくお願いします。と言われた。

三樹夫は煙草に火を付け、ぼんやりと春美の事を考えた。

君は今、本当に幸せなのか?

一瞬、馬鹿な考えが浮かんだ。三樹夫はすぐにそれを否定した。

幸せに決まっているではないか――

良く出来た息子に、優しく信頼出来る夫。環境的にも恵まれ、幸せでない訳ないじゃないか――

 三樹夫はチラリと時計を見た。九時二十分。

「さて、行くか」

と、背もたれから背中を離した時だった。先日感じたあの背中の痛みをまた感じたのであった。

「うっ!」

 右側の背中から腰にかけて刺すような痛みが数回あった。

 三樹夫が小さく唸り声を上げた。

「何なんだ?」

 三樹夫は唸りながら大きく息を吸った。二、三回それを繰り返すと、今までの痛みが嘘のようになくなった。

「疲れてはいないはずなんだが……」

 ポツリと呟き、三樹夫は車から降りると、ゆっくり校舎に向かって歩き出した。

 職員玄関からスリッパに履き替えると、三樹夫は二階の職員室へと向かった。

 職員室のドアを二回程ノックし、横へと開いた。

 中には五人程、教師がいた。

「すいません。田島と言いますが、森川先生……」

と、言いかけた所で一人の男が立ち上がり、こちら向かって歩いて来た。

「一年C組の担任、森川です」

 二十代後半の眼鏡をかけた男、森川が挨拶した。

「すいません、先生。お忙しいのに……」

 三樹夫が深々と頭を下げた。

「どうぞ、こちらへ」

 そう言って森川は隣の応接室へと三樹夫を案内した。

「いつも、羽純がお世話になり、ありがとうございます」

「いえ、どうぞ、おかけ下さい」

「あっ、すみません」

 三樹夫がソファーに腰を降ろした。

「今日は羽純さんの事で、大事なお話があるとおっしゃっていましたが」

「はい。私がこれからお話する事は、恐らく学校としても大変迷惑な話だと思うんです」

「はい……」

「実はですね、羽純が妊娠いたしました」

「えっ!」

 森川は単純に大声を上げた。

「申し訳ございません」

 三樹夫がまた頭を下げた。 

「妊娠って、羽純さんが……」

 森川が動揺を隠せないまま呟いた。

「相手は、内の生徒ですか?」

「そうです」

「お父様は、その相手が誰だか御存知なのですか?」

「はい」

三樹夫が淡々と答えた。

「お聞かせ願えますか」

「三年生の加藤竜也君です」

「えっー」

 森川が再び大声を上げた。

「あの加藤が……」

 森川が信じられないと言った様子で言葉を漏らした。

「間違いないのですか?」

「昨日、産婦人科の方には行ってまいりました。これが、妊娠証明書です」

 三樹夫が懐から一通の封書を出して、それを森川に見せた。

「妊娠八週目……」

 森川がその書類に目を通しながら呟いた。

「加藤君は、この事は?」

「もちろん知っていますよ。羽純が産婦人科を受診する時も一緒に付いて来てくれました」

「そう……なんですか」

「ちなみに加藤君の御両親もこの事は御存知です」

「えっ?」

 さすが、今度は大声にはならなかった。

「で、これからどうされるのですか?」

 森川が恐る恐る尋ねた。

「もちろん生ませますよ」

「えっ!」

 森川が今まで一番大きな声を出した。

「生ませるって、羽純さんはまだ高一ですよ!」

 森川が声を荒げた。

「学校はどうするんですか? 辞めるんですか?」

「いいえ、このまま普通に通いますよ、だから、わざわざこうやってお願いに来ているんじゃないですか」

「そんな事出来る訳ないじゃないですか、妊娠したままで学校に通うなんて」

と、その時、応接室のドアをノックする音がした。

 ドアが少しだけ開いて、中年の男性教師が顔を出した。

「森川先生ちよっと……」

「あっ、すみません」

 と、言って森川が席を立った。その中年の教師に何か言われ、森川の表情が一変した。

「すみません、田島さん。ちょっとここでお待ちいただけますか?」

 そう言って森川はそのまま部屋から出て行った。

「さて、これからどうなるか」

 三樹夫が薄く微笑んだ。そして、それから二十分程として森川が現れた。

「申し訳ありません、田島さん。長い事お待たせしてしまって」

 と、応接室に入ってくるなり口を開いた。

「失礼いたします」

と、続いて先程の中年の教師と数名が応接室に入って来た。

「田島さん、申し訳ないのですが、事が事ですので他の先生方にもご一緒していただく事にいたしました。よろしいでしょうか?」

 なるほど、そういう事か――

「かまいませんよ。ご迷惑をおかけいたします」

 三樹夫が平然と頭を下げた。

「えーと、こちらが相沢教頭」

 森川がそれぞれを紹介し始めた。三樹夫の正面に今座っている白髪混じりの小太りの男であった。

「教頭の相沢です。生憎と校長が研修のため不在なのですがお許し下さい」

「いえ」

「そのお隣が一学年の学年主任をされている石川先生」

 先程の中年の男であった。

「そして、そのお隣が加藤君のクラスの担任の小林先生です」

 三十代前半のいかにも体育系といった感じの髪の短い男であった。

「それから、私の隣にいるのがブラスバンド部の顧問をされている武田先生です」

 二十代中頃の大学卒業仕立てといった感じの髪の長い女性だった。

「よろしくお願いします」

と、その女が挨拶した。

「田島さん、お話は森川先生から伺いました」

 教頭の相沢が口火を切った。

「出産を希望されているとききましたが、間違いございませんか?」

「間違いありません」

「そのまま学校への通学も希望されているとか?」

 相沢が続けた。

「はい」

「困りましたね」

 相沢が溜息を吐いた。

「先程ですね、加藤君のお母様から電話がございまして」

 竜也の担任の小林が入り込んできた。

 春美が──?

「今、田島さんのお父様が見えてるはずだと。田島さん同様加藤家も今回の事はすべて了承し、その対応を田島さんに任せてあるとおっしゃっておりました」

 春美――

 小林が続けた。

「出来れば学校側は田島さんのおっしゃる事を素直に認めていただきたい。くれぐれも退学等という処置に早まらないよう寛大な対処でお願いしたいと。もし、田島さんの娘さんが退学などの処分を受けるのであれば、竜也も同罪であるから同じ処分を下してほしいと申されておりました」

 ありがとう、春美――

 三樹夫が目を閉じた。

 本当にありがとう――

 三樹夫は心の中で、何度も春美に礼を言った。

「しかし、妊娠した生徒をそのまま通わせるというのは、どうなんでしょう?」

 学年主任の石川が口を挟んだ。

「他の生徒にもかなり悪い影響を与えると思うし……」

「悪い影響?」

 三樹夫がむっとした表情で聞き返した。

「どう言う事ですか?」

「いえ、このまま学校が妊娠した状態での登校を許せば、真似をする生徒も出てくるんじゃないかと……」

「そうですね、妊娠しても、学校から処分を受けなければ、真似をする生徒も出てくるでしょうね」

 教頭が相槌を打った。

「田島さんは出産されるお気持ちに変わりはないんですよね?」

 石川が再び三樹夫に質問した。

「もちろんです」

「そうですか……」

 石川が溜息を吐きながら考え込んだ。

「どうでしょうか、田島さん」

 石川が顔を上げ三樹夫を見つめた。ねちっこい視線が三樹夫に絡み付いた。

「これは、あくまでも提案なんですが、休学されてはどうでしょうか?」

「休学?」

「ええ、妊娠されての登校となると、やはり精神的にもかなり大変になるでしょう。中にはからかったり、冷やかしたりする生徒もいるんじゃないでしょうか。そういう状況では妊婦にもあまり良い影響は与えないでしょうから、ここは一時休学されてですね、無事出産されてから、改めて登校をしていただくと、どうでしょうか?」

 確かに羽純の体調や精神的な事を考えれば、それが一番良いように思えた。少なくても、学校での冷やかし等を受けないで済むのは、かなり精神的にも楽であろう。

「判りました。では、早速娘にこの事を伝え、近いうちに休学届けを出させます」

 三樹夫が先生方に礼を述べた。

「では、私はこれで失礼いたします。今日はお忙しい所お手間をお掛けして申し訳ありませんでした」

 三樹夫が深々と頭を下げて応接室を出た。

 春美、君の御陰だよ。ありがとう──

 三樹夫が階段を降りながら心の中で呟いた。

「田島さん!」

 森川が三樹夫を呼び止めた。

「これ、休学届けです」

「あっ、ありがとうございます」

 三樹夫が礼を言いながら頭を下げた。

「あの、田島さん」

「はい?」

「近いうちに一度、羽純さんの様子を見に御自宅の方へお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、もちろんです。娘も喜ぶと思います」

「ありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ。本当にありがとうございました」

「羽純さんに、身体気を付けるようにお伝えください」

「ありがとうございます。では、失礼いたします」

 頭を下げ、三樹夫は歩き出した。

 職員玄関を抜け、車に乗り込んだ。車内に入ったとたん、モワッと熱気が三樹夫を包み込んだ。

「ふー、暑い暑い」

 三樹夫はエンジンを掛け、窓を開けた。車が走り出すと同時に車内に風が流れ込み、幾分涼しくなった。エアコンのスイッチを入れ、窓を閉めた。

「取り合えず、これで一安心だな」

 三樹夫がハンドルをきりながら呟いた。

 ダッシュボードの煙草に手を伸ばし、それに火を付ける。

 春美の事を考えていた。

 自然と顔が緩んだ。

 明日、朝家に来たらきちんと礼を言わないとな。

 そうだ。加藤さんの所にも電話しとかないと――

 三樹夫はウインカーを上げて車を左に寄せた。

 路肩に車を停車させ、携帯電話を取り出した。

 できれば、春美が出てくれればいいのに──

 フッと笑いが溢れた。

「あっ、もしもし。田島です」

 出たのは武彦であった。

『ご苦労様です。どうでしたか?』

「休学を進められました」

『休学?』

「ええ。やはり妊娠した生徒がそのまま学校に登校するのはあまり良くないと、学校がそう言う事を認めれば、真似をする生徒も出てくるだろうと」

『なるほど、それで休学ですか』

「ええ。でも逆に羽純にとっては良かったと思っています。やはり、学校に行けば色々と気を遣うだろうし、中には冷やかしたりからかったりする人もいるでしょうから」

『そうですね』

「そういう気を遣わずに済むだけ良かったと思います」

『確かにそうですね』

「あっ、加藤さん」

『はい?』

「今日の朝はすみませんでした。奥様にお食事届けていただいて」

『あっ、いえ、家内がどうしてもやりたいと言うもんですから』

「ありがとうございます。本当に助かります」

『いえ、羽純ちゃんには栄養を付けて貰って元気な赤ちゃんを産んでいただかないと』

「ありがとうございます。ところで、今日は奥様は?」

『ははっ、明日の材料を買わなくっちゃって、今買い物に出てるんですよ』

「そうですか、では、奥様にもよろしくお伝え下さい」

と、三樹夫が喋った時だった。

 突然ガーンという凄まじい音共に激しい衝撃が三樹夫の身体を襲った。

 三樹夫は何が起こったのか理解出来ないまま、車ごとガードレールにぶつかっていた。

『もし、もし、田島さん!』

 三樹夫の携帯電話から武彦の声が漏れていた。

 三樹夫はハンドルに胸を打ち付け意識を失っていた。

『田島さん! 何かあったんですか? 田島さん!』

武彦の必死の叫び声だけが車内に響いていた。


第九章


「竜也!」

今まで電話していた武彦は事態の異常さにすばやく対応していた。

呼ばれた竜也が自分の部屋から顔を出した。

「何、父さん?」

「羽純さんのお父さんに、何かあったらしい」

「えっ!」

 竜也が部屋から飛び出してきた。

「どういう事、父さん」

「今、お父様と学校での結果を話していたんだが、突然途絶えた」

「事故?」

「うん、判らんが、途絶える前にガーンという大きな音が聞こえたから、たぶん事故かもしれないな」

「くそっ!」

「落ち着け! こういう時にこそ、男は冷静さを失っては駄目だ。取り合えず、羽純ちゃんの所に行くぞ」

「判った。今携帯取ってくるから」

 言うと同時に竜也は動いていた。

 武彦は自分の携帯から春美に電話していた。

「くそ、出ないか」

「行こう、父さん」

 二人は足早に車に乗り込んだ。

「今、母さんには電話したが出ないから、何回かかけ直せ」

「判った」

 竜也が素早く携帯のボタンを押す。

「出ない」

「出るまで、何回もかけろ!」

「うん」

 武彦がチラリと時計を見た。

 十一時五分。三樹夫と話しをしていたのが十分ぐらい前だから、もし、事故であったとしても羽純の元へ連絡が行くのはもう少し後だろう。

「間に合えば、いいが……」

 竜也は四回目のかけ直しをしていた。

「あっ、母さん」

 竜也が叫んだ。

「今、どこ?」

『スーパーを出た所よ、どうしたの?』

「はっきりわからないんだけど、羽純のお義父さんが事故に遭ったらしいんだ」

『えっ!?』

「今、僕たちは羽純の家に向かってる」

『何、どういう事?』

「高校に行った帰りに父さんと話しをしていたらしんだけど、いきなり途絶えたって」

 春美は言葉を失っていた。

「どっちにしても、羽純の所に警察から連絡が行くまでにはまだもう少し時間がかかると思うんだ」

『判ったわ。ともかく何か判ったら連絡頂戴』

「うん」

 春美が電話を切った。

「お前は羽純ちゃんにショックを与えないようにきちんと状況を説明しろ」

「うん」

「もし、警察から電話があった時はしっかりと支えてやるんだぞ」

「判ってる」

 竜也が力強く答えた。

「大丈夫だよね」

「いいか、竜也。安易な希望は持つな。常に最悪にケースを考え、それに対応出来るよう頭の中でシミュレーションするんだ。安易な希望を持っていると、それが叶わなかった時、人は絶望しパニックを起こしてしまう」

「うん……」

「大丈夫だ」

 竜也にそうは言ったものの、やはり武彦も不安なのだろう。まるで自分に言い聞かせるように何度も呟いていた。

 そして、それから十五分程して二人は田島家に到着したのだった。

「竜也、気持ちをしっかりと持つんだぞ」

 武彦がそう言って竜也の肩をポンと叩いた。

「うん」

「よし、行こう」

 二人は車から降り、玄関へと向かった。

「はーい」

 中から羽純の明るい声が響いた。

竜也はその声を聞いて、少し安心しながら、

「間に合ったね」

と、小さく呟いた。

 ドアが開いて、羽純が顔を出した。

 二人を見て、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変わった。

「どうしたの?」

「少し、お邪魔してもいいかな?」

 竜也の後ろから武彦が声を掛けた。

「あっ、散らかってますけど、どうぞ」

 羽純が二人を居間へと案内した。

 羽純が手際よく麦茶を準備し始めた。

「あっ、羽純ちゃん。構わなくていいよ」

 その様子を見ながら武彦が言った。

 竜也が羽純の元へと歩いて行く。

「僕が持って行くよ」

「ありがとう」

 羽純もソファーに座り、少し緊張しながら武彦を見た。

 竜也はこれからの話しの展開を考え、羽純の隣に座った。

「学校の事ですか?」

「うん。お父さんと先生方の話し合いでは、休学と言う事になったらしい」

「休学?」

 竜也が納得出来ないと言った様子で聞き返した。

「学校側としては、このまま何の処分もなしで登校させる訳にはいかない。一応、羽純ちゃんの体調を気遣う形で、休学を進められたと言っていたよ」

「しかし……」

「私なら、大丈夫よ。竜也さん。一年遅れてもきちんと子育てと両立するし、頑張るから」

「うん、お父さんも羽純ちゃんの体調の事を考えれば、これが一番良い方法だろうとおっしゃっていたよ」

「ところで、父はどうしたんですか?」

 羽純のその問いに二人に緊張が走った。

「その事なんだけどね、羽純ちゃん。落ち着いて聞くんだよ。お父さんね、どうやら学校の帰りに事故に遭われたらしいんだ」

「えっ!?」

「私と学校の事を電話で話している時に、突然通話が途切れてしまってね」

「えっ、嘘? 事故? えっ?」

「落ち着いて、羽純」

 竜也が羽純の肩を抱き寄せた。

「大丈夫だよ、きっと……」

と、その時部屋にあった電話が突然鳴り響いた。

「私が出よう」

 武彦が立ち上がり電話へと向かった。

「はい、田島です」

 電話はやはり警察からであった。

「はい、そうです。はい…… はい……」

 武彦が冷静に対応してゆく。

「はい、わかりました。ありがとうございました」

 武彦が電話を切った。

「やはり、事故だ。村川総合病院に入院されたらしい」

 羽純が泣き出した。

「急ごう、羽純ちゃん」

 竜也がゆっくりと羽純を立たせた。

「大丈夫?」

 羽純が小さく頷いた。

 竜也が羽純の肩を抱きながら歩き出した。

「父さん、ちょっと待ってて」

 竜也が台所へと行って、羽純の携帯を持ってきた。

「家の鍵は?」

「そこに掛かっている右のがそうです」

 竜也がその鍵を持ち、ドアに鍵を掛けた。

 車のドアを開け、三人が乗り込んだ。

 夏の日差しがジリジリと照りつける午後だった。 


 村川総合病院には十分ぐらいで着いた。

 車から降りると同時に武彦が走っていた。

 降りる前に打ち合わせしておいた。病院に着いたら自分が真っ先に受付で話しを聞くから、竜也と羽純はあせらないで、ゆっくりと来なさいと。

 常に竜也が肩を抱いてくれている御陰で、羽純も随分と落ち着いてきているようだった。

「大丈夫かい?」

「ありがとう」

 病院の入り口ですでに武彦が待っていた。

「今、手術中らしい」

「取り合えずそこの前で待とう」

 竜也が羽純を支えながら、ゆっくりと歩き出した。

 土曜日の為、誰もいないロビーを抜けて、三人は一階の奥にある緊急手術室へと向かった。

長い廊下の先に緊急手術室と書かれた看板がぶら下げられており、入り口の上部に手術中のパネルが緑色に光っていた。

その前にある、長椅子に三人は腰を降ろした。

羽純は目を瞑り、顔の前で手を組んだ。組んだ手が微かに振るえていた。

たったの一分が、三十分にも一時間にも感じられた。

誰も一言も喋らず、長い沈黙だけが続いた。

「一応、お母さんの方にも連絡しといた方がいいんじゃないかな」

 竜也がその沈黙を破った。

「うん、その方がいいと思う」

 武彦が相づちを打った。

 一瞬、羽純が困惑の表情を浮かべた。

「お母さん、今日本にいないの……」

武彦が不思議そうな顔をして、羽純を見つめた。

「一昨日、お父さんが私の事でお母さんに連絡した時に、急な用事でイギリスに行くからって言ってた」

「そうなんだ」

 その時、入り口のパネルの明かりが消えた。

 中から手術着を来た医者が現れた。

 三人が立ち上がっていた。

「ご家族の方ですか?」

「はい」

 武彦が咄嗟に答えていた。

「恐らく、命には別状ないと思うのですが――」

 医師が説明を始めた。

「事故の時、胸をハンドルに強く打ち付けまして、その衝撃で胸骨の三番と四番が折れていました。折れた骨が肺に刺さり、かなり間呼吸が出来ない状態が続いたようです。意識が戻らないと何とも言えませんが、恐らく何らかの後遺症が残ると思います」

「そんな……」

 竜也がようやく言葉を吐きだした。

 羽純は泣き出していた。今にも崩れ落ちそうな羽純を竜也は力一杯抱きしめた。

「なんで……」

 武彦が悔しそうに言葉を漏らした。

 医師は静かに頭を下げ、その場を去った。

 続いて、ストレッチャーに乗せられた三樹夫が看護師に付き添われ出てきた。

「お父さん!」

 羽純が叫んだ。

 一人の看護師が三人の元へと歩み寄ってきた。

「田島さんのご家族の方ですね」

「はい」

 武彦が答えた。

「田島さんはこのまま三階の集中治療室に移動します。どなたか入院手続きをいたしますので、御一緒に来ていただけますか?」

「私が行きます」

 武彦が看護師と一緒に歩き出した。

「竜也。羽純ちゃんを頼むぞ」

 竜也が力強く頷いた。


 看護師と一緒に着いて行った武彦であったが、細かい事情を説明しながらだったので、かなりの時間を要した。

 結局、三樹夫の細かい部分は後で羽純が書く事となり、武彦は入院の保証人となった。

 事務所を出た武彦はそのまま一回病院を出て、春美に連絡を取った。

 三樹夫の状態を簡単に説明し、今晩から羽純を泊める事も伝えた。家の中の準備もあるだろうから、すべてが終わってから、羽純と竜也を迎えに来てほしいと話したのだった。

 三階の集中治療室はナースステーションのすぐ隣にあった。

 羽純と竜也はその治療室の前にある控え室のソファーに腰掛けていた。

 ナースステーション内にあるモニター画面から、ピッピッという音が聞こえ、画面の中に緩いカーブを描いた波形が映し出されていた。

 項垂れている二人を見つめながら、武彦は静かに考えていた。

 もし、これが逆の立場であったなら、田島さんならどうするか?

 答えは判っていた。

「どうだ?」

 竜也が小さく首を振った。

「今、お母さんに電話したよ。羽純ちゃん、今日から私の家で寝泊まりしなさい」

「えっ? いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「遠慮する事はないよ。こんな状況だし、とても羽純ちゃんを一人でなんて置いとけないよ」

「でも、ご迷惑がかかるし……」

「何を水くさい事言ってるんだ。君はいずれ加藤家の嫁になる人なんだよ。その時期がちょっと早まっただけさ」

 竜也が真剣に訴えた。

「ありがとうございます……」

 羽純が涙ぐんだ。

「ああ、また、泣く。今日は羽純少し泣き過ぎ。そんなに泣いてばかりだと身体にも良くないよ」

 竜也がわざと明るく振る舞った。

「ここに居ても、気が滅入るばかりだ。少し外に出よう」

 武彦が二人に言った。

「大丈夫。看護師さんには私の携帯の番号を教えてあるから、何かあったらすぐに知らせてくれるよ」

「でも……」

「ともかく、先生も命には別状ないって言ってるんだし、こんな事していたら羽純ちゃんの身体の方が先に参ってしまうよ」

「すみません。ご心配お掛けして……」

「よし、行こう」

 竜也が羽純を立たせた。

「大丈夫?」

 羽純が頷いた。

 そして、三人は集中治療室を後にした。

 辺りはすでに夕闇に包まれていた。

 

     第十章


 一階に降りて病院の入り口まで来たところで、春美が息を切らして駐車場から走ってきていた。

「母さん!」

 竜也が叫んだ。

「どうなの?」

 ハア、ハアと苦しそうだった。

「まだ、意識は戻らないよ」

 武彦が答えた。

「大丈夫ですか、お母様?」

 羽純が心配そうに尋ねた。春美は初めて呼ばれたお母様に少し戸惑った。

「私は、大丈夫。それより、気をしっかり持つのよ、羽純ちゃん」

「はい、ありがとうございます」

 羽純が頭を下げた。その羽純の様子を見ながら春美が思い出したように小さな声を上げた。

「その頭を下げるの、妊婦にはあまりよくないのよ。これからは気を付けなさい」

「はい」

「いいこと。妊婦は偉いの。だからペコペコしなくていいのよ。大きくふんぞり反ってればいいの。判った?」

「はい」

「どっちにしても、後三ヶ月もすれは自然とふんぞり反るけど」

 羽純がうっすらと微笑んだ。

「丁度良かった。今からみんなで食事にでも行こうと思っていたんだ」

「貴方、夕食の支度はして参りました。このまま家に戻って少しゆっくりとして下さい」

「君はどうするの」

 武彦が尋ねた。

「私は、羽純ちゃんの代わりにみ……、田島さんに付こうと思っています」

 春美はしまったと思っていた。今、思わず三樹夫さんと言いそうになってしまったが、それについては誰も気付いていない様だった。

 内心ホッとしながら小さな溜息を吐いた。

「いけません。お母様。父に付くのであれば、私が……」

「羽純ちゃん。いい加減にしなさい!」

 春美が怒鳴った。

「あなたの身体は、もうあなた一人のものじゃないのよ」

 春美のあまりの真剣な怒りっぷりに、羽純はまるで本当の母親のような錯覚を覚えていた。

「ごめんなさい……」

「ともかく、お父さんの事は私に任せて置きなさい」

「はい、よろしくお願いします」

と、頭を下げかけて、羽純は慌てて中断した。

「竜也」

「はい」

「羽純ちゃんには二階の和室を使ってもらって、必要と思うものは一応揃えておいたつもりだけど、もし、足りないものがあったら明日お義父さんと一緒に行って取ってらっしゃい」

「はい」

「よろしいかしら、貴方?」

「ああ、構わんよ」

「ありがとう、母さん」

「あまり、無理するなよ」

「ええ、貴方も気を付けて」

 武彦が頷いた。

 そこで、四人は別れた。

 

 春美は武彦達をその場で見送ると、足早に三階の集中治療室へと向かった。

 ナースステーションで挨拶を済ませ、三樹夫が居る部屋へと入って行った。

「三樹夫さん……」

 春美が小さく声を漏らした」

 ベッドの脇に置かれている人工呼吸器から、規則正しいプシューと空気を送り込む音が聞こえていた。

 胸には包帯が巻かれ、大きく開いた口には挿管チューブが入っていた。

「どうして?」

 春美がゆっくりと三樹夫に近づいてゆく。その瞳からは自然と涙が零れ落ちていた。

「やっと……」

 春美が声を詰まらせた。

 無意識に三樹夫の手を握り締めていた。

「やっと貴方の事が、理解出来たと思ったのに……」

 春美が崩れるように三樹夫の脇に跪いた。

「お願い、もうあの時のような思いは嫌……」

 春美が泣きじゃくった。

 その時、春美が握り締めていた三樹夫の指がピクンと微かに動いた。

 春美が、鋭くそれに反応した。

「三樹夫さん!」

 また、三樹夫の手が動いた。

 春美は泣きながらその手を優しく握り返した。

 三樹夫もそれに答えた。

 そして、三樹夫はうっすらと目を開けたのだった。

 涙が止まらなかった。春美は握り締めている三樹夫の手を、自分の頬に当てた。

かつて深い傷を負って別れてしまった恋人同士が、二十六年に歳月を費やしてその心と心が、重なり合った瞬間であった。

三樹夫は静かに瞼を閉じ、涙を流した。

今の二人に言葉など必要なかった。

薄く三樹夫を照らしていたベッドランプが、重なり合った二人を優しく包み込んでいた。

 

武彦が春美から三樹夫の意識が戻ったのを知らされたのは、夜の十時過ぎだった。

すでに羽純は、昼間の疲れからかぐっすりと眠りに就いていた。

武彦の判断で、三樹夫の事は明日伝える事にした。

「大変だったね、君も疲れたろう」

 武彦が春美に労いの言葉を掛けた。

 春美は、携帯電話から伝わってくる武彦の優しさに心が痛んだ。

「君も帰ってきて早く休んだ方がいい」

『それが、貴方。意識は戻ったと言ってもまだ状態は安定してないの』

「そうなのか」 

『ええ、もう少し落ち着くまでこちらにいます』

「判った。無理するなよ」

 それで、春美は電話を切ったのだった。

 春美が溜息を吐いた。

 先程の医師の言葉が蘇ってきた。

「田島さんは、離婚されて身内の方はお嬢さんお一人だけなんですね?」

 三樹夫の意識が戻り、すぐに診察をした担当医竹場が春美に尋ねた。

「お嬢さんは現在高一で、妊娠もされていると……」

「はい」

「で、貴女、加藤さんがお嬢さんの相手の母親なんですね」

「そうです」

「お嬢さんは出産予定と聞きましたが……」

「はい」

「と、言うことは田島さんのお嬢さんと貴女の息子さんはいずれ結婚されるのですね」

「先生!」

「はい?」

 春美が少しイライラしながら尋ねた。

「さっきから何なんですか?」

「あっ、申し訳ない」

 竹場が机の正面に張られているレントゲン写真を見つめながら謝った。

「嫌、実は告知に関する事なので、田島さんの場合どなたにした方が良いかと思いましてね。気に障ったらごめんなさい……」

「告知って?」

 春美が不安げな表情で竹場を見つめた。

「まだ、正式な検査をしていないので、断定は出来ないのですが、今回の事故で肺の手術をした時に、癌が見つかりました」

「えっ? 今何とおっしゃいました。先生……」

「癌が発見されたと、言いました」

「癌?」

「ちょっとこれを見て下さい。この写真は事故直後に撮られた胸部のX線写真です」

 竹場が持っていたボールペンで、その写真の下の方を指した。

「ここです。この白く写っているのが、癌です」

「嘘……」

 春美が涙を浮かべた。

「恐らく、この癌は原発層ではありません」

「原発層?」

「あっ、すいません。癌が最初に出来た部位のことです。この肺の癌は多分転移によるものです」

「転移……ですか?」

「身内の方が未成年で、それも妊娠されているとなれば、やはり告知はしない方が良いでしょう」

「そんな……」

 春美が泣き崩れた。

「明日、もう一度詳しい検査を行いますので、申し訳ないのですが、三日後にまた来ていただけますか?」

「三日後ですか?」

「十時に外科外来に来て下さい」

「判りました」

 春美は呆然としたまま、三階の外科医局を後にした。

 そして、そのままトイレへと駆け込み、力一杯泣いた。

 かつて、三樹夫の子供を堕ろした時も激しく泣いたが、今はそれ以上に泣き苦しんだ。

 春美がようやく気持ちの落ち着きを取り戻したのは、トイレに籠もってから三十分程してからであった。

 三樹夫と羽純ちゃんには絶対知られてはならない――

 春美は心の中でそう強く思った。


 翌日、三樹夫は朝早くから目覚めていた。

 ベットの隣にあるソファーで春美が穏やかな寝顔で眠りに就いていた。

 ずっと居てくれたのか─―

 ありがたいと思うのと同時にうれしさが込み上げてきた。

 こんな安らかな寝顔で君は眠るのか──

 三樹夫がしみじみと春美を見つめた。

 愛おしかった。春美のすべてが、この女の何もかもが愛おしかった。

 しかし、それはけして現してはいけない感情であった。

三樹夫がその気持ちを抑えようとすればするほど、三樹夫の感情は激しく暴走しようとするのだった。

俺はこれから先、春美に対して気持ちを抑え続ける事が出来るのだろうか?

出来ない――と思った。

春美のそばにいる限り、いつか俺は自分の気持ちを爆発させてしまい、みんなを傷付けてしまうだろう──

それだけはしたくなかった。

そうなる前に、俺はみんなの前から消えるべきなんだ。

愛する人達を、傷付けてしまうその前に──

その時、突然春美が驚いたように目を開け、飛び起きた。

起きている三樹夫を見つめ、安心した表情を浮かべた。

「ごめんなさい。眠ってしまったのね、私……」

 三樹夫が微かに首を横に振ろうとしたが、首全体が何かに固定されているためそれが出来なかった。

「駄目よ、動かしちゃ」

 春美が慌てて三樹夫の隣へと座った。

「大丈夫? 痛い所ない?」

 三樹夫が瞬きで答えた。

 せっかく春美とこうして二人きりになれたというのに、口に入れられている挿管チューブのために三樹夫は一言も喋れなかった。

「でも、本当に良かったわ……」

 春美が微笑んだ。

「あれほどの大きな事故のわりには、これだけの怪我で済んで……」

 三樹夫が二度瞬きをした。

「トラックの居眠り運転だったそうよ。貴方の後ろから突っ込んで行ったのは」

 そうだったのか――

「トラックがぶつかった瞬間に首に強い衝撃を受けて頸椎の捻挫ですって。鞭打ち症ってやつね。それから胸をハンドルに強打しているので、胸の骨も折れてるらしいの」

 その後の骨が肺に刺さった事は、あえて言わなかった。

「今日、もう一度、身体全体の精密検査を行うそうよ」

 三樹夫が瞼を閉じた。

「検査まではまだ時間があるから、もう少し休んだ方がいいわ」

 三樹夫が不安そうな表情でまた春美を見た。

「大丈夫よ。私はどこにも行かないから、ずっとあなたのそばにいます」

 三樹夫がまた瞼を閉じた。その閉じた瞼から涙が溢れていた。

 そして、その数時間後。三樹夫の精密検査が始まった。

 しかし、その検査は三樹夫の死を決定づけるものであった。

 三樹夫はその過酷な運命も知らず、春美との幸せな一時を過ごしていた。


     第十一章


 あっという間に三日が過ぎた。

 その間に変わった事と言えば、三樹夫の口の中に入れられている挿管チューブが抜け酸素マスクに変わった事ぐらいであった。

 だが、これは三樹夫にとって大きな変化であった。チューブが抜けた事により、自由に春美と喋る事が出来るのであるから、三樹夫にとってはこんなにうれしい事はなかった。

 三樹夫の意識が戻った翌日、羽純たちが来ると言っていたのだか、チューブが入っていて喋る事が出来ないからと、三樹夫自身が断っていた。

「でも、チューブが抜けて本当に良かったわ」

 春美がうれしそうに呟いた。

「本当に、何もかも君の御陰だよ」

 春美が静かに首を振った。

「そう言えばあの日、私が学校に行った日。君、学校に電話をしてくれたんだって」

 春美は何も言わなかった。

「ありがとう。君に会ったらまず最初にお礼を言おうと思ってた……」

 春美は優しく微笑むだけだった。

「本当に……」

 三樹夫がその春美の美しい笑みを見つめながら、言葉を詰まらせた。

 言ってしまいたかった。自分が今まで抑え続けていた気持ちを──

 自分がどれだけ後悔し続けたかを――

 心が折れそうになった時に、どれだけ春美の存在に救われたかを─―

 今なら、言ってしまってもいいのではないか?

「春美……」

と、三樹夫がその名前を呼んだ時だった。

 ドアをノックする音が響き、二人の間の空気に緊張が走った。

 部屋に入ってきたのは羽純と竜也であった。

「お父さん……」

 羽純が三樹夫の顔を見て涙ぐんだ。

 羽純にとっては事故後に見る三樹夫の元気な姿であった。

「どう? 羽純ちゃん。体調の方は……」

 春美が尋ねた。

「御陰様で絶好調です」

「皆さんに、迷惑かけてないか?」

「一番迷惑かけているのはお父さんでしょ」

 そう言って羽純が笑った。

「そうだな……」

 つられて三樹夫も笑った。

「痛々……」

 と、三樹夫が笑いながら呻いた。

「竜也、お父さんは?」

「僕たちを病院まで乗せてきて、まっすぐ仕事に行った」

「そう……」

「打ち合わせだけだからって言ってたよ。終わり次第顔を出すってさ」

「じゃ、お母さんもちょっと用事を済ませてくるわ。田島さんをお願いね」

 春美はそう言って病室を出ると、一階外科外来へと向かった。


 外科外来へ着くと、受付の看護師に自分の名前を名乗った。

 すぐに奥の診察室へと通された。

 診察室のドアをノックし中に入ると、竹場医師が、春美の姿を見てイスから立ち上がった。

「すいません。お忙しいのにわざわざ……」

「結果は、出たんですか?」

 春美が待ち切れずに、竹場に尋ねた。

「はい」

と、竹場が静かに答えた。

「どうぞ、まずはそちらにお掛け下さい」

 春美は言われるままに、パイプイスに腰を降ろした。

「率直に申します。田島さんは膵臓癌です」

「膵臓癌……」

 春美が激しい目眩を覚えながら呟いた。

「膵臓癌は、癌の種類では自覚症状の少ない癌と言われています。ですから、その自覚症状が出た時には、ほとんどの場合手遅れなんです」

 春美が両手で口を押さえ、息を呑んだ。

「田島さんの場合、膵臓を原発として、様々な臓器に転移が見られます。この状態ではもう手の施し様がありません」

春美が泣き出していた。

「残念です……」

「そんな、何とかならないんですか?」

「後は出来るだけ、苦痛がないように死なせてあげるだけです」

「あと……」

 春美の声が震えていた。

「彼は、あとどれくらい生きられるのでしょうか?」

「長くて半年。恐らく三ヶ月がいい所でしょう……」

「そんな……」

 春美が泣き崩れた。

「それじゃあ、彼は生まれて来る子供を見る事が出来ないのですか?」

 竹場が静かに頷いた。

「酷すぎます、先生……」

 竹場は項垂れたままだった。

 春美は、ただ泣き続ける事しか出来なかった。


 三樹夫の事故の怪我が完治したのは、秋も終わりに近づいた十月の下旬だった。

 ただ、さすがにこの頃になると、癌の進行と共に三樹夫の身体にも異変が現れていた。

 背中から腰に掛けての痛みは、ほとんど毎日続き、身体は以上に痩せて顔には黄疸の症状が出始めていた。咳も時折するようになっていた。

 とても、この状態では病状を隠し続ける事も出来ず、痛み止めの治療のモルヒネ投与も含めて本人への告知が行われた。

 ただ、告知した時点で三樹夫はすでに自分の病状に感づいており、冷静にそれを受け止めたのであった。

「ありがとうございます、先生。これでやっとけじめを着ける事が出来ます」

「けじめ?」

 竹場が聞き返した。

「一つだけ先生にお願いがあるんです」

「いいですよ。何でも言って下さい」

「痛み止めは、普通の痛み止めを使って下さい。絶対にモルヒネ等は使わないで下さい」

「しかし、田島さん! この癌の痛みは通常じゃありませんよ」

「先生、五年前に私の父は肺ガンで亡くなっております。その時、痛み止めにやはりモルヒネを使いました。しかし、息を引き取る時は全くの別人のようでした。お願いです。私は最後まで私のままで死んで逝きたい……」

「判りました」

「ちなみに、私はあとどれくらい持つのでしょうか?」

「田島さん。こればかりは抗ガン剤の効き目に左右されますので、はっきりとした事は申し上げれません。しかし、残念ながら恐らくお孫さんを見ることは出来ないでしょう……」

 竹葉が鎮痛な面持ちで答えた。

 三樹夫が溜息を吐きながら笑った。

「そうですか、やっぱり羽純の子供は見れないのか……」

 三樹夫の視線が窓の方へと向けられた。

「田島さん。最後まで希望を持って頑張りましょう」

 三樹夫が小さく頷いた。

 竹場が病室から出るのを確認し、三樹夫は苦痛で顔を歪めた。

「うっ……」

 咽せるような声が三樹夫の口から漏れた。

「ああっ……」

 死にたくない――

 と素直に思った。

 そう思った瞬間、涙が溢れた。

「ぐっうっ……」

 生きたいと今は心から思う。

 歯を食いしばり言葉を飲み込んだ。

 怖かった。堪らなく死が怖かった。

「あ──!」

 その恐怖に耐えきれず、三樹夫が声を上げた。

 全身が震えて止まらなかった。

 春美!

 心の中で何度もその名を叫んだ。

 今まで何度もそうしてきたように、三樹夫は愛しい人の名前を呼びその笑顔を思い浮かべた。

 そして、この時三樹夫は自分が新たに犯そうとしていた罪にようやく気がついた。

 駄目だ──

 死んで逝く俺が、これ以上春美と関わったらまた昔と同じく春美を傷付けてしまう──

 それだけは絶対に駄目だ!

 春美は俺を許してくれた。しかし、その優しさに甘えてしまったら俺の死んだ後傷つくのは春美自身だ。

 三樹夫は唇を噛み締めた。

 死に甘えたら駄目だ──

 ベットの上で頭から布団を被り、三樹夫は涙を流しながら必死にその恐怖と戦っていた。

 

 翌日は土曜日という事もあって、午前中から羽純達が三樹夫の元に訪れていた。

 家族全員が三樹夫の病状を知っている事もあり、病室が重苦しい雰囲気に包まれていた。

 その重苦しい雰囲気を少しでも和らげようと三樹夫は出来るだけ明るく振る舞った。

「すいません、加藤さん。お忙しいのにわざわざ……」

 三樹夫が小さく頭を下げた。

「いいえ。田島さんは何も心配なさらずゆっくりと静養なさって下さい」

「ありがとうございます」

「出来るだけ妻には田島さんの所へ来るようにさせますので……」

「実はその事なんですが加藤さん。奥様には羽純の事でかなり御迷惑をお掛けしてしまっておりますし、その上私までもとなると奥様の負担は並大抵のものではないと思うんです」

 三樹夫のその言葉に、春美が驚いた表情を浮かべた。

「私の事は看護師さん達がほとんどやってくれますので、羽純の子供が生まれるまではそうそうここに来なくても大丈夫です」

「しかし、田島さん!」

 武彦が言いかけた言葉を飲み込んで三樹夫を見つめた。

「大丈夫ですよ。加藤さん」

 三樹夫が力強い視線を武彦に送った。

「羽純の子供が生まれるまで、私は絶対に死にません」

 そう言ってその視線を春美に送った。

 三樹夫が笑いながら一人づつに視線を送る。

「そうだ、気が早いかもしれないけど、生まれて来る子供の名前を考えたんです……」

「聞かせて下さい」

 武彦が一同を代表するように尋ねた。

「希望の望に夢と書いて、望夢のぞむというのはどうでしょうか?」

「望夢。良い名前ですね」

 武彦が噛み締めるように呟いた。

「生まれて来る子は、この家族の希望になるはずです。そして、今の時代は夢を持つ事が難しい時代だ。だからこそ、この子には夢を抱いて人生を生きて欲しい」

 三樹夫の言葉がそこにいる全員の心に染み渡った。

「残念な事に、私はこの子の成長して行く姿を見る事が出来ない。でも、この子が生まれる事で私の存在はきっとみんなの心の中に残れるような気がするんです」

「お父さん……」

 羽純が泣きながら三樹夫の手を握り締めた。

「羽純。一番お前を支えて上げなければならない時に、お父さんは結局何もしてやれない。本当にごめん」

 羽純が三樹夫にしがみつき泣きじゃくった。

 三樹夫が羽純の頭を優しく撫でた。

「泣いてばかりでは、お腹の子に良くないぞ」

「だって……」

「羽純! お父さんはもうお前を守って上げる事が出来ないんだ。お前はこれから自分の子供を守って上げなくちゃならないんだよ。判るね。子供を守るために強くならなくちゃ駄目だ」

 三樹夫が竜也に視線を送る。

「竜也君。羽純の事、頼みます」

「はい」

「加藤さん、不束な娘ですがよろしくお願いいたします……」

「田島さん……」

「なんか、すいません。しみったれた事ばかり言ってしまって。今日は本当にありがとうございました」

 三樹夫が笑った。

 その微笑みを春美が辛そうな表情で見ていた。

「ちょっと疲れましたので、休ませていただきます」

「あっ! すいません。どうぞ、ゆっくり休んで下さい」

 武彦が竜也に目で合図する。

「行こう、羽純」

 竜也が促した。

「春美、私達も失礼しよう」

 春美が名残惜しそうな視線を一瞬三樹夫に送る。

 その視線を三樹夫は心に焼き付け、ゆっくりと目を閉じた。

 やがて、病室のドアが閉められ一瞬の静寂が訪れる。

 目を閉じたまま三樹夫は、ゆっくりと時を数えていた。

 春美達が自分の病室の前から完全に離れる時を――

 この全身を貫く激痛に耐えきれず、声を出しても良い時間を静かに涙を流しながら数えていた。

 


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