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 第四章~第七章

  第四章


「お客さん、来てたの?」

 階段から降りながら羽純が尋ねた。

「えっ?」

「だって、さっきコーヒーカップがあったから」

 三樹夫は優しく微笑み、羽純を見つめた。

「お母さんが来てたんだ」

「えっ?」

 三樹夫のその一言ですべてを悟ったらしく、羽純はそのままゆっくりとソファーに腰を降ろした。

 困惑したような、緊張しているような複雑な表情で三樹夫を見つめた。

「話、聞いた?」

 羽純が恐る恐る尋ねた。

「ああ」

 と、短く返した。

「ごめんなさい」

 羽純が頭を下げた。

「何故、謝る?」

「えっ?」

 羽純が不思議そうな顔で三樹夫を見つめた。

「最初、お母さんからその事を聞いた時、正直ショックでどうしようもなかったよ。嫌、今でもまだ信じられないくらいだよ。でも、羽純の事を考えたら一番不安なのはお前自身だろうし、お父さんが落ち込んでいる場合じゃないだろう。それに羽純はいい加減な気持ちでこういう事になってしまった訳ではないだろう?」

 羽純はその瞳に涙を浮かべながら力強く頷いた。

「だったら、謝るな。お前はけして悪い事をした訳じゃない。人を真剣に好きになっただけだ」

「お父さん……」

 羽純が言葉を詰まらせた。

「で、羽純はどうしたいんだ?」

 三樹夫が優しく尋ねた。

「怖くて不安だけど、でも堕ろしたくない……」

「わかった」

 三樹夫が力強く答えた。

「お前は何も心配しなくていい。お父さんが安心して子供を生めるようにして上げるから」

「いいの?」

「いいも悪いもないだろう。羽純が初めて真剣に好きになった人の子供だろう。そんな堕ろすなんて事が出来るはずないじゃないか」

 羽純が三樹夫に抱き付いて泣きじゃくった。

「でも、これからが大変だぞ」

 三樹夫が羽純の頭を撫でながら呟いた。

「判ってる」

「学校でも色んな事言われるぞ」

「覚悟も出来てる」

「辛いぞ」

「大丈夫、私一人じゃないもん。この子もいるし、お父さんもいる」

「そうか、母は強しだな」

 羽純が笑った。しばらくぶりに見る羽純の笑顔だった。考えてみれば、美佐子と離婚してから羽純の笑顔など見た事がなかった。

「羽純。一つだけ聞かせてくれないか?」

「なに?」

「相手は誰なんだ?」

「駄目! それだけは駄目、お父さん」

 羽純が悲しそうな表情を浮かべた。

「どうして?」

「だって、彼に迷惑が掛かるし、今が一番大事な時期だもん」

「羽純。離婚したお父さんが言うのも変だけど、親は子供に対して平等だと思うんだ。片方の責任が軽くて、片方の責任が重いという事はないと思うよ。その人に迷惑が掛かるからすべての責任を自分が負うというのは、間違っていると思うけどね」

「でも……」

「生まれて来る子供の為にも、彼は父親としての責任は果たすべきだと思うよ」

「……」

「生まれて来た子供に、父親が居なくては可哀想だろう」

 羽純が小さく頷いた。

「相手の人は、加藤竜也君だね?」

 羽純が驚愕の表情を浮かべた。

「どうして?」

「こう見えても、結構お父さんは勘が鋭いんだぞ」

 三樹夫が笑った。

「まずは明日、病院へ行こう」

「うん」

「よし、明日から忙しくなるぞ!」

 そう言って三樹夫が羽純の頭を激しく撫でた。

「お前は、部屋に行ってもう休みなさい」

「うん」

「これからは、階段の昇り降りは慎重にするんだぞ」

「うん」

 羽純はゆっくりと階段を昇り始めた。

「ありがとう、お父さん」

 階段の途中で羽純が笑いながら呟いた。

 奇妙なテレくささがあったが、三樹夫は今までに味わった事のない充実感を覚えていた。

 羽純が部屋に入るのと同時に、大きな溜息を吐きながら三樹夫は全身の力が抜け落ちるようにソファーに腰を降ろした。

 深くゆっくりともう一度大きな溜息を吐き、三樹夫は煙草に火を付けた。

 あの時も今日のようにしていたら、と三樹夫は思った。

 春美に対して逃げずに接していたら、春美を傷付けずに済んだのに――

 嫌、過去の春美との事があったから、羽純に対してはこういう対応が出来たのだろう。

 春美との事がなければ、恐らく羽純を怒鳴りちらし無理矢理にでも中絶させたに違いない。

 結局、俺は誰かを傷付けなければ、こういう対応は出来なかったという事だ。

 なんと、愚かな男なのだろう。つくづく自分に愛想が尽きる。

 だか、そんな男でもこれからは羽純をきちんと守らなければならない。

 恐らく、この事が公になれば、様々な非難中傷があるだろう。

 これ以上、羽純を傷付けるような事は絶対してはならない。

 もしかしたら会社からも何らかの対応をされるかもしれない。

 そう言う事に耐えて行けるのか?

 嫌、耐えなければならないのだ。どんなことをしても、羽純のためにも──

 三樹夫はこれから起こるであろう様々に出来事を想定しながら、一人決意を新たにするのであった。


「病院か……」

 長い一日がようやく終わりかけ、三樹夫は自分の部屋で缶ビールを飲みながらボンヤリと呟いた。

 今日一日だけで三樹夫の精神的疲労はピークに達した。いつもなら缶ビール一本ぐらいで酔ったりしないのだが、今日に限っては酔いの廻りが早かった。

 まだ半分くらいしか飲んでいないのに、眠気が三樹夫の全身を包んでいた。

 全身が心地よくフワフワしていた。こんな酔い方は久しぶりであった。春美と同棲していた時にこんな酔い方をした覚えがあった。

 三樹夫は足をフラフラさせながら、ベッドへと倒れ込んだ。

「はははっ」

 何が可笑しいのか判らなかったが、笑いが溢れた。

「そう言えば、あの時も春美は真剣に怒っていたっけ」

『もうー、人が真剣に話しているのに、どうしていつも貴方はそうなのよ』

 怒った顔がたまらなく可愛かった。その顔を見たくてわざと怒らした事もあった。

『こめん』と謝るとまたムキになって怒ってくる。

『また、すぐにそうやって謝るんだから、謝れば良いと思ってるでしょ!』

 何度、そうやって喧嘩した事だろう。あの頃の何も考えずに春美と過ごした日々が懐かしかった。

思考がどんよりと重くなって、心地よさだけが身体にあった。

指一本動かしたくなかった。

「ごめん……」

と、三樹夫はボソリと呟き眠りに就いた。


 ドアをノックする音が最初意識の中に飛び込んできた。

「お父さん、起きてる?」

 羽純の声だった。

 ガバッと顔を上げて時計を見た。

 八時三十分。

「しまった!」

 三樹夫は急いでベッドから降りるとドアへと向かった。

「ごめん、羽純。寝過ごした」

 ドアを開けながら三樹夫が呟いた。

「すぐに学校……あっ」

 羽純が笑った。

「そうか、夏休みだった」

「っていうか、お父さん仕事だいじょうぶなの?」

 昨日の記憶が蘇ってきた。

「ああ、昨日に内に会社には今日は休むからって連絡してある」

 そうなのだ。今日は羽純と一緒に産婦人科に行かなければならないのだ。

 この、まだ十六にもなっていない娘がよりにもよって妊娠してしまうなんて。神はなんて惨い試練を与えるのだろう。無邪気に笑っている羽純の顔を見ていると、未だに三樹夫はそれが質の悪いいたずらのように思えてならなかった。

「ご飯、出来てるよ」

「すまない。今日から栄養のあるご飯を作ろうと張り切っていたのに、初日からこれじゃ先が思いやられるな」

 三樹夫は済まなさそうに自分を責めた。

「早く、着替えて下に降りてきてね」

「ああ……」

 やっぱり、ビールなど飲むんじゃなかった──

 半分残っている空き缶に視線を移しながら、三樹夫は煙草に火を付けた。

 紺のスラックスとベージュのシャツに着替え、三樹夫は煙草を消して部屋を出た。

 洗面所で顔を洗い、鏡を見つめた。小さく溜息を吐き、両手で自分の顔をパンと叩いた。

「しっかりしろ。三樹夫!」

 自分に言い聞かせ、三樹夫は食卓に着いた。

「うおー。凄いな。これ全部羽純が作ったのか?」

「他に誰が作るのよ」

 テーブルにそれぞれスクランブルエッグとトースト。サラダ。コーンスープが並べられていた。

 三樹夫がコーンスープを啜った。

「うん。美味い。羽純は良い奥さんになれるぞ」

 羽純が微笑んだ。

「ねえ、お父さん」

「うん?」

 三樹夫がトーストを囓りながら羽純を見た。

「昨日ね、あれから彼に電話したの……」

 羽純がスクランブルエッグをスプーンでいじりながら呟いた。

「竜也君は今回の事知っているのかい?」

 台所からサイフォンから最後のコーヒーが落ちるグツグツっという音が聞こえてきた。

「うん。昨日話した。それでね。病院に自分も一緒に行ったら駄目ですかって言ってるんだけど……」

 羽純がチラリと上目使いで三樹夫を見た。

「駄目じゃないさ。いずれ彼にも会わなければならないと思っていたけど、彼がそういう気持ちならお父さんもありがたいよ」

「本当?」

「やっぱり、彼は一本筋が通っている子なんだね。さすが、羽純が好きになるだけの事はあるな」

「ありがとう、お父さん」

「このコーンスープ。本当に美味しいな」

 三樹夫は何となく照れくさくて話しを誤魔化した。

「所で、何時に待ち合わせしているんだい?」

「十時にこの家に来る事になってるの」

「十時? それじゃ急がなくちゃ駄目じゃないか」

 十時まで、あと四十分程であった。三樹夫は慌てて残りのスクランブルエッグとサラダを平らげた。

「そんなに慌てなくても、まだ大丈夫でしょ」

「初めて娘の彼氏に会うんだぞ。お父さんだって、心の準備というものがある」

「ふーん」

「それに、ちょっとネットで調べて置きたい事もあるから、お父さん二階に行ってるぞ。美味しかったよ、ごちそうさま」

 三樹夫はそう言うと椅子から立ち上がり、階段を昇って行った。

 部屋に入った三樹夫はすぐにパソコンを開き、この近所の産婦人科を検索し始めた。

 数件の産婦人科がヒットした。その中から更に三樹夫は女医の産婦人科を絞り込んだ。

 二件ヒットした。三樹夫はそのディスプレイに映し出された院長の経歴や病院案内をくまなく目を通し始めた。

「滝産婦人科か、ちょっと遠いけどここにするか」

 ディスプレイに向かって三樹夫が呟いた時だった。階段の下から羽純の声がした。

 ちらりと時計に視線を移した。

 九時五十五分。

 三樹夫は大きく深呼吸をすると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 俺は彼の前で、冷静で居られるだろうか?

 いや、居られるか?じゃなく、絶対に冷静でなくてはならないのだ。

「春美の息子か……」

 ポツリと呟き、三樹夫が静かに部屋から出て行った。


 階段を降りると、玄関に加藤竜也が待っていた。

 三樹夫の姿を見るなり深々と頭を下げた。

「加藤竜也です」

 頭を下げたまま竜也が呟いた。

「羽純の父です」

 三樹夫が竜也の前に立ち、静かに答えた。

「申し訳ありません」

「ほう。何故謝るのかね?」

「昨日、羽純さんから電話をいただきました。お義父様が僕達の事を許してくれたって」

「それは違うな、竜也君。私は羽純が妊娠してしまったという事実を受け入れただけであって、君の事を許した訳ではない」

「お父さん!」

 羽純が険しい表情で三樹夫を見た。

「親と言う者はいつだって子供の幸せだけを願っているもんなんだよ。もし、君が羽純の事を幸せに出来そうもないと私が判断したら、その時は遠慮なく君の事を殴らせてもらうよ」

「判りました」

 そう言って竜也は顔を上げて三樹夫を見つめた。

 この子が春美の息子――

 三樹夫がじっくりと竜也の顔を眺めた。

 なるほど、目元なんか春美にそっくりではないか──

「それで、さっき謝った理由は何なんだ?」

「はい。一つは大切なお嬢様を傷付けてしまった事に対して。もう一つはこの事実が判ってから今日までここに来なかった事についてです」

「なるほど」

 さすがに春美の息子だけあってきちんと筋が通っている――

「しかし、君は今羽純を傷付けてしまったと言ったね」

「はい。精神的にも、肉体的にも深く傷付けてしまいました。申し訳ございません」

 竜也が再び頭を下げた。

「愛し合っていれば、肉体的にも結び合うのは自然な事と思う。心と心が通じ合った肉体関係となればそこに傷が出来る事はないと思うのだが……」

「お義父様のおっしゃる通りです」

「それであるなら、君が羽純に対して傷付けてしまったと言ったことは、君が羽純に対して真剣ではなかったと解釈していいんだね」

「それは違います」

 竜也が再び顔を上げ、力強い視線を三樹夫に送った。

「僕は羽純さんを心から愛しています」

 父親を目の前にして、この子は何ら臆する事なくその言葉を口に出来るのか──

「しかし、愛し合っているからと言って、すぐに結ばれて良いとは思っておりません」

 その凛々しい眼差しが再び三樹夫の視線を掴んだ。その奥には一種の気迫のようなものすら感じられた。

「責任能力もないのに、ただ愛しているからと言って肉体関係に溺れるようなことになれば、それは最終的に女性を傷付けてしまうことなんだよって、母が言っておりました。そうなった時には女性は重い代償を払わなくてはならないからと……」

 三樹夫は完全に打ちのめされてしまっていた。

 かつての恋人の息子の口から、自分の傷を聞かされようとは思ってもみなかった。

 息子にはそう言う男にはなって欲しくないと思い、春美はその話をしたのだろうが、三樹夫にとってはあまりにも残酷過ぎた。

重い代償か……

 三樹夫が心の中で呟いた。

 君は、すばらしい子供を育てたんだね――

「良く、判ったよ……」

と、三樹夫は自分自身に言い聞かせた。

「ありがとうございます」

 竜也がまた深々と頭を下げた。

 いや、今のは君に言ったのではなくて──と言いたかったが思い止まった。

 このまま、この子と話しをしていれば、昔の傷を掘り返されそうで怖かったのである。

 そして、話しいる内に自分はどんとんと冷静さを失い、より一層惨めに傷つくだけだろう。

「ありがとう、お父さん」

 三樹夫は返事に困り、堅く笑った。

 しかし、いずれ春美とは会わなくてはならない。もし、まだ自分の事を憎んでいるとしたら、そう思うと三樹夫は溜まらなく怖かった。


     第五章


 竜也と羽純は並んでソファーに座っていた。

 その二人と対峙する形で三樹夫が座っている。

 先程の玄関でのやりとりの後、竜也を家に上げ竜也の家庭状況等を聞いた所であった。

 竜也の父、加藤武彦は藤軌電工という会社の社長をしているが、パソコンの部品製造が主でかなり大手の電機会社とも取引がある中堅会社であった。

 春美と武彦の出会いは武彦が大学三年の時だったという。武彦は三樹夫よりも一つ年下だった。

 恐らく中絶手術をし、三樹夫と別れてしばらくしてから武彦とは出会ったのだろう。

 武彦が大学を卒業し、家業の藤軌電工を継いでからも二人の交際は続き、春美が大学を卒業するのを待って、二人は結婚したとの事だった。

「で、君も将来は家業を継ぐのかね」

「はい、そのつもりでいます」

「大学は?」

「T大の工学部を受験しようと思っております」

「ほうー、T大とは凄いね」

「家業を継いだにしても、今の会社をもっと大きな物にしたいと考えています。その為にももっと専門的な知識を学ばなければなりませんから」

「しっかりしているんだね、竜也君は、それで、今後羽純とはどうするつもりでいるのかね?」

「今すぐではありませんが、もちろん、結婚したいと考えております」

 三樹夫が頷いた。

「将来設計もきちんと立て、羽純との結婚の意思も堅い。文句のつけようがないか」

 三樹夫はそう言って煙草に火を付けた。

「まあ、君は男だからそれでいいだろう。しかし、羽純のこれからはどうなる?」

「羽純さんのこれから?」

「君は自分の将来の為に、今言った道に進もうとしているのかね?」

「もちろん羽純さんの為でもあります。結婚する以上当然その生活基盤はしっかりしていなくてはなりません。それであれば、父の会社がより発展しうるのが羽純さんとの生活を盤石にするものと考えてます」

「良い答えだ。いや、模範的な答え方と言った方がいいのかな……」

 羽純が心配そうな表情で三樹夫を見ている。三樹夫は吸っていた煙草を消すと改めて竜也を見つめ直した。

「羽純は八月でようやく十六歳になる。法律的には親の承諾があれば、結婚も出来るし子供も生める。しかし、実際はまだまだ子供だ。これからの学生生活で学ぶであろう友達との友情とか、思い出に残る学生生活が今回の事で一変してしまう。本来この三年間で学ぶべきであった事を君は変えてしまったのだ」

「お父さん!」

 羽純が溜まりかねたように口を挟んだ。

「その事については、いくらお詫びしてもお詫び仕切れません」

 竜也が素直に頭を下げた。

「これから、実際子供を産み、育てて行くのは羽純自信だ。君はその事についてどう関わって行こうと思っているのかね?」

「それは今後羽純さんと相談しながら決めて行きたいと思っております」

「それは今の時点では何も考えていないと言う事かね?」

「いいえ、僕の考えとしましては、基本的に羽純さんの負担は最小限にと思っています。出来れば、羽純さんには高校も続けていただきたいと考えています。その為にも僕がきちんと両親に話をし、子供の養育に関しても母に協力して貰うと思っています」

「君の考えはよく判った。どちらにしても早急に君の御両親とはお会いしなくてはならんだろう」

「はい」

「竜也君の御両親はこの事は御存知なのかな?」

「いいえ、まだ知りません」

「そうか」

三樹夫がソファーから立ち上がった。

「取り合えず、病院が先だな。今車の用意をしてくるから、行く準備をしておきなさい」

 そう言って三樹夫は部屋から出て行った。

 竜也は大きな溜息を一つ吐くと、背伸びをしながらソファーにもたれた。

「緊張したー」

「ごめんね」

「絶対にぶん殴られると思ってたよ」

「大丈夫よ。竜也さん、しっかりしてるもの」

「そうじゃなくて、普通一人娘の妊娠が判ったら父親なんて絶対に相手の男をぶん殴りたいと思うはずだよ。俺だったら絶対に殴ってる」

 竜也が自分自身に言い聞かせ、一人頷いた。

「羽純のお父さんは凄い人なんだね」

「そうかな……」

「これだけ、羽純の事を思っているのに、敢えて自分の感情を抑えてすべてを冷静に対処しようとしている。すばらしいお父さんだと思うよ」

「ありがとう、父が聞いたら喜ぶわ」

「準備はいいかい? 行くよ」

 三樹夫が部屋の二人に声を掛けた。

 一瞬、二人は顔を見合わせると慌ててソファーから立ち上がり玄関へと向かった。


 家を出てから十分。特別会話もなく車内は重苦しい雰囲気に包まれていた。

「どこの病院に行くの、お父さん?」

 羽純が溜まりかねて三樹夫に声を掛けた。

「高杉町の滝産婦人科だ」

「高杉町?」

 羽純が尋ねた。

「もう少しで着く」

三樹夫の声と同時にカーナビから機械の音声が聞こえた。

「ところで、竜也君はどこに住んでいるのかな?」

「豊南町です」

「豊南だと、学校まで結構時間が掛かるだろう?」

「バスで四十分くらいです」

「だろうな」

「ねえ、お父さん」

「うん?」

「今の時間って、病院お昼休みじゃないの?」

 車の中のデジタル時計が十二時三十一分で点滅していた。

「特別にお願いして、わざとこの時間帯にしてもらったんだ。診察を受けるのは未成年だからと言ってね」

「ありがとうございます」

 竜也が礼を言った。

「僕たちの為にそこまで気を遣っていただけるなんて……」

「さあ、着いたぞ」

 滝産婦人科病院と書かれた看板の白い建物の駐車場へと車は入って行った。ゆっくりと白い線の中へと車を止め、三樹夫はエンジンを切った。

「中に行く前にもう一度確認しておく。もし、妊娠していたら、子供は産むんだね?」

「はい」

と、真っ先に竜也が返事をし、羽純が小さく頷いた。

「判った。じゃあ、行こうか」

 三樹夫がドアを開け、車から降りた。続いて羽純と竜也も降りた。羽純の表情は緊張し強ばっていた。

 三樹夫が建物へ向かって歩き出し、二人もその後に続いた。

 建物の玄関には、二時まで休診中、と書かれた札がぶら下がっていた。

 三樹夫はドアの脇にあるインターホンを押した。

「はい?」

 インターホンから女性の声が響いた。

「先程、お電話いたしました田島と言いますが」

「あっ、はい。少々お待ち下さい」

 まもなくして、一人の看護師が現れ玄関の鍵を開けた。

「どうぞ」

 と、三人は中へと案内された。

 三樹夫は受付で保険証を出した。

 案内した看護師がすぐに問診票と書かれた紙を羽純に手渡した。

「判る範囲で結構ですから、御記入お願いいたします」

 羽純がそれを受け取り、イスに腰掛け書き始めた。

「記入が終わりましたら、これにお小水を取っていただけますか?」

 そう言って看護師が羽純に紙コップを手渡した。

 羽純は淡々とそれらの作業を済ませ、三人とも無言のまま待合い室で診察を待った。

 そして、十分程して

「田島さん、中へどうぞ」

 と、呼ばれた。三樹夫が一瞬躊躇していると

「お嬢様だけ、どうぞ」

 看護師が付け加えた。羽純がゆっくりと診察室へと入って行った。

 三樹夫は腕組みをしたまま静かに目を閉じた。

 竜也は落ち着かない様子で羽純が入って行った診察室を睨んでいた。

 そして、十分後。三樹夫と竜也も呼ばれ診察室へと入って行った。

 羽純は診察台のベットに横になったまま、その瞳に涙を溜めていた。

 診察台のすぐ脇に机があり、そこに一人の白衣を着た四十台前半くらいの女性が書類を書いていた。

「お世話になります、先生。羽純の父です」

 白衣の女性は書類を書くのを止め立ち上がった。

「産婦人科医の滝です。結論からいいますと、お嬢さんは妊娠されてます」

 滝医師が診察台へ向かいながら呟いた。

「そちらの画面を見ていただけますか、今行っているのは超音波断層検査といいまして、妊娠していれば赤ちゃんの画像、心音などが聞こえます」

 小さなテレビのような画面の中に扇形に縁取られた白黒の映像が映し出された。

「その画面の中央、これが子宮です。そして、この白いのが赤ちゃんです」

 三樹夫は初めて見るそのリアルな映像にショックを受けていた。

「この小さく脈打っているのが心臓です。今音をお聞かせしましょう」

 と、滝医師が言ったとたん機械からドクン、ドクンと大きな音が聞こえてきた。

「これが赤ちゃんの心音です」

 三樹夫は食い入るように画面を見つめた。

「お嬢様の生理予定日から計算しても妊娠八週目と言った所です」

三樹夫は軽い目眩を覚えた。充分覚悟はしていたはずだったが、いざ、その現実を突きつけられるとやはり、精神的なショックは隠せなかった。

「君が相手?」

 滝医師が竜也に視線を向けながら尋ねた。

「はい、加藤竜也と言います」

「何年生?」

「三年です」

「誕生日は?」

「九月です」

「彼女とのセックスはいつ?」

 一瞬、竜也は返答に困った。

「きちんと答えなさい」

 滝医師が一喝した。

「六月です」

「六月のいつ?」

「十三日です」

「彼女とのセックスは度々?」

「いいえ、それ一度だけです」

「そう、ありがとう」

滝医師が書類に何かを書き込んで、再び竜也を見つめた。

「で、どうするの?」

「彼女は生む事を望んでいます。僕もその意志を尊重したいと思います」

滝医師が小さく溜息を吐いた。

「簡単に言うけど、それがどれだけ大変な事か判ってるの?」

「初めての事ですので、よく理解は出来ませんが、彼女の精神的苦痛は出来る限りサポートしたいと思っています」

「君は、後半年もすれば卒業してまうからいいでしょうけど、彼女はこれから三年間妊娠という事実と共に学校生活を送らなければならないのよ。それがどれだけ大変な事だか判る? 恐らく学校全体から非難中傷、冷やかし等を受けるでしょう。本来、妊婦は心安らかにその期間を迎えなくてはならないのよ。こういう状況の下で健全な赤ちゃんが育つと思う? 妊婦によっては多少のストレスでも流産してしまうケースだってあるのよ。妊婦はこれから常に胎児の事を考え、自分の体調管理にも気を遣わなくてはならないの。その上学校にも行かなくてはいけない。学校に行けば常に好奇心の対象となる。子供を生んでからは育児にも関わらなければならない。もしかしたら、もっと大変な事だって起こるかもしれない。そういう事に君達は二人で対処出来るの?」

 滝医師が、一気に捲し立てた。

「恐らく、いえ、まず間違いなく僕たち二人だけては無理だと思います。当然自分の両親にも協力してもらいます」

「貴方はどうなの? 羽純さん」

「生みたいです。先生がおっしゃる通り、これからは本当に大変だと思います。でも、竜也さんと一緒ならそう言う事も乗り越えられると思います。それに、父も出来る限り協力してくれると言ってくれました」

「お父様は賛成なのですか?」

「この二人の気持ちを尊重したいと思っています」

 三樹夫が静かに答えた。

「そうですか、皆さんそれぞれ覚悟は決まっているようなので、私もこれ以上はとやかく申しません。判りました。元気な赤ちゃんを産みましょうね」

 滝医師が初めて笑顔を見せた。

「所で、田島さん。立ち入った事をお聞きして申し訳ないのですが、羽純さんのお母様は?」

「実は今年の春に離婚致しました。でも、今回の事は承知しておりますし、対処はすべて私に任せてくれると言ってくれました」

「そうですか、出産に関しては母親の協力が不可欠なのですが、そういう事情ならばしょうがありませんね」

「出産までは出来る限り僕の母親に協力してもらいます」

「竜也君。君は男だからよく判らないと思うけど、自分の母親と人の母親とは気の使い方が違うのよ」

「すみません」

「まあ、いいわ。ともかくこれからが大変だから、みんなで力を併せてそれぞれがやれる事をしっかりとやりましょう」

「はい」

 竜也が力強く答えた。

「羽純さんは、これからは丈夫な赤ちゃんを産むことだけを考えるのよ。食事もバランス良く、出来るだけカルシウムは多く取ってね」

「はい」

「では、今妊娠証明書を書きますので、後でこれを市役所に持って行って母子手帳を受けて取って下さい」

「はい」

 三樹夫が返事をした。

「では、次は一週間後にまた来て下さい。もし、その間に体調の変化があったらいつでも来て下さいね」

「ありがとうございます」

 竜也が深々と頭を下げた。

「君、若いのにしっかりとした考えを持っているのね。頑張ってね」

「はい」

 そして、三人は病院を出て車に乗り込んだ。

 車に乗ったとたん、いきなり羽純が泣き出した。

 三樹夫は無理もないと思った。

 いくら二人で相談し、それなりの覚悟をしたつもりでも実際妊娠が確定し、これから子供を出産しなければならないのだ。恐らく不安だらけで精神の方が追いついて行かないのであろう。

三樹夫は黙ったまま運転を続け、二人の様子を見守っていた。

「大丈夫?」

 竜也が優しく声を掛けた。

 三樹夫はダッシュボードに置いてある煙草を掴んだ。箱を開け、煙草を取り出そうとしてその手を止めた。

「そうか……」

と、それだけポツリと呟いて吸うのを止めた。

 カーナビから流れる無機質の音声だけが、羽純のすすり泣く声に時折混ざった。

 三樹夫はこれから起こるであろう色々な事を考えていた。


第六章


 家に戻った三樹夫は、羽純の疲労を考え自室で休ませる事にした。

 コーヒーを入れ直し、それを竜也と二人で飲んだ。

「ありがとうございました」

 竜也がコーヒーカップを置きながら言った。

 三樹夫は黙ったままコーヒーを啜っている。

「僕も父親となりましたが、出来ればお義父さんのような父親になりたいです」

 三樹夫がしみじみと竜也の顔を眺めた。

「これから、私は君の家に行って御両親に会ってくる」

「えっ?」

「夏休みに入ってしまっているから、出来るだけ早く学校にはこの事を報告しなければならないだろう。そうじゃないと、夏休み中に君達がそう言う事をしたのではないかと思われる。学校に報告する前に家族の意思統一が必要だ」

「判りました。今母に電話します」

「いや、電話はしなくていい。私が事情は説明する。君は住所だけ教えてくれればいい」

「判りました、今書きます」

 竜也がポケットから生徒手帳を取り出すと、それに住所を書き始めた。

「君は常に生徒手帳を持ち歩いているのかね?」

「はい。どういう場面に出くわしても対処出来るよう、自分の身分を証明出来る物は必ず持ち歩きなさいと母に言われてまして」

「そうか……」

 竜也からメモを受け取るとソファーから立ち上がった。

「私の留守の間、羽純を頼む」

 まだ、男としては未完成ではあるが、この男にならば羽純を託せる、三樹夫はそう思い始めていた。

「行きがけに近所の食堂にお昼ごはんを届けさせるから、羽純が目を覚ました二人で食べなさい」

「ありがとうございます」

「行って来る」

「気をつけて」

 竜也の言葉を背に受けて、三樹夫は家を出た。

 車のエンジンを掛けて、カーナビに先程の住所を打ち込んだ。

「目的地を設定しました」

と、カーナビから声が流れた。

 奇妙な高揚感があった。

 用件は羽純達の為に春美の元へ行くのに、何故かドキドキしていた。

 入学式の時に見た春美の顔が蘇った。年は重ねたが、その美しさに変わりはなかった。

 むしろ、年を重ねた分若い頃にはなかった色気が含まれ、三樹夫は年甲斐もなく熱いときめきのようなものを覚えていた。

「二十六年ぶりか……」

 ポツリと呟き、煙草に火を付けた。

 そして、車を三十分程走らせた。

「次の信号を右方向です」

 カーナビが合図した。言われるままウインカーを出し右方向へと車を寄せた。

 信号が変わり、右折したところで

「目的地に到着しました」

 と、カーナビが言う。左手に茶色のおしゃれな二階建てが見えた。

「あれか」

 ゆっくりとウィンカーを上げながらその家の前まで行き、表札を確かめた。

 表札の加藤武彦の文字を確認すると、二台分の駐車場の空いている方へと車を止めた。

 車から降り、玄関へと向かう階段を昇りながら、三樹夫は数回深呼吸を繰り返した。

 インターホンを押した。

「はい」

 と、春美の声が聞こえた。

 ドキドキしていた。声を聞き心臓の鼓動が尚更高まった。

「田島と言います」

 それだけ喋った。

「田島さん?」

「田島三樹夫です」

 しばらく沈黙があった。とても長く感じられたが、実際は三十秒程だったろう。

 ゆっくりとドアが開いた。

 そこに懐かしい春美が立っていた。

「しばらくだね」

「やっぱり貴方だったのね」

 春美が困惑した表情を浮かべながら呟いた。

「四月の総会のPTA名簿で、貴方の名前を見た時は驚いたわ。多分同姓同名だろうって自分に言い聞かせたわ…… もし、貴方なら総会で私の姿を見ているはずだから必ずコンタクトを取って来るだろうと思ってたの。でも、三ヶ月たっても貴方からのコンタクトはなかった。だから、やっぱり同姓同名だったんだって安心してたの」

「僕からのコンタクトがそんなに迷惑かい?」

「今更話しなんて、何もないでしょう」

 何を言われても仕方がなかった。それだけの事を自分は春美にしてしまったのだから。

 やはり、春美はまだ自分の事を憎んでいるのだ─―

 こうして春美と再会し、その口調から充分にその雰囲気は伝わってきた。

「実は今日はその事で来たんじゃないんだ」

「えっ?」

 春美が以外そうな顔をした。

「少し、おじゃましてもいいかな?」

 嫌がられるのを承知で三樹夫が尋ねた。

 春美が困った顔をした。

「どうぞ」

「失礼します」

 そのまま茶の間へと案内された。恐らく仕事柄、いつどの様な客が来ても良いように掃除は行き届いているようだった。

「コーヒーでいいかしら?」

「ああ」

「ブラックでいいのよね」

 その単純な言葉が三樹夫にはうれしかった。二十六年経ってもまだ自分の好みを覚えていてくれた。そんな些細な事が、今の三樹夫にとっては掛け替えのない宝石の様に思えた。

「ありがとう」

 コーヒーを差し出す春美に向かって三樹夫が呟いた。しみじみと春美の顔を見つめ、己の過去を見つめ直した。

出されたコーヒーを一口啜り、小さな溜息を吐いた。

「立派な息子さんだね、竜也君」

 三樹夫が切り出した。突然の息子の話題に春美は不思議そうな表情を浮かべた。

「貴方の所はお嬢さん、だったわよね」

「ああ、竜也君のあの入学式の演奏を聴いてすっかり感動してしまってね。ブラスバンド部に入ったよ」

「あら、そうなの」

 息子を褒められ機嫌が良くなったのか、春美の緊張も少しずつ解けてきたようだった。

 三樹夫はまたコーヒーに口を付けた。

「変わらないわね、貴方のその癖……」

「えっ?」

「何か、言いづらい事があると、必ずコーヒーを一口飲んで、カップを撫でる癖」

 春美に言われて三樹夫は初めて自分にそんな癖がある事に気が付いた。

「そうか、こんな癖があったのか」

 春美が笑った。笑顔が溜まらなく美しかった。羽純の事がなかったらとてもこのように冷静にはいられなかったであろう。

 こんな時に俺って男は──

 三樹夫が苦笑した。何から話し初めていいか、三樹夫は迷っていた。どのように話しをしても結局は最後に妊娠の事は告げなければならない。それであれば、単刀直入に話を始めた方が良い。

三樹夫は決心した。

「俺もつい最近まで知らなかったんだけどね……」

 チラリと春美の様子を伺った。

「竜也君と内の羽純が付き合っていたらしいんだ」

「えっ!」

 春美は自分の耳を疑っているようだった。

「皮肉なもんだよな、別れた俺たちの子供同士が付き合うだなんて……」

 春美はかなりショックを受けているようであった。顔色が青冷めていた。

「で、昨日別れた妻が家に訪ねてきてね」

「貴方、離婚したの?」

「ああ、今年の四月にね。妻に男が出来て……」

「そう……」

「妻が娘の相談を受けたらしいんだ」

「相談?」

「ああ、生理が来ないと……」

 三樹夫が重い言葉を吐き出した。

 春美は言葉を失ったまま驚愕の表情を浮かべ、三樹夫を見つめた。

「今日、娘を連れて病院に行って来たよ」

 春美の顔が真っ青になっていた。

「妊娠八週目だそうだ」

「ああ……」

 ついに春美も耐え切れなくなったのか、呻くように声を漏らした。

「そんな……」

 春美は必死に言葉を探しとているようだったが、それ以上その口から言葉を喋ることは出来なかった。春美の瞳から涙が零れた。

「私もこの話しを聞いた瞬間、パニックを起こしたよ。頭の中が真っ白になって何も考えられなかった」

 春美は激しく首を振りながら泣きじゃくった。

「どうして?」

 春美が叫んだ。

「こんな言い方、変だと思うけど、パニックになった私を救ってくれたのは君の存在だった」

 春美が涙を流しながら三樹夫を見た。

「昔、僕が君を傷付けてしまったこれが罰なのかと、もし神様がいるなら、なんて酷い事をするのかと思ったよ。でも、その瞬間に君の顔が浮かんだんだ。そしたら、自然と気持ちが落ち着いてきた」

 三樹夫が春美を見つめた。

「君の事を考えてたら、二人に絶対に私達と同じ思いをさせてはならないと思った」

「まさか、生むの?」

「二人はそのつもりでいるよ」

「駄目!」

「駄目? 君が反対するとは思わなかったな。どうして、駄目なんだ」

「竜也はまだ、高校生よ」

「そんなの理由にはならないよ。二人は真剣に愛し合って、たまたまこういう結果になってしまっただけだ。それが普通よりも時期が早かっただけだ」

「貴方はそれで納得出来るの?」

「二人には出来る限り協力すると言ってある」

「そんな、高校生で結婚だなんて……」

 春美がまた泣き出した。

「どうして、こんな事に……」

 春美が嗚咽と一緒に言葉を漏らした。

「私は妻と離婚してしまっている。出産は母親の協力が不可欠だと医者にも言われたよ。頼む。協力してくれないか?」

「少し、時間を頂戴……」

「そうだね、少し焦り過ぎてしまったようだ。すまなかった」

 三樹夫が春美に向かって頭を下げた。春美は俯いたまままだ泣いていた。

 たまらない愛おしさが込み上げてきた。このまま春美を抱き締め、慰められたらどんなに幸せな事だろう。今日、春美と再会し、自分がまだ春美に対して愛情を持っている事が良く判った。

 しかし、けしてその愛情は報われる事はないだろう。現在の春美が幸せである以上、自分が原因でその幸せを壊してしまう事だけは、絶対にしてはならないのだ。

 もう、二度と春美を傷付けたくないと思った。嫌、もうすでに今回の件を報告したことで傷付けてしまっている。ならば、その傷を広げるような事だけはしてはならない。

 結局、また傷付けてしまったのか――

 三樹夫が静かにソファーから立ち上がった。

「帰ります」

 春美は無言だった。春美の啜り泣く声を背中に受けながら、三樹夫は部屋を出た。

 車に戻り、大きな溜息を一つ吐き、三樹夫は煙草に火を付けた。

 紫煙を吐き、エンジンを掛けた。ギヤを入れ、もう一度煙草を深く吸い込むとそのまま加藤家を後にした。


     第七章


 加藤家を出て、しばらくした頃。三樹夫は突然ブレーキを踏んだ。

 ウインカーを上げて、道路の左端に寄せた。背中から右腰の上の辺りに一瞬刺すような痛みが走った。

 何だ、今のは?

 チクリ、チクリと針で刺されているような痛みであった。右手で腰の上辺りを触ってみる。

 別にそこに何か有る訳ではない。痛みは身体の内部から感じられた。

 三樹夫は大きく息を吸ってみた。痛みは消えていた。

「疲れているのかな」

 ポツリと呟き、三樹夫はまた車を発進させた。


 家に着くと同時に竜也が出てきた。

「お帰りなさい」

「どうした?」

 三樹夫が尋ねた。

「羽純に何かあったか?」

「いいえ、羽純さんは一回起きたのですが、水分を取ってまだ寝てます」

「そうか」

「ただ、昼寝にしては寝過ぎじゃないかと、ちょっと心配で……」

「たぶん、初めての病院で緊張しすぎたんだろう。起きるまで寝かせておこう」

「はい」

「お昼ご飯食べたかい?」

「いいえ、羽純さんが起きたら一緒に食べようと思ってたので、まだです」

「お腹すいたろう。もう五時半だぞ」

「大丈夫です。それよりも今父から電話があって、母と一緒にこちらへ向かってるそうです」

「お父さんが?」

「はい。母から工場に電話があってすべて聞いたと。それであるならば、まず直接会って謝らなければならないからと言ってました」

「それなら、わさわざ来ていただかなくてもこちらからお伺いしたのに……」

「六時くらいには着けるだろうと言ってました」

「そうか……」

 春美の夫が来る。出来れば会いたくないと三樹夫は思っていた。

 会えば、嫉妬心が湧き、冷静な態度が出来なくなる。

 かつての恋人とその夫が自分に会うという事は、春美が自分と夫を比べるという事である。

その時、春美はどう思うのであろう?

やはり、自分が選んだ男は正しいと思うのであろうか?

夫の前で、自分を見下すのであろうか?

やはり、私の決断に間違いはなかった。そう思われるのか一番怖かった。

「中に入ろう」

 三樹夫が歩き出した。

 歩きながら三樹夫は考えていた。

 嘘をつくな!

 三樹夫が心の中で呟いた。

 そうだ。本当は俺は怖いのだ――

 春美の夫と会う事で、想像してしまう事が──

 この男が、春美を抱いたのか、と――

 この男はどんな言葉で春美を慰めたのか?

 どんなキスをするのか?

 それ以上はもう考えたくなかった。

 何と下劣な男なのだろう、俺という男は――

 三樹夫は溜息を吐いた。

 自分という男が、本当に情けなく思えた。


「お帰り。お父さん」

 羽純が玄関で待っていた。

「大丈夫か?」

「うん」

 羽純が笑顔で答えた。

「なんか、寝過ぎちゃった」

「緊張しすぎて疲れたんだろうな」

「そうだね。普段、緊張なんかした事ないから」

 羽純がペロリと舌を出した」

「どうだった?」

「うん」

 三樹夫が歩きながら返事をした。その後を竜也は黙って付いて行った。

 上着を脱いで三樹夫はソファーに腰を降ろした。竜也と羽純も腰を降ろし、三樹夫の言葉を待った。

「かなりショックなようだったよ。泣いておられた……」

「母が……」

 竜也が呟いた。

「けして、人前で涙など見せた事がないのに……」

「そうだろうな……」

「えっ?」

「あっ、嫌、私だって今回の事を別れた妻から聞かされた時には取り乱して涙が零れたよ。まして、女性であるお母さんが取り乱して泣かれてしまうのは当然な事だろう」

 思いがけず呟いてしまった言葉を取り繕う為に、三樹夫は本音をこぼしてしまった。

「結局、お母さん一人ではどうしていいか判らないので時間を下さいと言われて帰ってきたよ」

 だから、夫に相談しここに来る事になったというのか─―

 悔しさが込み上げてきた。

頼るのは俺ではなく、やはり夫か!

そんなの判りきっているではないか。その頼る姿を尚ここでも見なくてはならないのか─―

「それで、今、父と母がこっちに向かってるらしい」

「えっ!」

羽純が思わず声を上げ、心配そうな表情で竜也を見た。

「大丈夫だよ」

 竜也がそう答えた時、インターホンが鳴った。

「来たようだね」

 三樹夫が立ち上がった。

「ちょっと……」

 羽純が慌て狼狽えた。

「お前は何も心配しなくていいよ」

 そう言って三樹夫が歩き出した。竜也も立ち上がっていた。

「君もそこに居なさい」

 心の準備が出来ていないのは、お前だけじゃないよ……

 三樹夫は玄関に向かいながら、心の中でそう呟いていた。


 微かな緊張感があった。ドアを開ける手がうっすらと汗をかいていた。

 三樹夫が静かにドアを開いた。

 そこに加藤武彦と春美が立っていた。

「初めまして、加藤です」

 武彦が頭を下げた。長身の男だった。竜也の話では自分よりも一つ年下だと言っていたが、見た目以上に若く見える。短くもなく、長くもない緩くウェーブした髪を自然な形でバックへと流している。体格もがっしりとした感じで着ているスーツがぴったりと身体にフィットしていた。

この男が──と、三樹夫は思った。顔を上げ、精悍な瞳が三樹夫を見つめている。

竜也に似て、まっすぐに視線を送ってくる男だった。

この男なら無理もない――

竜也と会ったときに感じた、情けない敗北感のようなものを三樹夫は再び感じていた。

「羽純の父、三樹夫です。お忙しいのにわざわざ申し訳ありません」

 三樹夫が頭を下げた。

「どうぞ」

 二人を奥へと案内した。茶の間で、竜也と羽純が緊張した様子で立っていた。

「娘の羽純です」

 三樹夫が二人に紹介した。

「田島羽純です、初めまして。よろしくお願いします」

羽純が深々と頭を下げながら言う。

「こちらこそ、よろしくね」

 武彦が微笑みを浮かべながら呟いた。

「田島さん。この度は息子がとんでもない事をしてしまい、本当に申し訳ない」

 武彦が頭を下げた。

「謝らないで下さい。加藤さん。今後ご迷惑をおかけするのはこっちなんですから」

「妻にある程度の話しは聞いたのですが、生ませるおつもりだとか?」

「本人達もそれを望んでいますし、私もその気持ちを尊重して上げたいと思っております」

 武彦が小さく唸り声を上げた。

「やはり、加藤さんは反対ですか?」

「いえ、けして反対と言う訳ではないのです。ただ将来ある二人が無理をしてそこまでしなくてもいいんじゃないか、とも考えてます。今回の事を推し進める事で、二人が受けるダメージは計り知れないものがあるでしょう。彼らはまだ若い。今回自分達の将来を犠牲にしなくても、必ずまた子供は授かる事はできるでしょう」

「だから、今回は堕ろしても良いのではないかと?」

 三樹夫が尋ねた。

「結果的にはそう言う事になりますね」

「奥様も同じ考えですか?」

 三樹夫が俯いている春美に視線を向けた。春美が驚いたように三樹夫を見つめ返した

「私達男は妊娠については客観的にしか捉える事が出来ない。やはり、ここは出産を経験されている奥様にも意見を伺いたい」

「主人と同じ意見です……」

 春美が小さく呟いた。

「母さん!」

 竜也が叫んでいた。

「おかしいよ、母さん。それじゃいつも僕に言っていた事と違うじゃないか!」

「お前は黙っていなさい。竜也!」

 武彦が一喝した。

「嫌、黙らないよ父さん。僕たちは子供の命を犠牲にしてまで、自分達の将来を得ようなんて思っていない」

「黙りなさい。お前に意見を言う資格などない」

「それは、おかしいですね。加藤さん。なぜ、彼に意見を言う資格がないのですか?」

「それは……」

「少なくても彼は、子供の事も含めて自分達の将来の事は真剣に考えている。自分達が未熟なのも充分理解した上でだ。彼はもう一人前の立派な男ですよ。加藤さん」

「しかし……」

「では、加藤さん。逆にお尋ねします。あなた方二人が幸せになる為に、あなた達は竜也君を犠牲にする事が出来ますか?」

 武彦は言葉を失った。完全に三樹夫のこの静かな気迫に圧倒され、返す言葉がなかった。

「親なんて、本当に馬鹿なもんですね」

 武彦が呟いた。

「我が子可愛さに、時として本当に盲目的になってしまう……」

「そうですね、でも、子供を本当に助けられるのもまた親しかいないんですよ」

「田島さん。貴方に言われなければ私達は本当にとんでもない過ちを犯してしまう所でした。ありがとうございます」

「いいえ。私も彼らに学ばされたのですよ」

 三樹夫が笑った。

「彼らもすでに立派な親ですからね」

 三樹夫のその言葉を聞いて、武彦も笑った。

 この瞬間、田島家、加藤家の意志は一つとなった。

 両家のすべての力を結集し、あらゆる試練に立ち向かい、まだ誕生していない幼き命を全力で守り続ける事を。それぞれが言葉に出さなくても心の中で誓っていたのであった。


 翌日、三樹夫は朝食の準備に追われていた。

 慣れない手つきで卵を割り、スクランブルエッグに挑戦中であった。

 ごま油を少量フライパンに垂らし、油がまんべんなく広がった所でといだ卵を流し込む。

 ジューという音共にごま油の香ばしい香りが広がった。

 菜箸でその卵を崩しながら炒めてゆく。

 焦げないように注意を払う。

「やれば、出来るじゃないの」

 自分で言って三樹夫が笑った。

 出来たスクランブルエッグを皿に移し、次の準備に取りかかろうとした時だった。

 突然インターホンが鳴った。

「えっ? 誰だよこんなに朝早くから」

 三樹夫が手を洗い、玄関へと向かった。

「はい、どちら様?」

 三樹夫がインターホンを取って喋った。

「ごめんなさい、朝早くから」

 春美の声だった。

 三樹夫は受話器を慌てて置くと、急いで玄関を開けた。

「春美……」

「ごめんなさい。これ羽純ちゃんに食べて貰おうと思って」

 そう言って春美が風呂敷包みを差し出した。

「赤ちゃんの為にも栄養のあるもの取らなくちゃならないし……」

「あっ、ありがとう」

 三樹夫が戸惑いながら答えた。

「三樹夫さん……」

「えっ?」

「出来れば、こうして毎日食事を届けたいんだけど、迷惑かしら?」

「えっ! あっ、いや。それは本当に助かるけど……」

 三樹夫が頭を掻いた。

「でも、それじゃ君があまりにも大変だよ」

 春美が首を振った。

「お願い、そうしたいの。いえ、そうさせて下さい」

「はあ、ありがとうございます……」

 三樹夫がなんとなく間の抜けた返事を返した。

「じゃあ、私はこれで……」

 春美が頭を下げて振り返った。

「あっ! 上がってお茶でも……」

 三樹夫が呼び止めた。

 春美が微笑みながら、首を振った。

 春美が車に乗り込み発進させた。

 三樹夫が、呆然としながら春美の車を見送った。

「さっき、三樹夫さんって言ったよな……」

 三樹夫が誰ともなく呟いた。

「どうしたの?」

 玄関でボーとしている三樹夫に向かって、羽純が声を掛けた。

「あっ、今竜也君のお母さんが食事を届けてくれたんだ」

「えっ、こんな朝早く?」

「うん、羽純に栄養のあるものを食べさせたいからって、これから毎日届けてくれるそうだ」

「うそー、毎日なんて大変だよ」

「うん、お父さんも大変だからいいって言ったんだけど……」

 三樹夫がテーブルに風呂敷包みを置いた。

「で、このスクランブルエッグは?」

「お父さんが作った……」

「へえー、お父さんも料理出来るんだ」

 羽純が風呂敷を開けながら呟いた。

「まあな」

「見て、見て。凄く美味しそう」

 羽純がうれしそうにはしゃいだ。

「本当だ。美味しそうだな」

 確かに同棲していた時に食べた春美の料理は最高に美味しかった。

まさか、こうして再び春美の手料理を食べれるなんて、夢にも思っていなかった。

「さあ、食べる準備しようか」

「うん」

 羽純が箸と小皿を出した。

「いただきまぁーす」

 羽純が重箱のおかずを食べ始めた。

「美味しい!」

 三樹夫も食べた。ゆっくりと二十六年ぶりの味を噛み締めていた。

 思わず涙が出そうになった。三樹夫は慌てて席を立った。

 戸棚からコップを出しながら、

「牛乳でいいかい?」

と、誤魔化した。冷蔵庫を開け、注いだ牛乳を羽純に手渡すと、自分はウーロン茶をコップに注いだ。

「今日、お父さん。学校に行ってくるよ」

「うん」

 羽純が俵おむすびを口に入れながら答えた。 

 美味しそうに頬張る娘の姿を、三樹夫はしみじみと見つめていた。


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