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 第一章~第三章

 小説すばる新人賞に応募しておりました作品でございますが、一次通過も出来ませんでした。

 皆様の御批判、御感想、酷評等なんでも結構ですので、一言いただけましたら大変うれしく思います。

     第一章


 うららかな春の陽気に誘われるように、朝から田島羽純ははしゃいでいた。

 自分でもいつもと違う高揚感を感じるのだろう。必死にそれを抑えようとするのだが、自然とはしゃいでしまうそんな感じであった。

「入学式は九時半からだったろう」

 そんないつもとは違う娘の様子を見つめながら、田島三樹夫が声をかけた。

「そうだけど、お父さん来るの?」

「それは行くだろう。娘の晴れ姿を見届けない親がどこに居る? まして、律黎高校の入学式だぞ。一流進学校の入学式なんかそう見られるもんじゃない」

「だって、仕事でしょう。お父さん?」

「馬鹿言え。ちゃんと休みは取ってある」

「そうなんだ」

 十五歳という年頃の心境を考えれば、入学式に親が来るというのは微妙に恥ずかしく複雑なようである。そんな感情を表すように羽純は薄笑いを浮かべた。

「ねえ、お母さん。この髪型変じゃない?」

「ううん、大丈夫よ。すごく可愛いわよ」

と、母の美佐子が台所から返事を返した。

 美佐子の言葉通り、羽純は明るく健康的でどことなくまだ少女のあどけなさを残していた。

「ごめんね、羽純。今日行けなくて……」

 美佐子が台所から出て来てエプロンを外しながら羽純に謝った。

「ううん。気にしないでお母さん」

「しかし、何とかならんのか。娘の入学式の日ぐらい」

 三樹夫が不満そうに呟いた。

「まったく、新しい営業所の開業日を何も今日にしなくたっていいじゃないか」

 三樹夫が続けた。

「しょうがないじゃない。上が決めた事なんだから」

 美佐子が声を荒げた。

「はい、そこまで。それ以上やったら本当の喧嘩になっちゃうよ」

 羽純が要領を得ているらしく、二人の間に入ってきた。

「それよりも、お母さん。急がないと……」

「そうね」

 美佐子はそのまま身支度を調えると、羽純に向かって両手を合わせ慌ただしく家を出て行った。

「まったく……」

 と不満そうな表情を露わにして煙草に火を付けた。

 昔はあんなじゃなかったのに―─

 飲み込んだ言葉を心の中で呟いた。

 しかし、それは美佐子自身も恐らく自分に対して感じていることだろう。

 いつから、こんなにすれ違ってしまったのだろう?

 結婚して二十年。それなりの倦怠期という事なのだろうか?

 だからといってその倦怠感を解消するため、お互い努力しあっているかと言えば惰性に任せ何かするわけでもない。

 同僚とそれらしい話をしても、『そう言う年代なんだから当たり前だろう』の一言で片付けられてしまう。所詮夫婦なんて元は赤の他人、何年経っても心から解り合える事など出来ないのではないだろうか。特にここ数年、美佐子が働き始めてからの関係は、本当に酷いものだった。

 娘の羽純がいなければとっくに離婚していたに違いない。

 高校受験の際、親の離婚は有名進学校の場合特に不利になると聞き、今まで我慢してきたが、今日のように娘の入学式にも参加しないようでは本気で、離婚も考えなくてはならないかもしれない。

「お父さんってば!」

「えっ?」

「何、ボーとしているのよ。私も行くからね」

「あっ、ああ。わかった。気を付けて行くんだぞ」

 羽純が玄関から出て行くのを見送り、三樹夫は煙草に火を付けた。

「しかし、実際離婚なんかしたら、会社で何を言われるかわかったもんじゃないな」

 紫煙を吐き出しながら、誰ともなく呟いた。

 一瞬、一人の女の顔が脳裏を過ぎった。

「何を考えてるんだ」

 自分の考えを打ち消すかのように、三樹夫は首を振った。

 しかし、三樹夫の脳裏に浮かんだ女、水沢春美といずれ運命的な再会を果たそうとは、この時の三樹夫は当然知る由もないことだった。


 家を出て市営バスに乗り込んだところで、突然バックの中の携帯が鳴り響いた。

 周囲の乗客がチラリと美佐子に視線を移した。

美佐子は慌ててバックから携帯を取り出すと電源ボタンを長押しした。

 予定の停留所ではなく、次の停留所のボタンを押して美佐子はバスから降りた。

 降りてすぐに携帯の電源を入れ直し、ディスプレイを見た。

 そこに長柄拓也と書かれた文字があった。

 その時、一台のスポーツカーがクラクションを鳴らし、美佐子の前で止まった。

 助手席の窓が開き、運転している長柄拓也が身体を傾けていた。

「乗って!」

 美佐子はキョロキョロっと辺りを見回すと、車に乗り込んだ。

「びっくりするじゃない!」

 美佐子が真剣に文句を言った。

「ごめん、バスに乗る前に電話しようと思ったんだけど、間に合わなかった」

 拓也がチラリと美佐子を見た。三十代前半の今時のイケメンタイプの男だった。

「約束は、昼からだったはずよ」

「ああ、でも君にとっても良い知らせだと思ってね。会社に行く前に知らせたかったんだ」

「良い知らせ?」

「昨日、妻との離婚が成立した」

「えっ?」

「今朝一番で、役所に離婚届を提出してきた」

「拓也……」

「後は君の番だ」

 車が赤信号で止まった。長柄拓也が美佐子を見つめ、魅力的な微笑みを返した。


 ブラスバンド部の演奏と共に、新入生が入場してきた。

 なんとも言えない緊張感の中、緩やかなテンポでブラスバンドの演奏が続いている。

 曲名はわからなかったが、どうやらクラシックのようであった。

 やがて、羽純が真新しい紺のブレザーにチェックのスカートの制服姿で体育館に入場してきた。

 携帯の動画モードで撮影したかったが、他の保護者は誰も撮影していないので三樹夫も諦める事にした。

 その時、緩やかだったブラスバンドの演奏が軽快なリズムに変化した。

 それも、トランペットのソロである。

 一人の男子生徒が、悠々とトランペットを奏でていた。

 式場の雰囲気が一変し、保護者達は呆気に取られるのと同時に、そのすばらしいソロ演奏に感嘆の声を漏らした。

 新入生全員の入場が終わるまで、トランペットのソロは続いた。

 その演奏が終わるのと同時に、盛大な拍手が巻き起こった。

 拍手が収まるまでしばらく時間がかかり、ようやく教頭の合図で拍手が止まった。

 そして、律黎高校の入学式が始まり、校長の話で先程のトランペットのソロの理由が明かされたのだった。

 律黎高校の創始者。南部勇作は戦後アメリカ軍の基地を廻る音楽団の一員だった。

 彼はトランペット奏者であり、その演奏はアメリカ軍の各基地でかなり絶賛されていたという。南部は様々な紆余曲折を味わいながら、やがてアメリカへと渡り、当時ニューヨークでも有名なグランバリー楽団に入ったという。しかし、とある事故に合い、南部は音楽の道を断念するしかなかった。失意のまま日本に帰国したが、南部はタイヤ工場を造りそれで成功を収めた。そして、音楽の道を目指す若者の為に学校を作った。

それが律黎高校である。南部が凄いのは、ただの音楽専門学校にはせず、一流の知識と学力、体力を身につけさせる事を校訓としたことだった。

 人を感動させる音楽は、自らが切磋琢磨し高みに居なくては奏でる事が出来ない。

 南部勇作が残した言葉である。

 そして、その言葉が律黎高校を一流進学校へと変えたのであった。

 かつて、南部勇作はトランペット協奏曲を好んで演奏していたという。

 自分が作った学校にも当然ブラスバンド部を作り、そこで好きなトランペット協奏曲を演奏させるのが夢だったという。

 いつしか、それは律黎高校の伝統へと変わっていった。

 ブラスバンド部の部長は品格、学力、演奏力。全てにおいて一流でなくてはならない。  

 その頂点に立った者のみが、トランペット協奏曲のソロを許されるのであった。

 いつしか新三年となった新たな部長が入学式のトランペット協奏曲のソロを演奏するのが通例となった。そして、今年四十三回目のソロを演奏したのが加藤竜也であった。

 加藤竜也はブラスバンドの全国大国のみならず、トランペット部門でも連続優勝しているトランペットの申し子と呼ばれる生徒であった。校長の長い挨拶はそのブラスバンドの栄えある歴史と、加藤竜也という天才の讃辞で終わった。

 入学式が終わり、生徒達はこれから日程説明を受ける為に各教室へと散って行ったが、保護者はそのまま体育館に残された。

 教務の先生の説明によると、保護者はそのまま体育館に残り律黎父母の会の理事会に参加するとの事だった。会場が簡単にセッティングし直され、理事会がすぐに始まった。

 体育館の壇上のテーブルに五人程の職員と、父母の会の役員らしき母親達が数名上がってきた。その役員の一人を見た瞬間、三樹夫は言葉を失い驚愕の表情を浮かべた。

 そこに三樹夫が独身時代に付き合っていたかつての恋人、水沢春美がいたのであった。

 会長らしき母親から副会長の加藤春美と紹介されていた。

 水沢春美とは大学のコンパで知り合い、付き合うようになった。当時からかなりの美人であったが、あれから二十数年経った今でもその美しさは損なわれてはいなかった。当時の苦い思い出が蘇ってきた。忘れようとしても、絶対忘れられない思い出。いや、それは忘れては行けない過ち、一つの罪だった。

 春美と付き合い始めたのは大学三年の秋だった。それから半年程で二人は肉体関係をもつようになり同棲を始めた。そして一年が経過し、三樹夫は就職活動に余念がなかった。

 そんなある日の事。突然三樹夫はその事を春美から告げられたのである。

「生理が来ないの……」

「えっ?」

 意味はすぐに理解出来た。だが、返す言葉が見つからなかった。頭の中がパニックになった。自分はまだ、就職も決まっていない。春美はまだ大学二年生になったばかり。こんな状況ではとても結婚など出来ないし、当然春美の親にも許しては貰えないだろう。

 最初に頭に浮かんだのは中絶だった。それが女性にとって、どれ程つらい事なのかも判らず三樹夫は簡単にその事を考えていた。

「病院には行ってきたの?」

「今日行ってきたわ。三ヶ月だって」

 三樹夫は静かに春美の次の言葉を待った。恐らく、春美も三樹夫の言葉を待っていたに違いない。だが、それが判っていながら三樹夫はその春美の期待から逃げた。現在の自分の置かれている状況のせいにして、三樹夫は自分からは答えを出さずに春美の答えを待ったのである。今思えば、本当に卑怯だったと思う。春美にしてみれば、一言三樹夫の優しい言葉があればただそれだけで良かったはずなのに──。

「どうするんだ? 君はまだ大学に入ったばかりだし……」

 三樹夫のこの言葉が決定的となった。春美の落胆の色がはっきりとわかった。

「そうね、堕ろすしかないわよね……」

 春美が自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「明日もう一度、病院に行ってくるわ……」

 その瞬間、三樹夫は小さな安堵感を覚えていた。

 そして、翌日。春美は病院へ行きそのまま三樹夫の前から姿を消したのだった。

 理事会が終わり、三樹夫は会場を後にした。一瞬春美の方から声を掛けられるのではないかと期待したが、甘い考えだった。体育館から羽純の教室へと向かいながら、三樹夫はしみじみと学校の中を見て回った。その時、三樹夫の携帯の着信音が鳴り響いた。

 羽純からのメールだった。オリエンテーションも終わったので一緒に帰るとのことだった。三樹夫はそのまま生徒玄関へと向かった。

 羽純が笑顔を浮かべて待っていた。

「一緒に帰るなんて、どういう風の吹き回しだ?」

 三樹夫が尋ねた。

「へへっ」

と、羽純が舌をぺろっと出して照れくさそうに笑った。

「入場の時のあのトランペットは凄かったな」

 三樹夫が歩きながら呟いた。

「でしょう! 私も感動しちゃった」

「加藤君か……。世の中には本当に凄い子がいるもんだよな」

「天才よ。加藤先輩は……」

 中学から現在に至るまでの加藤竜也について、羽純が熱く語り出した。

 娘のその言葉を聞きながら、三樹夫は春美と竜也の事を考えていた。同じ名字である以上、加藤竜也が春美の息子である確率はかなり高かった。かつての恋人が、自分の子供を中絶し、結婚して別の男の子供を産む。複雑な気持ちだった。

「でね、私もブラスバンド部に入ったの」

「えっ?」

「で、私もトランペットをやることにしたの」

 まさか――と三樹夫は思った。この子はあの加藤竜也に恋をしたのか?

「だから、お父さん。トランペット買って」

「一緒に帰るなんて言い出すから変だと思っていたが、そう言うことか」

 間違いない。この子はかつての自分の恋人の子供に恋をしたのだ。

 言い知れぬ不安が三樹夫の全身を包んだ。

「いいでしょう」

「しょうがないな」

「やったぁー」

 羽純が無邪気に喜んだ。その喜んでいる姿を三樹夫は複雑な気持ちで見つめていた。


     第二章


 二階の羽純の部屋から、時折パァフーと擦れたトランペットの音色が聞こえてきた。

「で、ああいう事になっている訳ね」

 美佐子が台所で夕食の後片付けをしながら、三樹夫の一通りの説明を聞き終えて答えた。

「お前の方はどうだったんだ?」

「えっ、何が?」

 美佐子が少し慌てたように尋ねる。

「新しい営業所の方」

「ええ、上手くいったわよ」

「そうか……」

 三樹夫もそれ以上は聞かなかった。三樹夫が以前から抱えている妻への不信感。三樹夫自身それを口に出す勇気はなかった。

「ちょっと、羽純の顔を見てくるね」

 美佐子はそう言って二階へと上がって行った。

 やはり、妻は浮気をしているのではないか―─

 日に日にその思いが強くなってゆく。だからと言って、もしそれが事実であったとしても自分は冷静にそれを受け止められる。それは自分が美佐子に対してすでに冷めていると言う事であった。まして、三樹夫は今日かつての恋人春美を見てしまっている。春美を見てしまった以上、今更美佐子に対しての愛情を深める事など出来なかった。

 

「入っていいかな」

 美佐子は羽純の部屋のドアをノックしながら呟いた。

「どうしたの、お母さん?」

 羽純がドアを開きながら尋ねた。

「ブラスバンド部に入ったんだって」

「うん、凄い先輩がいてさ、私もそうなりたくて」

「格好いいの、その先輩?」

「うん」

「好きなの、その先輩の事?」

「やだぁー、お母さん。今日会ったばかりだよ」

「好きになるのに時間は関係ないわ」

 美佐子は真剣な表情で羽純を見つめた。

「どうしたの、お母さん?」

 いつも違う母の雰囲気に少し圧倒されながら羽純が尋ねた。

「お父さんとお母さん。離婚するかもしれない」

「えっ! どうして? もしかしてお父さん浮気しているの?」

 美佐子は小さく首を振った。

「お父さんは浮気なんかしていないわ」

「じゃあ、どうして……」

「ごめんね、羽純。お母さんに好きな人が出来たの」

「ちょっと、待ってよ。お母さん」

「今日ね、その人からプロポーズされたの」

 美佐子がその瞳に涙を浮かべながら呟いた。

「お母さん、正直。とてもうれしかったわ。だって、その人はお母さんを一人の女性として見てくれたんですもの」

「お母さん……」

美佐子は泣いていた。

「羽純には本当に悪いと思っているわ。でもね、自分でももう気持ちを抑える事が出来ないの」

 羽純も泣いていた。

「ごめんね……」

 泣きながら美佐子は何度も謝った。

「もういいよ、お母さん。判ったから……」

 母と娘は抱き合いながらいつまでも泣きじゃくった。


 翌朝、いつもと違う雰囲気が朝の食卓を包んでいた。

 重苦しいまでの雰囲気がそこにあった。昨日の夕食まではそれなり家族団欒的な雰囲気があったのに、たった一晩でこうも変わり果ててしまうものなのか。自分が築き上げてきた家族がこうも簡単に壊れてしまうのか。三樹夫は自分が歩んできてこの二十年をしみじみと噛み締めながらその脆さを実感していた。羽純もさすがにそんな両親に対して掛ける言葉がなかった。

 昨夜、泣きながら二階から降りて来た美佐子を見て、三樹夫は特別慌てるでもなく静かに声を掛けた。

「どうした?」

 美佐子は黙って三樹夫の前に座った。

「すみません。貴方……」

 美佐子が泣きながら頭を下げた。

「ごめんなさい……」

「何があった?」

「ごめんなさい……」

「謝るだけじゃ、訳がわからん。きちんと説明しろ!」

 いや、三樹夫自身は実際美佐子が何を言いたいのかはわかっている。

 わかっていながら、美佐子自身の口からそれを聞きだそうとしているのだった。

 そんな自分にも嫌気が刺した。

 俺はどうしていつもこうなんだ!

 自分で答えを見い出さず、誰かに押しつけてしまう。本当に卑怯な男だ。

 激しい自己嫌悪が三樹夫を襲った。

「もういい!」

 三樹夫がソファーから立ち上がった。

 自分自身に腹が立った。

 また、逃げるのか──?

 くそ!

 三樹夫はそのまま家を出た。行く当てもなく、ただ歩いた。

歩き続けながら自分自身が情けなく思え涙が零れた。

結局、三樹夫はまた逃げてしまった。

「何の進歩もしていないじゃないか……」

 闇に向かって呟いた。

「こんなだから、女房にも愛想尽かされるんだ」

自分に向かって言い聞かせた。

涙が零れた。

「くそぉ!」

 闇に向かって叫んだ。それは決して晴れる事のない三樹夫の心の闇だった。


 そして、美佐子はその日から家を出たのであった。三樹夫と羽純に長い手紙を残して。

 その事を羽純から電話で聞いたのは、夕方であった。

「どうしよう、お父さん」

 羽純が泣きながら尋ねた。

「わかった。六時までには帰れると思うから、お前は心配しなくていい」

 そう言って電話を切った。しかし、まさかここまでするとは思わなかった。

 美佐子自身はどちらかというと、気が強い所はあるが根は臆病な女であった。

 だから、突然家を出るなどそんな事が出来るはずもないと高を括っていた。

 しかし、その臆病な女がここまでするという事は、当然それだけの深い決意があると言う事である。それはイコール家庭を捨ててまで自分の意志を貫き通したい者が存在するという事でもある。悔しいが完璧に負けたと思った。

 家に着くと、羽純が目を真っ赤にして待っていた。

 テーブルの上に自分と羽純に宛てた厚めの封筒があった。

 自分宛ての方の封を切り、三樹夫はそれを読み始めた。

 ごめんなさい、貴方。と最初の一行はそう書かれてあった。

 そして、こういう事をしてしまった自分の愚かさ。羽純を傷つけてしまった親としての不甲斐なさ。三樹夫を裏切ってしまった罪について。何度も謝りながらそのような事がかかれてあった。そして、手紙とは別に美佐子のサインと捺印された離婚届が入っていた。

「手紙でも、謝ってばかりだ……」

 三樹夫がボソリと呟いた。

 冷静に対処出来ると思っていたはずなのに、三樹夫は何も考えられなかった。

「ここまで追い詰めてしまったお父さんが一番悪いのに、お母さんは一言もお父さんを責めたりしない」

 三樹夫が羽純に謝るように項垂れた。

「考えてみれば、お父さんはお母さんが出していたSOSの信号を気付きながら、気付かないふりをしていた」

「SOS?」

「そうだ。お母さんが出していたもっと私を理解して。きちんと私と話しをして。そして、私を愛して……という合図だ。そういう合図を感じていながら、お父さんはお母さんを一人の女性ではなく、母親という役割に縛り付けようとしたんだ。悪いのは、全てお父さんだ」

「お父さん……」

「母親は夫に愛されている基礎があって、初めて母として強くなれるんじゃないのかな。お父さんは、お母さんからその母親としての基礎を奪ってしまった」

「お母さんと離婚しちゃうの?」

 羽純が泣きながら尋ねた。

「ごめんな、羽純。お母さんは女性として、お父さんよりももっと頼れて、恐らくお父さんよりももっと優しい人に巡り会ったんだ。男としては悔しいが、こうすることでお母さんが幸せになるなら、離婚する事が一番いい方法なんだよ」

「私はどうなるの?」

「お父さんと暮らすのは嫌か?」

「そうじゃなくて、突然母親が家から居なくなってしまって、それを冷静に受け止める事なんか出来ないわ!」

「お母さんだって、それが一番心残りだったろう。でも、こういう無茶を羽純ならきっと判ってくれるだろうと考えたんだと思うよ」

 羽純がまるで幼子のように泣きじゃくった。

 三樹夫は静かに羽純を抱きしめて頭をなぜた。

「お父さんのせいで、辛い思いをさせてしまったね」

 父の胸の中で何年かぶりに娘は激しく泣いた。今まで堪えていたものをすべて吐き出すように――。


     第三章


 もしかして、突然美佐子が帰ってくるのではないか。

 羽純の事を考えて、やっぱり自分の幸せより子供の幸せを第一に考えるのが親なのだから―─

 そんな微かな望みのようなものを三樹夫は最初は考えていた。

 だから、美佐子が家を出て二週間が過ぎても、未だに離婚届を提出出来ずにいたのである。羽純は美佐子が家を出てから、尚一層トランペットの練習に励んでいた。まるで、そうする事が母が家に戻って来る唯一の手段のように。

食事は平日に関してはコンビニの弁当やパン類がほとんどだった。

 土曜日は午前中もブラスバンドの練習があるので、三樹夫が準備するが、日曜日は羽純が作ってくれていた。元々羽純との会話が少なかったが、美佐子が家を出るまでぎくしゃくしていた訳ではない。しかし、三樹夫は自分達を置いて美佐子が家を出てしまったという娘が味わった心の傷を癒すべく、出来るだけ色々な会話を持つように心がけた。

 それは、三樹夫自身が何十年も様々な問題から逃げつづけていた自分自身への戒めと、自分を変えようとする新たな試みであった。

 そして、一ヶ月が過ぎてそんな生活にもようやく慣れてきた頃、三樹夫はついに離婚届けを提出した。外回りの仕事の際、市役所により提出したのである。

 久賀製薬の販売部部長というのが、三樹夫の肩書きである。

 しかし、この所の不景気で大手製薬会社の部長と言えど、どっしりと机に座りのんびり構えてなどいられなくなったのである。離婚届けを提出したことはすぐに美佐子にメールで知らせた。

ありがとうございます

の短い返信が数分後に送られてきた。

今どうしている? と、再度メールを送ったが返信はなかった。

「どうだ。部活の方は?」

 夕食の後片付けを終えて、部屋に戻ろうとしていた羽純に向かって尋ねた。

「うん。調子いいよ」

 羽純も父が自分に対してかなり気をつかっているのが判るらしく、努めて明るくふるまっていた。

「そうか、がんばれよ」

「うん」

と、笑顔で羽純が答えた。

「羽純!」

 部屋に入りかけた羽純を呼び止めた。

「今日、離婚届け。出してきたよ……」

「そうなんだ……」

と、それだけ言い残して羽純は部屋の中へと消えて行った。

 すぐにトランペットの音色が聞こえてきた。その音はいつもと違って少し擦れた音だった。


 美佐子が家を出たことのショックで成績が下がるのではないかと危惧していたが、前期の定期試験において、羽純は学年で上位クラスにランクされた。

 そして、そんな平穏な状態のまま、季節は夏へと変わり学校も夏休みとなった。

「夏休みでもずっと部活なのか?」

 玄関で今にも出ようとしている羽純に向かって、三樹夫が尋ねた。

「夏休みが終わったらすぐに全国大会の地区予選が始まるの」

「そうか」

「それに、夏休み中は野球部の地区大会にも同行しなくちゃならないの」

「大変だな」

「もし、野球部が甲子園に行くようなことにでもなったら、それこそ大変よ」

「そうだな」

「じゃあ、行ってくるね」

「ああ、気を付けて行くんだぞ」

「うん」

 羽純が笑って玄関から出て行った。美佐子と離婚して三ヶ月。羽純は一切母の話しはしなかった。恐らく三樹夫に気を遣っての事だろう。

「親が子供に気を遣われたらおしまいだな」

 三樹夫が自嘲した。

「さて、どうしたもんかな」

 三樹夫が家の中を見回した。

 特別やることもなく、三樹夫はソファーに寝ころんだ。

 そのままぼんやりと天井を見ていたが、大きく背伸びをすると目を閉じて眠りに就いた。

 どれくらい眠ってしまったのか、突然三樹夫は驚いたようにガバッとソファーから起き上がった。時間を見ると、十時を少し回ったばかりだった。何時間も眠ってしまったような気がしていたが、羽純が出かけて一時間も経っていなかった。

 その時、玄関のインターホンが鳴った。

 三樹夫は慌ててインターホンの受話器を取った。

「どちら様ですか?」

 短い間を置いて返事が返ってきた。

「私です」

 三樹夫は受話器を置くと、玄関へと走った。ドアを開けるとそこに美佐子が立っていた。

「美佐子」

 突然の美佐子の出現で、三樹夫の思考回路はパニックを起こしていた。

「ごめんなさい。せっかくのお休みなのに」

 もし、美佐子ともう一度会えたら、あれも言おう。これも言わなくちゃと考えていた事が全て吹き飛んでしまった。

「今日は貴方に大切なお話があるの。羽純の事で……」

「羽純の事?」

「いいかしら、上がっても?」

「あっ、ああ……」

 美佐子が靴を脱いで、三樹夫の前を通り過ぎて行く。その瞬間、一緒に住んで居た時とは違うとても良い香りがした。

 香水か―─。俺と一緒に居た時なんか付けた事などなかったのに……

 なんかそれだけで、美佐子が完全な赤の他人というのか、凄く遠い存在に思えた。

「もっと、ちらかっていると思ったわ」

 美佐子が家の中を見回しながらソファーに腰を降ろした。

「コーヒーでいいか?」

 尋ねながら改めて三樹夫は美佐子をしみじみと見つめた。

 今、ソファーに腰を降ろしている美佐子は、かつての自分の知っている美佐子ではなかった。

 きちんと目立たない程度に化粧をし、恐らくブランド物であろうワンピースをさりげなく着こなしている。

 元、妻が美しくなるのは良いが、それが自分の為ではなく他の男の為というのは、かなり精神的にきつかった。

「で、大切な話しと言うのは何なんだ?」

コーヒーを美佐子に差し出しながら三樹夫が尋ねた。

「羽純から何か聞いてる?」

「いや、部活が忙しい事ぐらいしか聞いてないけど……」

「やっぱり、貴方には話せないでいるのね」

 美佐子が小さく溜息を吐いた。

「何の事だ?」

「ごめんなさい。少しだけ待って頂戴。私も心の整理をしたいの……」

 美佐子は数回深呼吸を繰り返すと、出されたコーヒーに口を付けた。

 三樹夫はその様子を少しイライラしながら黙って見つめていた。

「昨日、羽純から私の携帯に電話があったの」

 美佐子がようやく切り出した。

「私が勝手に家を出て、貴方と離婚した事がどれだけ羽純を傷付けてしまったか。絶対に許してもらえないと思っていたわ。だから、羽純から電話が来た時は本当にうれしかったわ。羽純が許してくれたんだと思ってね」

 三樹夫はコーヒーを啜りながら黙って美佐子の話を聞いていた。

「でも、そうじゃなかった。羽純はやっぱり私を許してはいなかった。ただ、今自分が抱えてしまった問題があまりにも大きすぎて、どうしていいのか判らず私に電話してきただけだったの」

「大きな問題?」

「そう。離婚してしまった私では単なるアドバイスは出来るけど、親権が貴方にある以上私はどうする事もできないわ」

「何なんだ? 羽純が抱えているその問題って」

 美佐子が一瞬目を反らし、すぐに三樹夫を見つめ返した。

 力強い視線が三樹夫を捉えていた。

「妊娠しているのよ、羽純は」

「なんだって!」

 三樹夫が叫んだ。しかし、それ以上の言葉は出てこなかった。

 激しい目眩が三樹夫を襲った。全身の血液が一気に逆流したように身体中が熱くなった。

 何かを言おうとしたが、言葉が口から出ず唇だけが震えた。

「落ち着いて、貴方!」

「羽純……」

 ようやくそれだけを口から漏らした。

 喉がカラカラに乾いていた。

 酸素が不足したように急に苦しくなってきた。口を大きく開け、三樹夫は何度も深呼吸をした。

 心臓の鼓動が激しくなり、その脈打つ音が美佐子にも聞こえそうなくらいだった。

「大丈夫、貴方?」

「妊娠……」

 擦れた声で三樹夫が呟いた。うつろな目で美佐子を見た。美佐子の美しくなった姿を見たとたん感情が爆発した。涙が溢れた。

 羽純の顔が脳裏に浮かんだ。悲しい目をして羽純は三樹夫を見つめていた。

 その羽純の顔を見つめながら、三樹夫は声を出して泣いた。

 嗚咽を何度も繰り返しながら、美佐子はそんな初めて見る三樹夫の姿に掛ける言葉もないままただ一緒に涙を流すだけだった。


 情けなく美佐子の前で泣き続け、三樹夫がようやく落ち着きを取り戻したのは三十分くらいしてからのことだった。

「すまなかった……」

「大丈夫?」

 美佐子が心配そうに三樹夫の顔を覗き込んだ。

「ああ、もう大丈夫だ」

 そう言って三樹夫は一口コーヒーを啜り、煙草に火を付けた。

「どっちにしても、まず病院に連れて行かなくちゃいけないわ。私が責任持って連れて行くから」

「いや、これからどうするのかは、俺と羽純が話し合って決める」

「だって……」

「俺と羽純が決めた事で、もし羽純が君に力を貸して欲しいと頼んできたなら、その時は力になってやってくれ。それまでは、俺と羽純で頑張る」

「頑張るって言ったって、男の貴方では今回の事は無理よ」

「頼む。今日羽純が帰って来たらじっくりと話し合ってこれからの事は決める。そうしたら君にも必ず連絡するから、それまで待ってくれ」

 三樹夫が深々と頭を下げた。

「わかったわ、どっちにしても羽純の気持ちをきちんと確かめて、必ず連絡頂戴ね」

「ああ、約束するよ」

 美佐子が静かにソファーから立ち上がった。

「貴方、変わったわね」

 美佐子が優しく微笑んだ。

「一つだけ、聞いていいか?」

「なに?」

「相手は誰なんだ?」

 美佐子は少し悲しそうに目をして、小さく首を横に振った。

「私もそれを聞いたんだけど、教えてくれなかったわ」

「そうか……」

 三樹夫が溜息を吐いた。そして、美佐子は帰って行った。

 

 美佐子の飲みかけのコーヒーカップを、三樹夫はボンヤリと見つめていた。

 すでに冷め切った自分のコーヒーを一口啜り、三樹夫は煙草に火を付けた。

 煙草を口に咥えたまま、ソファーに背中を預け、天井に向かって紫煙を吐き出した。

『生理が来ないの……』

 春美の言葉が蘇って来た。

「これが……」

 紫煙の中に浮かび上がった春美に向かって、三樹夫が呟いた。

「お前を傷付け、罪を犯した俺への罰なのか?」

 また、涙が零れた。

 三樹夫を見つめている春美は何も喋らず、悲しそうな目で三樹夫を見つめているだけだった。

「羽純の相手は竜也君なのか? だとしたら、あまりにも惨すぎる……」

 涙が止まらなかった。

「羽純には何の罪もないのに……。悪いのはすべて俺だろ?」

 三樹夫が呻いた。呻きながらまた嗚咽を繰り返した。

 その時、突然玄関から「ただいま!」と羽純の声が響いた。

 ビクンと身体を咄嗟に起こし、三樹夫は涙を拭った。

 ドクン、ドクンと心臓の鼓動が激しくなった。三樹夫を急いで台所へと走り顔を洗った。

 そこに、羽純が顔を出した。

「ただいま」

 羽純が台所に三樹夫に声を掛けた。

「おお、お帰り!」

と、三樹夫が顔を洗いながら答えた。

「どうしたの、お父さん?」

「ちょっと、目にゴミが入っちゃってさ、洗い流してた」

「大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。早く着替えといで」

「うん……」

 そう言って羽純は二階の自分の部屋へと上がって行った。

 トントンと羽純の階段を昇る音を聞きながら、三樹夫は大きな溜息を吐いた。

 まず、気持ちを落ち着けなくては――

 三樹夫はそう思いながら顔をごしごしと洗った。

 もう、あの過ちは二度としない!

 覚悟が決まった。すべてを受け入れる覚悟が。

 自分が犯してしまった罪を償う覚悟が。

 そして、たった一人の家族、自分の娘を守る覚悟が決まっていた。



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