M君のこと
卒業研究のデータ集めの協力をお願いしたい、という連絡がM君から来たのは、金木犀が散り始めた九月の終わりの頃だった。
長雨の影響で短い時間しか楽しめなかったのでがっかりしていたら、彼らは二度咲きするものもあるようで、その日M君と待ち合わせた歴史博物館に行った時は、エントランス前の茂みの中からほんのりと甘い香りを放っていたのだ。
待ち合わせは歴史博物館の外、大きな庇の下に設けられた飲食スペースだった。
館内は飲食禁止なのだけれど、此処はフライドポテトやチュロスを売るちょっとした売店があって、その小ささに見合ったささやかな飲食スペースが用意されているのだ。
僕は二人がけの席を選んで、先に座ってM君を待つことにした。歴史博物館は、街の中心部からは離れた、閑散とした場所に建っていた。施設のすぐ後ろには森が迫り、その手前に縄文時代の住居の精巧なレプリカや、自然生物を観察するための池などがある。池には鴨が数羽泳いでいて、家族連れが柵越しに眺めていた。
飲食スペースには、その家族連れと僕くらいしかいない。閉館時間も迫っていて、そもそも平日ということもあるので、来館者は少ないようだった。売店の中からは、何かを洗う音が聞こえてくる。
僕は、これから来るM君のことを考えた。大学の中で、僕らは友達とまで言えるような親しい間柄ではなかった。学部は同じだけれど、受講している授業は半分違う。
彼と言葉を長く交わした記憶があるのは、一年生の後期の授業で、たった一回、グループワークの班が同じになった時だった。まだ互いの態度に遠慮深さが滲んでいる頃で、当たり障りない会話をしてその場を切り抜けた気がする。その時からは、その後の授業でもうっすら意識したけれど、印象は薄い人物だ。きっと、彼から見た僕もそうだろう。
そのような彼が、僕の友達を通して連絡をしてきたのだった。何でも、卒業研究のデータ収集に協力して欲しい、という話だった。彼は言語学を専攻していて、専門は方言だった。たしかに、彼と被っていた授業は大方その分野だったので、早々に自分の研究方針へ舵を切っていたのだろう。
収集したいデータというのは、会話文だった。会話の中に現れる特定の表現についての研究らしい。人数は何人でも構わないそうだが、既にある程度のデータは揃っているのだそうだ。親しい人の間でサンプルは十分集まったのだろう。正確性を高めるために、対象範囲を広げたと見た。
特に断る理由もなかったので、僕は二つ返事で引き受けた。待ち合わせ場所は、録音が綺麗にできるような、静かな場所という条件だった。僕は市内の公園や駅前のベンチを挙げたが、彼は自分の研究のためにわざわざ電車を乗り継いで市内まで来てもらうのは申し訳ないと言った。(僕は市外に住んでいて、毎朝電車を乗り継いで大学へ通っていた。)
最終的にこの博物館の、平日の人の少ない時間帯の飲食スペースで、ということに決まったのだった。此処は僕の家からバスで二十分もかからないところにあった。
M君が現れるまで、会話データに使えるような話題を考えた。一年生の後期の授業のようなあの当たり障りない会話がデータとして使えるのか分からないけれど、少なくとも録音を聞き直すM君が退屈することは間違いなかった。かといって、笑い転げるような話題が僕の中にあるかと思えば、また首を傾げるところだ。
M君は、そうこうしているうちにやって来た。「待ったかい」と僕の前の椅子を引いた。
「今来たところだよ」
「そうなんだ。電車が六分遅れてね。メールしたんだけど......」
見ると、たしかにメールが一件入っていた。気が付かなかったよ、と僕が言うと、彼は微笑んだ。
彼は目立たない方だ。大学生と言われれば大学生だし、まだ高校生と言われれば信じてしまいそうなくらい、素朴な見た目だった。教室で彼を強く意識しないのも、そういう雰囲気が関係しているのかもしれなかった。
「卒論、順調?」
僕は何気ないふうに聞いた。
「うん、まあまあだね。九月中にもう少しデータが揃えば、少なくとも締切に遅れるってことはなさそうだ」
「そうなんだ」
M君は肩から黒い斜めがけのバックをかけていて、そこからマイクや角張った機器が登場するのだろうとばかり思っていた僕は、彼が操作する端末が既に録音開始のボタンを押されていることに気がついた。
「もう始まってるの?」
僕が端末を指さすと、彼は頷いた。
「気にしないで、自然な感じで良いんだ。みんな、録音って聞くとどうしても気張っちゃってさ。なかなか思うようなデータが取れないことも多いんだよね」
彼が僕のような人間にまで収集対象を広げているのは、どうやらそういう理由もあるようだった。
「君はどう? 順調?」
「卒論?」
「そう」
「僕もまあまあ、と言ったところかなあ。ゼミの先生もあまり急かすような人ではないから、みんな自分のペースで進めてる」
「そうなんだね」
それからは、僕の卒論の内容について、M君が様々な質問をしてきた。けれど、どれも簡単に答えられるものばかりだった。ある程度、彼の中で会話文のテンプレートが出来ているらしい。僕の前に存在しているだろう、サンプルになった何人もの同級生の顔を、僕は想像した。
「M君とこうしてしっかり話すのは、初めてだね」
卒論についての話題が底を尽きた頃、僕は言った。一年生の後期の授業での事に触れると、彼は覚えてる、と言った。
「O先生の授業だよね」
「そうだ、そうそう。O先生」
「あの人、今はもう居ないみたいだよ。もともと病気があったみたい」
「入院してるの?」
「わからない。友達が言うには、自宅で療養してるって話だけど......もともと、違う大学の先生なんだって。そっちには、週に一回だけ顔を出してるって話だよ」
へえ、と僕は言った。端末を見ると、波形が一定の大きさを保っている。僕らの他に居た家族連れは、縄文時代の住宅の方へ行ったようで、飲食スペースには僕ら以外誰も居なかった。
「一年生の頃から、雰囲気変わらないね」
僕は言った。M君は目を丸くして、「僕?」と言った。僕が頷くと、彼は端末に一瞬だけ視線をやった。そして、すぐに僕の顔に目を戻した。
「どういうふうに見えてるんだろう? 僕って」
M君の顔に不安そうな色が浮かんだので、僕は慌てて「悪い意味じゃないよ」と付け加えた。
「純粋無垢って感じ。教室に居ても、良い意味で目立たないというか......素朴なんだ」
「ありがとう」
彼ははにかんで、前髪をいじった。風が爽やかに吹いている。
「目立たないのは知ってるんだ。目立つのが嫌いってほどでもないけど......割に合わないんだ。人の需要に収まる形に自分を成形できないっていうか......背伸びする度合いを測れないというか」
「張り切りすぎちゃうのかい?」
「そういうところ。だから黙ってるんだ。たまに、すごく変なこと言ってるって気になっちゃう。一度解放すると止まらないんだ。暴走して、ずっと喋り続けてしまうからね。だから、いつも注意してる」
「そういうふうには思えないけどなあ」
今までの会話の中で、彼はずっと穏やかだ。常に僕の話に耳を傾けてくれる、良い聴衆だ。僕は、そのような彼のもうひとつの一面を見てみたかった。
「例えば、どんな変なことを言っちゃうんだい?」
「聞かれると思ったよ。言いたくない」
「変じゃないかもしれないよ」
「変なんだよ。僕自身、変だと思っていることなんだから」
僕はますます気になった。そして、彼が喋りづらいのは、彼の腕の下にある、その録音中の端末が原因なのではないかと思った。再度この会話を聞く未来の彼が、億劫な気持ちになるということを、目の前の彼が予想しているのではないだろうか。
「録音、そろそろ終わり?」
「ああ、そうだね」
彼は言ったが、特にボタンに指を置く動作はしなかった。録音時間は三十分から一時間程度とされていた。そろそろ三十分が経過する。
「他になにか、喋っておくことはないかな」
僕が問うと、彼は微笑んだ。
「もう十分さ。そろそろ終わりにしようか」
「でも、折角だしもう少し喋っていようよ。どこを使おうが構わないんだろう?」
「それはそうだけど......君さえ良ければ」
僕らはまた、卒論の話をした。最初の会話をなぞるような、他愛もない話をして、何となく会話が途切れがちになった。
レプリカを見ている家族は、もう帰ってしまったのか、見える範囲に人影はない。M君はぼんやりと、池の鴨たちを観察していた。そんな彼を僕は見つめる。
ふと、金木犀の匂いが鼻腔を掠めた。風向きが変わったらしい。僕が気づいた時、M君も気づいたようだ。目が合った。
「良い香りだね」
僕が言う。
「金木犀だね。この前の雨ですっかり散っちゃったと思っていたのに」
「あれは二回咲くことがあるんだって」
「へえ」
僕らはそれから銘々鼻をひくひくさせていたけれど、香りは居なくなっていた。
「香りといえば」
M君が頬杖をついたまま、口を開く。
「僕、中古で買った服の香りが好きなんだ」
「中古?」
「うん。それも大きなサイズのね。届いたその日に、それをパジャマにして寝るんだ」
「洗濯しないのかい?」
「香りが無くなっちゃうじゃないか」
彼は今日もオーバーサイズのパーカーを着ていた。有名なアウトドアブランドのロゴが右胸のところにワンポイントで入っている。僕は再び鼻に意識を集中させてみたけれど、彼から香ってくる香りはなかった。
「普通は、買ったらすぐ洗濯してしまうんだろうけど......でも、何だか嫌なんだ。知らない人の香りの中で眠りたいんだよ」
「ぐっすり眠れるの?」
「びっくりするほどね」
彼の目は真剣だった。今までの柔らかな雰囲気が引き締まったように感じられて、僕は何だか目を合わせづらいような気がした。視線を下ろした先に、M君のパーカーの袖があった。指先が第二関節まで袖に隠れている。まだまだ余りがあって、引き伸ばせばすっぽりと手を隠してしまいそうなほどだった。
「それも、そうなの?」
僕は袖を指さした。
「うん。でもこれは、買ってから随分経つから。それに、一回パジャマにしたら、もうそれでおしまいなんだ。洗濯して、次の日からは普段着として着る」
彼は袖を差し出した。僕は鼻先を近づけてみたけれど、ほとんど無臭だった。
「このパーカーからはどんな匂いがしたの?」
「家庭的な香り。たまに、包装する前に善意で香水の匂いをつけてくれる人もいるんだけど......僕が好きなのは、その家の匂いが想像できる香りなんだ。別に、想像してどうこうするわけじゃないんだけどね」
彼は苦笑して、袖を自分の方へ引っ込めた。
「これが、君の言う変な話?」
僕は聞いた。M君は恥ずかしそうに頷いて、
「でも、こんなの序の口だよ。それに、買って着て終わりってことが多くて。僕の場合、パジャマにして匂いを纏うことが目的なんだ。別に、アイテム自体の柄とか特性はどうでもいいんだよ。だからね、何でもかんでも買っちゃうんだ。家のクローゼットは、オーバーサイズの服ばかり。ついに親に叱られちゃった」
「ずっと買っちゃうの?」
「ずっと。今日も、此処に来るまでの電車の中で二着も注文しちゃったんだ。家に帰ったら、先週頼んだのが来てると思う」
「今日はそれを着て寝るんだね?」
「そうなるね。儀式みたいなものなんだよ。それがあると、本当にぐっすり眠れるんだ」
M君は、それから「お茶で飲む?」と近くの自販機へ歩いて行った。お茶のボトルを二本買ってきて、彼が席に着いた時、たしかに香りがした。人の家の香りが。けれど、それがM君の家のものなのか、それともその服の前の持ち主の家の香りなのかは、分からなかった。
会話はその後、就職の話になった。これも当たり障りない内容で、彼の使い回しの質問に僕が簡単に答えるだけだった。そこで、録音は終わった。
空の色はオレンジと紫に変わって、冷たい風が吹き始めていた。僕らはそれぞれバス停と駅に急いだ。
それから、M君とは前のようにうっすらとした関係に戻ってしまった。録音データはどの部分が使われたのか、卒業論文を漁れば分かるのだろうけれど、少なくともあの「匂い」の儀式についての部分は、M君の意向で使われることはないだろうと思った。
僕は卒業まで、そして卒業してからも、忙しさで疲弊した夜は特に、オーバーサイズの中古のパーカーに包まれて眠るM君のことを思いながら、眠りに落ちた。




