表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

波音

作者: 久藤準時
掲載日:2026/03/01


 七月最後の木曜日、放課後の教室にはエアコンの唸りと蝉の声だけがあった。


 三時間目が終わった頃から窓の外では入道雲が育っていたが、今はもう見えない。西日が机の列を斜めに切り、埃が光の中でゆっくり動いていた。誰もいなくなった教室には、汗と消しゴムのカスの匂いがかすかに残っていた。南野菜月があたしに封筒を差し出したのは、そういう何でもない午後のことだ。特別な前置きはなかった。菜月はただ「読んでほしいから」と言って、さっさと帰ってしまった。呼び止める間もなかったというより、あたしは呼び止めなかった。廊下に消えていく菜月の後ろ姿を、ドアの隙間から半秒ほど見て、それから目を逸らした。


 教室に一人残り、あたしは封筒を膝の上に置いた。動けなかった。蝉の声がやけに大きく聞こえた。窓の外の桜の木が風に揺れていたが、そちらを見る気にはなれなかった。


 「佐伯美咲へ」と書かれた宛名の字が菜月の字だと分かる。丁寧でも流麗でもない、しかし迷いのない筆跡。ボールペンを紙に押し当てた力が均一で、一文字ずつ止まった跡もない。その迷いのなさが、眩しいような痛いような何かを運んでくる。


 封筒の端が少し折れていた。あたしはその折れ目を指でなぞって、それからゆっくり封を開けた。便箋は一枚だった。前置きはほとんどなかった。書き出しの一行と、二行目に「友達じゃなく、好きです」とある。それだけだった。便箋の下半分は白いままで、そこに何も書かれていないことが、かえって重たかった。言いたかったことはこれだけだ、という意志のようなものが、その余白から伝わってくる。


 一度、便箋を元の位置に戻した。折り目に従って畳んで、封筒の中に戻した。それからもう一度、取り出した。もう一度読んだ。二行目は変わらなかった。「友達じゃなく、好きです」。読むたびに、その言葉の重さが少し変わった気がした。どう変わったのかは、言えなかった。


 嫌悪ではなかった。嫌悪であれば、まだよかった。感じたのは熱に近い何かで、皮膚の下をゆっくり広がるような、それでいて名前のつけられない温度だった。特別だと思われているという事実の重さ、と言えばいちばん近いかもしれない。あるいは、自分の中に「特別だと思っている」という感情が確かにあることへの——気づいてしまったことへの、とも言えるかもしれない。


 しかしあたしには、その重さを受け取る言葉がなかった。嬉しいのか。困っているのか。それ以上に——これが恋かもしれないという感覚があることが、あたしを最も怖がらせた。怖いということは何かを感じているということで、何かを感じているということは誠実でなければならないということで、誠実でなければならないということは正直な言葉を選ばなければならないということで——そこまで連鎖して、あたしは考えることをやめた。便箋を折り直し、封筒に戻した。カバンを開けて、底に押し込んだ。深く、他のものの下に潜り込ませるように。教科書の重みで封筒が見えなくなって、あたしはカバンを閉じた。


 翌日からあたしは、菜月と「ちょうどいい距離」を演じ始めた。廊下で目が合えば笑う。昼休みに声をかけられれば答える。グループで話すときは普通に笑う。けれど二人きりになる文脈を、無意識に回避した。放課後に菜月が「帰ろう」と言いそうなタイミングで、先に席を立った。昼食を一緒に食べる習慣があったが、委員会の用事があるふりをした。委員会などなかった。自分でも気づいていないようで、はっきりと気づいていた。気づいていて、それでも止められなかった。


 一度だけ、うまく回避できない瞬間があった。授業の合間の休み時間、菜月があたしの席に来て隣に腰を下ろした。他のクラスメートたちは廊下に出ていて、教室には二人だけだった。菜月は何かを言おうとして、やめた。あたしはそれに気づいていた。菜月が次の言葉を選んでいる、その一秒か二秒を、あたしはやり過ごすことができなくて、「トイレ」とだけ言って席を立った。廊下に出て、壁に背を当てて、少し時間を潰してから戻った。菜月は別の席の子と話していた。何事もなかったように見えた。しかし何かがあった、ということを、あたしは知っていた。


 何も言わなかった。催促しなかった。ただ待っていた。目が合うと普通に笑った。その笑い方に責めるものは何もなかった。ただ待っている、という静けさだけがあった。その静かさが、あたしには催促より重かった。怒ってくれれば、あるいは困らせてくれれば、こんなに苦しくなかった。



 返事ができないまま一週間が経ち、夏休みに入った翌朝、あたしは衝動的に下田行きの電車に乗った。前夜から決めていたわけではなかった。朝起きて、天井を見て、このまま東京にいたくないという感覚だけがあって、気づいたら駅にいた。叔父に連絡したのは乗車後で、「行ってもいい?」というメッセージへの返信は「鍵、開いてる」の六文字だった。それ以上は何もなかった。それで十分だった。


 電車が熱海を過ぎると、車窓に海が見え始めた。七月の海は青というより白に近い光の中にあって、きらきらとしているというよりただ眩しかった。あたしはしばらくそれを見ていて、それから窓ガラスに映る自分の顔を見た。表情がなかった。何かから逃げている顔をしていた。今日も逃げ場として来たわけではないと、自分に言い聞かせていた。でもそれが嘘だということを、その顔が知っていた。


 下田の別荘は、海から歩いて五分の古い木造家屋だ。玄関を開けた瞬間に磯の匂いが来て、どの部屋にいても波音が聞こえる。縁側の木が日に焼けて灰色になっていて、踏むとかすかに軋む。壁に染みた潮の気配、台所の古い蛇口、天井に渡した物干しざおの錆——あたしが子どもの頃から、ここはそういう場所のままだった。何も決めなくていい場所として、ここはずっと機能してきた。


 カバンを置いて、縁側に出た。目の前に海はないが、屋根の向こうに光の反射だけが見えた。風が来るたびに塩の匂いが混じった。あたしはしばらくそのまま立っていた。東京を出てから数時間しか経っていないのに、息のつき方が変わった気がした。変わったというより、元に戻った、というほうが正確かもしれない。ここに来ると、あたしはいつも少し小さくなれる。それが嫌いではなかった。


 叔父は五十代で独身だった。外資系の金融機関に長く勤めていたのを早期に辞めて、今は自宅の一室をオフィスにして個人でトレードをしている。仕事の話をほとんどしない人で、別荘の机の上にはいつもモニターが二台並んでいた。相場が開いている時間帯は無言で画面を見ている。何かを考えているのか何も考えていないのか分からないその静けさが、なぜかあたしには安心だった。何も問われない感じがした。


 夕飯は叔父が作った。冷蔵庫にある食材を無駄なく使う、飾り気のない料理だった。焼き魚と、冷奴と、みそ汁。二人で食べながら、あたしはしばらく他愛ない話をした。学校のこと、友達のこと、夏休みの予定。叔父は短く相槌を打ちながら聞いていた。窓の外では日が落ちて、波音の質が少し変わっていた。昼間より低く、間が伸びるように聞こえた。


 後片づけをしながら、あたしは事情を話した。菜月のこと。封筒のこと。一週間、まともに向き合えていないこと。話しながら、自分でも整理できていないと気づいた。言葉がうまく出てこなかった。それでも叔父は食器を拭く手を止めなかった。うなずかなかった。しかし聞いていた。


 水道の音が止んだ後、しばらく静かだった。それからこんな言葉が返ってきた。


「相手が女かどうかは問題じゃない」


「お前は、その子の愛情を引き受ける覚悟があるのか」


 すぐに反論できなかった。覚悟、という言葉が胸の中で数回転がった。覚悟があるかないかではなく、覚悟というものを一度も考えたことがなかった、と気づいた。自分が何を感じているかばかり考えていて、その感情を持ったまま誰かに向かっていくということを、考えていなかった。


 しばらく沈黙が続いて、叔父はすすいだ茶碗を水切りに伏せながら続けた。


「俺は毎日、確信なんてないまま決断してる。相場に正解はない。でも決断しないことが、いちばん損失が大きい。待てばいいポジションじゃないものがある」


 それはトレードの話だった。しかしあたしには、菜月の話として届いた。


 確信がなければ動いてはいけないと、あたしはずっと思っていた。自分の感情が恋かどうか判定できるまでは何も言えない。でも——その「判定」を待ち続けることが、すでに菜月に対して何かを選んでいることだと、叔父の言葉を通して初めて気づいた。待つことも、一つの決断だ。そして今あたしが選んでいる「待機」は、菜月に対して最も損失の大きいポジションかもしれない。一週間、菜月はただ待っていた。その静けさがどれほどの力を要したか、あたしはそこでようやく想像した。


 その夜、縁側に一人座って、あたしは菜月のことを初めて正面から考えた。


 教室でそっと貸してくれた消しゴム。あたしが探していることに気づいて、何も言わずに机の隅に置いていった。下校中に交わす何でもない話の、軽さと確かさ。菜月はよく笑う人で、しかし作った笑いではなかった。楽しいから笑う、というだけの単純な人に見えて、その実、人の気持ちの微細な変化をよく見ていた。あたしが少し疲れているときに話しかけ方を変える。あたしが話したくないときに察して黙っている。それが自然にできる人だった。菜月の笑い方——口角より先に目が細くなる、あの笑い方。それらが「大切にしている」という感情に直結していることは分かる。しかしそれが恋かどうか、あたしには判断できなかった。


 恋を経験したことがないわけではなかった。中学のとき、一度だけ誰かのことが好きだと思ったことがある。あのときの感覚は、もっと単純だった。会いたい、話したい、笑ってほしい、そういう欲求が先にあって、それを恋と呼んだ。でも今感じていることは、それとは形が違った。会いたいのか、傍にいたいのか、それとも失いたくないのか。それらが渾然として、あたしには区別がつかなかった。区別がつかないことが、あたしを立ち止まらせていた。


 判断できないことが恐ろしかった。正確に言うと、判断できないまま言葉を選ぶことが怖かった。間違えたら菜月を傷つける。その恐怖は本物だった。しかしその恐怖の奥に、もう一枚、自分を守るための先延ばしがあることも分かっていた。


 波音が一定のリズムで来ては返していた。遠くで漁船のエンジン音が一度聞こえて、消えた。虫が鳴いていた。あたしは膝を抱えて、暗い海の方向をしばらく見ていた。


 東京に戻り、あたしは菜月に電話をかけようとした。発信ボタンに指を置いた。押せなかった。言葉が決まっていないからではなかった。言葉を決めることから、まだ逃げていたからだ。画面を消して、スマートフォンを伏せた。



 東京に戻って数日後、廊下で菜月と並んで歩いているとき、菜月が「海、行ったことないんだよね」とこぼした。世間話のような声の温度で言った。しかしあたしには偶然に聞こえなかった。どうか偶然であってほしいと思いながら、聞こえてしまっていた。


「下田、行く?」


 言ったのはあたしだった。言ってから、なぜそうしたのか分からなかった。逃げることをやめた最初の一歩なのか、あるいは別の形の先送りなのか。自分の口から出た言葉が自分でも読めなかった。菜月は一瞬だけ目を丸くして、それから「行きたい」と答えた。その間が、一秒もなかった。


 二人で行くと決まった後、あたしは叔父に連絡した。「友達連れていっていい?」と書いたら、「布団は二組ある」と返ってきた。それだけだった。叔父はそういう人だった。余計なことを聞かない。あたしはそれが今日も助かった。


 翌朝、三人で朝食を食べてから、あたしと菜月は二人で町に出た。磯の匂いがする路地を並んで歩いた。観光地としての賑わいは海岸沿いに集中していて、少し入ると静かな住宅街になる。電線に鳥が一羽止まっていて、あたしたちが近づいても飛ばなかった。


 石畳のでこぼこで菜月が足を取られて、あたしの腕に少し触れた。触れたまま、そのまま離れた。何も言わなかった。何も言う必要がなかった。


 砂浜でサンダルを脱いだとき、二つが自然に並んだ。誰かが並べたわけではなかった。波打ち際まで歩いて、並んで立った。肩が触れそうで触れない間隔があった。菜月が遠くの岩を見て立ち止まったとき、あたしもそちらを向いた。何がそこにあるのか、特に何もなかった。それでも二人は同じ方向を見ていた。その共有が自然すぎて、何も言えなかった。


 夕方、防波堤に並んで腰かけて夕焼けを見た。水平線が橙と紫の境界を作っていて、波が光を割るたびに色が変わった。潮の匂いが強くなって、風が少し冷たくなった。何も話さない時間が十分ほど続いた。苦ではなかった。苦ではないということが、あたしには一つのことを教えていた。しかしあたしはその教えをまだ受け取らないことにして、ただ夕焼けを見ていた。


 帰り道、二人はアイスを買って食べながら歩いた。菜月のアイスが溶けて手首に垂れて、菜月が「あ」と言いながら舌で舐めた。それだけのことだったが、あたしはそこだけ少し見てしまって、それから目を逸らした。何でもなかった。何でもなかったはずだった。


 その夜の夕飯は三人で食べた。話はそれなりに弾んだ。下田の歴史について叔父が話して、菜月はそれを興味深そうに聞いていた。あたしは二人の話を聞きながら、菜月が初対面の大人とも自然に話せる人だということを、改めて確かめていた。


 揺れている、と思った。揺れているのは分かる。でもこの揺れが何であるかを、まだ正確に言葉にできなかった。恋に向かっているのか。それとも、失いたくないという恐怖が恋の形をしているだけなのか。その二つを分ける線が、あたしには見えなかった。


 夜、別々の布団に入った後、あたしは眠れなかった。天井の染みを見ながら、菜月のことを考えた。菜月は今、何を考えているだろう。眠っているだろうか。部屋の気配を探ったが、物音はなかった。静かだった。海の音が板壁を通して低く届いていた。規則的な音だった。それを聞きながら、あたしはいつまでも起きていた。


 一日を振り返った。砂浜に並んだサンダル。肩の触れない距離。夕焼けを十分間、何も言わずに見ていた。その一つひとつが、あたしの中で何かを主張していた。主張の内容が分かりかけて、でも分かってしまうことが怖くて、あたしはまた別のことを考えようとした。うまくいかなかった。菜月のことばかり考えた。菜月が眠っているかもしれない、この壁の向こうの気配を、何度も確かめた。


 朝、菜月がまだ眠っているうちに、あたしは一人で浜辺に出た。朝の砂浜には人がいなかった。波が来て、引いて、また来た。打ち返すたびに砂が少しずつ平らになっていく。


 歩きながら、あたしはようやく一つのことを知った。自分が失いたくないのは「恋人という関係」ではなかった。菜月そのもの——声の質、笑い方、沈黙の持ち方、人の気持ちの変化を静かに受け取るあの感じ、そういう菜月の固有性——だった。その気づきはあたしを楽にしなかった。むしろ、答えがどちらであっても何かを失うという予感を、明確にした。


 波打ち際を歩くと足の裏に砂の冷たさと温かさが交互に来た。空が白く、水平線だけが濃く青かった。カモメが一羽、低く飛んで、波の上をかすめて遠ざかっていった。



 最終日の夜、叔父は早めに部屋に引き取った。おやすみ、とだけ言って、廊下の奥に消えた。あたしと菜月は縁側に残った。


 最初は他愛のない話をした。今日の昼に食べた干物がおいしかった、という話。帰りのバスの時刻を確認しなければ、という話。菜月が手元でスマートフォンを見ながら、「十時十二分発だって」と言った。あたしは「うん」と答えた。それで話題が切れて、しばらく黙った。


 波音が一定のリズムで続いていた。虫が鳴いていた。風が一度、軒下の風鈴を揺らして、それきり静かになった。遠くで犬が一声吠えて、それも消えた。暗い庭の向こうに、街灯の光が滲んでいた。


 先に口を開いたのは菜月だった。


「返事、もうすぐもらえる?」


 声は穏やかだった。責めていなかった。ただそう聞いた、という声だった。しかしその穏やかさこそが、あたしには逃げ場のない圧力として届いた。怒鳴られるより、静かに待たれる方がずっと苦しかった。静かに待てる人は、それだけの時間を使ってきたということだから。


 黙っていた。波音が三回、四回、五回と繰り返した。縁側の木の冷たさが、座った太ももから伝わってきた。


 ただ待っていた。急かさなかった。黙っている間、相手も黙っていた。そのことが、あたしにはかえって苦しかった。怒鳴られるなら、押し返せる。泣かれるなら、謝れる。でも静かに待たれると、どこにも力を逃がせない。その力がじわじわと内側に向かってきて、あたしは自分の胸の奥にある何かを直視せざるを得なくなっていった。


 怖い、と思った。菜月を傷つけることが怖いのは本当だった。でも今この瞬間、もっと正直に言うと、自分が傷つくことが怖かった。何かを選ぶということは何かを諦めるということで、諦めた瞬間に痛みが確定する。その痛みを、あたしはずっと先送りにしてきた。それが菜月への不誠実だと分かっていながら。


 その認識が、今夜ここで完成した。これ以上先送りできる場所がなかった。下田の最終日の夜、波音の中で、逃げる余白が消えた。


「あたしは、あなたを大切に思ってる」


 声は小さかった。しかし落ちなかった。


「でも——恋人にはなれない」


 言い終えた。


 その瞬間、あたしの内側は静かだった。揺らぎが消えたわけではなかった。でも揺らいだまま選んだことが、初めて自分に対して正直であるという感覚を運んできた。痛みと解放が同時にあった。矛盾ではなかった。それが誠実さの生む固有の感触だと、あたしはその瞬間に理解した。誠実さとは、正確な答えを出すことではなかった。不確かなまま、それでも選ぶことだった。


 すぐには何も言わなかった。波音だけが続いた。十秒か、二十秒か。あたしには長く感じられた。それからわずかに笑った。口角より先に目が細くなる、あの笑い方で。


「そっか」


 泣かなかった。声も震えなかった。ただ「そっか」とだけ言って、膝の上に置いた手を少し動かした。


「ちゃんと答えてくれて、ありがとう」


 ありがとう、という言葉があたしの胸を貫いた。感謝されることへの驚き。自分が最後まで逃げなかったことへの、痛みと安堵の混在。そして——菜月がこの手紙を書くまでにどれほど迷ったか、あの一枚の便箋がどれだけの勇気の上に立っていたか、その重みをあたしはここで初めて身体の奥で知った。丁寧でも流麗でもない、しかし迷いのない筆跡。その迷いのなさが何を経た上のものだったか、今なら分かった。


 「ごめん」と言おうとして、やめた。それは違う、と思った。謝罪は自分を楽にするための言葉で、今の菜月に必要な言葉ではなかった。何も言わないことを選んだ。向こうも何も言わなかった。それでよかった。


 二人はしばらく黙って波音を聞いていた。語られない言葉が空気の中に積み重なっていた。縁側の木が夜露で少し湿っていて、あたしの足の裏にその冷たさが伝わっていた。蛙が一匹、庭のどこかで鳴いた。


 やがて菜月が「寝ようか」と言い、あたしは「うん」と答えた。


 別れではなかった。しかし同じ場所にも戻れなかった。それが何を意味するのか、今夜のあたしにはまだ定義できなかった。定義できないまま、それを抱えて眠った。波音は夜通し続いていた。



 翌朝、早めに目が覚めた。菜月はまだ眠っていた。寝息が聞こえるくらいの距離で、あたしはしばらくそれを聞いていた。それから静かに起き上がって、縁側に出た。


 昨夜と同じ波音だった。光の色だけが違った。朝の光は白く平らで、波頭が光るたびに細かく砕けた。海は昨夜より遠く見えた。引き潮だったかもしれない。


 しばらくして叔父がコーヒーを二つ持ってきて、隣に座った。何も聞かなかった。あたしも何も言わなかった。ただ並んで海を見ながら、あたしは静かに一つのことを確かめた。


 コーヒーが温かかった。両手で包むように持って、あたしは一口飲んだ。苦かった。この苦さがちょうどよかった。甘くないものが、今の気分には合っていた。


 しばらくして、ぽつりと声がした。


「いい顔してる」


 返事をしなかった。でも否定もしなかった。いい顔かどうかは自分には分からなかったが、昨日より少し軽くなったとは思った。何かを決めたからではなかった。何かを諦めたからでもなかった。ただ、正直でいることを選んだ、それだけのことで、こんなに楽になるとは思っていなかった。


 自分は、女性を好きになる可能性を否定しない。ただ——菜月に向けられたあの感情は、恋ではなかった。それは認識であり、責任であり、あたしが初めて自分自身に下した正直な判定だった。正しいかどうか分からない判定だったが、誠実な判定だった。その違いを、あたしは昨夜はじめて知った。


 コーヒーを一口飲んで、それきり何も言わなかった。それでよかった。


 しばらくして菜月が起きてきて、三人で朝食を食べた。昨夜のことを誰も話題にしなかった。食器の触れ合う音と、波音と、コーヒーカップを置く音だけがあった。普通に食べて、普通に笑った。口角より先に目が細くなる、あの笑い方で。あたしはその笑い方をまた見て、胸の奥に何かが沈んでいくのを感じた。痛みとも違う、しかし軽くもない、固有の重さだった。


 朝食の後、食器を洗いながら、菜月が「ね、また来られるかな」と言った。あたしに向けた言葉だった。あたしは少し間を置いて「どうだろう」と答えた。嘘ではなかった。でも、また来たいとは思っていた。この場所に、この波音のそばに、また来たいとは思っていた。それは言わなかった。言えなかった、のでもあったが、言わなくてもよかった。


 下田を発つとき、菜月は玄関で叔父に「また来ていいですか」と聞いた。叔父は「いつでも」と答えた。それだけだった。菜月は深くお辞儀をして、それから外に出た。


 電車の中で二人はいくつか話した。他愛のない話。昨日見た路地の猫の話。菜月が途中から読み始めた文庫本の帯の文句がおかしい、という話。笑えた。ぎこちなさが消えてはいなかった。でも会話はあった。その薄さと確かさの混在が、二人の今の場所を正確に示していた。


 東京駅の改札を出て、二人は別の方向へ歩き始めた。振り返らなかった。しかしあたしは、菜月の足音が遠ざかっていく感覚を、背中の皮膚で聞いていた。雑踏の中でも、その音の遠ざかり方が分かった。やがて分からなくなった。


 乗り換えのホームで電車を待ちながら、あたしはスマートフォンを見た。菜月からメッセージが一件来ていた。「楽しかった。ありがとう」とだけ書いてあった。あたしはしばらくその文面を見ていた。それから「こちらこそ」と打って、送信した。それ以上の言葉は出なかった。出す必要もなかった。出せなかった、でもあったが。


 帰宅して自室に入り、あたしはカバンを床に置いた。少し時間が経ってから、封筒を取り出した。カバンの底から、ゆっくりと。折れた角に指が触れた。一週間以上前から変わらずそこにあった。便箋は一度広げられたきりで、それ以来折り畳まれたままだった。


 その封筒を、引き出しにしまわずに、ただ机の上に置いた。


 しばらくそれを見ていた。封筒はただそこにあった。特別な形をしているわけでも、光るわけでもなかった。白い封筒が、机の上にある。それだけのことだった。でも、それだけのことが今は違って見えた。カバンの底に押し込んでいたときとは、同じ物が違って見えた。物が変わったわけではなかった。あたしが変わった、ということだった。


 窓の外で夕暮れが始まっていた。車の音と、遠くの踏切の音と、どこかの家から流れてくる夕食の匂い。東京の音と匂いがいつも通りそこにあった。封筒は机の上にあった。見えるところに、置いてあった。


 恋にならなかった想いだけが、静かに胸に残っていた。波音は変わらず続いていた——海から遠い、東京の部屋の中でも。


 しばらく封筒を見ていた。それから椅子に座って、窓の外の夕暮れを見た。街の音がいつも通りそこにあった。明日になれば、また学校が始まる。廊下ですれ違う。目が合うかもしれない。何を話すかは、まだ分からなかった。でも話せる、と思った。それだけが、今夜確かに持っているものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ