五話 黒い森とフォースランク
「スィンザ! まって!」
修練場から逃げ出したスィンザを追って来たのは、観客席から飛び出して来たテリルだった。
スィンザはテリルの声を聞いて立ち止まった。
「スィンザ?」
「……いで……」
テリルは、マントを頭からかぶったままのスィンザに駆け寄った。
「来ないで!」
スィンザは、駆け寄って来たテリルに、声を荒げた。
「……惨めで、なさけない……
もう、消えてしまいたいの……もう、追ってこないで」
「あ、スィン……」
目を赤らめ、見てわかるほどの大粒の涙を流すスィンザの姿をみて、テリルは、何を言ったらいいかわからずその場に立ち尽くした。
スィンザは、立ち尽くしたテリルを置いて、逃げるように雑踏の中へ消えて行った。
「…………」
スィンザは、髪を解き、ひたすらに街の中を駆け抜けた。
とにかく人のいない場所に行きたかった。
そして彼女は雑踏に追いやられるように、薄暗い路地裏に辿り着いた。
(消えてしまいたい。どうしてこんなに、生きることは苦しいの?)
スィンザは、路地裏の物陰に腰を下ろし、声を殺して涙を流した。
「――おや、おや。かわいそうに……」
スィンザは突如聞こえた声に、顔を上げた。
「かわいそうに……」
そこには、優しそうな顔をした、杖をついた老紳士が立っていた。
「ごめんなさい」
「まっておくれ!」
急いで立ち去ろうとしたスィンザを老紳士は引き留めた。
「一人で泣きたい時もあるだろう。
こっちへおいで。落ち着いた場所があるから」
スィンザは、その優しげな声に抗えなかった。
「泣きたくなることばかりの世の中だ。
泣ける時に好きなだけ泣いたらいいさ。さあ、こっちへおいで」
「…………」
スィンザは吸い込まれるように、老紳士が開けた路地裏の建物の扉の中に入った。
「……人生の最後に、好きなだけ泣いたらいいさ」
「え⁉」
扉の先は、家の中ではなかった。
「え、なに? ここ……」
後ろを振り向くと、入る時に通った扉はすでになくなっていた。
彼女の周囲に広がっているのは、木のように見える黒い何かが、果てしなく立ち並ぶ不気味な空間だった。
地面に草は一本も生えておらず、黒い砂のようなもので埋め尽くされていた。
その黒い砂をよく見ると、虫のような小さな黒いモノが蠢いていた。
スィンザは、ルモーンの言葉を不意に思い出した。
『まずは〈第一等級〉だ。
そのほとんどが虫か、爬虫類的な見た目をしてる
……黒い森には、必ず存在する……』
「ここは、〈黒い森〉の中……?」
「そうさ。そして君は、〈同胞〉の餌に選ばれた」
森の中に、老紳士の声らしきものが響いた。
「同胞?」
スィンザがそう口にした瞬間に、地響きのようなものが聞こえた。
足下の虫モドキたちが、何かに追われるように逃げ出した。
「ががらびぃあー!」
雄叫びのような咆哮とともに、その怪物は、スィンザの前に姿を現した。
黒一色の体色に、二足歩行。
二本の腕は、大木のように太く、胴体は壁が動き出したかのようだった。
そして、その大きさは見上げるほどの巨大さだった。
「同胞って、フォースランクバーモのこと……」
フォースランクバーモは、その太い両腕を振り上げ、威嚇するように地面に叩き付けた。
「がはでぃばー!」
「うっあっ!」
その衝撃波と巻き起こった爆風で、スィンザは軽々と吹き飛ばされた。
黒い森を構成する黒い木々は砂の山のように脆かった。
バーモの攻撃で辺りは一瞬で黒い砂漠に姿を変えた。
(私は、餌⁉ これからあのバーモに食べられるの?)
スィンザは、黒い砂の中から立ち上がり、急いでバーモから逃げ出した。
持っていた唯一の武器は、修練場に置いてきた。
使える攻撃魔法は、どう考えても通用しそうにない。
逃げるという選択肢以外思いつかなかった。
「うあっ!」
突然、走り出した足に何かが巻き付き、スィンザは派手に転んだ。
彼女の両足には、黄色く発光する魔法の足枷がつけられていた。
「さあ、大人しく餌になれ……」
あの老紳士の声が再び聞こえた。
バーモの足音と地響きが、迫ってきている。
「……私は、ここで死ぬの?」
『身の程知らずが。お前のような奴が女傑になれるものか!』
『自然の世界で、飛べない鳥がどうなるか知らないの?
地面に落ちて、他の生き物の餌になるのよ。
あなたにお似合いね。
バタバタもがいて、同情引いて……ホントムカつく』
『ねぇ……叶うことのない夢を追うってどういう心境なの?
もしかして頭も悪いの?
だったら、かわいそ~。アハハハッ』
頭の中に、夢や存在を否定され続けてきた嫌な記憶が甦った。
「私は……」
『まったく、あなたはお父さんに似て頑固者なんだから!
悔しい時ほど胸を張りなさい。背筋も伸ばして!
自分を愛し、信じられる人だけが、夢を叶えられるのよ!』
『スィンザ! 新しい技はできたか? また見せてくれよ!
なに? 恥ずかしいだと?
お前は女傑になるんだろう? 女傑になったら嫌でも注目されるんだ。
失敗の見せ方も、成功の見せ方も、納得いくまで俺が付き合ってやるさ!
さあ、一緒に頑張ろう!』
「……お母さん、お父さん……
ごめんね。私はここで……」
身動きが取れないスィンザを、バーモはその大きな手で掴んで持ち上げた。
『スィンザ。これあげる。
お揃いのブレスレット。
なんでって? これすごくかわいいから、スィンザとお揃いにしたかったの!』
スィンザの左腕のブレスレットの装飾が、微かに光った。
「テリル、追いかけてくれたのに……
ごめんね。もう……謝れないんだ……」
(私はもう、ここで終わりなんだ……)
スィンザは、バーモの大穴のような口の中を他人事のように見つめていた。
「――諦めるな!」
死を覚悟していたスィンザの耳に、聞き覚えのない男性の声が届いた。
「ぼああああぁ!」
魔物の断末魔と共に、何者かに両断されたバーモの右手ごと、スィンザは地面に落ちた。
「それとも、このまま死にたかったのか?」
その声の主は、スィンザにそう問いかけた。
「…………」
スィンザはなにが起こったのか、理解できていなかった。
目の前にいる男性は、長身で鍛え上げられた肉体を持ち、紫色の長髪をしていた。
それと冷酷そうな顔。
その手には、緩やかに湾曲した珍しい形の片刃剣が握られていた。
そして、その男性は何のソウル・ゲートも有していない、ただの人間であった。
「どうなんだ? 死にたいのか、生きたいのか。……今すぐ選べ!」
「は、はい! 生きたいです! た、助けて下さい!」
スィンザは、突然怒鳴られたことに驚きながらも、本心を伝えた。
「よし。なら、やることは一つだ」
紫髪の男は、片刃剣を鞘に戻し、居合の構えでフォースランクバーモと対峙した。
「……魔伝一刀流……」
「ばひりぬぁあ!」
バーモは激昂するように、残された左腕を振り上げた。
「抜刀斬魔」
振り下ろされたバーモの腕は、なぜか男性を避けるように地面に叩き付けられた。
そして、いつの間にか一刀両断されたバーモの上半身だけが地面に落ちて、黒い砂を巻き上げる。
残された下半身は、バランスを失うように後退したあと、ゆっくりと倒れた。
「あ、あの……」
「……白い鳥人の子。友達想いでいい子だな。大切しろよ」
その男性は何事もなかったかのような、平然とした顔でそう言った。
「は、はい。あっ……」
スィンザは今になってようやく気が付いた。
目の前の人物は、タクロノ食堂で青いサングラスの女性と一緒にいた、紫髪の男性であると。